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NHKは英国の公共放送BBCから何を学ぶべきか(2)

 視聴者の信頼に支えられた受信許可料制度
 こうしたグリ-ン・ペ-パ-の結論はおおむね世論の傾向とも一致しているようである。BBC200412月に行った「支払意思調査」(’willing to pay’ research)によると、回答者の81%がBBCの番組は年間の受信許可料に見合う価値があると評価し、42%が当時の受信許可料の約2倍に当たる20ポンド(月額)を支払う意思があると回答している(3)。また、報道の内容に関する世論の信頼度はどうかというと、例えば、上記のギリガン事件について、「政府とBBCのどちらが真実を語ったか」という世論調査ではBBCを支持すると答えた人の割合は44%で、政府支持の12%を大きく上回った(『共同通信』200627日配信記事)。BBC自身もグリ-ン・ペ-パ-に対する応答文書のなかで、次のように述べて受信許可料を最善の財源として維持する意思を明確にしている(4)

  「受信許可料の基本的な強みは完全なデジタルの世界にも生き続けるだろう。新しい技術が普及することによって、将来、BBCの財源調達方法は変わり得るが、そうすることが公益にかなうわけではない。有料料金や広告料によって財源を賄うBBCは今のBBCとは全く似て非なるものである。」

  「有料放送へ移行することはBBCの公共的価値の主たる源泉の一つである普遍性(universality)の恒久的な喪失をもたらすだろう。BBCが委託した調査結果によると、有料方式の場合、収益最大化のためにBBCは月額13ポンドを請求しなければならなくなるが、それは2004年現在の受信許可料より30%高くなる。その結果、低所得層を含む相当数の視聴者が彼らが価値を認めているBBC放送の市場から排除されるだろう。」

  「他の財源調達方法と比べて、受信許可料制度は政治的商業的な影響力に対するBBCの独立性を保証する。BBCの主権者(paymasters)は政府でもなければ市場でもなく、受信許可料支払者なのである。このことは受信許可料制度がBBCと視聴者の直接的なつながりを生み出すことを意味している。」

 以上見てきたことから、BBCが政治的商業的圧力からの独立を維持する基盤として受信許可料を堅持してきたこと、視聴者もそうしたBBCに高い信頼を寄せていることが窺える。こうしたBBCに対する視聴者の信頼が、単なる理念として共鳴されたのではなく、政治的商業的圧力との闘いを実践してきたBBCの長い歴史の過程で培われたものであることを知るにつけ、NHKの言う「視聴者第一主義」が空疎なキャッチフレーズでしかないわが国との彼我の差を思い知らされる。

(注)
(1) BBCと政権との摩擦ならびに英国における受信許可
      料制度の沿革については、蓑葉信 弘『
BBC パブリ
      ック・サ-ビス放送の伝統』
2002年、東信堂;門奈
      直樹「英
BBCはいかにして受信料制度を維持したか」
      『朝日総研リポート』
200512月、を参照。

(2) これについては、蓑葉、同上書、108ページ参照。

(3) BBCPress OfficeMeasuring the Value of the BBC, 12. 10. 2004.

(4) BBC, Review of the BBC’s Royal Charter, BBC response to a strong BBC, independent of  govennment, May 2005, pp.3638.

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NHKは英国の公共放送BBCから何を学ぶべきか(1)

NHKに問われる政治的商業的圧力からの自立
 
NHKは、さる1月24日に発表したむこう3年間の新経営計画の中で「NHKの予算・事業計画の国会承認を得るにあたっても、会長以下全役職員は、放送の自主自律の堅持が、信頼される公共放送の生命線であるとの認識に基づき業務にあたります」という規律を新たに明記した。

4年前、ETV番組が政治家の介入で改ざんされたきっかけになったのがNHK予算の事前説明をめぐってNHK幹部と国会議員が接触した場面だった。このことを考えると、新経営計画に明記された上記の規律は注目に値する。しかし、問題はこれがいかに実行されるのかである。

そこで、今回は、『現代思想』20063月号に発表した拙稿「公共放送における受信料制度の意義」の2節に加除・編集をして、英国の公共放送BBCが政治的商業的圧力からの独立のためにいかに腐心してきたかをまとめた。

英国公共放送の財源方式をめぐる議論の歴史
 イギリスの公共放送、英国放送公社(BBC)はテレビ所有者から徴収する受信許可料(licence fee)で全収入の99.2%をまかなっている(BBC Annual Report, 20042005)。しかし、BBCにとって受信許可料制度は常に安定した財源であったわけではない。1927年の設立以来、BBC10年ごとに国王から特許状を受けるという形で放送免許を更新しなければならなかった。そのため、BBCは時の政権のメディア戦略からの牽制・影響を免れなかった。サッチャ-政権時代、「BBC嫌い」で知られた同首相は受信許可料を「刑事罰によって強制された人頭税」と批判し、BBCへの広告料導入論に火をつけた。また、同首相の諮問によって設置されたピ-コック委員会は1986年にまとめた報告書の中でBBCを視聴率競争に追いやるという理由で広告料の導入は退けたが、視聴者が見たい番組だけを個々に対価を払って見る有料契約方式(subscription)が消費者主権に適うとし、しかるべき時期にこの方式に移行するよう提言した。

しかし、こうした時の政権との確執にも拘わらず、受信許可料制度は依然としてBBCの財源調達方式として幅広い支持を得ている。ここでは、その象徴ともいえる20053月に英国文化・メディア・スポ-ツ省が公表したBBCに関する政府提案(グリ-ン・ペ-パ-)『強いBBC:政府からの独立』(1)の中の「財源」の項を見ておきたい。


3つの財源方式の比較検討
 グリ-ン・ペ-パ-は向こう10年間のBBCの財源として3つの選択肢の長短を検討している。
 一つは政府からの交付金(
Government funding)である。この方法であれば、受信許可料の短所とされる逆進性(定額であることから低所得層ほど相対的に負担が重くなる仕組み)が緩和されるというメリットはある。しかし、この場合、BBCは政府に財布の紐(purse strings)を握られ、政府からの独立を脅かされる。また、BBCの予算が2年ごとの政府予算の査定に組み込まれる結果、財政の安定性が損なわれるという根本的な問題を免れない。こうした理由でグリ-ン・ペ-パ-は政府交付金方式を退けた。

 第2の財源調達方式は広告料方式(Advertising and sponsorship)である。この案が浮上したのは上記のとおりサッチャ-政権時代であるが、広告料導入論は同首相の個人的な思いつきかというとそうではなく、1985年にBBCが受信許可料の3度目の値上げを申請したことへの反発が背景にあった。選挙区の有権者の値上げ反対の声に押されて労働党のある議員が国会に提出したBBCへの広告料導入法案は否決されたとはいえ40%を超える賛成票を得た(2)。しかし、グリ-ン・ペ-パ-はこの方式も支持しなかった。その理由を次のように述べている。

  「BBCが広告を採用するのを支持することは困難である。当諮問委員会が行った調査では、BBCへの広告料導入に対しては公衆から極めて激しい反対があった。60%の回答者は、広告は番組を楽しむ上での妨げになると述べた(31%はそれに不同意)。つまり、広告がないということがBBCの根幹的で顕著な特色と知覚されているのである。・・・・・」

  「また、広告料はBBCの動機と摩擦を生み出す。なぜなら、公共目的を満たすという要請が収益を生み出す必要性と比較考量されなければならなくからである。・・・・・我々が集約した52%の回答者は、広告料やスポンサーに依存することになったらBBCは独立性を失うとみなしている。」

 グリ-ン・ペ-パ-が検討した第3の財源調達方式は有料契約方式(Subscription)である。サッチャ-政権時代に設置されたピーコック委員会が、しかるべき時期にBBCがこの方式に移行するよう推奨したことは前記のとおりであるが、グリ-ン・ペ-パ-は以下の理由でこの方式も支持しなかった。

  「有料契約方式は原則上の重大な問題を引き起こす。この財源調達方式に対する主な反対論はユニバーサル・アクセスの原則を損なうということである。〔この方式のもとでは〕BBCの番組はもはや自由に使えるものではなくなる。・・・・・いったん料金を支払えば自由にサービスを得ることができるが、・・・・契約をしないことにした低所得層の視聴覚者はBBCの番組から排除される。もし、番組を誰もが公平に利用できないとしたら、その番組の社会に対する潜在的利益は減じられる。」

 以上3つの財源調達方式を検討した結果、グリ-ン・ペ-パ-は受信許可料制度が逆進性を持つ点、徴収にコストがかかり過ぎている点を問題と指摘しながらも、以下の理由から、向こう10年間、この制度を継続するよう提言した。

  「他の代替的方式と比較した結果、我々は予見可能な将来にわたって受信許可料制度を最善の財源調達方式として継続するのが望ましいと感じる。」「多くの回答者は受信許可料はその貨幣的価値と比べものにならない価値をもたらしていると語った。受信許可料制度の支持者に共通する議論の一つはこの制度がすべての世帯を対等のステークホールダーとして(as equal stakeholdersBBCにつなぎとめるということであった。」


  「視聴者はBBCがユニバーサル・サービスを続けることを望んでいる。彼らはまた、受信許可料の価値はBBCを政府とは一定の距離(at arm’s length)に置き、財源を拠出する公衆とは緊密にさせる点にあるとみなしている。」

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NHK受信料督促ホットラインを開設

 NHK4月以降、準備が整い次第、受信料不払い者に対して裁判所を通じた支払い督促を行うと公言している。
 
政治からの自立にせよ、受信料の不正使用の再発防止にせよ、失われた信頼を取り戻すための具体的な改革を行動で示さないまま、裁判所を使った支払い督促をちらつかせて、威嚇的に支払い再開を誘導しようとするNHKの手法は愚行というほかない。
 
このところ、私たち「NHK受信料支払い停止運動の会」には、E・メールや電話、郵便でこうしたNHKの姑息なやり方に対する怒りの声が数多く寄せられている。しかし、その一方で、支払い督促の予告に不安を感じた人たちからの問い合わせも増えている。

 そこで、私たちの会は明日、327日(月)から42日(日)まで、電話・FAXによる「NHK受信料督促ホットライン」を設けることにした。
 
幸い、NHK問題に取り組んでいる弁護士グル-プの中の4名の方の協力も得て、準備が整った。『共同通信』はすでに、この「ホットライン開設」のニュースを配信した。
 
そこで、このブログでも「ホットライン」の広報文を以下に転載する。これをご欄になった方々が転送・転載などの方法で広報にご協力いただけたら嬉しい。

     〔NHK受信料督促ホットライン実施要領〕

  NHK受信料支払い停止運動の会

開設日時:2006年3月27日(月)~4月2日(日)
         
19:00~21:00
電話番号:048-873-3520(FAX兼用)
     上
記の時間外はFAX、留守電で対応
受付け内容:
    ・NHKが行なう受信料支払い督促についての
     談・対応の仕方等

    ・専用電話による対応の他、場合によっては弁護
     士
等専門家への相談・紹介

なお、ホットライン終了後は会の常設電話として使用する予定です。

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本多勝一さんとのひととき/個を立てるということ

 支払い拒否40年

 昨日、神田三崎町にある『金曜日』の編集部で『週刊金曜日』の編集委員でもある本多勝一さんと受信料支払い拒否をめぐって対談をした。この企画をコ-ディネ-トされた同誌副編集長の伊田浩之さんが同席され進行役を務められた。

 初対面の本多さんに出会う前、「私は40年前から支払い拒否をしている。あなたとは年季が違う。納得したら支払いを再開するなんて甘い」と言われたら、どう答えようかと少し身構えていた。しかし、お目にかかった本多さんは想像に反して物静かで、私の言うことに聞き入っておられる時間が多かった。

現政権の広報機関

対談の模様は近く『週刊金曜日』に掲載されるそうなので、ここでは触れない。ただ、一つだけ、この日、私が話したことで、忘れないうちに書きとめておきたいと思うことがある。それをここで記しておきたい。それは本多さんがご自身の支払い拒否のいきさつを語られた中で、NHKはいつも現政権の広報機関だと語気を強めて話されたのに応じて話したことだった。

  「私もNHKの夜7時のニュ-スの話題選択の偏向を強く感じています。もともと、7時のニュースは限られた時間枠に入れる話題を選ぶのに苦労しているはずです。にもかかわらず、宮里藍と大リーグは戦績にかかわりなく指定枠かのように放送されます。その結果、視聴者に伝えるべきニュースがどれほど外されているのだろうかと考えることがよくあります。

   その上、先日のWBCの模様を伝えるニュースを見ていたら、小坂文相、小泉首相がマイクに向かって優勝を賞賛する場面が流れました。限られた時間を割いて、スポーツ・ニュースに閣僚を登場させる必要があるのかという思いです。しかも、『今回は多くの国民が日本というものを意識したと思う』と語る小坂文相の発言まで流していました。このあたりは、かりに政治家がそういう発言をしたとしても、番組制作のところで外すぐらいの見識がなぜないのでしょうか?」

 「支払い拒否」と「支払い停止」

 伊田さんから対談の話を聞いたとき、私は「本多さんの『支払い拒否の論理』と私たちの会の『支払い停止運動の論理』はだいぶ中身が違いますが、いいんですね?」と念を押した。時の政権におもねるNHKの体質に厳しい批判を向ける点では私は本多さんと変わりはない。

 しかし、「『公共放送』というアテにならぬ看板で実は時の政権の広報放送にすぎぬNHKなど、受信料拒否で死に体とさせ、真に独立したジャーナリズム精神によるニュース中心の放送局を創るべきだろう」(本多勝一「NHK受信料を拒否して40年」、『NHKの正体 受信料支払い拒否の論理』週刊金曜日別冊ブックレット、200548日号増刊、84ペ-ジ)という本多さんの結論には同意といかない。NHKを解体した後に、どのような公共放送をどういう人的スタッフと財源で創り出せるのか、そのしっかりした展望を描くのは容易なことではないと思うからである。

黄色いノート

 ところで、本多さんはこの日、対談を始めるときから、1冊のノートをテーブルに広げて、たびたびページをめくり、目を通しておられた。そして、私が支払い停止運動の抱負を話し出したとき、うなずきながら、ノートに切り貼りされた文書の一節を読み始められた。驚いたことに、それは私たち「NHK受信料支払い停止運動の会」がこの3月5日に発表した「NHK新経営計画に関する私たちの見解」の一節で、そこには赤字のアンダーラインが引かれていた。

  「NHKが権力を不断に監視し、視聴者の知る権利に応えるとともに、豊かな放送文化を育むという立場から、偏狭な市場主義に抗していくなら、私たちはそれを支援していくことをためらうものではないことを明言します。」

 「これなんですよ」――本多さんのこの一言がこの日の対談で一番私の印象に残った言葉であり、場面だった。いまどき、ノートに新聞記事や文書のコピーを貼りつけたりする人に出会うことはまずない。帰りの電車のなかで、私は黙々とあの黄色く変色したノートに目を通す本多さんの姿を思い浮かべ、「いったい、いつから使っているノートなのだろう」と考え込んだ。そしてまた、本多さんの「支払い拒否」と私たちの「支払い停止」がどれほど隔たっているものなのかということも考えさせられた。

 個を立てるということ

 ただこれだけは確かだと思うのは、今、公共放送のあり方をめぐって問われているのは究極的にはNHKというよりは視聴者自身だということである。「お隣が払っていないから」といって支払いを止めた人は、裁判所の名前を使った支払い督促で牽制されると、「それなら」と支払いを再開する人ではないか? 「個を立てる」という言葉の重みを考えさせられる。この点で、本多勝一さんがNHKの視聴者の中の先駆者であったことは間違いなさそうだ。

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取材源秘匿をめぐる判決が問いかけるもの

対極的な判決

 新聞記者の取材源秘匿に関して東京地裁と東京高裁が正反対の判決を下したことが大きな話題になっている。

簡略にいうと、東京地裁の判断(314日判決)は、報道機関が公務員から守秘義務違反となるような情報を得た場合、「裁判所が〔取材源の証言〕拒否を認めることは犯罪行為の隠ぺいに加担するに等しい」、守秘義務のかかる情報については「公衆は適法な〔知る〕権利を有していない」というもの。

これに対して、東京高裁の判断(317日判決)は、「取材源に国家公務員法違反の行為を要請する結果になるとしても、ただちに取材活動が違法となることはないし、社会的公共的な価値のために取材源を秘匿する必要が相応に認められる」というもの。

直接には、民事法廷で報道機関が取材源をどこまで秘匿できるかに関する判断の違いであるが、それ以前に、報道機関は公務員から守秘義務がかかった情報を聞き出すことができるかどうかに関する見解の違いが絡んでいることがわかる。

取材源の秘匿で保護しようとする利益は何か?

しかし、私が最も重要と思うのは、どのような利益を保護するために取材源の秘匿を認めるのか認めないのかという点である。これについて、東京地裁判決は、記者が取材源を明かすよう求められることによって取材がしにくくなるとしたら、それは「公務員の守秘義務違反がなくなったことを意味し、法秩序の観点からは歓迎すべき事柄」とみなした。

他方、東京高裁判決は、「保護すべき利益は、証言によって深刻な影響を被り、以降その遂行が困難になる報道機関の取材活動上の利益」であるとみなした。

つまり、東京地裁判決は「法秩序の維持」という利益の保護に重きを置いたのに対して、東京高裁は「取材活動上の利益の保護」を優先する考え方を採用したのである。この違いこそ、今回の2つの判決で注目すべき点である。

取材源秘匿は「安全港」ではなく、権力と対峙する武器

しかし、取材源秘匿は報道機関に報道被害の責任追及を逃れる「安全港」を与えるものでなければ、取材源の利益を保護することを究極の目的にしたものでもない。これについて、東京高裁は、「報道機関の取材活動は、民主主義社会の存立に不可欠な国民の『知る権利』に奉仕する価値ある活動である」と指摘している。つまり、取材源の秘匿をはじめとする取材活動上の利益は、それ自体に守るべき価値があるから保護するのではなく、市民の知る権利に応えるという報道機関の使命を首尾よく遂行するために不可決だからこそ保護されるのである。

この意味では、東京高裁判決は報道機関を免責したというよりも、報道機関に改めて重い使命を自覚するよう促したと受け止めることが肝要である。

報道機関は取材の自由をまっとうに駆使しているか?

2つの判決が出揃った317日、日本新聞協会と民放連は緊急声明を発表した。そのなかで次のように述べている。

  「われわれは、権力の行使者としての公務員から直接、政策の決定過程、事件捜査の状況などに関する『真実』の情報を得る努力を重ねている。それが、権力監視というジャーナリズムの根源的使命と考えるからだ。

  今回の決定で、公務員が記者と接触することに臆病になり、その結果、国民が必要とする情報の流通が阻害され、公益性の高い内部通報なども激減してしまうことを強く懸念する。」

 なかなか格調の高い声明文ではある。しかし、例えば、戦時性暴力(いわゆる「従軍慰安婦」)の問題を取り上げたNHKのETV番組の制作過程に政治が介入した問題について日本の報道機関は「真実の情報を得る努力」をなにほど重ねたというのか?

この問題を報道した『朝日新聞』に対して、政治的圧力をかけたと名指しされた安倍晋三氏や中川昭一氏が逆切れして、朝日新聞社や取材記者に露骨な攻撃を繰り返しても、他の報道機関は独自の調査取材をするではなく、「朝日vsNHK」、「朝日vs安倍・中川」という図式で他人事のような報道を続けた。これでは、臆病なのは取材対象ではなく報道機関自身ではないのか?

また、安倍氏らが朝日新聞社に取材の過程を明かすよう迫ったとき、他の報道機関は「権力監視というジャーナリズムの根源的使命」を掲げて、こうした要求を拒否する共同行動を起こしただろうか?

報道機関にとって「報道の自由」はわが身を守るための盾ではなく、権力の腐敗、横暴に迫るための武器であることを自覚し、行動でそれを示すことができるのかどうか――今回の2つの判決はこのことを問いかけているのである。
 それにしても、報道機関が権力監視というジャ-ナリズムの根源的使命をどこまで果たしているかを市民が監視しなければならない時勢でもあると感じるこのごろである。

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醍醐ゼミのホームページ開設

 私が担当する学生ゼミのホームページが、ようやく開設された。このブログの左側のマイリスト欄の「こちらもどうぞ」にリンクしているが、URLは下記。
 http://www2.e.u-tokyo.ac.jp/~daigo/home.html 
 
管理人O君の尽力に感謝している。コンテンツはまだ寂しいが、今後、ゼミ生主体で充実していくことと思う。

 目下、ご覧いただきたいのは、PROFILEに掲載された4年生の卒業論文(全文掲載)である。昨夏から約半年かけて(中には3年生のときの研究テーマを引き継いで)、毎週の演習の時間に順次中間報告をし、全員で議論をしてきた。提出前2週間ほどは、3~4回書き直した。といっても、Word文書で随時、保存、削除、挿入ができる今の時代は、ミスをするたびに一から原稿用紙に書き直した私の学生時代とは隔世の感がある。

 近く、3年生がゼミ論文をまとめるので、それもアップする予定である。ゼミのOBとの交流の場としても、このホームページが活用されることを願っている。

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メディアが伝えなかった警察の不作為―ヤミ金自殺事件の報道に思うこと―

5回も相談を受けながら、動かなかった警察

去る7日、大阪府警など合同捜査本部は、20036月、大阪府八尾市で夫婦ら3人が、ヤミ金融業者の脅迫的な取り立てに悩んだ末、JR線路上にしゃがみ込み、心中した事件に関係したヤミ金グル-プの6人を(再)逮捕した。

38日の各紙朝刊はこの事件を社会面で大きく報道したが、それを見て、私は釈然としない思いがした。というのも、この夫婦は心中に至る前に八尾警察に2回、大阪府警に3回、相談していたにもかかわらず、警察は脅迫的な取り立てから夫婦を守る有効な手立てを講じなかった。警察のこうした不作為が3人を心中に追いやる一因であったと考えられるのに、今回の犯人グル-プ逮捕の報道は、そうした背景事情に一切触れていないのである。

私が、いまでもこの八尾市の事件に強く関心を持つ、もう一つの理由は、ちょうど事件当時、委員の一人として参加していた長野県外郭団体見直し専門委員会での経験からである。当時、私たち専門委員会が「長野県暴力追放県民センタ-」の廃止方針を打ち出した時、県警ばかりか、日本弁護士会や長野県弁護士会・民事介入暴力被害追放センタ-が、この八尾市心中事件も例に挙げ、暴追センタ-の存続を執拗に訴えてきた。そこで、専門委員会は20031222日、日弁連ならびに長野県弁護士会・民事介入暴力被害追放センタ-代表と、警察の「民事不介入」の評価をめぐって、報道関係者が傍聴する中、激しい論争を繰り広げた。

(専門委員会と弁護士会とのやりとりの概要は次の文書を参照いただきたい。)
 http://www.pref.nagano.jp/soumu/gyoukaku/s23/minutes23.pdfpp.27~)
 http://www.pref.nagano.jp/soumu/gyoukaku/boutsui.htm

民事不介入を盾にした警察の不作為をかばう弁護士会の怪

 私たち専門委員会は暴追センターや県警から提供された同センターの資料やヒアリングを通じて、
 ①センタ-の事業費の96.7%は県からの補助金・委託費で賄われている。
 ②人的な面でも、プロパ-職員は1名、管理職も1名(県警OB)のみで、センタ-に寄せられた相談の大部分は県警や弁護士会に回送され、センタ-自身で完結した案件はほとんどない、

という実態(数字は2002年度)を把握した。そこで、専門委員会は暴追センタ-には団体としての実体は希薄で、自立した業務といえるものがほとんどない以上、これを存続させる必要性はなく、暴追関係の相談業務は県警あるいは弁護士会が担当すれば支障はないと考えたのである。

 県警がこうした委員会の提言に抵抗したのは予想されたことだった。私たちにとって予想外だったのは、なぜか、長野県弁護士会・民事介入暴力被害追放センタ-、さらには日弁連までが、警察の「民事不介入」を持ち出して、執拗に暴追センターの存続を訴えてきたことだった。彼らが専門委員会に提出した意見書の中で次のように記していることを、私は多くの人々に知らせたいと思う(下線は醍醐追加)。

  「そもそも警察は犯罪の捜査と治安の維持を任務とし、民暴被害の救済を任務としておらず、一般的に民事・商事の法律知識も持ち合わせていません。したがいまして、警察に民暴被害の救済を期待すること自体に無理があります。」(長野県弁護士会・民事介入暴力被害救済センタ-、意見書、20031216日)

  「最近、大阪府八尾市の老夫婦が早くから警察署に相談していたものの支援を受けることができずに命を絶った痛ましい事件があったが、仮に、暴力追放センタ-など然るべき相談機関に相談していれば、このような悲劇は防げたかもしれない。」(日弁連意見書、20031218日)

 しかし、民暴事件とは文字通り、民事に暴力(刑事)が絡んだ事案であり、民事か刑事かと線引きをして済まないところに特徴がある。弁護士会は百もそうしたことは承知のうえで、民暴を警察の守備範囲から外し、それを暴追センターの独自業務として描くことによって、なりふり構わず、同センターを存続させる必要性を訴えようとした底意が透けて見えた。

 「暴力追放センタ-など然るべき相談機関に相談していれば、このような悲劇は防げたかもしれない」という日弁連の意見は、夫婦が相談を行く先を間違えたと言いたげであるが、亡くなった夫婦を冒涜する発言である。日弁連が強調すべきは民事不介入を盾に夫婦の悲痛な訴えを受け止めなかった警察の不作為であって、この事件を引き合いに出して実体のない暴追センタ-の存続を正当化することではない。

 それにしても、長野県弁護士会・民事介入暴力被害追放センタ-があれほど暴追センタ-の存続に執心した理由は何だったのだろうか? 警察は身の危険を感じて駆けつけた市民の訴えを聞き流してでも優先しなければならない、どのような用務を抱えているのだろうか?

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社会福祉協議会はこれでよいのか?(2)

防災放送を住民主体で

――迷い犬の防災放送を断わられた経験から――

 今回の「住民座談会」は、「地域福祉計画」を作るために住民の意見を聞く機会ということなので、日頃、私が感じている要望を2つ出すことにした。

 その一つは、近くの中学校に取り付けられている防災放送を住民主体に運用できないかということ。これまでは、行方不明になった高齢者の情報提供を求める放送が大半だった。最近は近くの小学校の下校時刻を知らせる放送も始まった。しかし、私は、その他に、住民が主体になって地域限定的な緊急放送(災害情報のほかに、企画の案内放送や防犯放送なども)にも活用できないか、と思ったのである。

 話はそれるが、私がこんなことを考えたのは3年前、近所のコンビニで出くわした迷い犬を一時引き取ったときの経験からだった。コンビニのドアの外で中をじっとのぞきこむラブラードルを見て、店員に「どうしたんですか、この犬」と聞くと、「もう1時間もそうやっているんですよ」という返事。しばらくそばに居たが、飼い主は現れず、犬もその場を離れようとしない。仕方なく、家へ電話をして連れ合いにひもを持ってくるよう頼み、家へ連れて帰った。

 しかし、当時、わが家には2匹の犬がいた。連れ合いは、「もうこれ以上、うちは無理だからね。早くどうにかして!」と激しい剣幕。そこで、私はとっさに、防災放送で流せば、飼い主が現れるかもしれないと思って、市役所に電話をした。しかし、応対に出た職員は「私の一存では決められない。明日上司に確かめて返事をする」という「模範解答」。

 仕方なく、その日はあきらめて、コンビニ周辺の植木の柱や電柱に厚紙に書いたポスターをくくり付け、飼い主の現れるのを待ったが、音沙汰はなかった。翌朝早く、市役所から電話が入ったが、犬のことまで放送はできない、という素っ気ない(予想した)返事。

 結局、翌日夕方、わが家から300mほど離れた飼い主が現れ、慣れた様子で引き取って行った。後で考えると、その日の朝、ラブラードルと散歩の帰り道、飼い主宅のすぐそばを通ったが、犬はそちらに向かう気配はまったくなかった。

社協のために福祉があるのではない

 話が脱線したが、住民座談会の後半に数名の福祉委員から、次のような意見が出た。

「最近、住民の皆さんは個人情報に敏感になり過ぎているように感じる。あまりに神経質なので活動がしにくい」。

「役所は個人情報保護を理由に、どの世帯に高齢者がいるかという情報を我々にくれないので、活動がやりにくい。」

気持ちはわからないではない。しかし、高齢者(のいる世帯)からみたらどうだろうか? そう考えていたら、さきほど発言したKさんが再び立ち上がって、こう言った。

 「だから、私はそういうきめ細かな仕事は地域で日常的に活動をしている自治会がやるべきだと言うんですよ。だってそうでしょ、皆さんは地域のことをどこまで知っていますか?」

 そこで、私も1年ほど前に近所のある知人から聞いたこんな話を引きながら発言した。

 「ある日、民生委員が受け持ち区域の一人暮らしのお年寄り宅を訪ね、玄関先で、『何か困り事はありませんか?』と話かけたそうです。そのお年寄りはあたりさわりのない返事をして民生委員に引き取ってもらったそうですが、後で近所の知人に『面識もない人に突然訪ねられても、気持ち悪いわよねえ』と話したそうです。皆さんは、このお年寄りの感想をどう思いますか? 私は至極もっともだと思いました。

  個人情報があちこちで漏れる今の時代、住民が自分の個人情報に神経質になるのはやむを得ないことです。そういう意識を変えてほしいというのではなく、そういう意識を前提にして誰が何をできるかを考えるべきではないですか? その意味で私も、高齢者の人への声かけ運動などは、地域でネットワークのある自治会が担う仕事だと思います。」

 
帰宅後、このやりとりを連れ合いとしながら、あれでは、社協のために福祉があるかのような発想ではないかと思えてならなかった。

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社会福祉協議会はこれでよいのか?(1)

住民座談会に参加

今日は朝から春めいた晴天。去年12月に15歳の飼い犬が突然、三半規管の障害を起こし、狂牛病のように歩行できない状態になって以来、交代介護であわただしい毎日が続き、夫婦で遠出する機会はなかった。最近、ようやく、まっすぐ歩くことができ、一人で留守番もできるようになったので、河津桜を見に出かけたいと思っていたところだった。

しかし、今日は10時から近くの集会所で地区社会福祉協議会が開いた「住民座談会」に参加した。「住民座談会」とは、市町村が社会福祉法第107条で定められた「地域福祉計画」を策定するとき、「あらかじめ、住民、社会福祉を目的とする事業を経営する者その他社会福祉に関する活動を行う者の意見を反映させるために必要な措置」として開かれるものだ。

数日前からこの座談会に出ようと決めたのは、以前から、社会福祉協議会について、行政との境界のあいまいさ、地域福祉の分野でまるで指定席を与えられたかのような特恵的地位、募金や会費集めの仕方などに疑問を感じていたからだ。座談会には地区社協の役員や市役所の社会福祉課の職員も出てくると聞いていたので、疑問を質すよい機会だと思った。口頭だけでは伝わりにくいと考え、昨夜、3時ごろまで質問・意見書作りをして出かけた。

長野県外郭団体見直し委員会での経験

 私が社協にこだわりを感じる理由はそれだけではない。20032月から約11ヶ月間、長野県外郭団体見直し専門委員会の委員の一人として県内57の外郭団体の事業、財政状況を調査し、その結果を踏まえて各団体の存廃等について報告書をまとめた。そこで、団体と委員会側で意見が鋭く対立した一つが長野県社会福祉協議会だった。私の印象に鮮明に残っているには、その年の819日、丹治幹雄委員といっしょに長野市内にある長野県NPOセンターを訪ねて事務局長の市川博美さんからヒアリングをした時のことだった。

市川さんの強い要望で、同行したNHKスペシャルのカメラを止めて2時間にわたり、活動分野が重なる社会福祉協議会や長寿社会開発センター、国際交流協会との関係について意見を求めたところ、思いのほか、率直で手厳しい意見・要望が返ってきた。県NPOセンターの意見を要約すると、次のとおりだった。

先発の外郭団体は県からの豊富な補助金で事務所費や人件費を賄っている。そのため、去年、これら外郭団体と共同でボランティア学習研究集会を開いたとき、社協は無料。しかし、自前で事務所費等を負担しているNPOは有料。そうなると、企画の上では私たちの方が参加者のニーズにかなっているという自負があったのに、参加者は無料の社協の分科会に流れてしまった。

行政はどんな事業を委託公募するのか、情報をしっかり公開してほしい。そのうえで、先発の外郭団体も後発のNPOも対等の関係で応募し、各団体が企画を提案して、そのなかで利用者のニーズに最もかなったものを選ぶ仕組みに変えてほしい。

 こう語った市川さんは、「今日ヒアリングに来られると聞いたので、センター運営委員に外郭団体見直しについて意見を募ったら、こんな意見がメールで返ってきた」といって数枚の文書を取り出した。目を通すと、社協に対する厳しい意見が並んでいた。なかには、「社協の歴史的な価値は終了したので、早く解散すべきである」といった強硬意見もあった。長野県では社協とNPOの関係がギクシャクしていることがわかってきた。福祉、国際交流等のノウハウではNPOの方が優っているのに、社協は行政を後ろ盾にして既得の地位に安住し、利用者を囲いこもうとしているという批判・不信感がNPOの中に根強くあるのが摩擦の根源的な理由のようだった。

社協は指定席でなくなった

話を住民座談会に戻そう。1週間ほど前に自治会ル-トで座談会の案内文書が届いた。知人に声をかけられて、そこに列挙されていたアンケート項目に目を通して「あれ?」と思った。というのも、社会福祉協議会とは、文字通り、社会福祉の分野の活動をする民間組織のはずなのに、「道路の整備」、「住宅の整備」、「ゴミの減量化」、「子どものしつけや教育」、「学校教育」など、地域社会に関わるほとんどの問題が網羅されていたからだ。しかし、この種の疑問は「地域福祉計画」の議論からいえば、「入口」の話なので、文書での質問に回して、会場では触れないつもりで出かけた。

ところが、討論開始と同時に、Kさんが手を挙げて、「道路、住宅、ゴミ、学校教育などは、私が調べた社協の定款の範囲をはみ出ている。どうして、こういう問題まで社協が扱うのか」と質問した。前に並んだ社協の役員は一瞬、困惑した表情になったが、その中の1人がこう答えた。

「道路でいえば、たとえば、陥没なら社協が扱う問題ではない。しかし、バリア・フリーのことなら社協が扱う問題だ。いろんな問題を福祉の切り口で捉えて意見を出してほしい。」

すると、Kさんはすかさず、こう切り返した。

「しかしですね、今の社会、何だって突き詰めれば福祉に還元されるんですよ。そんなことをいったら、社協は何でもやるということになりますよ。」

 これを聞いて、前にならんだ社協の別の役員がこう言った。

  「いや、福祉にとらわれず、地域の生活での困りごとを何でも出してください。」

 ここまで言われると、私は黙っていられず、立ち上がった。

  「今の発言はどうかと思いますね。皆さんご存知のように、最近導入された指定管理者制度の精神から行くと、社協もone of them です。社協もNPOなどと対等の関係で企画を提案して、そのなかで利用者のニーズに一番かなっていると評価された団体の企画が行政の委託事業として採用される仕組みになっています。そうなると、社会福祉法から社協の名前が消える日も遠くないかも知れません。そういう時代に社協が行政を後ろ盾にして、福祉ばかりか、行政の代行業務を何でもやりますというのは、ずれていませんか?」

   

指定管理者制度の危うさ

しかし、「指定管理者制度」には重大な危うさがある。長野県で福祉や文化方面の外郭団体の現地を訪問して、それぞれのプロパー職員と直接意見交換したなかで、福祉事業では、人(職員)と人(施設入所者など)の信頼関係が事業の成否を左右する重要な要素であること、こうした信頼関係は長いつながりのなかで培われる「見えざる財産」であることを認識できた気がした。

また、文化の面では信濃美術館の学芸員の人たちや県立文化会館の舞台担当のプロパー職員の人たちと意見交換をするなかで、長年の職務で培われたノウハウを蓄積し活用することが、「県民益」に通じること、短期的な異動や身分の流動化でそうしたノウハウを切断するのは文化の価値を毀損させることを感じ取った思いがした。

そこで、私たち委員会は中間報告案で団体の廃止、あるいは指定管理者制度の導入としていた福祉・文化関係4団体を最終案では存続に変更した。

しかし、このように考えるとしても、行政の現役職員やOBが主要ポストを占める外郭団体に行政が独占的に事業委託をし続ける実態をそのままにしてよいわけではない。ついでにいうと、「官から民へ」というが、その場合の「民」は常に「民営化」を意味するわけではない。むしろ、「官業独占」の不公正、サービスの質の低さを問題にするなら、もっと福祉のノウハウとモチベーションが高いNPOなど非営利の組織へ官業を開放することが望まれる。ただし、その場合も「私人による行政」、「行政の私化」に伴う諸問題を慎重に検討し、法的なインフラを整備することが必須条件である。

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新人医師にそっぽを向かれた大学の医局

社会から遊離した専門研究の行きつく先

2005627日の『東京新聞』朝刊の「こちら特報部」欄に<臨床研修医制度で変わるか大学病院>という記事が掲載された。それによると、2005年4月からこの制度が始まったのを機に、新人医師の大学病院離れが進み、一部の大学では医局体制が崩れかけているという。専門教育ばかりで、幅広い臨床教育の実績がない大学病院が敬遠されているからだそうだ。

 全国医学部長病院長会議は、「これでは大学病院から地域医療のために人材を派遣できない」として厚労省に臨床研修医制度の見直しを求めた。しかし、同記事によると、こうした大学側の動きについて、民間病院のある医師は「もてない男が絶対カップルになれる合コンを設定してくれ、と言うようなもの」と手厳しい。

 では、大学の医局はなぜここまで新人医師からそっぽを向かれたのか? それは「肺がんとわかれば治療できるが、初診で肺がんかどうかを判断できない医師ばかり育ててきた」医局の専門研究偏重に原因がある。しかし、それでも今まで研修医が医局に残ったのは「学位(博士号)ほしさ」だったという。

市民に支えられた学問の自由

 市民の権利一般がそうであるように、日本国憲法第23条で定められた「学問の自由」も憲法に明文があるだけで保証されるわけではなく、「国民の不断の努力によつて」はじめて守られるものである(憲法12条)。

わが国の大学における学問の自由は、国立大学法人法の成立や首都大学東京の設立に見られるように、今、重大な危機に直面している。危機の内容はすでに多くの関係者によって解説されているので繰り返さない。ここで私が言いたいのは、学問の自由は、学問に携わる人びとに天賦の権利ではなく、学問の成果を社会に還元し、公正で平和な社会の実現、市民の社会的文化的欲求の充足に寄与するという目的に照らして尊重されるものだということである。このように考えてこそ、大学の自治が尊重され、学問の自由を守る活動に市民の支持を訴える根拠があるのだと思う。このことは、言論・報道の自由がジャーナリズムに自己完結的な権利として擁護されるものではなく、市民の知る権利を充足するという目的に照らして擁護されるのと同様である。

政治的に去勢された大学人

 私も学問の成果を狭い短期的な有用性で評価することが有害であることは承知している。まして、文科省の指導で各大学が研究教育の「中期目標」を定め、その達成状況を研究教育とは無縁な人々の評価に委ねて、将来の予算配分とリンクさせるといった手法は学問研究の自律的発展と相容れない。しかし、大学の自治的ガヴァナンスの根幹を変える独立行政法人化のときにも、大半の大学人は「専攻研究の殻」に引きこもり、大学の公共的価値が侵食される現実に口をつぐんだ。政治や庶民の生活に首を突っ込むのはアカデミズムの品位にかかわるという「不文律の掟」にすくみ、脱政治化した昨今の日本の大学人を見続けると、カレル・ヴァン・ウォルフレンの次の言葉がそっくり当てはまる気がしてならない。

  「大学は、日本を変える計画のためには邪魔である。なぜなら日本の学者たちは、日本社会の支配の実態とほとんど関係ない、あるいはまったく関係ない問題に、人々の注意をそらしてしまうからだ。彼らは、難解な理論や無味乾燥な専門知識の細部のなかに迷い込んでしまっている。政治的リアリティ-を『科学的』方法で研究しているのだという言い訳で、彼らが社会から逃避している事実の重大性がごまかされてきたのだ。
(カレル・ヴァン・ウォルフレン著/篠原勝訳『人間を幸福にしない日本とい  うシステム』毎日新聞社、1994年、310ペ-ジ。)

 もっとも、例えば、経済学でいうと、政治的プロパガンダの様相を呈した粗雑な規制緩和論のつけが噴出している昨今、「脱政治化」した経済学の有害さよりも、「政治化した」経済学の有害さの方が目にとまりやすい。しかし、そのことは、わが国の多くの経済学者が無味乾燥な専門研究の細部のなかに迷い込み、政治的に去勢されてしまった事実の社会的意味を問いかけることを無用にしたわけでは決してない。まして、学問の自由と大学の自治は、大学人が社会から遊離した「知の遊戯」にふけるための財源を国民に請求する権利を意味するのではない。

 冒頭の臨床研修医制度に話を戻すと、私は医学の門外漢だが、専門研究と臨床研究は本来、対立するものではないはずである。優れた専門研究が臨床に生かされ、臨床の経験をフィードバックして専門研究が発展する――こうした臨床と理論の円環関係は医学に限ったことではない。しかし、現実はそうはなっていない。博士課程を設置している大学院が博士号という研究者のライセンス発行権を社会から委託されているというなら、自らが発行するライセンスの社会的文化的意味を自問し、互いに検証しあう自律的な緊張関係と説明責任が大学人に求められる。

 この意味で、ユネスコが19971111日に採択した「高等教育の教育職員の地位に関する勧告」の中で、高等教育機関の自治が負う公的説明責任は学問の自由、人権の尊重と矛盾しない形で自己管理される必要がある、と指摘したことを銘記したいものである。

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