2008年5月14日 (水)

鳳仙花二題――植民地韓国の辛酸と自国独立への希望を託した歌

 植民地支配下の朝鮮人の痛恨と独立への希望を託した「鳳仙花」
 NHK教育テレビ(一部総合テレビ)で放送される「名曲アルバム」を10年ほど前からよく聴いている。この34年はNHKのホームページに解題付きで掲載される「今月の放送曲目」を印刷し、録画予約をするのが習慣になった。各曲にまつわるエピソード、歴史的背景を説明した字幕付きの映像を見ながら曲を聴くのは音声だけ聴く場合とは一味違った趣がある。夫婦で出かけたウイーンやプラハなどの風景が映るときは、旅の思い出がよみがえり会話がはずむ。
 この5月の放送曲目の中では「鳳仙花」(作曲 洪蘭坡/編曲 金子仁美/演奏 北原幸男<指揮>、NHK交響楽団/映像 ソウル)の美しいメロディと作曲者洪蘭坡の生い立ちに惹きつけられた。

 洪蘭坡(ホン・ナンパ。18971941年)は韓国の「楽聖」と呼ばれた同国の近代音楽の先駆的作曲家であるが、バイオリン演奏、評論も手がけた人物でもある。1917年から東京音楽学校で学んでいたが、31独立運動を機に帰国し、独立運動に参加した。帰国後、彼は「哀愁」という題の曲を作り、声楽家、金享俊(キム・ヒョンジュン)が5年後にこれに詩をつけたのが「鳳仙花」だった。表向きは鳳仙花の四季のうつろいを詠んだ歌であるが、実際は、日本の植民地支配で祖国を滅ぼされた朝鮮人の哀切を、秋風に花を散らせ、北風に吹きつけられる鳳仙花の悲しげな姿に託すとともに、のどかな春風の季節に蘇る鳳仙花になぞらえて祖国の独立を夢みる朝鮮人の希望を代弁した歌である。メロディはこの詩にふさわしく、静かな哀切調の中に、自国の独立、人間としての尊厳を固持しようとする朝鮮人の強靭な意思をにじませて実に美しい。

 洪蘭坡の苦難の生涯
 しかし、「鳳仙花」の成り立ちを調べていくにつれ、この歌は作曲者、洪蘭坡の苦難の生涯と切り離して語ることはできないと悟った。名曲アルバムも映像の字幕で紹介していたが、日本の官憲は鳳仙花の歌詞に込められた抗日・祖国独立の隠喩を嗅ぎつけ、洪蘭坡を日本の朝鮮支配に抵抗する危険人物と見なして日常的に監視し出した。その圧力に耐えかねた彼は1941年、43歳の若さで他界した。太平洋戦争開戦の3か月前だった。

 しかし、洪蘭坡を死においやった理由はこうした官憲の監視による精神的肉体的疲弊だけではなかったと考えられる。彼は日本軍国主義による朝鮮統治が頂点に達した時期に日本に強要されて数編の軍歌を作曲するとともに、京城放送管弦楽団の指揮者として「皇国精神にかえれ」、「愛馬進軍歌」、「太平洋行進曲」など日本の軍歌を指揮・演奏した。音楽活動を通じて朝鮮民族の痛恨と誇りを代弁しようとした彼にとって、こうした反民族的行為への服従がいかに耐えがたい残忍なものであったか、想像を絶する。

 後世、韓国内では洪蘭坡のこうした日本軍国主義への「協力」行動を理由に彼を「親日派」に加える動きがある。たとえば、韓国民族問題研究所は本年4月に「親日人名辞典」に掲載するリストを改訂するにあたり、洪蘭坡を親日派のリストに加えた。これについて『朝鮮日報』は本年51日の紙面に「親日・反日の尺度では量りきれない歴史」と題する社説を掲げ、次のように記している。

  「しかし日帝が朝鮮を支配した1910年から45年までの36年間、この地で生きた朝鮮人の数多くの人生を、親日と反日の二分法で区分するにはあまりにも事情が複雑だ。日帝時代に青年から壮年の時期を過ごした世代は、洪蘭坡(ホン・ナンパ)が作曲した数百の韓国歌曲、中でも『成仏寺の夜』『鳳仙花』などを口ずさみながら、国を失った民の悲しみと悲哀を骨身に染みて痛感し、祖国を取り戻さなければならないという思いを新たにしていた。もちろん洪蘭坡 は日本による統治が最悪の状況に至った当時、日本に強要された数編の軍歌も作曲した。現在は独立した国である大韓民国で心穏やかに日々を過ごしているわれわれが、あたかも批評や論評でも加えるかのように、洪蘭坡に対して『親日派』のレッテルを貼っていいものだろうか。・・・・・親日派リストを発表した当事者たちが、あの過酷だった植民地時代を生き抜き、『自らに対しては霜柱のように、他人に対しては春風のように対せよ』という『持己秋霜 待人春風』の姿勢を持っていたなら、今回のような行いをすることは決してなかっただろう。」

 もうひとつの「鳳仙花」
 ――在日二世の哀切と憤怒を歌った李正子――
 洪蘭坡の「鳳仙花」について調べている中で、李正子の歌集『鳳仙花のうた』があることを知った。私が読んだのは、磯貝治良・黒古一夫編『<在日>文学全集17巻 詩歌集Ⅰ』勉誠出版、2006年に収録されたものである。この歌集には、李正子の別の歌集『ナグネタリョン―永遠の旅人』も収録されている。

 巻末の年譜によると、李正子(イ・チョンジャ)は1947年に三重県上野市に生まれた在日韓国人二世である。中学生の時に短歌に出会い、20歳の頃から「朝日歌壇」に投稿をしていた。その後、上野市で喫茶店を営む傍ら、近藤芳美が主宰する「未来」の同人として作歌に打ち込んだ。『鳳仙花(ポンソナ)のうた』(雁書館)は彼女が37歳の1984年に刊行された第一歌集である。第二歌集の『ナグネタリョン―永遠の旅人』(河出書房新社)が刊行されたのはそれから7年後の1991年だった。収録された歌はどれも彼女の生い立ちが投影し、植民地時代の朝鮮人が日本軍国主義から受けたつめ跡と哀切が随所にほとばしり出ている。また、他者の痛みをいまなお感受できない日本人への抑えがたい怒りが噴出した歌もちりばめられている。以下、数首を書き出しておきたい。

 替えられし弁当の砂に額伏せて食(は)めばたちまち喚声あがる
 喚声にかこまれて食(は)む砂の粒声こらえつつ地を這うわれは
 泣きぬれて文盲の母を責めたりき幼かりし日の参観日のわれ
 国籍の壁越え得ねば去る君の弱さが憎しじっと目を伏す
 隠滅のはてに還らぬ慰安婦ら朝鮮おみなと知れば哀しく
 誰が為に征(ゆ)きて還らず鮮人の兵に国なく慰めもなく
 臨時休業の札かけ見知らぬ町へゆく広き優しき海を見むため
 あきらめることも生き方とゆき戻るわれの歩みを波が消しゆく
 日本の男はみな卑怯者弱虫と日本のおとこのみ愛して知りぬ
 世界史に残しおくレジスタンス「三・一」いま暴動と記され傷む


 今回、「名曲アルバム」で放映されたのを機縁に二つの「鳳仙花」を知った。どちらの鳳仙花にも日本軍国主義が朝鮮半島で侵した戦争犯罪が今日まで朝鮮人の心身に残した深いつめ跡への直視を迫るものだった。それだけに、一人の日本人として李正子の歌に背筋を正される思いがしたのである。

 侵略戦争語らず詫びず恥じるなく戦後を了(お)えて日本は強し
 ひとりよがりの平和うたがうこともなく四十二年は日本人のもの

(追記)
洪蘭坡作曲「鳳仙花」(ホン・ナンパ)は523日(金)55分からNHK教育テレビ「名曲アルバム」で再度放送される。この記事をご覧いただいた方はぜひ視聴していただきたいと思う。

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2008年4月18日 (金)

デザインを変える

 このブログを始めて22か月が経ったのを機にデザインを変えた。それに合わせて、本文のスペースを広げるため、左右2列のマイリストを右側一列に改めた。これからも多少ともオリジナルな情報、意見を発信していきたいと思う。また、アクセスしてくださった方々に和んでいただけるような楽しい記事も掲載したいと思う。
 
楠の木は残った

 下の写真は、昨年、みなとみらい線の「日本大通り」駅のそばにある「放送ライブラリー」で調べものをするため、泊まりかけで横浜へ出かけた折に立ち寄った「横浜開港資料館」の「玉楠の木」の写真である。横浜開港資料館は英国領事館跡地の建物であるが、その中庭に茂る「玉楠の木」は1854年に来航したペリーに随行した画家ハイネが残した絵に描かれていることから、当時すでに存在していたとされる。その後、1866年に関内地区を襲った大火、1923年の関東大震災、そして第2次大戦中の横浜大空襲と歴史上の惨事をしのいで生き延びた。特に、関東大震災の時は、樹形が変わるほど焼失したが、どうにか残った根から芽を出して再生したという。その生命力に思いをはせながら、中庭のベンチでしばし足を休めた。

横浜開港資料館にある「玉楠の木」

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犬の生死を分ける5日間

 昨夜、夕食時、連れ合いから「毎日の夕刊に犬の記事が出ているよ」と教えられた。ページを追うと「ペットブームの残酷」というタイトルよりも、物悲しげにカメラの方を見つめる犬の大きな写真が目に飛び込んだ。千葉県富里市にある千葉動物愛護センターの収容棟に入れられた犬の運命の5日間を取材した佐々木順一記者の文・写真だった。記事によると、2006年度に千葉県で捕獲・収容された捨て犬や迷子犬は4,970頭、処分依頼で引き取ったのが2,446頭だった。これらの犬は毎日一部屋ずつ右へ移動しながら5日間、これまでの飼い主あるいは新しい飼い主が現れるのを待つ。5日間経っても引き取り手がなければ殺処分される運命にある。先の7,216頭に前年度捕獲分20頭を加えた7,236頭のうち、それまでの飼い主への返還が609頭、新しい飼い主の引き取りが576頭だったという。2006年度収容分でいうと86.3%が殺処分されたことになる。

  「収容室で泣き叫ぶようにほえる犬とは対照的におとなしく座る雑種の中型犬と目が合った。何か言いたげに愛らしいまなざしで私を見つめる。幼さが残る顔から放たれるその視線に胸が締め付けられた。」

と佐々木記者は記している。私には、「捨て犬」と「処分依頼」を区別する基準、理由が分からなかった。事情やむを得ない引っ越し等のために飼えなくなる場合があることは想像できる。しかし、犬が飼い主を選んだわけでなく、飼い主が犬を選んだことは間違いない。飼うのも自由だが捨てるのも自由では犬はいたたまれない。

飼い主に寄り掛かるウメ

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2008年4月16日 (水)

歴史の荒波を生き抜いたプラハの人々~NHK世界遺産の旅 チェコ・プラハ編をみて~

 412日夜、NHK総合で放送された「世界遺産の旅 奇跡の美 街に宿る不屈の心~チェコ・プラハ~」を録画に撮り、食後のひとときにみた。画面に現れたプラハの街の各所は2003年秋に夫婦で出かけた所でもあり、山根基世さんの気さくなリポートで進んだこの番組を感慨深く終わりまで観た。ご覧になれなかった方、見過ごされた方は、次のとおり再放送が予定されているので、ぜひ、ご覧いだけたらと思う。
 417日(木)   330 413
 418日(金) 16051648
 http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cardr108.html

 人形はプラハの言語を守った命綱

 プラハは「建築博物館の街」といわれるだけあって、完成までに長年月が費やされた由緒ある建築物が点在する。プラハ城内にある聖ヴィ-ト大聖堂は現在のゴシック様式に改築されるまでに実に600年を要したという。プラハ市博物館に所蔵されている1873年当時の市街地の模型は11年がかりで歩いて街を回り、歩幅で距離を測って製作したという。

 しかし、長い時間を経過したのは建築物だけではない。番組では、プラハの歴史遺産を守り抜くために一つの仕事に長年月打ち込んできた人々の姿も紹介していた。中でも国立マリオネット劇場を拠点とする人形劇団の中には52年間劇団のメンバーとして仕事を続けている人がいた。ほかにも、49年間、30年間、28年間、劇団で活動しているという人々が紹介された。
 チェコにとって人形劇は「文化の命綱」といわれている。そのわけは、チェコを支配したハプスブルグ家あるいはドイツ軍がドイツ語を公用語として強制したことから、チェコ語が忘れ去られようとした時期に劇団はチェコ語を使った人形劇を各地で公演し、母国語を守る砦になったからである。
 また、人形を売る店の若い店員は腹話術を交えて操り人形を動かしてみせた後、「人形は単なるおもちゃではなく、自分の気持ちを表現する手段」と語ったのが印象的だった。

 歴史の荒波を生き抜いたプラハの歌手、マルタ・クビショヴァ

 番組全体を通して私がもっとも感銘を受けたのは激動の歴史を生き抜いたプラハ人の象徴ともいえる女性歌手、マルタ・クビショヴァさんが
3度、登場した場面だった。

 最初の場面は、チェコで進みつつあった自由化の波(「プラハの春」)に危機感を抱いたソ連軍率いるワルシャワ条約機構軍が1968820日にチェコに侵攻した時だった。番組では侵攻軍を惑わすため、市内の標識を取り外す一方、帰ってほしい行先(モスクワなど)だけ残す若者の姿を映していた。しかし、プラハを武力で制圧した侵攻軍は放送局も占拠した。そこで、市民は工場の地下に秘密のラジオ局を設けて放送を流した。その時、人々の耳に聞こえてきたのは当時、デビュ-曲「マルタの祈り」が大ヒットしていた人気歌手、マルタ・クビショヴァの歌声だった。しかし、地下のラジオ局も閉鎖され、ソ連の影響を受けた共産党政権が成立すると、マルタ・クビショヴァは歌の世界から永久追放され、レコードはすべて廃棄されてしまった。

 次に、番組の中でマルタ・クビショヴァさんが登場したのは、秘密警察が幅を聞かせた共産党一党支配に対する市民の批判が噴出したいわゆる「ビロード革命」の時だった。1989年、学生の抗議行動に端を発し50万人のデモにふくれ上がった民衆の力で一滴の血も流さず共産党一党独裁政権に終止符を打った喜びに沸きかえる広場の正面の建物のバルコニーに20年ぶりに姿を現わしたマルタ・クビショヴァはあの「マルタの祈り」を歌いあげたのだった。20年間、歌の世界から追放された彼女は内職で生活をしのいできたという。長い苦難の生活のせいか、やつれてはいたが、逆境を生き抜いた強靭な知性を彷彿とさせる場面は感動的だった。

「祖国の自由」への意思を込めて
~マルタ・クビショヴァが歌ったもう1つの「ヘイ・ジュード」~


 マルタ・クビショヴァさんが最後に登場したのは番組が終わりに近づいた時だった。山根さんが、ぜひ出かけたいといって足を運んだのはマルタさんが常連で歌っているというライブハウスだった。小さな舞台に登場したマルタさんが歌ったのは、ビートルズが歌った「ヘイ・ジュード」の歌詞を替えた歌だった。後で調べて見つけた日本語訳の最後の
2つの節を書き出しておく。
http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/d4a9ce618371d1d908587900069f289e を参照。)

 あなたはこっちへ 私は向こうへ歩き出す
 でも ジュード あなたと遠くはなれても
 心はあなたのそばに行ける
 今 私はなす事もなく あなたの歌を聴く自分を恥じて いる
 神様私を裁いてください
 私はあなたのように歌う勇気がない

 ジュード あなたは知っている
 口がヒリヒリ 石をかむようなつらさを
 あなたの口から きれいに聞こえてくる歌は
 不幸の裏にある「真実」を教えてくれる

 これも後で調べてわかったことだが、この曲は1969年、プラハの春の時期にレコ-ディングされた。マルタ・クビショヴァは「ジュード=祖国の自由」という意味を込めて、この歌をアルバムの最後に入れた。しかし、レコードが売り出される頃、ソ連軍の武力侵攻で「プラハの春」は挫折し、それ以来、マルタさんはこの歌を歌う機会に恵まれなかった。そのためか、ビロード革命の後、カレル大学に招かれたマルタさんは学生たちからこの歌をリクエストされたが、「長い間歌っていないので〔歌詞に〕自信がない」というと、学生たちは「僕らは(何度も歌って)知っている。教えますから」と答えたという。

 不条理な迫害に屈せず苦しい時代を生き抜いたマルタ・クビショヴァ、そして彼女の強靭な意思に応えたプラハの人々――番組はこうした感動のドラマを見事に描き切っていた。

(追記)20011月、NHK総合で「世紀を刻んだ歌:ヘイ・ジュード~革命のシンボルとなった名曲」というタイトルの番組が放送された。しかし、残念ながら私は見損なった。NHKアーカイブスにも入っていないようだ。

プラハの思い出のアルバムから


 以下、番組を見ながら思い出に耽ったプラハの街並みのアルバムの中からいくつかを載せておきたい。

上から順に、
1.人出でにぎわう旧市街広場
 (向かいの建物の2階にあるカフェ・ミレナから撮影。カ  フカの恋人の名を冠したカフェと聞いて入った。)
2.プラハ城正面玄関広場での観閲式
3.プラハ城内の大統領府がある聖十字礼拝堂
4.プラハ城からみおろした街並み
5.国立博物館からみたヴァツーラ広場の遠景
6.悠然と流れるヴァルタヴァ川
7.旧市街広場でボヘミアの踊りに興じる人々
8.旧市街広場で並んだ出店(焼き菓子店)
9.カレル橋

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2008年4月14日 (月)

ジャーナリズムとしてのNHK――その過去・現在・未来――

 さる44日夜、NHK問題京都連絡会主催の集会で「ジャ-ナリズムとしてのNHK――その過去・現在・未来――」と題して講演をさせてもらった。ジャ-ナリズムの門外漢の私におこがましいタイトルではあったが、大正15年に社団法人日本放送協会として設立されて以来、NHKが戦中、戦後、どこまでジャ-ナリズムたりえたかをNHK編集の放送史や専門文献を調べて私なりに整理してみた。それは放送史への関心からというよりは、NHKの国際放送を国策広報に変質させる動きがNHKのおひざ元の古森重隆経営委員長の言動として顕在化したというにとどまらず、NHKの外国人向け国際放送を「ソフトパワ-」と称して国家の情報戦略に組み入れ、国家イメ-ジ改善に活用しようとする動きが総務省作の「uJAPAN」政策として推進されようとしているからである。

 そこで、限られた関係者の間でしか知られていない、こうした情報国家戦略を視野に入れてNHKの国際放送、ひいては国内放送も含むNHKの放送全体の将来を展望する参考資料になればと考え、拙い内容ではあるが、京都での講演のレジメ(一部割愛)をこのブログに掲載することにした。以下はそのPDF版である。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/nhk_as_journalism20080404_in_kyoto.pdf

 全体の構成を概観していただくために、以下、目次を書き出しておく。

 「ジャ-ナリズムとしてのNHK――その過去・現在・未来――」

1
.国益を背負う国際放送――ジャ-ナリズムの終わりの始まり――
 11 古森発言の問題点
 12 古森発言の背景――国際放送のソフトパワ-論に要注意――
 13 国益を背負うことはジャ-ナリズムとしての公共放送の死を意味する
  (参考)スポーツの自立、国際親善を損なう国益――瀬古利彦と荻村伊智朗の国歌・国旗観――
 14 「要請」(命令)放送と放送の自主自律は両立しない

2
.「国策」にどう向き合うか――ジャ-ナリズムとしてのNHKの分岐点――
 21 NHKの宿罪としての国益
 22 国家の命令機関、公示機関としての放送(満州事変以降)
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