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安全を脅かす整備の海外委託―日本航空の安全性問題を考える(2)―

整備の海外委託を容認した規制緩和
 運航乗務員、整備士、航空管制官などが参加する「航空安全推進連絡会議」(以下、「航空安全会議」と略す)は、「2005年民間航空の安全確保に関する要望書」を国交省に提出した。その中で、同会議はボーイング社が推奨していた「信頼性管理型」の機材整備方式は「実際に不具合が発生するまでは、状況の監視、追跡に頼り、大事に至った時だけ手直ししようとする後手に回る発想」であり、「人命を預かる航空機においてはなじまない」と指摘し、航空機整備は本来「予防整備主体」であるべきと提言している。こうした整備の哲学を踏襲すると、4、5年間隔で機材を分解手入れする「重整備」が重要な意味を持つ。
 ところが、わが国政府は、航空機のいわば「人間ドック」ともいうべき重整備も効率性追求のための規制緩和の遡上にのせ、1994年6月の航空法改定にあたって海外整備工場への重整備の委託を可とした。これを受けて、日航は中国アモイのTAECO社やシンガポールのSASCO社などへ重整備の発注を拡大していった。同社の『有価証券報告書』で2002年3月期まで開示された「事業費明細表」にもとづいて、整備の外注化の趨勢を示したのが表1である。

                 表1 日本航空における整備の外注率
                 
                整備費/事業費合計    外注費/直接整備費
     1991年3月期       12.5%             19.4%
     1992年3月期       12.9%             21.9%
     1993年3月期       12.2%             28.7%
     1994年3月期       11.4%             25.9%
     1995年3月期       11.3%             24.3%
     1996年3月期       11.0%             27.8%
     1997年3月期       10.3%             28.8%
     1998年3月期       10.5%             29.9%
     1999年3月期       11.2%             28.5%
     2000年3月期       11.1%             30.0%
     2001年3月期       11.0%             34.3%
     2002年3月期       12.0%             37.1%
 (注1)『有価証券報告書』より作成。親会社単独ベースの数値。日本航空は2003年3月期から事業費明細表を開示していないため、それ以降の外注費は不明)
 (注2)日本航空は整備費を「直接整備費」と「間接整備費」に区分し、前者の内訳として「外注費」を開示している。

海外委託による自社整備の空洞化
 表1から日航の外注率の時系列の趨勢を見ると、2002年3月期には1991年3月期の約2倍になり、絶対水準でも37%に達している。ただ、表1の外注費は国内の子会社等への委託と海外委託を込みにした数値なので、これだけでは海外委託のウェイトはわからない。委託先の国内外別に整備委託費を開示した資料は見当たらなかったが、国内航空各社が会員になっている定期航空協会が2003年6月19日に自由民主党内の国土交通部会・航空対策特別委員会航空小委員会宛に提出した説明資料(標題は「航空会社の経営合理化状況」)に、総工数ベースで見た機体整備(ドック部門)の実施場所別データが次のとおり示されている。

         表2 わが国航空各社の機体整備の実施場所の分布
                            1990年度   2002年度        
            自社整備             56%      26%     
            委託(グル-プ内)        38%            40%     
            外注                   6%            34% 
  

 そして、この資料の側注では、主な外注先はTAECO社、SASCO社、タイ航空で、これら各社における整備コストは本邦社の約1/3の水準であったこと、その結果、1990年度から2002年にかけて、外注化の拡大で135億円のコスト削減効果があったと記されている。ここからも、整備の外注、特に海外委託は整備費削減の見地から拡大されたことは明らかである。実際、前出の表1で示した日航の事業費合計に占める整備費の割合を見ると、1991年3月期には12.5%であったのが、一時は10%台にまで下がり、2002年3月期にどうにか12%台まで戻っている。  

 しかし、こうした整備の海外委託の拡大(国内整備も分社化された子会社、下請化された整備会社への委託が拡大)は裏を返せば、自社整備の空洞化を意味した。前記の航空安全会議の要望書によると、日航ではこの10年近く自社の整備員は採用されず、MD11型機の重整備を自社で実施したことは一度もないという。また、運航整備も世界の10空港に委託されているばかりか、委託先に日本人整備員はいない。こうした際限のない自社整備の空洞化の行き着く先はというと日航では中期事業計画どおりに進めば、2009年度には正社員の整備士はゼロになる、といわれている。

安全性を脅かす海外整備の実態
 問題は海外の委託先での整備の実態である。これについて、前記の航空安全会議の要望書は、次のような指摘をし、重整備の海外委託を早急に止める指導をするよう国交省に要望している(以下は摘記)。
 ①日航では、海外委託先での整備を完了して帰着した航空機を就航前に整備すると、20~30項目の不具合がある。
 ②全日空では、帰着後2~3日、就航前整備を実施している。
 ③TAECO社は2003年4月以降、6機並行で他エアラインの整備も実施している。そのため、同社の整備員が受注エアライン別に(委託社の個別の要求に合うよう)検査の目を変え得るというのは、ほとんどありえなくなっている。

 現に、例えば、
 ・ 2002年7月17日、SASCO社で整備を終えて日本へ回航中の日航B747機が離陸1時間後に航空燃料が噴出する事故を起した。その後の調査によると、燃料補給口の蓋が噴出していた。
 ・ 2003年2月3日、日航B747型機において4ヶ所で旅客用出入り口ドアの開閉の安全ピンが取り付けられたままになっていることが発見された。その後の調査によると、原因は前年4月にSASCO社で整備を実施した時に取り外すのを忘れていたためと推定された。
 ・ 2003年3月11日、SASCO社で重整備(実施期間、1月末~2月14日)したJA8180機がアンカレッジ空港で異常を発見した。調査で、防錆塗装の上にキリコがあったことから、機体に損傷をつけ、「不正修理」をした上で、その記録を残さなかったのではないかという疑いが持たれた(日航機長組合NEWS、17-210)。
 
 もっとも、整備にまつわる不安材料は海外委託に限ったことではない。航空安全会議の指摘によると、例えば、日航が国内での出発確認行為を委託しているJALNAMはパートタイム整備士にこの行為を行わせているが、短時間勤務のため最新情報が入りにくく、アップデートな教育ができていないという。

人事抗争ではなく、安全性問題に切り込む調査報道を
 
整備の海外委託や別会社委託は、安全運航にとっての短期的な懸念材料になるだけではない。長期的な視野で見た場合、自社整備の縮小は社内での技能の蓄積と伝授を困難にし、整備の専門性の低下は整備士としてのモチベーションの劣化につながる。
 従来、安全性への投資は業績向上とトレードオフ(二律背反)の関係にあるものとみなされてきた。しかし、トラブルが続発する日航から他社への乗客のシフトが起こっているのをみるにつけ、航空業界にとって運航の安全性は今や利用者を呼び戻す重要な競争力要因となっていることがわかる。
 ところが、わが国の多くのメディアは、目下の日航が抱える問題を人事抗争劇に歪曲し、その帰趨に焦点を当てて当事者を追いかける「どたばた報道」に終始している。しかし、今回の日航問題の発端になったのは相次ぐ運航上のトラブルの問題だったはずである。この核心に迫る冷静な調査報道に立ち返ることが社会の木鐸としてのメディアに強く求められている。
 
      

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御巣鷹の誓いはどこへ―日本航空の安全性問題を考える(1)―

安全性問題を正視して

 日本航空の内紛騒動をめぐってワイドショ-ばりの報道があふれている。私のところへも、同社と機長組合の裁判にかかわったというだけで、この一週間、週刊誌や某テレビ・ニュース番組から取材の仲介依頼が来た。しかし、問題の発端が、同社の航空機の相次ぐトラブル、それに起因すると見られる乗客離れだったことを正視して、問題の核心を掘り下げることが求められる。この記事では、日本航空の航空機の安全性に直結する機体整備の実態について、私が確かめた知見を記すことにしたい。

風化する安全の誓い

 1985812日、日航ジャンボ機ボーイング747SR100が群馬県御巣鷹の尾根に墜落して520名の犠牲者を出した。墜落の原因は特定されなかったが、この惨事を機に日航は機材の安全性確保のためにいくつかの改善策を講じた。なかでも、日航は事故までの約20年間、ボーイング社が推奨した信頼性整備方式(定期的な分解手入れをせず、定期的な点検・試験ないしは実際に発生じた不具合に関する情報の解析によって随時、部品の交換や修理等、必要な処置を行う方式)を採用していたが、御巣鷹山事故を機に747機について定例整備(45年間隔で行われる大規模な機体の構造検査・改修など。重整備とも言われる)を導入し、整備の自社主義を謳った。

 しかし、事故から10年経った頃から、機材整備に関する政府の規制緩和政策もあいまって、日航の整備に関する考え方は大きく転換してきた。その象徴ともいえるのは、次回、やや詳しく説明する重整備の海外委託である。しかし、それ以外にも、コスト削減を図るための整備の「簡素化」が次々と打ち出された。例えば、

 1. 御巣鷹山事故の後、日航は当時の最高経営会議の方針として、機材の安全性を高めるために航空機ごとに担当整備士を配置する機付整備士制度を導入した。しかし、2003年、日航経営者は限られた人員と部品を有効に使うと称してこの制度を廃止した。

 2. JALグル-プが昨年3月に発表した向こう3年間の中期経営計画では、これまでそれぞれの専門性の違いにもとづいて、機体整備部門と運航整備部門が分れていたのを、両方の整備ができるよう改めることにした。

 3. このほか、御巣鷹山事故以後も、海外メーカーの検査指針を鵜呑みにした定期検査がなお続いている。例えば、昨年8月に日航の子会社、JALウェイズのDC10型機が福岡空港を離陸直後にエンジンの異常燃焼が発生し、大量の金属片が落下するという事故が起こった。このエンジンの製造元の米国プラット・アンド・ホイットニー社は2500時間に1回の割合で定期検査を指示していた。しかし、このトラブルが前回検査から2292時間後に起きたものだったことから考ええると、ホイットニー社の指針には安全性に問題があったことになる。なお、日航は国交省の指導もあって、昨年8月以降は検査期間を1250時間間隔に、今年の2月からは1000時間間隔に短縮している。

整備の現場の声

 2004223日付で発行された航空労組連絡会の『航空連ニュース』No.169に、「安全アンケートからみた整備現場」というデータが掲載されている。そこで集計された整備ミス・インシデントの分類によると、「人員不足」(121件)、「規程違反」(105件)、「確認不足」(76件)、「時間的制約・定時出発率」(62件)が上位に並んでいる。これらは程度の差はあれ、どれも人為ミスといえるものばかりである。

また、このアンケートには、「発見した故障を、出発に支障がない様に時期をずらして発見したことにしたり、見ぬふりをした」、「交換部品の在庫が無い為ダメなものもOKにせざるを得なかった」、「欠航になってもおかしくない故障を、そのままにして定刻に出したことが賞賛される風潮はおかしい」といった声が寄せられたことも紹介されている。

これでは、御巣鷹山事故で尊い命を奪われた520人の人々とその遺族の無念の思いは報われようがない。

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茨木のり子さんの詩との出会い

訃報
 一昨夜、パソコンに向かった仕事の小休止のときにWEBニュースを開くと、茨木のり子さんの訃報が流れていた。西東京市の自宅の寝室でなくなっておられるのを訪れた親戚が見つけたとのこと。その後のニュースによると、6年前に心臓の大動脈破裂に見舞われ、一命をとりとめたものの、一人暮らしで療養中だったそうだ。

童話屋で
 私と茨木さんの詩との出会いは、1995年1月15日の『朝日新聞』の書評欄で、茨木さんの詩集『一本の茎の上に』を河合史夫さんが取り上げていたのを見たときだった。その中で、引用されていた「自分の感受性くらい」にしばし釘付けにされ、これはただの詩人ではないと直感した。すぐに、河合さん宛に、この詩が収められている書名を尋ねるハガキを出した。すると、数日後に、童話屋から出版された『おんなのことば』という詞華集に入っているという返事をもらった。さっそく童話屋へ電話をして渋谷駅からの道順を教えてもらい、駒場で講義をすませた帰り道、立ち寄った。
 想像に反して、『おんなのことば』はポケットに入るほどの小さな詩集で、ピンク色の装丁はちょっと気恥ずかしいくらいだった。ちなみに、昨日、童話屋の場所を思い出したくて電話をすると、渋谷の書店は1997年に閉めて、今は杉並区で出版業に専念しているとのことだった。

講義アンケート
 以来、私は、『自分の感受性くらい』(花神社、1977年)、『うたの心に生きた人々』(ちくま文庫、1994年)、『一本の茎の上に』(筑摩書房、1994年)、『茨木のり子詩集』(思潮社、1969年)、『倚りかからず』筑摩書房、1999年)などを読んだ。まだ、自前の教科書を持っていなかった頃、気の向くままに読んだ文学作品の中で印象に残った一節を余白に書き込んだ講義用資料を駒場の教室でよく配ったものだった。そのときに書き込んだ作品といえば、森鴎外、芥川龍之介、坂口安吾、高見順などだったが、茨木さんの作品からも「自分の感受性くらい」など数編を選んだ。
 隔年担当の講義の最終回には受講生に講義アンケートをしたが、配った用紙の末尾の感想・意見欄には、講義についての感想のほかに、余白に書き付けた一こまの作品についての感想を記した受講生が十数名いた。その中には、「これが会計学とどう関係あるのですか」といった詰問調の意見や、「なんでそんなに暗い詩歌ばかり集めるのか。もっと明るくできないのか」といった拒否反応も見受けられた。しかし、こうした反応はある程度は予想したことだった。それよりも意外だったのは、「せっかく、いい作品を紹介したのだから、講義の中で触れてもよかったのに」、「毎回、若々しい詩歌を楽しませてもらった」といった感想がかなりあったことだ。目にとめてくれればいい、というぐらいのつもりで余技のように試みたことに、思いのほか反応があったことに報われた気がした。

教科書のエピローグに
 その後、講義資料に加筆して、自前の教科書『会計学講義』を東大出版会から出したとき、上記の余白で紹介した作品を各章のエピローグとして再録することにした。茨木さんの作品からは、上記の「自分の感受性くらい」とともに、『茨木のり子詩集』に収められた次の詩を採録した。

   世界に別れを告げる日に/ひとは一生をふりかえって
   じぶんが本当に生きた日が/あまりにすくなかったことに
   驚くだろう
   指折り数えるほどしかない/その日々の中の一つには
   恋人との最初の一瞥の/するどい閃光などもまじっているだろう

 『会計学講義』の初版を出版したのは1999年だったが、その後、第2版を出版するとき、東大出版会の編集担当のIさんに向かって、エピローグに採録したい作品のことをあれこれ話しかけると、「先生、そんなことは後でいいですから、早く本文の原稿を出してくださいよ」と言い返されたのが懐かしい。
 それはともかく、2001年に第2版を出すとき、エピローグに採録する茨木さんの作品のひとつを、『倚りかからず』に収められた次の詩に入れ替えた。

   もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない
   もはや/できあいの宗教には倚りかかりたくない
   もはや/できあいの学問には倚りかかりたくない
   もはや/できあいの権威には倚りかかりたくない
   ながく生きて/心底学んだのはそれぐらい

無頼派詩人 
もうひとつ、私にとっての茨木さんを記しておきたい。東大出版会は毎年、PR誌『UP』の4月号に「東大教師が新入生にすすめる本」という特集を掲載しているが、2000年のこの特集に私も執筆することになった。といっても、専攻の会計学関連の書物は全く取り上げず、経済学の書物2点のほかは、無頼派を共通項にした3冊ーー坂口安吾『教祖の文学/不良少年とキリスト』(講談社文芸文庫)、窪島誠一郎『無言館ー戦没画学生「祈りの絵」』(講談社)と茨木のり子『倚りかからず』ーーを選んだ。そして、茨木さんのこの詩集の中から、次の作品を引用したあと、門外漢も顧みず、このような詩を書きつけた茨木のり子は稀有な女性「無頼派」詩人であると記した。

   なぜ国歌など/・・・・・・口を拭って起立して
   直立不動でうたわなければならないか
   きかなければならないか
   私は立たない 座っています

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通信と放送の融合はバラ色か?

パブリックなオーディエンス不在の融合論
 「通信と放送の融合」が流行語になっている。しかし、「融合」とはいっても、放送業界やメディア関係者は、一般にこの議論に冷淡で、今のところ通信業界の「片思い」の感がある。私が気になるのは、この融合論が、産業界の思惑、少数の通信技術のプロの思い入れ、あるいは通信と放送の縦割り行政・法体系の是正といった行政組織再編論が先行する形で展開され、それが市民社会の成員としての視聴者、利用者の意思形成にどのような影響を及ぼすのかという基本的な視点が欠落してしている点である。「ネットワーク」、「プラットホ-ム」、「コンテンツ」という各機能を通信と放送という業種ごとに垂直的に仕切ったビジネス・モデルを、業種の垣根を越えて各機能を水平的に融合させたビジネス・モデルに再編するといった議論はその標本である。

 この点で、桂敬一教授が最近の学生のレポートの書き方について、次のように指摘しているのを読んで考えさせられた。

  「・・・・・巻末に記載させる参考文献に、書冊形式の文献名の記載がめっきり少なくな
 り、代わりにデータを検索したネット・サイトのURLの記載が増加している。・・・・・それ
 も、専門データベースを当たったのならまだしも、グーグル、ヤフーなどの検索サービス
 から、ヒット数の多い情報項目を開け、使えそうな記述や資料を適当にみつけ、それら
 を自分の文章として貼り付けていく、というようなものが多くなっているのだ。」

   「ネットは個々人が好みの断片を手に入れるためのツールであってよい。だが、放送
 や新聞、雑誌の存在意義は、その社会に生活する人全体に等しく、知るべきこと、理解
 すべきことを送りつづけ、パブリックなオーディエンスを創るところにある。」(桂敬一 9.
 11総選挙以後、メディア規制のゆくえ」『出版ニュース』2006/1、上・中、12~13ペ
 ージ。)

 いまや、オン・ラインで洋雑誌のフル・テキストや各種報告書、有価証券報告書の全文を入手できることを考えると、ネット上の情報を「断片的」と言って済ませられるかは議論の余地がある。しかし、それよりも、桂教授が指摘したネット情報の私事性に私も危惧を感じる一人である。確かに、「自分が見たい情報や番組を見たいときに選んで見る」というスタイルは自分の趣向を重んじ、フレキシブルな生活様式を好む若者世代には受け容れられやすい。

他者との応答経験をはぐくむ公共メディア
 しかし、「自らの言葉が他者によって受けとめられ、応答されるという経験は、誰にとっても生きていくための基本的な経験であ」(斎藤純一『公共性』岩波書店、2000年、15ページ)り、「他者の思考に触れ、それによって現代の思考習慣が動揺するとき、私たちの思考は始まる」(斎藤純一、同上書、26ページ)のだとしたら、ネット上での1対1形式の情報検索、番組視聴が言論の公共圏を担うメディアの代替物となり得ないことは明らかである。

 イギリスではサッチャー政権時代に、同首相の諮問を受けたピーコック委員会が、視聴者が見たい番組だけを個々に対価を払って見る有料契約方式(subscription)が消費者主権にかなっているとし、BBCがしかるべき時期にこの財源方式に移行するよう勧告した(これについては、蓑葉信弘『BBC パブリック・サービス放送の伝統』東信堂、2002年、参照)。しかし、その後の英国政府もBBCも、「ユニバーサル原則」に反するとしてこの方式を採用しなかった。わが国では最近、規制改革・民間開放推進会議や総務省内に設置された懇談会でNHKにスクランブル化を導入するよう促す議論が台頭している。今のところ、NHKは正副会長がBBCと同様、スクランブル化に踏み切れば公共放送ではなくなる、と反対の姿勢を明確にしているが、サーバー型放送の導入には前向きの方針を示している。

社会連帯システムとしての受信料制度
 私は、こうした1対1の有料契約方式の受けのよさに流されて、公共放送が担ってきた役割を軽んじる政策には強い疑義を覚える。むしろ、有料契約方式との対比で受信料制度が持つ次のような役割を再評価することが、通信と放送の融合を議論する上で不可決であると思う。つまり、受信料制度は平たくいうと、「自分が見たい番組に低廉なコストでアクセスできるよう、他人が拠出した財源に頼る反面、他人も自分が見たい番組に低廉なコストでアクセスできるよう、財源を拠出するという社会連帯のシステムだという点である。これによって、放送法がいう多様な番組の制作・放送が可能になる。また、各視聴者が特定の事業主体に財源をプールし、番組制作を委託することによって、視聴者誰もが市民社会の成員としての見識と思考力をはぐくむ知見、情報に触れる共通体験を可能にする。もちろん、委託とはいっても、公共放送の経営・番組編成と事後の評価に視聴者が主体的に参加する制度を取り入れることも重要である。

 「自分の老後は自分で守る」という聞こえのよいフレーズで公的年金の民営化(私的年金化)を喧伝した一部の経済学者の議論は、世代連帯の社会保障システムである社会保険方式の公的年金制度を解体へと導くものである。それと同じように、「自分が見たい番組を自分の負担で見る」という有料契約方式の放送は、上で述べた受信料制度に内在する視聴者相互の社会連帯システムを解体ないしは弱体化させると同時に、「視聴者をなじみのなかった考え方と出会わせ、偏見を打破する」(注)という公共メディアの役割をも解体させる危険性を孕んでいることを銘記しなければならない。

 (注)「英国 受信料制度を今後10年維持/市場競争には任せない」『共同通信』2006年2月7日配信記事で  紹介された、ウェストミンスター大学のステーブ・バーネット教授の言葉。

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日本の民主主義を安楽死させないために(2)

■大逆事件後の文学の三角形■

大逆事件が明治末から大正期にかけての多くの文学者の作風に地下水脈のように影響を及ぼしたことは森山重雄『大逆事件―文学作家論』(三一書房、1980年)などで詳しく解明されている。永井荷風はその一人で、「花火」の次の1節は有名である。

「明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折折市ケ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走つて行くのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云ふに云はれない厭な心持のした事はなかつた。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言はなかつた。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。
 以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに姐くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の与り知つた事ではない--否とやかく申すのは却て畏多い事だと、すまして春本や春画をかいてゐた其の瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しようと思立つたのである。

文中の「囚人馬車」とは、大逆罪で捕まった幸徳秋水ら7人を乗せた馬車のことである。荷風は黙って馬車を見送った自分に「嫌な心地がし」、そうした文学者たる自分に「甚だしき羞恥を感じた」という。そして、それ以来、自分の作品を江戸の偽作者の程度にまで下げる自虐的な作風に変わったという。

後年、平野謙は『石川啄木全集 第8巻』(筑摩書房、1978年)に寄せた一文のなかで、次のように記している。

 「いやしくも明治末年の文学者だったら、大逆事件に『稲光をあびたような』衝撃を受けなかったものはそんなにあるまい、と私は推定したいのである。・・・・・〔しかし〕、なんらかのかたちで制作にまで大逆事件の衝撃を造形化した人の方が異例だったにちがいない。・・・・・当時私の思いあたる範囲では、森鴎外と永井荷風と石川啄木とにもっとも精確な文学的反映を眺め得ると思えた。・・・・・『沈黙の塔』『食堂』を書き、『かのやうに』一運の五条秀麿ものを書き、『大塩平八郎』を書かねばならなかった森鴎外。『散柳窓夕栄』を書き、後年『花火』を書いた永井荷風。『時代閉塞の現状』を書き、『墓碑銘』を書き、『はてしなき議論の後』を書いた石川啄木。この三人はそれぞれ支配者の立場、知識人の立場、人民の立場から大逆事件とまともに組み、その資質・教養・社会的環境に応じて文学的に造形している。大逆事件をめぐる文学上の三角形として、それは今日もなお教訓的である。」

もっとも、このうち、前出の永井荷風については、「これ〔大逆事件〕を機会に、文学の大道を棄てて、江戸の戯作者見たいな態度で、世を茶化して過さうと、自卑的決心をした事が、意味あり気に伝へられてゐるが、私にはかういふ話は、お笑ひ草見たいに思はれる」(正宗白鳥)と突き放した批評をする同業者もある。これも故なき批評ではない。しかし、大逆事件について「わたしは世の文学者と共に何も言はなかつた。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた」というのは虚飾どころか、荷風の正直な心境の告白であったことは間違いない。それどころか、そうした心境を衆目に触れる作品に外形化したところに荷風の面目があったように思える。

さらにいえば、荷風をして自分の無為に羞恥心を感じさせた背景には、大逆事件を思想問題と捉え、それにコミットすることを自分たちの本分とわきまえていた明治の文学者の気骨があったのである。これが、

「このごろ明治の文学者にますます心をひかれる。作品にといより、文学者そのものに。その生き方に。文学に対する態度に。人生と文学に対する誠実に。」(『続高見順日記』第6巻、勁草書房、1965523日より)

という高見順の言葉に共感を覚えるゆえんである。

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日本の民主主義を安楽死させないために(1)

■沈黙する多数者■

先日、「『日の丸・君が代』強制反対予防訴訟をすすめる会」の会報『おしつけないで』No212006129日号)が届いた。読み始めてすぐに、弁護団長、尾山宏さんの巻頭言で紹介されていた徐京植氏の次の一文が目にとまった。

 「日本で民主主義が死のうとしている。抵抗しながら殺されるのではない。安楽死しつつあるのだ」(『新しい普遍性』影書房)

 最近相次ぐビラまき逮捕事件や憲法改正国民投票法案、共謀罪法案、そして日の丸・君が代強制の教育などをみると、日本の民主主義が危機に直面していることは間違いない。しかし、本当の危機はそれだけではない。むしろ、そうした時代逆流の動きに市民の側から良質ではあるが、まだまだ小規模な抵抗しか起こらず、それを見越すかのように権力者の側からの人権抑圧攻撃がエスカレートしていることにより深刻な危機があるように思える。

閣僚や政府首脳の口から、かつての植民地諸国の人々の痛みを冒涜するような発言が相次ぎ、ニューヨーク・タイムズからも批判を浴びる有様である。加害者(国)が自分の過去の侵略責任を問われて居直り、被害者(国)の正当な反論に逆切れして稚拙な反論をする様は、一昨年4月に人道支援、戦地取材のためにイラクに出向いた日本人が政府の対米追随外交(自衛隊派遣)のあおり受けて、家族ともども不条理な「自己責任論」を浴びせられたのと通底している。これでは日本の民主主義は安楽死しつつあるといわれてもやむを得ない。

ここで私が危惧するのは、沈黙する多数者のことである。その中には「良識派」と目される人たちも少なからず含まれている。アジアプレス・ネットワーク代表の野中章弘さんは自分が編集者の『ジャ-ナリズムの可能性』(岩波書店、2005年刊)のなかで、次のように述べている。

「結局のところ、NHKをダメにしているのは、海老沢会長個人というより『沈黙する多数者』である。海老沢前会長のような人びとはどの組織にも存在する。『沈黙する多数者』こそ、海老沢体制の最大の協力者であり、NHKの公共的な価値を空洞化させてきた責任を負う。」

 「最大の協力者」という表現には異論もあるだろう。しかし、それに反発するよりも、日本が「物言えぬ社会」に向かいつつあった時代に、知識人の言動がどのような軌跡を辿ったかを思い起こし、近頃わが国に見られる「総論賛同」「各論引きこもり」のねじれ現象を凝視する方が重要な気がする。

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ブログ立ち上げ

午後、ゼミ生の岡田君の指南で念願のブログを立ち上げた。岡田君の手際のよい作業について行けたか、一人になってからが問題。帰宅して遅めの夕食を済ませた後、今度は連れ合いのブログの立ち上げ作業を引き受ける番に。地域の知人といっしょに発行している「ミニコミ」の最近号(42号~44号)をアップするのが念願のようだった。

話は前後するが、午前中、赤門前の「大学堂」で新調のメガネのフレームとレンズを選ぶ。出来上がりは来週月曜日。帰りがけに、拡大鏡を買う。最近、辞書や決算書の細かい字を読み取るのに難儀することがあるので。

午後、吉見俊哉さんとの対談が載った『放送レポート』3月号が大学に届いた。帰宅後メールを開いたら、この対談を読んだというNHKの某氏から感想が届いていた。さっそく反響があるのはうれしい。最近、「放送の公共性」とか「言論の公共空間」とかいう言葉がよく使われるが、「公共性」の意味がいまひとつ判然としない。そんな気がしたので、先週借り出した斉藤純一『公共性』2000年、岩波書店、を読み始めた。

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