東電の社外取締役の兼任の撤回を~數土・NHK経営委員長に申し入れ~

 先週末、政府はNHK経営委員会の委員長・數土文夫氏を東京電力の社外取締役に起用する方針を固めたというニュースが流れ、唖然とした。私も共同代表を務める「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」の運営委員はすぐに、この件について協議をし、數土氏宛てに兼任受諾の撤回を求める申し入れをすることになった。また、直接の当事者でないとはいえ、NHK経営委員会、監査委員会も静観して済む問題ではないと考え、昨日(2012514日)、両委員会の各委員宛てにも質問を提出した。
 社外取締役は業務執行役員とは違って、東電の業務に関わるわけではなく、取締役の業務執行を監視・監督するのが職責だから、とりたてて問題にすることではないという議論も予想される。そうした異論も見越して、私たちは次の2点から、數土氏の兼任を批判し、撤回を求めることにした。詳しくは、以下、掲載する申し入れ書の全文を参照いただきたい。
 一つは、NHKの最高意思決定機関である経営委員会の長の職と、目下、福島原発事故の完全収束に向けた取り組み、原発事故被災者に対する損害賠償、原発再稼働問題、原発施設が稼働ゼロとなった状況での電力の安定供給といった、どれひとつをとってみても、一国規模での重要課題を抱えた東京電力の社外取締役の職は、職務の質と量のどちらから見ても、両立は不可能なこと。
 もう一つは、NHKの経営委員会の長の職と東電の社外取締役の職を兼任することは相互に相反関係を生むこと。そして、ここでいう相反関係には2つの面があること。①東電は目下、NHKの最重要の取材・報道対象である。取材する側のNHKを監督する機関の長を務める人物が取材される側の経営に参画することは、メディアの非当事者原則に反する。②東電は政府の支配下に置かれる実質国有化企業になる。NHKを監督する機関の長を務める人物がそうした企業の経営に関与することは、政府との距離を保ち、自主自立の放送を行うことを使命とするNHKへの視聴者の信頼を揺るがすことになる。

 
その上で、申し入れは最後に、數土氏に対し、
 *NHKの経営委員会の長にとどまって、その職責を全うする意思があるなら、東電の社外取締役に就任する意思を撤回すること、
 *東電の社外取締役に就任して、その職責を担う意思が固いのなら、NHK経営委員長の職を自ら辞すこと、
 を求めた。

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2012
514
NHK
経営委員会
委員長 數土文夫 様

    
東京電力の社外取締役への貴殿の就任の撤回を求める質問・要望書

           
  NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ
                      共同代表 湯山哲守・醍醐 聰

 拝啓 貴殿におかれましては日頃よりNHK経営委員長としての重責を担ってご尽力を下さり、厚くお礼申しあげます。
 
新聞報道によれば、政府は511日、実質国有化される東京電力の社外取締役の一人として、貴殿を起用する方針を固め、東京電力は本日、2012年3月期決算と併せて、本件人事を発表すると伝えられています。そして、来る6月下旬に開かれる同社の株主総会後の取締役会で貴殿は現在のNHK経営委員長の職にとどまったまま、正式に社外取締役に就任される予定と報道されています。
 しかし、貴殿がNHK経営委員長の職と兼任の形で東京電力の社外取締役に就任されることについて、当会は以下述べる理由から、これを断じて認めるわけにはいきません。
 会社法上、社外取締役の職務は会社の業務の執行ではなく、いわゆる独立役員として業務執行取締役の職務の遂行を監視し監督することにあるとされています。その一方で、社外取締役は引き受け手がなく、著名人の名誉職的な役職と評されたりしています。しかし、だからといって、今回、貴殿が東京電力の社外取締役に就任されることを是認したり、就任に伴う問題点を軽視したりすることは到底できません。

 1.まず指摘すべき重大な問題は、NHK経営委員長の職と東京電力の社外取締役の職は、それぞれの職責の重さ、時間的精神的な負担の面から両立は不可能だということです。公共放送・NHKの最高意思決定機関の長の職責の重さは改めて説明をするまでもありません。他方、社外取締役の職務も取締役であることに変わりはなく、他の取締役と同じように善管注意義務・忠実義務・内部統制構築義務・監督義務等を課され、相応の報酬を受けます。このうち、会社に対する損害賠償責任に関しては株主総会の決議によって軽減が可能とされているとはいえ、報酬の2年分が最低責任限度とされ、それを超える範囲内では他の取締役と責任を共有する立場にあります。
 具体的に言えば、社外取締役の職務は、取締役会への出席にとどまらず、報酬・指名・監査委員会や各種経営会議への出席、経営陣との打ち合わせ、投資家・取引銀行・取引証券会社等に対する会社説明会への出席、監査法人との報告会への出席等、枚挙にいとまがありません(日本取締役協会『社外取締役の導入実態調査 2011年』参照)。これを見ただけでも兼任となれば、兼任先の業務遂行に相当な負担を要することは明らかです。
 しかも、今回の貴殿の兼任先は一民間企業ではなく、福島原発事故の完全収束に向けた取り組み、原発事故被災者に対する損害賠償、原発再稼働問題、原発施設が稼働ゼロとなった状況での電力の安定供給といった一国規模での最重要課題を抱えた東京電力です。このように重大な課題が山積する東京電力のコ-ポレート・ガバナンスを有効に機能させる上で社外取締役に求められる職責の重さを考えた時、NHK経営委員長の職にある貴殿が東京電力の社外取締役を兼務できるものでないことは常識に照らして自明です。それでも貴殿が東京電力の社外取締役を引き受けられるとなれば、「NHK経営委員長の職務とはそれほど楽なのか」と評されても致し方ありません。

 2.しかし、問題は兼務に伴う時間的精神的負担の大きさにとどまりません。NHK経営委員長としての職責と東京電力の社外取締役に求められる職責がそもそも相反するという点が重大です。このことは2つの面から指摘できます。
 一つは、東京電力が、福島原発事故の完全収束に向けた取り組み、原発事故被災者に対する損害賠償、原発再稼働問題、原発施設が稼働ゼロとなった状況での電力の安定供給といった諸問題について、NHKの極めて重大な取材・報道対象だという点です。NHKの業務執行を監督する立場にある経営委員会の長が、そうした取材先の社外取締役に就任し、相応の報酬を得る一方、善管注意義務・忠実義務等を共有するのは、メディアに携わる者の基本というべき非当事者原則に真っ向から反し、経営委員会の職務遂行の公正性に対する視聴者の信頼を根底から覆すことは明らかです。
 もう一つは、東京電力が政府の実質的な支配下に置かれる会社になるという点です。貴殿がそうした会社の社外取締役に就任され、取締役会の議決に加わって、その決議に係る責任を分有する行為は、貴殿が政府の意思決定と密接に関わることを意味します。そうした貴殿が政治からの独立を生命線とするNHKを監督する経営委員長の職にとどまることは結局、NHKあるいはNHK経営委員会の政治からの自立に関する視聴者の信頼を大きく損なうことは、これまた明らかです。貴殿はこの点をどう認識しておられるのでしょうか?
 以上から、当会は貴殿に対して、次のことを質問もしくは申し入れをいたします。

 1.(質問) 上記の理由により、NHK経営委員会の長の職責と東京電力の社外取締役の職責は両立しがたく、両者は相反するという当会の指摘について貴殿はどのように受け止められるか、お答え下さい。
 2.(申し入れ)貴殿がNHK経営委員長の職にとどまる意思を持たれているのであれば、それとの両立を期し難い東京電力の社外取締役への就任を辞退されること。あるいは、既に、就任を受諾されたのであれば、それを撤回されること。
 3.(申し入れ) 貴殿が東京電力の社外取締役への就任を受諾される意思が固いのであれば、それとの両立を期し難いNHK経営委員長ならびに経営委員の職を自ら辞されること。

 ご多用のこととは存じますが、以上3点の質問ないしは申し入れについて、ご回答を2012524日までに下記あてに書面でお送り下さるよう、お願いいたします。
                     
                              敬具
            

  ご回答の郵送先: × × ×

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医薬品メーカーを独り勝ちさせている高薬価の是正が急務~「薬価改定と医薬品業界の動向」と題して厚生農協連で講演~

   厚生農協連で講演
 
 昨日(2012420日)、日本文化厚生農業協同組合連合会(通称:文化連)で「薬価改定と医薬品業界の動向」と題して講演をした。
 厚生連は全国各地で病院を経営しているが、この4月に診療報酬と薬価が改定されたのを受けて、次年度の医薬品購入に向けた対応を協議する時の参考にと依頼を受けたものである。以下、講演用に作成し、会場で配布してもらった資料一式(パワーポイント原稿、医薬品業界の直近の財務の状況をまとめた別紙資料3枚)を掲載しておきたい。なお、講演の要旨を資料のあとに掲載したのでご覧いただけると有難い。
 これらの資料が、わが国で、薬剤費が医療費を押し上げる主な要因の一つになっているのはなぜなのか、医療保険財政の再建という時の財源は、「初めに消費税ありき」でよいのか――を考える参考にしていただければ幸いである。

 講演で使ったパワーポイント:「薬価改定と医薬品業界の経営動向(Part1)」
 
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/yakkakaitei_to_iyakuhingyokai_no_doko_part1.pdf
 同上:「薬価改定と医薬品業界の経営動向(Part2)」
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/yakkakaitei_to_iyakuhingyokai_no_doko_part2.pdf

 別紙1 医薬品製造業の財務の状況
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/iyakuhinseizogyo_no_zaimubunseki.pdf
 別紙2 ジェネリック医薬品製造業の財務の状況
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/zyeneriikuiyakuhingyo_no_zaimubunseki.pdf
 別紙3 医薬品卸売業の財務の状況
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/iyakuhin_orosi_zaimubunseki.pdf

 また、当日、配布しなかったが、医薬品製造業の過去5年度(20062010年度)の売上高、売上原価、営業利益の金額と売上高百分比を、製造業平均と対比する形でまとめた資料を作成したので、参考までに掲載しておく。
 医薬品製造業の営業利益率の推移――20062010年度――
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/iyakuhinseizogyo_riekiritu_2006-2010.pdf

 講演の要旨 
 (1)わが国の薬価が国際比較で割高(注)で医療費を押し上げる大きな要因になっているのは、処方箋枚数の増加以上に処方箋1枚当たりの薬剤費が高止まりしていることに起因している。ちなみに、薬局調剤分も含めた薬剤費が医療費総額に占める割合は2010年度(6月審査分)には33.0%となっている。
 (注)全国保険医団体連合会の「日本の薬価問題プロジェクト2011」が医薬ビジランス研究所と共同で行った薬価の国際比較調査(昨年1222日に調査結果を発表)によると、売上上位77品目で見た日本の薬価(相対薬価)は英国、フランスの約2倍、ドイツの約1.5倍になっている。
 詳しくは、保団連「薬価の国際比較調査にもとづく医療保険財源提案」
 http://hodanren.doc-net.or.jp/news/index.html
 (開いた画面の中央にある「保団連の調査など」を「クリック」すると出てくる先頭の記事です。)

 (2)近年わが国では、医療保険財政の立て直しのためにと、医療費の抑制と患者の自己負担の引き上げが相次いで実施されてきた。しかし、その一方で、過去5年間の加重平均でみると、医薬品製造企業(資本金100億円以上)の営業利益率は製造業平均(同左、4.2%)の4.5倍(19.0%)という極めて高い水準を記録している。

 (3)医薬品製造業が、研究開発費その他の販売費及び一般管理費にかなりの出費をした上でなおこれほどの営業利益率を残せているのは、売上高原価率が業種平均で44.3%(過去5ヶ年平均)、トップメーカーの武田薬品工業に至っては20.4%と異常に低いことが最大の理由である。

 (4)他方、医薬品をメーカーから仕入れ、医療機関に納入する医薬品卸売企業の営業利益率は1%前後にとどまっている(2010年度連結決算では0.2%の営業損失)。

 (5)つまり、(3)(4)から、国際比較で日本の薬価が割高で、それが医療費を押し上げる大きな要因になっている究極の理由は、医薬品卸業者が医療機関に納入する価格に問題があるのではなく、医薬品メーカーが卸売業者に販売する時の仕切り価格が原価を大きく上回る水準で決められ、かつ、わが国の薬価算定方式がこうした原価を大きく上回る水準で薬価を高止まりさせる仕組みになっていることにある。

 (6)その仕組みというのは、①効能が類似する医薬品があり、かつ、新規性ありと認められた新医薬品には、画期性加算、有用性加算など様々な名目で類似薬効品の実勢価格に上乗せがされる仕組みになっていること、②類似薬のない新医薬品には原価計算方式が適用されるが、各種営業費用の実績値に加算される営業利益が過年度の営業利益率の実績値をベンチマークとして算定され、その上でさらに既存医薬品と比べて革新性、有効性、安全性において優れているとみなされたものには最大で50%の加算を認める仕組みになっていることを指す。
 詳しくは以下をご覧いただきたい。
 新医薬品の薬価算定方式
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/yakkasanteihosiki.pdf
 薬価算定の実態
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/yakka_santei_no_zittai.pdf

 (7)公正取引委員会は20061月~9月に「医療用医薬品の流通実態調査」を行ったが、その結果を公表するにあたって、次のような指摘をしている。
 ①病院など医療機関による医薬品の選定にあたって、メーカーのMR(注:もともとは医療情報担当者。実態は営業担当職員に近い)による営業活動が卸業者の営業活動よりも圧倒的な影響力を持っている。
 ②そのため、卸業者はメーカーとの間で値引き交渉など価格交渉をする余地が限られている。
 ③メーカーはコンピュターシステムを利用して90%以上の卸業者から、医療機関に対する販売情報(販売先、販売品目、販売価格、販売数量等)を報告させている。
 ④その販売情報提供をもとに、メーカーは卸業者に支払うリベート、アローアンスを決めている。
  (注)上で掲載した別紙3「医薬品卸売企業の財務の状況」において、営業外収益に計上されている「受取情報料」(アルフレッサHD52億円、スズケン46億円)は、ここでいうリベート、アローアンスの受取額を指すと考えられる。また、別紙1「医薬品製造業の財務の状況」で、販売費及び一般管理費の中の販売促進費の割合が大きい理由の一つは、卸売業者に支払うリベート、アローアンスがかなりの金額に上っていることのあると考えられる。

 医薬品の流通過程でのこうした取引慣行は、卸業者が一定の価格以下で医薬品を医療機関に納入しないよう再販売価格に影響を及ぼす行為となる恐れが常にあるから、公取委による不断の監視と機動的な是正措置の発動が求められる。

 (8)さらに、2010年度からは、このように異例といえる高薬価誘導型の方式で算定された薬価を維持させる「新薬創出・適応外薬解消等促進加算」方式が試行と称して導入され、この4月に改定された薬価でも「試行」を継続することになった。

 (9)医薬品メーカーは創薬のインセンティブと研究開発投資の原資を確保するには薬価のさらなる引上げあるいは維持が不可欠と繰返し主張している。しかし、大手製薬企業の近年の貸借対照表(上記の別紙1を参照)を見ると、「のれん」、「販売権」といった、外部から取得した無形固定資産が大きなウェイトを占めている(武田薬品工業の場合は資産総額の40.9%、エーザイ23.9%、アステラス20.8%、第一三共16.3%)。これは、近年、わが国の製薬大手企業が海外でMAや販売権の取得を活発に進めた結果生じたものである。自社開発か外部成長かは各社の経営戦略によるから、一概にその可否を議論できないが、他から既成の医薬品の製造・販路を取得して成長を図るやり方は「創薬のためのさらなる原資が必要」と言う言い分と辻褄が合わない。

 (10)創薬のための原資というなら、業界全体で見ても負債総額を上回る利益の内部留保(利益剰余金)を活用することが先決である。ちなみに、武田薬品では201112月末(2011年度第3四半期末)時点で内部留保利益(利益剰余金)が22,905億円に達している。これは同時点の負債総額の1.6倍である。

 (11)現行の薬価算定方式では、有用性、画期性、革新性等の言葉を冠した「価値評価」が根拠があいまいなまま、種々折り込まれている。そのため、価値評価を反映させる加算の種別、加算率の選定にあたって、厚労省の担当部局の裁量的な判断が介在する余地が極めて大きくなっている。これについては、スライドNo.6で記載した元厚労省薬価審査責任者の講演趣旨文を参照いただきたい。元記事は以下。
 「当局との薬価取得交渉、有効な資料作成と加算要件」
 【第1部】当局との薬価取得交渉~薬価の算定基準・予測と当局の考える「値ごろ感」~
  https://www.meducation.jp/seminar/regist?id=10493

 (12)確かに、医薬品を開発する事業者の創薬インセンティブを維持・向上させるには、薬価の算定にあたって、医薬品のコストだけでなく価値(効能)の評価も折り込む必要がある。しかし、問題は価値評価をどの段階で折り込むのかという点である。
 私は、(11)で指摘した現行の方式――新医薬品の薬価収載時に行政担当者の裁量的な判断に委ねる方式――ではなく、販売後の利用者(患者、医師)による評価に委ねるのが透明性、客観性の点で優れていると考えている
 この点でいうと、現行の方式では、上市後に予測を超えて売れた医薬品については最大15%(類似薬効算定方式が採用された品目)または最大25%(原価計算算定方式が採用された品目)だけ薬価を引き下げる「市場拡大再査定方式」が採用されている。確かに、利用実績の高い医薬品を少しでも低価にして普及しやすくするのは望ましいことである。
 しかし、高額医薬品の場合は別として、利用実績が高いということは効能、価格両面で医師、患者に受け入れられた医薬品と考えられる。とすれば、販売開始前に根拠が乏しい基準で原価を大幅に超える薬価を設定するのを止め、その分、薬価を現行の水準よりも大幅に引き下げた上で、販売後の実績にもとづいて、医師、患者に効能が高く評価された医薬品については、「売れ過ぎたら下げる」という方式を緩和し、優れた医薬品を開発した功績が事業者にも還元される仕組みにするのが望ましいといえる。
 もちろん、それでも、①類似薬効比較方式では各種の加算制度を廃止し、②原価計算方式では、既存の異常に高い営業利益率をベンチマークとする方式を止めて、製造業平均とまでは言わないまでも、その中間レベルの営業利益を確保する水準までベンチマークを引き下げることにすれば、トータルでは薬価は現状よりも大幅に引下げられ、医療保険財政の改善に大いに寄与する

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死刑支持は85.6%ではなく、52.6%と伝えるべき~NHKに意見を提出~

 330日、NHKニュース番組制作担当宛てに、「死刑制度に関する内閣府世論調査の報道のあり方について」と題した意見を提出した。
 詳しい経過は、このブログの1つ前の記事に書いたが、意見の要点は、2009年に内閣府が行った死刑制度の存廃に関する世論調査の集計結果を多少なりとも冷静に読めば、「死刑支持は85.6%」ではなく、「死刑支持は52.6%」と伝えるのが的確な報道だ、ということである。
 なお、文中、「人が人を殺す」と書いたが、死刑は私人間の行為ではなく、私人に対する国家の意思行為であることを銘記しなければならない。

 
 今回、小川敏夫法務大臣が3人の死刑執行に踏み切ったことを伝えた3月30日の朝日新聞朝刊(2面)では、「法務省、『転換』を歓迎、法相代わるたび機会うかがう」という見出しの記事を掲載した。その中で、小川氏が法務大臣に就任直後から法務省刑事局は死刑囚2人を候補に挙げ、死刑執行の署名を求めていたと記している。

 こうした背景を知るにつけ、政府が実施・集計・公表する世論調査をメディアが国民に伝えるに当たっては、設問の仕方、回答の選択肢の設け方、集計の仕方に恣意性はないか、年代別・性別・職業別など調査対象ごとの回収率に偏在はないか等を原資料にあたって主体的に吟味し、必要とあればしかるべきコメントを添えて報道する自律性が強く求められることを痛感させられる。そして、常日頃から政府の言動にこうした鋭利な注意力、理知的な懐疑心を研ぎ澄まし、報道に活かすことがメディアの国家「からの」の自由、国家「への」自由の要であると私は思う。

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                     2012330
NHK
ニュース番組制作担当 御中

  死刑制度に関する内閣府世論調査の報道のあり方について

                        醍醐 聰

 昨朝(329日)、殺人などの罪を犯した3人の死刑囚に対する死刑が執行されました。おととし7月以来、18ヶ月ぶりの執行でした。
 昨夜7時のNHKニュースはこの件を伝えた後、死刑制度の存廃について24ヶ月前(200911月~12月)に内閣府が行った世論調査を画面に示し、「死刑を容認する国民は約85%に上っている」と伝えました。今朝の各紙も、小川敏夫法務大臣は「85.6%が死刑容認」という内閣府の公表数字を挙げて、「死刑執行は国民の支持を得ている」と語ったと伝えました。たとえば、朝日新聞朝刊は内閣府が公表した調査結果を基に折れ線グラフを掲載し、2009年の時点では85.6%が「死刑存続(「存続」と表記していることに要注意)を支持」、「死刑廃止を支持」は5.7%と作図しています。

 しかし、私は昨夜のNHKのニュース画面にこの85.6%という数字が「場合によっては死刑もやむを得ない」という選択肢への回答だったことが映されたのを見て奇異に思いました。「場合によっては」という条件を付けた死刑に関する意見を「死刑容認」と一括りにカウントしてよいのか? こうした回答は「死刑の是非はケースバイ・ケース」という意味だと解釈することも大いにありうるのではないか? ・・・・・NHKのニュース制作担当者にはこういう素朴な反問は思い浮かばなかったのだろうか? という疑問です。

 もちろん、死刑制度をめぐっては世論の意思は重要な要素ですが、制度の存続を支持するにせよ、支持しないにせよ、それぞれの意見の根拠――死刑制度は犯罪の抑止力になるという主張は実証されているか? 応報思想で死刑を正当化できるのか? 更生の可能性がないことを以て人が人を殺すことを正当化できるのか? 犯罪被害者およびその遺族の求める償い、癒しに死刑を以て応えることが正当かつ望ましい方法なのか、等々――を理知的に検証することが求められます。

 また、より現実的な問題として、近年、わが国では長期に拘留された死刑囚が再審を請求する事例が生まれ、中には請求が認められ、無罪(冤罪)に至る例も生まれています。また、殺人の罪で拘留された被疑者に対する違法な取り調べがあったと法廷で断罪されたり、別人の犯行を示す有力な証拠が提出されたりする事例も生まれています。こうした現実を直視しますと、死刑制度の存廃をめぐっては、無罪か死刑か、死刑が無期懲役かという生死を分ける判断の重みを受け止めた熟議が不可欠です。

 その点を断った上で、死刑制度をめぐる内閣府の世論調査に関するNHKの報道のあり方に絞って意見をお伝えします。
 なにはともあれ、原資料に当たるのが先決です。そこでインターネットで検索しますと、

 「基本的法制度に関する世論調査」平成2112月調査(内閣府大臣官房政府広報室)
  http://www8.cao.go.jp/survey/h21/h21-houseido/index.html

というサイトが見つかります。問題の回答集計はこの中の表21(死刑制度の存廃)にあります。その質問事項に対する回答として、次の3つの選択肢が用意され、回答の分布が( )のように示されています(a, b, cは私が追加)。

 内閣府が公表した回答の集計結果:
 
  a. どんな場合でも死刑は廃止すべきである(5.7%)
   b. 場合によっては死刑もやむを得ない(85.6%)
   c. わからない・一概に言えない(8.6%)

 こうした質問形式に私は3つの疑問を感じました。

〔疑問:その1〕 「場合によっては」という条件付き選択肢がなぜ「死刑容認」の回答にだけ付けられ、「死刑廃止」の回答には付けられなかったのか(「場合によっては死刑廃止もやむを得ない」という選択肢がなぜ設けられなかったのか?)

〔疑問:その2〕 「場合によっては」の中味は一様だったのか、様々だったのか? その中味を問うことなく「死刑容認」と括ってしまってよいのか?  

〔疑問:その3〕年代別の回収率と年代別の意見分布の開きを突き合わせて回答結果を吟味しなくてよいのか?

 このうち、疑問12は論点が重なるので一緒に検討します。

 「場合によっては」の内訳も調査されています。なぜそれも伝えないのでしょうか?

 内閣府大臣官房政府広報室の上記のサイトを見ていきますと、「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えた者を対象にした「将来も死刑存置か」という設問があることがわかります。回答の選択肢としては、「将来も死刑を廃止しない」、「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい」、「わからない」の3つが用意されていますが、この設問に対する回答の集計結果(表61)は次のとおりです(d, e, f は私が追加))。

  d. 将来も死刑を廃止しない(60.8%)
  e. 状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい(34.2%)
  f. わからない(5%)

 とすれば、死刑制度の存廃に関する世論は次のように集約するのが正しいはずです。
 
  g. 将来とも存続させるべきである(85.6×0.608=)52.6
  h. 現在はやむを得ないが、将来、状況が変われば廃止してもよい(85.6×0.342=) 29.3
  i. どんな場合でも廃止すべきである 5.7
  j. わからない・一概に言えない(8.685.6×0.05=)12.9

 これをもとに言えば、「死刑制度存続に賛成」は85.6%ではなく52.6%と伝える方が正しいことになります
 内閣府あるいはNHKは、hを「少なくとも現在は容認」と解釈したのかもしれませんが、皇室のあり方に関する調査と似て、死刑制度は今日明日に変わるものではありません。したがって、死刑制度に関する世論調査は、単に現時点での容認・否認を確かめるだけでなく、制度の今後のあり方も含めた世論の動向を調査しようとしたものではなかったでしょうか? 「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えた人のうちの34.2%が「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい」と答えている点に着目しますと、朝日新聞の記事のように、85.6%を「死刑存続を支持」と括るのは明らかに誤りです

 この点で言いますと、hの回答が約3割を占めたことは、少なくない国民の間で死刑制度に関する揺らぎが起こっていることを物語っています。
 にもかかわらず、上記のような報道のあり方では、政府が公表するさまざまな情報や資料を扱うに当たってメディアが備えるべき注意力を欠き、その結果、視聴者に誤った心証を形成させる恐れが高いことは否めません。NHKの上のニュースの中でも、「死刑制度に関する国民的な議論が必要」と語られましたが、これはメディアにとって他人事ではなく、死刑制度をめぐって国民の間で理知的な熟議がなされるよう、必要な判断材料を公共の電波を通して国民に伝えることは公共放送NHKの根幹的な使命です。

 年代別の回収率と年代別の意見分布の開きを無視してよいのでしょうか?

 死刑制度に関する内閣府の世論調査の集計結果を利用する時に、重要と考えられる点をもう一つ指摘しておきます。それは、内閣府の上記のサイトに掲載されている「9.性・年齢別回収結果」の読み方です。また、表21には「死刑制度の存廃」に関する年代別の意見分布が示されています。これら2つの資料をもとに、年齢別の回収率と意見分布をまとめますと次のようになります。

 

(注:以下、意見書に挿入した3つの表はブログにはうまくアップできないので、PDF版のURLを貼り付ける。)

<死刑制度の存廃について:年代別の回収率と意見分布>
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/sikei_nendaibetu_shukei_1.pdf

<将来も死刑制度存置か>(年代別の回収率は同前)
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/sikei_nendaibetu_shorai_no_zonpai.pdf

 これら2つの資料を重ね合わせますと、死刑制度の存廃に関する年代別意見は次のように集約するのが正しいといえます。

<死刑制度に関する年代別の意見集約> 

http://sdaigo.cocolog-nifty.com/sikei_sonpai_nendaibetu_ikenshuyaku.pdf

 これを見ますと、回収率は年代が下がるにつれて大きく減少すると同時に、年代が下がるにつれて、「将来も存置」が減り、「無条件廃止」、「将来は状況によっては廃止可」が増える傾向が読み取れます。こうした傾向から判断して、仮に年代を問わず、回収率が近似していれば、全体の集計結果は「将来も存置」が減少し、「無条件廃止」、「将来は状況によっては廃止可」が増加したと考えられます。したがって、回収率の年代別の偏りを考慮せず、集計結果だけから死刑制度の存廃に関する世論の分布を忖度するのは不適切です。

 以上をまとめますと、内閣府の死刑制度に関する世論調査から死刑制度の存廃に関する世論を利用するにあたっては、①「場合によっては死刑を容認」という回答を「死刑支持」と括ってしまう恣意的な集計がなされていること、②その前提として、「死刑を容認」が大勢という集計結果を導くような不適切な選択肢や設問の仕方がなされていること、③相対的に「死刑制度廃止」の意見がかなりの割合を占める若い年齢層の回収率が低いこと、に十分留意する必要があります。

 こうした意見をどう受け止められるのか、感想をお聞かせいただけると幸いです。また、今後、死刑制度のあり方を番組制作において取り上げられる場合、上記のような私の意見を参照していただけましたら、幸いです。

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死刑制度に関する内閣府の誤導的世論調査、それを受け売りしたメディアの報道

  「死刑執行は国民の声」というが・・・
 
 昨朝(329日)、殺人などの罪を犯した3人の死刑囚に対する死刑が執行された。おととし7月以来、18ヶ月ぶりの執行である。
 ところで、昨夜7時のNHKニュースはこの事実を伝えた後、死刑制度の存廃について24ヶ月前(200911月~12月)に内閣府が行った世論調査を画面に示し、「死刑を容認する国民は約85%に上っている」と伝えた。今朝の新聞も同様の報道をし、「85.6%が死刑容認」という内閣府の公表数字が一人歩きしている。たとえば、朝日新聞は内閣府が公表した調査結果を基に折れ線グラフを掲載し、2009年の時点では85.6%が「死刑存続(「存続」と表記していることに要注意)を支持」、「死刑廃止を支持」は5.7%と作図している。
  そして、死刑の執行を命じた小川敏夫法務大臣はこうした世論調査の結果を挙げて、「死刑執行は国民の声」と語っている。

 しかし、私は昨夜のNHKのニュース画面にこの85.6%という数字が「場合によっては死刑もやむを得ない」という選択肢への回答だったことが映されたのを見て奇異に思った。「場合によっては」という条件を付けた死刑容認の回答を「死刑容認」と一括りにカウントしてよいのか?こうした回答は「死刑の是非はケースバイ・ケース」という意味だと解釈することも大いにありではないか? ・・・・・NHKのニュース制作担当者にはこういう素朴な疑問が思い浮かばなかったのだろうか? 

 死刑制度をめぐっては世論の意思は重要な要素ではあるが、制度の存続を支持するにせよ、支持しないにせよ、それぞれの意見の根拠――死刑制度は犯罪の抑止力になるという主張は実証できているか? 応報思想で死刑を正当化できるのか? 更生の可能性がないことを以て人が人を殺すことを正当化できるのか?犯罪被害者およびその遺族の求める償い、癒しに死刑を以て応えることが正当かつ唯一の方法なのか、等々――を理知的に検証することが求められる。

 また、より現実的な問題として、近年、わが国では長期に拘留された死刑囚が再審を請求する事例が相次ぎ、中には請求が認められ、無罪(冤罪)に至る例も生まれている。また、殺人の罪で拘留された被疑者に対する違法な取り調べがあったと法定で断罪されたり、別人の犯行を示す有力な証拠が提出されたりする事例も生まれている。こうした事実を直視すると、死刑制度の存廃をめぐっては、無罪か死刑か、死刑が無期懲役かという生死を分ける判断の重みを受け止めた熟議が不可欠である。

「場合によっては死刑容認」を「死刑存続支持」と括ってよいのか?
 その点を断った上で、この記事では死刑制度をめぐる世論の動向を取り上げ、それを伺い知る資料とされている内閣府の世論調査の集計結果の読みとり方を考えることにする。それには、なにはともあれ、元資料に当たるのが先決である。そこでインターネットで検索すると、

 「基本的法制度に関する世論調査」平成2112月調査(内閣府大臣官房政府広報室)
  http://www8.cao.go.jp/survey/h21/h21-houseido/index.html

というサイトが見つかった。問題の回答集計はこの中の表21(死刑制度の存廃)にある。その質問事項の回答として次の3つの選択肢が用意され、回答の分布は( )のとおりである(a, b, cは筆者が追加)。
 内閣府が公表した回答の集計結果:
 
  a. どんな場合でも死刑は廃止すべきである(5.7%)
   b. 場合によっては死刑もやむを得ない(85.6%)
   c. わからない・一概に言えない(8.6%)

 こうした質問形式に私は3つの疑問を感じた。
 〔疑問:その1〕 「場合によっては」という条件付き選択肢がなぜ「死刑容認」の回答にだけ付けられ、「死刑廃止」の回答には付けられなかったのか(「場合によっては死刑廃止もやむを得ない」という選択肢がなぜ設けされなかったのか?)
 〔疑問:その2〕 「場合によっては」の中味は一様だったのか、様々だったのか? その中味を問うことなく「死刑容認」と括ってしまってよいのか?  
 
〔疑問:その3〕年代別の回収率と年代別の意見分布の開きを突き合わせて回答結果を吟味しなくてよいのか?
 このうち、疑問12は論点が重なるので一緒に検討したい。

 「場合によっては」の内訳も調査されていた。なぜそれも伝えないのか?
 
 内閣府大臣官房政府広報室の上記のサイトを見ていくと、「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えた者を対象にした「将来も死刑存置か」という設問があることがわかる。回答の選択肢としては、「将来も死刑を廃止しない」、「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい」、「わからない」の3つが用意されているが、この設問に対する回答の集計結果(表61)は次のとおりである(d, e, f は筆者が追加))。
  d. 将来も死刑を廃止しない(60.8%)
  e. 状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい(34.2%)
  f. わからない(5%)

 とすると、死刑制度の存廃に関する世論は次のように集約するのが正しいはずである。
 
  g. 将来とも存続させるべきである(85.6×0.608=)52.6
  h. 現在はやむを得ないが、将来、状況が変われば廃止してもよい(85.6×0.342=)29.3
  i. どんな場合でも廃止すべきである 5.7
  j. わからない・一概に言えない(8.685.6×0.05=)12.9

 これをもとに言うと、「死刑制度存続に賛成」は85.6%ではなく52.6%と伝える方が正しいことになる
内閣府あるいはNHKは、hを「少なくとも現在は容認」と解釈したのかもしれないが、皇室のあり方に関する調査と似て、死刑制度は今日明日に変わるものではない。したがって、死刑制度に関する世論調査は、単に現時点での容認・否認を確かめるだけでなく、制度の今後のあり方も含めた世論の動向を調査しようとしたものではなかったか? 「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えた人のうちの34.2%が「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい」と答えている点に着目すると、朝日新聞の記事のように、85.6%を「死刑存続を支持」と括るのは明らかに誤りである

この点で言うと、hの回答が約3割を占めたことは、少なくない国民の間で死刑制度に関する揺らぎが起こっていることを物語っている。

 このような報道のあり方では、政府が公表するさまざまな情報や資料を扱うに当たってメディアが備えるべき注意力を欠き、その結果、視聴者に誤った心証を形成させる恐れが極めて高いことは否めない。ニュースの中で、「死刑制度に関する国民的な議論が必要」と言いつつ、国民をミスリードする恐れの強い報道を躊躇いもなく行ったNHKや各紙の報道のあり方が厳しく問われなければならない。
 もっとも、朝日新聞をはじめ、かなりの新聞は国際人権団体アムネスティ・インターナショナルがまとめた死刑制度の存廃、運用をめぐる各国の動向を紹介しているのは有益な報道といえる。念のため、アムネスティ・インターナショナルのホームページにアクセスすると、
  http://www.amnesty.or.jp/modules/mydownloads/
 
というサイトがある。その中の「2011年の死刑に関する統計データ」を見ると、2012313日現在で、法律上・事実上、死刑を廃止した国は141ヶ国、存置国は57ヶ国となっており、法律上、事実上の死刑廃止国が世界全体の約71%に上っている。

 年代別の回収率と年代別の意見分布の開きを無視してよいのか?
 
 死刑制度に関する世論調査の集計結果を公表した内閣府の上記のサイトには「9.性・年齢別回収結果」が掲載されている。また、表21には「死刑制度の存廃」に関する年代別の意見分布が示されている。これら2つの資料をもとに、年齢別の回収率と意見分布をまとめると次のようになる。

<死刑制度の存廃について:年代別の回収率と意見分布>
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/sikei_nendaibetu_shukei_1.pdf
 
<将来も死刑制度存置か>(年代別の回収率は同前)
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/sikei_nendaibetu_shorai_no_zonpai.pdf

 したがって、死刑制度の存廃に関する年代別意見は次のように集約するのが正しい。

<死刑制度に関する年代別の意見集約>
     http://sdaigo.cocolog-nifty.com/sikei_sonpai_nendaibetu_ikenshuyaku.pdf
       
 これを見ると、回収率は年代が下がるにつれて大きく減少すると同時に、年代が下がるにつれて、「将来も存置」が減り、「無条件廃止」、「将来は状況によっては廃止可」が増える傾向が読み取れる。こうした傾向から判断して、仮に年代を問わず、回収率が近似していれば、全体の集計結果は「将来も存置」が減少し、「無条件廃止」、「将来は状況によっては廃止可」が増加したと考えられる。したがって、回収率の年代別の偏りを考慮せず、集計結果だけから死刑制度の存廃に関する世論の分布を忖度するのは好ましくないといえる。

 以上をまとめると、内閣府の死刑制度に関する世論調査から死刑制度の存廃に関する世論を利用するにあたっては、①「存続に賛成」、「死刑を容認」が大勢という集計結果を導くような不適切な選択肢や設問の仕方があること、②相対的に「死刑制度廃止」の意見がかなりの割合を占める若い年齢層の回収率が低いこと、に十分留意する必要がある。 

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「肩車社会」論のまやかし

 以下の本文は書式が乱れ、読みづらくなってしまいました。次のPDF版でご覧いただけると幸いです。ただし、URLで示した資料は以下の本文中に記載したURLをクリックして開いてくださるようお願いします。
 本文のPDF版

 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kurumagatashakaironnomayakasi.pdf


*********************************************

社会的扶養を運動会にたとえるレトリック

 「胴上げ、騎馬戦、肩車」・・・・野田首相が国民向けに消費税増税への理解を求めるために好んで使っているキャッチ・フレーズである。

総理ビデオメッセージ「社会保障と税の一体改革について(平成24217日)
http://www.kantei.go.jp/jp/noda/statement/201202/17message.html
「対談 安心を支え合う制度をゆるぎないものへ」野田佳彦;聞き手/小島慶子
http://www.gov-online.go.jp/topics/sz/sz_03.html

平たくいうと、
 過去は:多くの働き盛りの若者が1人のお年寄りを支える「胴上げ」型社会
 
 現在は:3人の現役世代が1人のお年寄りを支える「騎馬戦」型社会
 将来(40年後)は:1人の現役世代が1人のお年寄りを支える「肩車」型社
   会

と言うのである。
 何度も使うところを見ると、野田首相はよほどこのフレーズが気に入っていると見える。しかし、多少とも人口統計に通じた人なら、一国の首相がこういうデタラメな数字の使い方をすることに唖然とするはずである。

 野田首相が使う「3人が1人を」、「1人が1人を」という数字の出所は20061220日に国立社会保障・人口問題研究所が公表した「将来推計人口(平成18年推計)の概要」と思われる。
「将来推計人口(平成18年推計)の概要」
http://www8.cao.go.jp/shoushi/kaigi/ouen/tenken/k_1/pdf/s1-1.pdf
 

 

 この資料の4ページに「人口ピラミッドの変化(200520302055)」というデータが収録されている。そして、2005年(実績)、2030年(中位推計)、2055年(同左)と並んだ帯状グラフの下に、(65歳~人口)/(20~64歳人口)、つまり、老年者1人に対する現役世代人数を示す数字が記載されている。それによると、2005年は1人/3.0人であったのが、2030年には1人/1.7人に、2055年には1人/1.2人、となっている。これに着目して、野田首相は現在は「若者3人でお年寄り1人」を支えているが、40年後には「若者1人でお年寄り1人」を支える社会になる、このままでは若者の負担は3倍になると言うのである。

 しかし、国立社会保障・人口問題研究所が作成した人口ピラミッドの推計をこのように社会的扶養比率に転用するのは、統計数字の使い方に限定しても2つの初歩的誤りがある。一つは、分子の決め方の錯覚であり、もう一つは、自然年齢で扶養者/被扶養者の推移を輪切りして、長期的な社会的扶養比率(扶養する側とされる側の人数割合)を推計する手法の誤りである

ピラミッド型人口構成を社会的扶養比率に転用する誤り
 
 野田首相の誤り(知識欠如故の錯覚?)を平たくいうと、現役世代は自分のことは脇において、ひたすら老年世代を養うだけかのような分数計算をしているということである。加えていうと、野田首相が使っている扶養比率では、扶養される側にあるはずの年少世代がすっぽり抜け落ちている。
 そもそも、国立社会保障・人口問題研究所が示した(老年人口)/生産年齢人口)の比率は少子化、高齢化が人口構成に及ぼす長期的影響を推計したものであって、それ以上でも以下でもない。社会的扶養率を大雑把に表するのであれば、

 分母=扶養する人口=現役世代人口(≒生産年齢人口)
 分子=扶養される人口=現役世代人口+年少人口+老年人口=総人口

とするのが正しい(ただし、正確には年齢階級ごとの就業状況を踏まえた計算が必要である。これについては後述)。したがって、ひとまず、年少世代を度外視して野田首相が使った現役世代人口と老年世代人口比だけからいうと、

 現在は:4人/3人≒1.3 現役世代3人が自分自身を扶養しながら、3人で1人のお年寄りを支えている状況、 
 将来(40年後)は:2.2人/1.2人≒1.7 1.2人の現役世代が自分自身を扶養しながら、1人のお年寄りを支えている状況、

と表現するのが正しい。とすると、現在と比べ、40年後には現役世代の負担は3倍ではなく、約1.25倍になると言うのが正しいのである。

「従属人口指数」も社会的扶養の負担度を表す指標とはいえない
 
 しかし、野田首相だけでなく、統計資料の作成者である国立社会保障・人口問題研究所も――個別の専門用語は正しく解説しながら、現役世代(生産年齢人口のこと)の社会的扶養負担の指数を表す段になるとミスリーデングな解説をしている。
 この議論で登場するのは「従属人口指数」という用語である。現役世代(生産年齢人口)の(家族内での負担と区別した)社会的な扶養負担の程度を大まかに表すための指標として用いられている。本年1月に国立社会保障・人口問題研究所が公表した「日本の将来推計人口」では、従属人口指数(生産年齢人口100に対する年少人口+老年人口の比)を以て、現役世代の扶養負担の程度を大まかに表す指標とみなしている(3ページ)。
 「日本の将来人口推計」(平成24年1月推計)
 

  http://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/newest04/gh2401.pdf

この資料いうと、

 現在(2010年):56.7(現役世代の1.8人で老年者・年少者1人を支える
  状況)
 2037年:80.0(現役世代の1.2人で老年者・年少者1人を支える状況)
 2060年:96.3(現役世代の1人で老年者・年少者1人を支える状況)

へと変化することになる。したがって、この計算式でいくと現役世代の扶養負担は27年後には1.4倍、50年後には1.7倍となる。
 しかし、現役世代の社会的扶養の負担度を表すのであれば、現役世代は自分は食うや食わずで年少世代や老年世代を扶養するわけではなく、自分も含めた全人口を扶養しているのであるから、

 現在(2010年):現役世代100人で156.7人(現役世代の100人+老年者・年少者56.7人を支える状況 → 現役世代1人で1.6人)を支える状況
 2037年:180.0(現役世代1人で老年者・年少者1.8 人を支える状況)
 2060年:196.3(現役世代の1人で老年者・年少者2人を支える状況)


へと変化することになる。したがって、現役世代の扶養負担は27年後には1.4倍、50年後には1.7倍となる。
 しかし、現役世代の社会的扶養の負担度を表すのであれば、現役世代は自分は食うや食わずで年少世代や老年世代を扶養するわけではなく、自分も含めた全人口を扶養しているのであるから、

 現在(2010年):現役世代100人で156.7人(現役世代の100人+老年者・年少者56.7人を支える状況 → 現役世代1人で1.6人)を支える状況
 2037年:180.0(現役世代1人で老年者・年少者1.8 人を支える状況)
 2060年:196.3(現役世代の1人で老年者・年少者2人を支える状況)


というのが正しい。とすると、50年後の現役世代の扶養負担は現在と比べて1.25倍と言うのが正しいのである。

自然年齢で扶養する人口と扶養される人口を区分する浅慮
 しかし、よく考えると、全人口/生産年齢人口、で現役世代の社会的扶養負担の程度(の推移)を測るのも相当にずさんである。なぜなら、扶養者とは所得稼得者を指すはずであるから、労働力人口(正確に言えば就業者数であるが、それは失業率のいかんで変わるので、ここでは就業する意思と能力をもつ者という意味で労働力人口を用いる)がそれに該当する。しかし、生産年齢人口のうちどれだけが労働力人口を構成するかは時代を超えて不変ではなく、定年制や女性の労働市場への進出の程度、高校・大学への進学率など、時代の推移とともに変化する。
 そうなると、生産年齢人口=扶養者、老年人口=被扶養者というように自然年齢で扶養する者とされる者を区分し、両者の割合の変化率で現役世代の社会的扶養の負担度を測ろうとするのは、相当に現実離れした発想である。
 そこで、総務省統計局『労働力調査』、独立行政法人 労働政策研究・研修機構『労働需給の推計』から、労働力人口の将来推計を確かめ、労働力人口1人が何人を扶養することになるか(以下、これを「労働力人口扶養比率」と呼ぶことにする)を計算すると次のとおりである。

 現在(2010年):労働力人口 6,814万人、総人口 12,806万人
  → 労働力人口扶養比率=1.88
 2030年:労働力人口 5,853万人、総人口 11,563万人
  → 労働力人口扶養比率=1.98
 2050
年:労働力人口 4,668万人、総人口 9,577万人 
  → 労働力人口扶養比率=2.05

となる。したがって、現在と比べ、40年後には労働力人口1人当りの社会的扶養の負担度は1.1倍程度の増加にとどまることになる。
 このように社会的扶養の実質的担い手といえる労働力人口で社会的扶養の負担の推移を測ると40年後の負担の程度がほとんど変化しないのは、
 ①生産年齢人口の中で、女性の労働市場への進出率(=生産年齢人口のうち労働力人口を構成する人口の割合:労働力率)がさらに高まると予測されること(2529歳の場合、2010年:79.2%、2030年:89.6%;5559歳の場合、2010年:52.9%、203072.1%)、
 ②老年人口の中でも6570歳の層で労働力率が大幅に上昇すると見込まれていること(2010年:男性49.5%、女性24.0%;2030年:男性62.0%、女性31.6%)、
が主な理由である。

 以上のように、現役世代が担う社会的扶養の負担度は野田首相がいうように現在から40年先にかけて、「騎馬戦型」から「肩車型」へと3倍になるわけではなく、約1.1倍程度の上昇にとどまると予測されるのである。

もっとも、扶養力が所得稼得力で決まることを考えれば、労働力人口1人当たりといっても、正規雇用か不正規雇用かで扶養力は違ってくる。たとえば、ワーキングプアの若者層は家族内でも社会的にも老年世代を支えるどころか、自分やその子供を支えるために四苦八苦している。また、性別の給与格差が性別の扶養力の格差を生み、母子家庭を厳しい経済状況に追い込む原因になっている。
 他方、老年世代では、世代内で大きな所得格差をはらみながら、ストック(貯蓄や金融資産の保有)の面で豊かな高齢者が存在し、現役世代と間に大きな格差が生れている。
 このような面まで考慮すると、自然年齢で扶養する者とされる者を輪切りして、「胴上げ型」、「騎馬戦型」、「肩車型」などと運動会になぞらえたレトリックで危機感をあおることがいかにまやかしの議論であるか、わかるはずである。

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公立保育園等のあり方にについて意見を提出

2012年3月18日

 近年、国が打ち出した新しい「子育て支援システム」に呼応して、全国各地で保育園の民営化が進行している。私が住む千葉県佐倉市でも、目下(といっても明日19日が締め切り)、市がまとめた「市立保育園等の在り方等に関する基本方針(案)について意見募集(パブリックコメント)がされている。

「基本方針案」と意見公募の広報
http://www.city.sakura.lg.jp/shiminkyodo/200sanka/010bosyu/20120305_012305000_01.htm

 また、それに先だって次のような提言が市長宛てに提出されている。
「佐倉市保育所の在り方検討会」:提言(平成233月)と会議録
http://www.city.sakura.lg.jp/kosodate/arikata/arikatakentoukai.html

 保育園というと私には孫の世代の問題であり、はじめは子育て世代の保護者に任せるのが穏当な気がした。しかし、事の発端が地方分権を掲げた三位一体改革の下での国の財政誘導(それまで公立保育園に交付されていた補助金・負担金を一般財源化した結果、地方交付税不交付団体をはじめ、富裕自治体とみなされた自治体には国からの交付がなくなるか激減する一方、民間保育園には補助金を交付するというシステム)にあることがわかった。そこで、身近な居住地の問題を自分なりに調べ検討して考えを発信するのは一住民の務めと思え、意見を提出した。深い検討の結果とはとても言えないが、自分なりに保育園の民営化問題を考えるきっかけにはなった気がしている。
 以下は提出した意見の全文である(原文のレイアウトを多少変更したが、内容はそのまま)。

*********************************************

佐倉市立保育園等の在り方の関する基本方針(案)に対する意見(醍醐聰)

1.意見募集の方法について

 ①このような意見募集をするにあたっては出来上がった基本方針(案)(以下、「案」と略す)を示すだけでなく、(案)の取りまとめのプロセス、特に「佐倉市保育園等の在り方検討委員会」(以下、「検討会」と略す)の提言、同委員会での検討の状況を記した会議録も参考資料として添付してほしい。
 ②意見募集が「既に結論ありきの通過儀礼」ではなく、市民の意見を真にくみ上げる趣旨で行われるためには、基本方針(案)を取りまとめた後だけでではなく、(案)を取りまとめる途中段階(上記検討委員会での審議の途上)でも行う必要があります。

2.公立保育園の民営化について
 ①(案)は主に財政面での理由から、公立保育園の民営化(民間移管)を打ち出しているが、検討会の提言(2122ページ)には、<委員の主な意見>として、

 ・「民間では採算が合わず引き受けられない部分を公立が率先して引き受けないといけない」
 ・「身分が保障されていることが、公立の良さとしてある、保身に走ったり、経営者の言いなりになったり、同僚に対して競争を煽ったりするようなギスギス感は公立にはなかった」
 ・「公立には異動があります。経験豊かな人や、やる気のある人が異動してくることによって、園の雰囲気がまるで変わったり、行事に活気が出たりします」
 ・「年配の職員から若い職員まで年齢層に幅があるというのは、公立の売りかと思います。障害児保育等の推進や、豊富な知識経験の活用が期待できる」
   ・「公立には横の連携や地域とのネットワークがありますが、民間になってしまうと保てなくなってしまうのではないかという懸念はあります」
 ・「市の財政状況が厳しいことも十分承知していますが、子どもたちの育ちと子育てをどのように守っていくか、自治体の判断にかかっています」

といった意見が掲載されています。いずれも、公立の長所、民間立に対する懸念を当事者の体験を踏まえて指摘された意見と思えます。
 こうした意見と民営化をあくまでも推進しようとする提言や(案)の方向付けには大きなずれがあります。こうしたずれがなぜ生まれたのかについて、検討会会長、ならびに意見公募をされる市の担当部署は市民に分かりやすく説明していただきたい。

 ②佐倉市の保育所職員の勤続年数は公立の場合は平均約17年、民間の場合は平均約47年とのことですが、上の委員の意見の中にもあるように、幼い子供と向き合う保育では現場で培う経験、それを伝授していく職員内のシステムが保育の質を維持・向上させるうえで非常に重要だと思います。平均勤続年数47年という民間保育園でこの点がはたして担保できるのか、他市他県の実態も十分調査・研究した慎重な判断が必要です。2009626日に市内5つの園を視察されたとのことですが、正味2時間余りの時間で、かつ保護者からのヒアリングもなしでは、とても十分な実態把握ができたとは思えません。

 ③市は国の三位一体改革に伴う財政負担を民営化の主な理由に挙げています。しかし、県内の類似規模の市の間では公・民立の割合は一様ではありません。また、人口規模が類似する野田市、成田市、習志野市、流山市、八千代市、浦安市と比較しますと(平成21年度、「決算カード」による)、佐倉市は住民1人当りの歳出額は7市の中で最低(229千円)で、歳出のうちの民生費を比較しても同じく最低(65千円)です。このようなデータに照らせば、市が挙げる財政事情には説得力がありません。

 ④平成23929日に開かれた市議会本会議における議員質問の中で志津地区北部に保育園が不足している、という発言があります。しかし、平成234月に八社神社西に開園したユーカリが丘保育園は児童の応募がほとんどない無人に近い状況が続き、同年11月に閉園となりました。このような事実を検討会なり、市の担当部局はどのように把握され、判断されたのか、お聞かせ下さい。

⑤検討会の議事録を読みますと、幾人かの委員から、「民間の職員も臨時職員も公立の正職員と変わらないよい保育をしている」という発言がありました。しかし、民営化の是非や雇用形態を議論する時に問われるのは個々の職員の仕事ぶり(それは別の議論の場面では非常に重要ですが)ではなく、上の2-①で紹介した<委員の意見>にもあるような職員の経験の蓄積、伝承、創意が発揮できる職場環境といった制度面、環境面の問題です。従って、個々の職員の熱意なり意欲なりだけで保育園の設置形態を判断するのが適切ではありません。

 ⑥八千代市で2007年に民間に移管した4つの保育園のうちの1つで2名の保育士が20103月に、児童に不適切な行為をしたとして解雇される事件が起こりました。しかし、解雇された本人と園側、及びその他の職員の事件に関する説明が食い違い、保護者が求めた当事者職員から直接説明を聞く機会も持たれない状況が続いています。また、同園では民間移行後、園長が3人交代し、職員も計11人が退職するという尋常でない状態になっています。民間移管後も行政、法人、保護者が密に連携して、法人の事業運営を監督すると言われるのであれば、近隣市でのこうした事例に深い関心を寄せ、民営化後の行政のあり方だけでなく、民営化の是非の検討にあたっても参考とすべき点が少なくないと思います。この件について、市の担当部局なり検討会は、背景も含め、何らかの調査をされたのでしょうか?また、この件についてどのような知見、見解を持ちか、お聞かせ下さい。

 ⑦以上から、(案)が掲げる公立保育園の民営化には、その根拠も含め、疑問が山積しており、とても今の時点で民営化にゴーサインを出せる状況にはありません。山積した課題をさらに深めて調査・検討するよう、今回の意見募集も踏まえ、検討会での審議の再開、市内のブロックごとに保護者・市民から意見を聞く公聴会を検討会主催で行うよう要請します。

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出入り自由のサンルーム(?)に置かれた段ボール箱で仲良く休む野良ネコ(姉宅)
22950
日差しが差し込む居間でうたた寝するウメ
2012_021250

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佐倉市の国民健康保険~現状は?改革案は~

201226
 私たちが住む街の国民健康保険は?
 
 24日、佐倉向日葵会の主催で「佐倉市の国民健康保険~現状は?改革案は?~」と題して講演をした。同じ向日葵会が昨年1120日に市民フェスタ2011にエントリーされた企画として「佐倉市の財政」について講演をさせてもらったが、その時、時間不足で話せなかった国民健康保険について続きの話をという趣旨で企画された講演会である。
 国民健康保険、特に市町村が運営主体になっている市町村国保の財政危機について、このところ連日、全国紙で記事が出ている。それだけにやりがいのあるテーマだし、私の目下の研究テーマでもあったので、なおさら準備も張り合いがあった。
 この1週間ほどの寒波のせいもあって、参加者は50名少しだった。主催者代表のUさんは気にされていたが、地元で開いた、深刻ではあるが地味なテーマにこれだけの方が足を運んでいただいたことを嬉しく思っている。市会議員も3人聴きに来ていただいたが、そのうちのT議員は初対面の方で有難かった。
 この場を借りて、企画の準備、大量の資料の印刷、当日の会場設営などに尽力いただいた佐倉向日葵会のUさんはじめ、会員の方々に厚くお礼を申し上げる。

 当日使った資料
 
 以下は、当日、使ったパワーポイントのスライド原稿(4コマ版を配布)、別紙資料(3枚)である。

パワーポイント原稿「佐倉市の国民健康保険~現状は?改革案は?~」(ブログにアップロードするにあたって容量制限のため4つに分割)
  No.1
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kokuho_koensiryo_no1.pdf
 No.2
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kokuho_koensiryo_no2.pdf
 No.3
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kokuho_koensiryo_no3.pdf
 No.4
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kokuho_koensiryo_no4.pdf

別紙資料
  
表1 医療保険制度間の財政調整(西沢和彦『税と社会保障の抜本改革』2010年、198ページより転載)
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kokuho_t1.pdf
 表2 国民健康保険の加入状況・保険料とその収納状況(佐倉市と類似規模の県内7市の比較表)
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kokuho_t2.pdf
 表3 7市の国民健康保険特別会計の財政状況
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kokuho_t3.pdf
  (注)県内7市とは、佐倉市、野田市、成田市、習志野市、流山市、八千代市、浦安市

 講演の中で強調したことは
1.わが国では医療保険が5つの制度(①組合健保、②協会けんぽ、③共済組合、④市町村国保、⑤後期高齢者医療制度)に分かれているが、上記の表1からわかるように、①~③の毎年度の支出額の4割強は市町村国保と後期高齢者医療制度への支援金と介護保険への納付交付金に充てられている。逆からいうと、市町村国保の収入のうち保険料が占める割合は約30%(佐倉市の場合、約28%)で、残りを国・都道府県からの支出金(約40%)、他の医療保険からの支援金(約30%)が占める構造になっている。

2.市町村国保がこのような財源構造になったのは、①被保険者の過半が退職者、被用者医療保険への加入条件を満たせない短期雇用労働者が占めていることから、平均所得が低く、所得割の保険料部分が低い水準にならざるを得ないこと。②その反面、被保険者の平均年齢が相対的に高いことから、疾病率が高く、保険給付費が他の医療保険と比べて多くなる、ためである。
 
3.それでも現在の市町村国保の保険料は被保険者の負担力との対比で高すぎ、低所得層にとって「払えない」水準になっている。に会福祉推進千葉県協議会の調査によると(上記表2、3)、保険料(税)を半年~1年滞納したため、有効期間が半年の短期保険証に切り替えられた世帯と1年以上保険料(税)を滞納したため、保険証の返却を求められ、窓口でいったん全額を自己負担しなければならない資格証明書に切り替えられた世帯が加入世帯数に占める割合(2010年度:ただし、日々変動がある)は八千代市で12.0%(3,582世帯)、野田市で10.7%(2,946世帯)に達し、佐倉市でも8.1%(2,303世帯)に上っている。

 

4.このうち、資格証に切り替えられた世帯の所得階層を見ると、八千代市(1,402世帯)ではその85.2%が未申告世帯+年間所得200万円以下の世帯となっている。佐倉市でも、資格証世帯(541世帯)の84.1%が未申告世帯+年間所得200万円以下の世帯となっている。
 こうした状態を放置すると、窓口で医療費の全額を負担できる目途がない世帯で、受診抑制 → 健康悪化 → 失職 という貧困のスパイラルが待ち受けている。これは、とりもなおさず、国民皆保険のほころび、更には瓦解へとつながる危機と言わなければならない。

5.以上のような実態を見ると、今日の市町村国保はもはや社会「保険」という呼称からは程遠い実態になっており、社会「福祉」として医療制度を捉え、財政のあり方を再構築する必要に迫られている。

6.その場合、組合健保や共済組合は、①自らの被用者保険への加入資格を制限していることから、その医療保険に加入できない非正規雇用の労働者が市町村国保に加入することを余儀なくされていること、②組合健保や共済組合への加入者の大半は退職後、市町村国保に移動すること、を考えれば、市町村国保を国民皆保険の最後のよりどころとして維持するよう、これらの医療保険に市町村国保の財政支援を求めることにそれなりの根拠はある。しかし、自己の医療保険の年々の支出額の4割もが他の医療保険への支援金に充てられているという現実はこうした根拠を以てしても負担の限度を超えていると言わざるを得ない。現に、こうした過度な負担を返上することを理由の一つに挙げて組合健保を解散する動きが出ていることは黙過できない。

 私の意見・提言
 
7.私が当面、佐倉市独自の財政対応として提言するのは、
 ①類似規模の他市の保険料(税)の計算体系と比べて、応能分(所得割・資産割)の比重が低い(応能分53.3%:応益分46.7%)のを改め、資産割をあらたに創設することも含め、応能分の比重を他市並み(浦安市75.3%対24.7%;習志野市67.8%対32.2%;流山市63.0%対37.0%)に引き上げること、それによって保険税を低所得層にも「払える水準」に近付けること。

 ②2010年度の国保特別会計で決算剰余金8,735万円を処分して積み立てた国保内の基金積立金4,367万円の一部(私の試算では約1,850万円)を取り崩して、当面、保険税の滞納を精算できる目途がないと考えられる資格証世帯541世帯の保険税滞納分を補てんし、これらの世帯に保険証を戻すこと。

 (注)「基金積立金を取り崩して低所得層の滞納分の補てん」と書いたが、こうした表現が正しいかどうか、次の点を確認したうえでないと断定できない。なぜなら、1年以上の滞納者で資力に欠けるとみなされる世帯の保険税の現年分と滞納分も次年度の歳入予算の保険税収入に計上しているのかどうか? 次年度の歳出予算において資格証世帯(高校生以下の分を除く)に係る保険給付費は計上を見合わせるといった措置が取られているのかどうか? を確かめる必要があるからである。もし、1年以上の滞納者で資力に欠けるとみなされる世帯の保険税の現年分も滞納分も次年度の歳入予算の保険税収入には計上せず、次年度の歳出予算において、資格証世帯(高校生以下の分を除く)に係る保険給付費も計上しているのであれば、資格証世帯に保険証を戻すにあたって新たな財源措置を講じる必要はない。担当課に問い合わせればわかることなので、早い時期に確認したい。

8.しかし、今日の市町村国保の財政の危機的状況に照らして国は市町村国保を都道府県単位に再編する「国保の広域化」を推進しようとしている。それによって国保の財政調整を都道府県レベルに集約し、国保財政の均霑化を図ろうとしているのである。
 しかし、
 ①都道府県内でも都道府県間でも財政力に大きな開きがある現状の下で国保の財政運営を本当に都道府県単位に集約できるのか?
 ②国保の財政を都道府県単位に集約しただけで、国保の財政が安定化する保障はどこにもなく、国からの財政支援が欠かせない実態は変化しないと考えられる。むしろ、滞納者への対応や資格証・短期証の交付事務など日常的な窓口事務は住民と近い存在の市町村にとどまらざるを得ない。そうなると、広域化する財政運営と市町村単位の窓口事務が隔離され、両者の連携・意思の疎通が弱くなって、そうでなくても民間委託で滞納者との距離が疎遠になりがちな行政にますます拍車がかからないか懸念される。

9.結局、市町村国保の財政問題を辿っていくと、国全体の社会保障財政のあり方、特に財源問題に行きつくことになった。そのため、講演の後半3分の1程は目下の「社会保障と税の一体改革」に及ぶことになった。この点で、家計の負担力に逆進的な消費税の増税に社会保障の財源を求めることに同意しない私は、今回の講演では、①所得税の累進性の回復、②特別会計に存在する活用可能な剰余金の運用、③医薬品製造業に異例の高利益をもたらしている、国際比較で際立って高い薬価を引き下げて医療保険内部で増税に頼らない財源を確保する、という構想を説明した。
 ただ、①②③とも時間が押し詰まった中での説明だったのと本題のテーマから大きくはみ出るテーマにどこまで踏み込むのか、迷いがあったこと、私の構想自体にまだまだ具体的な裏付けが不足していることから、説得力のある説明ができたとは思っていない。この点は目下、手掛けているさなかのテーマなので、今回の講演を機にもっと自分の提言を固める作業を加速させなければと思っている。

講演の後の討論では
 この機会に盛りだくさんのことを話そうとしたため、講演は予定の時間を大幅に超えてしまい、主催者代表のUさんをやきもきさせたことと思う。講演のあと、椅子を円形に並べ変えて自由討論になった。そこでは、
 ①薬価を下げて財源を生み出すことと診療報酬の見直しはどう関係するのか? 
 ②成田市や浦安市では国保特別会計の赤字補てんに必要限度以上に財政調整基金を取り崩しているが、これ保険給付を充実させるとか、保険料の滞納者を救済するとかいった積極的な財政運営を意味すると考えてよいか? 佐倉市の国保では平成20年度までの数年間、一般会計から1億円を超える赤字補てんの繰入をしていたとのことだが、その後、こうした繰入が必要なくなったのはなぜか?
 ③国保はなぜ特別会計なのか、一般会計と一緒にしてはいけないのか?

 ④各市町村に在住している外国人は国保に加入できるのか? 彼らの医療費負担はどうなっているのか?
など、さまざまな意見・質問が出た。
 一口では答えられない質問が多く、④などは私の現在の知見では答えられなかったが、②の後段についていうと、佐倉市では平成22年度の決算では一般会計からの赤字補てん繰入はないものの、出納整理期間に国保内財政調整基金を2,081万円取り崩して療養費に充てている(健康保健課からの聞き取り)ことを紹介した。出納整理期間中に取り崩したいきさつを確かめる必要があるが、国保特別会計内の基金とはいえ、経常外収入といえる基金の取り崩しで財源を補充するのは単年度ごとの収支均衡の点からいえば、一般会計からの法定外繰入れに似た性格のものといえる。
 ただ、上記②の前段の質問・意見にあるように、基金をため込むだけが財政運営の成果と言えるわけではない。先に述べたように、その一部を活用して保険証の返還を余儀なくされた低所得層の世帯を医療保険の安心網に復帰できるようにするのは意義深い財政政策だと私は考えている。

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浅ましいのはどちらか?~メディアの自死を意味する消費税増税路線への翼賛~

野田政権に消費税増税をけしかけるメディアの異様な光景
 
 『毎日新聞』は1229日、民主党が今年度中に消費税増税の法案提出を決定したのは先の選挙で同党が掲げたマニフェストに違反するとして同党の9名の議員が離党を表明したのを受けて、「浅ましい年の瀬の混乱」と題する社説を掲載した。この社説は、昨年末に民主党政権が消費税増税や八ツ場ダムの建設再開などを決定したのは、同党が政権交代を果たした選挙の折に掲げた公約は総崩れしたことを意味するとみなし、「党の主要政策の方向と離党議員らの主張はかけ離れており、同じ党にいることがもはや不自然にすら思える」と記している。しかし、そういう一方で、9名の民主党議員が離党に踏み切った行動を「次期衆院選での逆風をおそれ、党に見切りをつけた自己保身」と断じ、野田首相に対して「時期や税率も含めた意見集約と法案化への作業をひるまず断行すべきである」と主張している。これでは野田政権に対して、公約違反も辞さず、消費税増税路線を突き進むよう叱咤激励するに等しい。

 離党した議員に対して、あくまで党にとどまり、マニフェストの履行を執行部に粘り強く迫るべきだと促すのなら道理がある。彼らに、このまま民主党にとどまるよりも離党した方が次期選挙にとって得策という読みがなかったとはいえないだろう。しかし、選挙の時に掲げたマニフェストが総崩れしたと断じながら、それに抗議して党を離れた議員を自己保身と決めつけるのでは論理が支離滅裂であり、公約を反故にしてでも消費税増税路線を突き進めと『社説』でけしかけるのは異様としか言いようがない
  この点では、9人の民主党議員の離党を「公約破りへの警鐘」とみなし、「政権幹部が彼らの行動を支えている国民の怒りを軽んじるなら民主党にもはや存在価値はない」と言い切った『東京新聞』の1229日付けの社説の方が道理にかなっている。

メディアは政治のプレイヤ―ではなくウオッチャーに徹すべき
 論理が支離滅裂なのは『毎日新聞』だけではない。『朝日新聞』は1231日の朝刊に「首相と増税――豹変して進むしかない」という社説を掲載し、野田首相が「『君子は豹変す』という立場で行革にも取り組む」と語った言葉を引き、覚悟を決めて消費税増税を断行するよう迫っている。しかし、行政改革を断行することは、その中味こそ問われなければならないが(注)、一般論としては当然のことであり、野田首相自身、民主党代表選にあたって発表した政見のなかで明言していることである。したがって、それを実行するのに政策を「豹変」する必要は全くない。むしろ、「行財政革が増税の地ならしに使われるようでは困る」(『北海道新聞』20111231日、社説)というのが正論である。

 (注)消費税増税に先立って政治家が「身を切る」努力の証しとして民主党は衆議院議員の定数を80名削減することをしきりに唱えている。また、大半のマスコミもこのような主張にそっくり同調している。はたして、日本の国会議員の定数が人口比で多すぎるのかどうかはこの先の記事で触れたいと考えているが、この問題は消費税増税と何の因果関係もない。むしろ、昨今の民主党の公約破りから、民・自2大政党の基本政策は限りなく近似していることが明らかになった。そうした中で、少数政党の議席の削減に帰着する衆議院の議員定数を削減することは、有権者の政策選択の幅を狭め、少数政党に期待する民意を切り捨てることになる。こうした選挙制度のあり方と直結する議員定数の削減を消費税増税に絡めるのは論外である。

 「豹変」というなら、政権交代時のマニフェストに全く掲げず、政権発足時に4年間は消費税を増税しないと明言した公約を翻して消費税増税路線を突き進むことこそ「豹変」である。朝日新聞の社説がこうした野田首相の発言を引き合いに出して消費税増税を断行するよう激励するのであれば、それは民主党のマニフェスト違反を擁護するにとどまらず、マニフェスト違反を奨励するに等しい
 ところが朝日社説は「8月の党代表選で、野田氏が勝った時点で、増税方針は決着していたのではなかったのか」という物言いで、政府・与党執行部が消費税増税法案の国会提出を決したことがマニフェスト違反にあたる事実から目をそらし、そうした党執行部の「豹変」に反発して離党を決意した9人の民主党議員の行動に非難の矛先を向けている。しかし、このような『朝日新聞』社説子の物言いは事実誤認・無視に基づく支離滅裂な主張である。
 
 まず、昨年8月の民主党の代表選にあたって決選投票を争った海江田、野田両氏が発表した政見のうちの財源論に関する見解を確かめてみよう(以下、民主党のHPより)。

海江田万里氏:
 「基礎的社会保障財源として、景気回復後に消費税導入を検討する。その場合には逆進性に配慮する。」
野田佳彦氏:
 「震災対策における財源措置を含め、財政健全化の道筋においては、税金の無駄使いを徹底的に排除する等歳出面での改革に全力を挙げなければならない。その上で歳入面での改革も併せて実行していく。」

 つまり、消費税増税というなら、野田氏よりも海江田氏の方がその点を明記しており、野田氏は増税についてさえ明記しておらず、「歳入面での改革も併せて実行していく」と記すにとどまっている。なお、代表選の投票直前に同党の全国会議員を前にした演説のなかでも野田氏は「議員定数削減、公務員定数と人件費削減にも全力で戦う。それでも足りないときは国民に負担をお願いするかもしれない」と語っているが、そこでの「負担」が何を指すのか、一切明言していない。

 
つまり、消費税増税というなら、野田氏に敗れた海江田氏の方が、景気回復を前提にして、と断りながらも明確に政見に掲げていたことがわかる。この意味で、朝日の社説が「国民に負担をお願するかもしれない」という野田氏の発言をさして増税方針と読み取り、「8月の党代表選で、野田氏が勝った時点で、増税方針は決着していた」と解釈するのは消費税増税に前のめりする主観に災いされた牽強付会な主張である。そもそも、増税というだけでそれが消費税増税を意味すると了解すべき理由がどこにあるのか?増税=消費増税という論調は自民党政権時代から政府・財務省が常用した世論誘導のなし崩し手法である。それと同じレトリックを民主党が用いているという意味では、政権交代ではあっても政策転換ではなく政策継承である。

 朝日社説が、増税といえば消費税増税を指すと了解しているのであれば、それは朝日社説が、自民党政権以来、政権政党が世論誘導のために常用してきたレトリックに一蓮托生で同化している実態の証左にほかならない。これでは時の政府与党の財政運営の批判的オブザーバーであるべきメディアの使命放棄にほかならない。なぜなら、消費税増税をめぐって日本のメディアに求められる最も基本的な役割は増税=消費税増税という論理の飛躍に待ったをかけ、それとは異なる歳入確保の選択肢を国民に指し示す自立した言論だからである。

 言いかえると、時の政権が推し進めようとする「なし崩しの現実に流されない」理知と知見を世論に付与することこそ、政治ジャーナリズムに課される最大の使命である。このような使命を忘れて、時の政権が唱える消費税増税路線に「進軍ラッパ」を鳴らすのではメディアは自死を選んだのも同然である。(『東京新聞』20111225日、<新聞を読んで>欄に掲載された水無田気流「『なし崩し社会』の問題」はこうしたメディアの役割を考えるうえで示唆に富んでいる)。

 次に、議論をもっと前に戻していうと、民主党代表選での各候補の政見はあくまでも党内向けの政見であって、そこで、あれこれの候補者が、かりに、政見交代時のマニフェストに掲げたわけではない消費税増税方針を打ち出したとしても、それによって民主党のマニフェスト違反を正当化できるわけではない。国民向けの公約と党内向けの政見を区別して議論をすべきことは政治評論のイロハである。

問題は増税の実施時期ではなく法案提出の時期である
 ところで、「浅ましい」という評語に話を戻すと、この言葉は離党した9人の民主党議員に向ける言葉ではなく、野田代表ら民主党執行部の党内合意の取り付け方にこそ向けられるべきである。なぜなら、増税反対派の抵抗にひるまずなどと大義を振りかざしているが、その実、民主党執行部が消費税増税について党内の了承を取り付けるにあたっては、8%への引上げ時期を当初案の201310月から半年ずらして20144月とするという小細工を弄している。そうすることで、増税実施の半年前には閣議決定が必要というタイムスケジュールを考慮しても、現衆議院議員の任期中(20138月まで)は増税しないとした政権交代時の公約をクリアできると考えたそうだ。しかし、選挙公約に違反するかどうかは増税の実施時期が任期内かどうかではなく、国会への法案提出が任期内かどうかで決まると考えるのが常識である。マニフェストに反する消費税増税の法案を現衆議院議員の任期内の今年度中に国会に提出しておいて、実施時期を任期外にずらすことで公約違反でないなどと言い募るのは、まさに姑息で浅ましい言いくるめである。それでも公約に反する増税を民主党政権下で行いたいのなら、解散して民意を問いなおすのが正論である。そうした手順を踏まず、将来の消費税増税を先食いする交付国債を発行するのも姑息の上塗りというものである。

 さらに、消費税増税にとどまらず、沖縄普天間基地の移設(撤去)、子供手当、八ッ場ダムの建設再開など、民主党が掲げたマニフェストは昨年末には総崩れの状態になった。私は民主党を離党した議員も、ここに至るまでの間にフニフェストを反故にしようとした党運営のあり方にどこまで異議を投げかけ、有権者に公約したことを守る主体的な努力をしてきたのか厳しく問われなければならないと考えている。しかし、「浅ましい」というなら、民主党が有権者に対する公約を反故にし、自民党政権時代の政策に回帰する政策を次々と打ち出して、政権交代に託した多くの国民の期待を裏切った自党の方針を結局は了承して鉾を納める議員の方がよほど浅ましくないか? それでも政権政党にとどまるのであれば、この先、党運営を抜本的に改めるよう自党に対して異議申し立てをする「覚悟」が求められる。そうした「覚悟」もなしに適当に「ガス抜き」をされて終わるのなら、そうした民主党議員の不作為あるいは無策こそ、自己保身として断罪されなければならない。

国民を熟議に導く取材報道こそメディアの使命
 もちろん、消費税増税をめぐって問題なのは、マニフェストとの整合性や政権・政党の政策の一貫性だけではない。それ以前に、財源といえば消費税しか俎上に乗せない民主・自民2大政党の異床同夢の発想、それに同化するメディアの報道姿勢がはたして正当化なのか? 今回、消費税の逆進性対策として提唱されている給付付き税額控除は逆進性を緩和・解消するうえでどれほどの効果を期待できるものなのか? 消費税の逆進性というと、最終消費の段階での逆進性が重要であることは確かだが、問題はそこだけなのか、仕入れ・販売の段階での転嫁の逆進性(販売力の格差に起因する転嫁の能力の格差)をなぜ問題にしないのか?全ての税目の滞納額の中で消費税の滞納が最も多いのはなぜなのか?滞納というと決まって「益税」が俎上に載せられるが、政府・与党は、なぜ、中小零細事業者が訴える「損税」(消費税を転嫁できない事業者が「自腹」切って納税をすること)の実態把握に努め、是正を検討しないのか?

 政府・財務省の広報を受け売りするのではなく、こうした消費税の転嫁、納税の実態を独自に調査し、国民に伝える「取材報道」こそ、メディアの存在価値の根幹である。そして、メディアはこうした取材報道に徹してこそ、消費税増税問題、広くは社会保障等の財源問題についてありうべき選択肢を示し、国民を熟議へと導く本来の任務を果たせるのである。

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被災者に寄り添う報道とはなにか(2012年1月2日)

新年のごあいさつ
 
 皆さまそれぞれに、日本中が揺れ動いた2011年の記憶を留めながら新しい年をお迎えのことと思います。月並みではありますが、皆さまには実り多い1年をお過ごし下さいますようお祈りいたします。
 このブログを始めたのは2006213日。それから6年が経過しました。昨年は1年間で43の記事を掲載しましたが、後半は更新が滞りがちでした。今年はマイペースとはいえ、ムラの少ない頻度で更新をしていきたいと思っています。どうか、よろしくお願いいたします。

「明るい話題」を追いかける被災地報道への疑問
 311以降のNHKの震災報道(夜7時のニュースやその前の首都圏ネットワークなど)をみてきて感じるのは、「被災者に寄り添う」というフレーズで、人気タレントが被災地を慰問したニュースや各地で被災者を励ます催しが行われたニュースに何度も接したことである。私も被災者に寄り添おうとする善意や「自分にできることを実行する」市民の姿を軽んじるつもりは毛頭ない。しかし、メディアがそうした「善意」に感情移入し、「明るい話題」、「ほほえましい話題」さがしに努める状況には強い違和感を覚える。
 というのも、被災者に寄り添うというなら、被災者の非日常的な一過性の話題ではなく、今の被災者が日々直面している重い現実、つまり、元の生活に戻れるのか、それとも新しい地で生活の基盤(住まい、職業、子どもの学校など)を築き直すことになるのか、について具体的な展望を探る番組こそが求められていると思うからである。

 そして、元の生活拠点に戻って生活を再建するのであれば、放射能除染の目途はどうなるのか、その際の死活問題になっている汚染物質の仮置き場の確保、最終処分の方法と工程づくりに行政はどう取り組んでいるのかを追跡する取材報道が求められるはずである。政府が掲げた冷温停止状態にこぎつけるという目標にメディアまでが照準を当て、政府発表を右から左へ流すだけの報道ではメディアの役割を果たしたことにならず、それでは真に被災者に寄り添う報道とは程遠いものである。
 また、元の住まいに戻ることを断念し、新しい生活の拠点を確保てし、そこで生活の再建を図るのであれば、新しい住まいの確保、職探しへの国や自治体の支援はどうなっているのか、当面、各地に散り散りになった避難者へ被災地の行政情報が滞りなく届けられているのか、子どもの転校は円滑に進んでいるのか、ばらばらになった家族が行き来するための経費や生活環境の激変に起因する健康被害の治療についても迅速に補償がされる仕組みができているのか――考え出せば、メディアが追跡すべき課題が山積していることが分かるはずである。

 被災者への精神的励ましを軽視するものでは決してないが、ストレスなどの健康被害もその原因と考えられる先の見えない避難生活をどう打開するのかという生活実態を直視することなく、いっときの被災者激励のイベントを追いかける報道では、真の被災者支援にならないことに思いを致さなければならない。
 
 以下では、元の地に戻ってか、新しい地でか、を問わず、被災者が生活を再建する上で必須の条件になっている被害補償のあり方を考えてみたい。なぜなら、メディアが被災者を励ます「明るい話題」を追いかける一方で、被災者にとって生活再建にもっとも切実な被害補償の現実と進捗状況をメディアはほとんど伝えていないからである。

4
人分を書くのに15時間
 
~被災者の根負けを誘導するかのような分厚い補償金請求書類~
 
 東京電力は昨年912日から福島第1、第2原発事故被害者のうち、仮払金を支払った人々に対し、補償金請求に必要な書類一式の発送を行った。しかし、書類は60ページ、それとは別の説明書は160ページに上るうえに、表現も難解で書類を受け取った被災者の評判は頗る悪い。そのせいか、事故発生時から昨年8月までの損害分を対象にした第一次請求の提出は昨年11月末時点で、書類を送った約7万件の3割強(約22400件)にとどまり、うち東電との間で合意に至ったのは約1,560件(計34億円)で発送件数の約2%に過ぎない(『河北新報』20111226日)。

 同じ『河北新報』の20111226日の記事(焦点/東電の損害賠償請求書/「多い、難解」被害者悲鳴)は、南相馬市で農業を営んでいたIさん一家(7人家族)に依頼して実際に請求書を書いてもらったところ、4人分の避難生活に係る補償金請求を書き終えるのに15時間かかったという。その間、東電のコールセンタ-に問い合わせの電話を7回、毎回避難生活の状況を説明するため15分以上かかったという。それから数日後、Iさんが今度は南相馬市の自宅での生活にかかる被害補償の請求書を記入したところ、8時間かかったという。その際、問題は時間の長さだけでなく、精神的損害の請求が避難生活をした場合に限られ、自宅にとどまった場合は請求が認められない点にIさん家族は強い不満を訴えたことも記されている。

メディアが伝えない損害賠償請求の盲点
~日弁連の注意喚起~
 東電が公表した損害賠償請求手続については請求書の説明書類が膨大で、被災者に大きな負担を強いる点については、メディアも報道をするにはした。しかし、それは請求書が発送された時の一過性の報道にとどまり、その後、請求手続がどのように改められたのかを追跡した報道はほとんどなされていない。まして、請求の範囲、損害の証明方法等にみられた問題点は全くといってよいほど伝えられていない。被災者にとって生活再建のための必須の条件である損害賠償にはだかるこうした問題についての入念な取材報道を怠ったメディアが国民個々の善意から生まれる「明るい話題」探しに奔走する様は、「被災者に寄り添う」報道の安直さを如実に示している。

 メディアが「被災者に寄り添う」報道を心掛けるというなら、東電に対する原発被害の損賠賠償請求に関して被災者に立ちはだかる問題点を被災者はもとより、広く全国の国民に具体的に伝え、関心を喚起するよう努めるべきである。その際、東電に対する原発被害の損賠賠償請求に関して被災者に立ちはだかる問題点を知る上で、昨年9月以降、日弁連が会長声明の形で公表した以下のような一連の見解が非常に参考になる。

東京電力株式会社が公表した損害賠償基準に関する会長明(日連:2011年9月2日)

東京電力株式会社が行う原発事故被害者への損害賠償手続に関する会長声明(日弁連:2011年9月16日)

東京電力福島第一、第二原子力発電所事故における避難区域外の避難者に対する損害賠償に関する会長声明(日弁連:2011年9月30日)

東京電力福島第一、第二原子力発電所事故における避難区域外の避難者及び居住者に対する損害賠償に関する指針についての会長声(日弁連:2011年12月2日)
 
 これら一連の日弁連会長声明の中で私が特に重要と考えた点を摘記しておきたい。

1
請求を認めるべき損害の範囲について(その1
  昨年830日に東電が発表した損害賠償基準は賠償請求する被害額を(1)避難生活による精神的損害、(2)避難、帰宅費用、(3)医療費など生命、身体に関わる損害、(4)失業、休業による減収の補償、(5)放射性物質検査費、等に区分しているが、畜産農家にとって死活の問題である牛肉の放射性セシウム汚染に対する補償を認めるべきとの指摘、また、観光業とは違って、解約や予約控えといった形で被害を捉えられない小売業や外食産業等については、過去数年の売上げと利益の実績に基づいて損害額を算定することがより公平である、と指摘していること。

2.
請求を認めるべき損害の範囲について(その2
 
子どもや妊産婦の安全を考えて避難対象とされた区域以外の地域からも多くの人々が自主的に避難をし、それが長期化している実態に照らして、これら自主的避難者にも賠償請求を認めるべき、との指摘をしていること。

3
請求を認めるべき損害の範囲について(その3
 避難区域等にとどまって生活を続けてきた住民も、原子力発電所事故に伴う社会的混乱の中で多くの生活上の不利益を受け、放射性物質により汚染されている可能性のある地域で将来の健康上の不安などを抱えて生活することを余儀なくされているのであるから、避難区域等にとどまって生活を続けてきた住民の精神的損害も賠償請求を可能とするべきである、と指摘していること。

4損害を証明する書類の整備について
 緊急の避難や避難先の移動を迫られるなどの理由により、東電が求めるような損害を証明する資料を整えることが困難な被災者が請求を断念して泣き寝入りすることがないよう、こうした被災者に対して、東京電力の窓口への相談のみに頼るのではなく、各地の弁護士会に相談をするよう呼び掛けていること。また、各弁護士会が作成している「原子力災害被災者・記録ノート」を紹介し、これを活用するよう呼び掛けていること。
  原子力災害被災者・記録ノート

5
東電が提出を求めた賠償請求書ならびに合意書を提出することへの注意喚起
 東電が合意書を添えて提出を求めている請求書は複雑な書式になっており、請求漏れが起こったり、他の救済手段が採れなくなったりする恐れがあるという注記を被災者に喚起し、賠償額に不満あるいは疑念があるときには、安易に合意書に署名せず、原子力損害賠償紛争解決センターへの申立てや裁判所に対して訴訟を提起するなど他の手段も検討するよう呼び掛けていること。

 以上は、東電福島原発事故による被災者の生活再建にかかる損賠賠償に限定した問題点とそれに対処するために日弁連が発表した声明を紹介したものである。当然のことながら、これとは別に、津波によって生活の基盤を根こそぎ失ったり、地震によって家屋の被害を蒙るなどした人々の生活再建に不可欠な災害からの復旧・復興のための国・地方自治体の施策の具体化とその進捗状況を持続的に調査報道することもメディアに求められる役割であることはいうまでもない。

 繰返していうが、メディアに求められる「被災者に寄り添う」報道とは、被災者を和ませ、勇気づける「明るい話題」を追い求め、伝えることが主ではない。被災者が切実に求める生活再建の前途に立ちはだかる課題を調査報道で追跡し、掘り下げて国民に伝えること、それをとおして、被災者の生活再建の展望を具体的実体的に示すことこそ、メディアに求められる本来の使命であると私は思う。

2012 元旦に近くの神社に出かけた帰り道で。ウメは昨夏、体力が衰え、散歩の足取りも弱々しくなって気をもんだが、秋以降は元気を取り戻して、ご覧のような様子で年を越すことができた。

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『エレーヌ・ベールの日記』~ナチス占領下パリの生き地獄の渦中で(2)~

 この記事をお読みいただく方々へ
 2つ前の記事「ナチス占領下のパリで~映画『サラの鍵』」をあわせてお読みいただけると幸いです。
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-a3cd.html

人間の良心へのひとすじの信頼
 
 そんな生き地獄を目の当たりにしながらもエレーヌは人間の良心を彷彿とさせる光景も見逃さなかった。

 「庶民は素晴らしい。ユダヤ人と同棲していた労働者の女性がたくさんいるという。彼女たちは全員、夫が強制移送されないように結婚を申し出た。」(1942718日、105ページ)

 「レー夫人から情報を得た。自殺したのはメッツゲ―ルという名のフランス人。ラ・ボール(注:ロワール地方の大西洋に面した保養地)を去らなかったために、妻と娘といっしょに捕まった。妻と娘は強制移送となった。ドランシーに残った彼(63歳)は後悔してひどく自分を責め、頸動脈を切った。
 今朝、とても若い女性と面会した。父親は六カ月前、母親は一ヶ月前に強制移送された上に、つい最近、七ヶ月の赤ちゃんが死んでしまった。彼女は、ドイツ人のために働くのを拒否した。承諾すれば、母親が釈放されたかもしれないにもかかわらず。わたしは感心した。それでもときおり、道徳的信条の絶対的価値をほとんど疑ってしまう。みんな、それを歪曲するか、あるいは死をもって答えるから。」(194296日、132133ページ。下線は引用に当たって追加)

義務を盾に残虐行為への加担を釈明する愚鈍への怒り
 しかし、良心への信頼とはいって、上の日記の下線部分にあるように、エレーヌの日記は、特に10ヶ月ぶりに再開した1943825日以降の日記には、内なる良心に対する自律的義務を没却し、強制された義務には従うほかないという口上でナチスの残虐行為に加担する(密告も含め)フランス人の愚鈍に対する怒り、周りの人間の辛い体験に無関心を装うフランス人に対する失望と怒りで埋め尽くされている。
 たとえば、彼女は1943119日の日記にこう書き留めている。

 
 「乳母にあずけられた2歳の赤ちゃんを、収容所に入れるために逮捕しに行けという命令にしたがった憲兵たち。これこそ愚鈍に陥り、道徳意識を完全に失ったわたしたちの状況を示す、もっとも嘆かわしい証拠ではないか。それが絶望的なのだ。
 そんな行為のできる人たちは異常な人間であるはずなのに、こうして憤慨するわたしのほうが例外なのだと気づくのは、なんと絶望的なことだろうか。
 これもまた、コーエン夫人の抗議に対して答えた刑事の話と同じだ。210日の夜、刑事は孤児院に13人の子どもを逮捕しに来た。いちばん年長の子は13歳、いちばん幼い子は5歳だった(彼らの両親は強制収容所送りになったか、行方不明。でも、翌日1000人を強制移送するために『いくらか』補充しなくてはならなかったのだ)。『仕方ありませんよ、マダム。義務なんですから!』
 良心とは無関係に、正義、善意、慈悲とは無関係に義務というものを考えるようになったなんて、それはわたしたちのいわゆる『文明』が空虚である証拠だ。」(1943119日、215216ページ)

 しかし、彼女は周りの人間への不信を募らせただけではない。道徳的信条の絶対的価値に対する懐疑に揺れる心情を直截に記し、かつ、そこで逡巡しない鋭利な理性を必死に研ぎ澄まそうと自分に言い聞かせる言葉を綴っている。たとえば、1943825日の日記には、「無駄」という感覚に陥りかける自分に次のように問い返している。

 「無駄? そしてまた、ときおり、これらすべては無駄だという感覚は、無気力と怠惰のひとつのかたちにすぎないのではないか? なぜかというと、これらすべての理屈の前に、ひとつの大きな理由がそびえ立つからだ。その有効性をわたしが確信すれば、決め手になる理由。つまり、わたしは書くことによって義務を果たさなくてはならないということ。なぜなら、他の人たちも知るべきだから。他の人たちは知らないーー彼ら以外の人々の苦しみ、ある者たちが別の者たちに加えている害悪のことなど思いもよらないのだという気がつく、なんとも辛い体験が一日じゅう、毎時間、繰返される。そしてわたしはいつも、語るという、この苦しい努力をしようとする。なぜなら、それは義務だから。わたしが果たせる、おそらく唯一の義務だから。世の中には、知っていて目をつぶる人々がいる。そういう人たちを説得することはできないだろう。彼らは無情で利己主義だから。そしてわたしには権威がないから。でも他の人たち、今は知らないけれども、理解できる思いやりをもちあわせている人たちに対して、わたしは働きかけなくてはならない。
 というのも、人間の腐った部分をまず、すべて明らかにすることから始めずに、どうやって人類を救えるのだろうか?行われている悪の大きさを社会に自覚させないことには、世界は浄化できないのではないか。」
1943825日、166167ページ)
 

教条主義的な群れへの安住ではなく、不安から生まれる苦悶の中で生きる
 また、日記には、苦難から逃げる教条主義的なスローガンを拒み、不安から生まれる苦悩と向き合って生き抜くことを誓った『チボー家の人々』の一節を書き留めた記述がある。

 「自分の個性という気むずかしい重荷は、捨ててしまいたくなるものだ! 集団の熱狂という広大な動きの中に、つい自分も組み入れられたくなるものなのだ! 信じたくなる、そうするほうが便利で、この上なく居心地がいいから! (・・・・)進むべき道が混乱していればいるほど、人はその混乱からなんとしても抜け出そうとして、自分を安心させてくれ、導いてくれるおしきせの教義を受け入れやすい。自分ひとりでは解決できないさまざまな問いかけに対して、ほぼもっともらしい答えがあれば、それらはみな、逃げ場のように思える。(・・・・)抵抗せよ、命令的なスローガンを拒むのだ! うっかり彼らの群れに組み入れられてはならない! 教条主義者たちがあらゆる『仲間たち』に提供してくれる怠惰な精神的安重より、不安から生まれる苦悶のほうがずっとましなのだ!」(19431030日、205206ページ)

 さらに、ナチス占領下で友愛と人間の共感を黙殺し、偽善的な慈悲の世界に逃げ込むキリスト教徒にも鋭い抗議の矢を放っている。
 
 「自分の中にあるドアが閉ざされているために、知っているのに認識できず、理解できない――そのドアが開かれれば、ただ知っていたことの一部がようやく実感できるようになる。これが今の時代の巨大な悲劇なのだ。苦しんでいる人々のことを知る者は、誰もいない。
 そして、わたしは思った。友愛と人間の共感というものをまさに黙殺するこの人々に、キリスト教の慈愛について語ることができるのだろうか、と。彼らに、自分はキリスト教の教えを正式に受け継いだ人間だと主張する権利があるのだろうか? 人間の平等と友愛に基づいた教義を説いたキリストは、世界で最も偉大な社会主義者だったのに。彼らには友愛とは何かさえ、わかっていない。そう、慈悲は知っていても、偽善的に与える。慈悲とはほとんどいつでも、その人の優位と尊大な見方を意味するから。彼らが与えるべきなのは慈悲ではなくて、理解なのだ。理解できたら、他者の動かせない苦悩の奥深さ、これらの仕打ちの恐るべき不公平を感じることができて、それに対して憤慨するだろう。」(19431112日、218219ページ)

レジスタンスの栄光に隠されたフランス政権のナチスへの恭順

 ナチス占領下のフランスというと、対独戦争に勝利したという事実の前で、対独レジスタンス運動の栄光が語り継がれるのが通例である。しかし、『エレーヌ・ベールの日記』を読むと、あるいは映画『サラの鍵』の予告を読むと、フランス市民に与えられるそうした栄光の陰で、当時のフランス政権がナチス・ドイツに自国のユダヤ人を売り渡すという恥辱の現実があったことが忘れられてきた。本書の訳者あとがきによると、フランスから各地の強制収容所に送られたユダヤ系の人々のうち、生還できたのは2,566人で移送者のわずか約3%だった。
 フランス政府が自らの手によってユダヤ人を迫害し虐殺したことに対する国家の罪を認めたのは1995年のシラク大統領の演説だった。ドゴール、ポンピドー、ミッテランら歴代大統領はポンピドーの言葉を借りると、「すべてのフランス人が互いに愛し合っていたわけではない」時代についての論議を終わりにすることを望み、国民に幻想を抱かせるやり方で国民的和解を図ろうとしたのである。
 しかし、「犠牲者の記憶は死刑執行人の記憶より長く保持されるもの」であり、「故意の欠落や嘘が歴史において勝ち誇ることはない」(以上、ジャン・F・フォルジュ/高橋武智訳『21世紀の子どもたちに、アウシュビッツをいかに教えるか?』(2000年、作品社、36ページ)のである。

 生と死の狭間に置かれた一人の女性が「生き延びる行為として」綴ったこの日記には言葉を無に帰されたすべての人々の無念と一縷の希望が託されている。私は、周りの人々の政治問題や社会問題に対する「無関心の壁」に苦闘する人々にも、周りからの政治問題・社会問題への働きかけを疎ましく思う人々にも、作者エレーヌ・ベールからこの日記を託された彼女の婚約者パトリック・モディアノが記した序文の末尾の言葉を知らせたいと思う。

 「彼女は日記を綴った。彼女は遠い未来、それが人々に読まれるという予感を抱いただろうか? それとも、何の軌跡も残さずに虐殺された何百万もの人々と同じように、自分の声がかき消されることを恐れていたのだろうか? この本の入り口に来た今、黙ってエレーヌの声を聞き、彼女の傍らを歩かなくてはいけない。その声と存在はこれからずっと、私たちの人生に付き添っていくだろう。」

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