新人医師にそっぽを向かれた大学の医局
社会から遊離した専門研究の行きつく先
2005年6月27日の『東京新聞』朝刊の「こちら特報部」欄に<臨床研修医制度で変わるか大学病院>という記事が掲載された。それによると、2005年4月からこの制度が始まったのを機に、新人医師の大学病院離れが進み、一部の大学では医局体制が崩れかけているという。専門教育ばかりで、幅広い臨床教育の実績がない大学病院が敬遠されているからだそうだ。
全国医学部長病院長会議は、「これでは大学病院から地域医療のために人材を派遣できない」として厚労省に臨床研修医制度の見直しを求めた。しかし、同記事によると、こうした大学側の動きについて、民間病院のある医師は「もてない男が絶対カップルになれる合コンを設定してくれ、と言うようなもの」と手厳しい。
では、大学の医局はなぜここまで新人医師からそっぽを向かれたのか? それは「肺がんとわかれば治療できるが、初診で肺がんかどうかを判断できない医師ばかり育ててきた」医局の専門研究偏重に原因がある。しかし、それでも今まで研修医が医局に残ったのは「学位(博士号)ほしさ」だったという。
市民に支えられた学問の自由
市民の権利一般がそうであるように、日本国憲法第23条で定められた「学問の自由」も憲法に明文があるだけで保証されるわけではなく、「国民の不断の努力によつて」はじめて守られるものである(憲法12条)。
わが国の大学における学問の自由は、国立大学法人法の成立や首都大学東京の設立に見られるように、今、重大な危機に直面している。危機の内容はすでに多くの関係者によって解説されているので繰り返さない。ここで私が言いたいのは、学問の自由は、学問に携わる人びとに天賦の権利ではなく、学問の成果を社会に還元し、公正で平和な社会の実現、市民の社会的文化的欲求の充足に寄与するという目的に照らして尊重されるものだということである。このように考えてこそ、大学の自治が尊重され、学問の自由を守る活動に市民の支持を訴える根拠があるのだと思う。このことは、言論・報道の自由がジャーナリズムに自己完結的な権利として擁護されるものではなく、市民の知る権利を充足するという目的に照らして擁護されるのと同様である。
政治的に去勢された大学人
私も学問の成果を狭い短期的な有用性で評価することが有害であることは承知している。まして、文科省の指導で各大学が研究教育の「中期目標」を定め、その達成状況を研究教育とは無縁な人々の評価に委ねて、将来の予算配分とリンクさせるといった手法は学問研究の自律的発展と相容れない。しかし、大学の自治的ガヴァナンスの根幹を変える独立行政法人化のときにも、大半の大学人は「専攻研究の殻」に引きこもり、大学の公共的価値が侵食される現実に口をつぐんだ。政治や庶民の生活に首を突っ込むのはアカデミズムの品位にかかわるという「不文律の掟」にすくみ、脱政治化した昨今の日本の大学人を見続けると、カレル・ヴァン・ウォルフレンの次の言葉がそっくり当てはまる気がしてならない。
「大学は、日本を変える計画のためには邪魔である。なぜなら日本の学者たちは、日本社会の支配の実態とほとんど関係ない、あるいはまったく関係ない問題に、人々の注意をそらしてしまうからだ。彼らは、難解な理論や無味乾燥な専門知識の細部のなかに迷い込んでしまっている。政治的リアリティ-を『科学的』方法で研究しているのだという言い訳で、彼らが社会から逃避している事実の重大性がごまかされてきたのだ。
(カレル・ヴァン・ウォルフレン著/篠原勝訳『人間を幸福にしない日本とい うシステム』毎日新聞社、1994年、310ペ-ジ。)
もっとも、例えば、経済学でいうと、政治的プロパガンダの様相を呈した粗雑な規制緩和論のつけが噴出している昨今、「脱政治化」した経済学の有害さよりも、「政治化した」経済学の有害さの方が目にとまりやすい。しかし、そのことは、わが国の多くの経済学者が無味乾燥な専門研究の細部のなかに迷い込み、政治的に去勢されてしまった事実の社会的意味を問いかけることを無用にしたわけでは決してない。まして、学問の自由と大学の自治は、大学人が社会から遊離した「知の遊戯」にふけるための財源を国民に請求する権利を意味するのではない。
冒頭の臨床研修医制度に話を戻すと、私は医学の門外漢だが、専門研究と臨床研究は本来、対立するものではないはずである。優れた専門研究が臨床に生かされ、臨床の経験をフィードバックして専門研究が発展する――こうした臨床と理論の円環関係は医学に限ったことではない。しかし、現実はそうはなっていない。博士課程を設置している大学院が博士号という研究者のライセンス発行権を社会から委託されているというなら、自らが発行するライセンスの社会的文化的意味を自問し、互いに検証しあう自律的な緊張関係と説明責任が大学人に求められる。
この意味で、ユネスコが1997年11月11日に採択した「高等教育の教育職員の地位に関する勧告」の中で、高等教育機関の自治が負う公的説明責任は学問の自由、人権の尊重と矛盾しない形で自己管理される必要がある、と指摘したことを銘記したいものである。
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