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永田浩三・長井暁氏の「飛ばし人事」をもくろむNHK

 今夕、NHKが発表する幹部職員の人事異動のなかで、永田浩三、長井暁両氏を事実上「左遷」する動きがあるという情報を入手した。そこで、NHK受信料支払い停止運動の会は緊急の対応を議論した結果、共同代表2名の連名で人事異動の発表前にNHKに対して、不当な異動を止めるよう求める申し入れ書を送ることにした。

 さっそく、NHK視聴者センタ-の宮崎則行氏宛にFAXで申し入れ書を送り、橋本会長ほか全理事に届けてもらう確約をした。以下は、申し入れ書の全文である。

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2006526

NHK会長 橋本元一 様
NHK理事 各位

 永田浩三氏、長井暁氏に対する不当な人事異動を止めるよう求め緊急の申し入れ

NHK受信料支払い停止運動の会
共同代表 醍醐 聰
細井明美
 
電話:048-873-3520(会事務局)

 この数日の間に私たちが得た情報によれば、NHKは本日、発表する幹部職員の人事異動の内示の中で、VAWW-NET裁判の公判でNHKの主張と異なる証言をした永田浩三氏とETV番組への政治家の介入を告発した長井暁氏を番組制作現場からはずすという不利益な異動が実施される恐れがあるとのことです。

 この問題については、さる330日に開催された参議院総務委員会におけるNHK予算審議の場で、山本順三議員が両氏の人事上の処分を迫る質問をしたのに対して、橋本会長が「この職員についての人事上の扱いについては、適切に対処したい」と答弁された経緯があります。

 こうしたやりとりについて、当会は去る412日付けで橋本会長に対して申し入れ書を提出し、その中で次のような見解を示しました。

 1.国会審議の場で、係争中の裁判の公判で証人が行った発言について国会議員が予断を交えた言及をするのは、司法に対する行政の不当な介入であり、厳しい批判を免れないこと。

 2.永田浩三氏、長井暁氏の人事上の処分を迫ったに等しい山本議員の発言は放送法第3条で禁じられたNHKの自主自律に対するあからさまな干渉であること。

 こうした見解を踏まえて、当会は橋本会長に対し、政治家の不当な干渉におもねて、永田浩三、長井暁両氏に人事上その他の面で不利益な処分を一切しないよう申し入れました。

 そもそも、永田氏の証言、長井氏の告発は長い期間にわたる苦渋の末に、番組制作に携わった報道人の良心をよりどころにして行われた公共放送の使命を守るがための訴えです。NHKが組織防衛的な発想から、こうした良心の訴えを押さえ込み、処分の対象にするとしたら、NHKの良識に対する視聴者の信頼が大きく崩れるのは必至です。

 私たちは、橋本会長ほかNHKの全理事の皆様に対して、永田、長井両氏について、定期的な人事異動を隠れ蓑にした事実上の「報復人事」を行うことがないよう改めて強く申し入れます。

 万一、こうした申し入れを無視して、永田、長井両氏に対し、不当な人事が強行された場合、私たちは当会の賛同者、先に行った「受信料督促ホットライン」でつながりを持った視聴者、その他全国の視聴者に呼びかけて、強力な抗議行動を起こす決意でいることを通告します。                             以上

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「遷延性意識障害への理不尽な現実」(『毎日新聞』記者の目記事)を読んで

 519日『毎日新聞』朝刊の「記者の目」欄に掲載された「遷延性意識障害への理不尽な現実」(赤間清広稿)を読んで日本の社会福祉の現状を考えさせられた。そこで、今日、この欄の末尾に記された係宛にE・メールで次のような感想を送った。記事の全文は下記。

http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/kishanome/archive/news/2006/05/20060519ddm004070060000c.html

 なお、「遷延性意識障害」とは交通事故や病気で脳に重い障害が生じ、寝たきりとなった状態を指す。従来、「植物状態」呼ばれてきた。自力で食事が取れず、自分の意思を言葉や表情で伝えられないため、24時間の介護が必要とされる。

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毎日新聞「記者の目」係 御中

政治の光、メディアの光が当てられない社会の谷間に放置された人々の苦難に寄り添う「記者の目」の一連の記事を日頃から注意深く読んでいます。

特に目下、「社会福祉における小さな政府論」をテーマにした原稿を書いているのと、実家で一人暮らしをしてきた身内の高齢者が道路拡張工事で立ち退きを迫られ、住み替えの計画を立てたところ、行く先々のマンション、空家で高齢者の単身入居を拒まれ、日本の社会福祉の虚弱さを考えさせられているところです。

そうした最中に、519日付け貴欄に掲載された赤間清広記者の「遷延性意識障害への理不尽な現実」を読み大変啓発され、筆を取りました。なお、同じ赤間記者が執筆された「声が聞きたい:遷延性意識障害 現状と課題 県ゆずり葉の会・沼田会長に聞く/宮城」(200634日)も読みました。以下は記事を読んだ私の感想です。

1.障害の認定業務を名実ともに行政から独立した専門家から成る第三者機関で行う仕組みを確立する。「認定」業務と福祉「行政」が一体化すると、行政の不作為がまかり通る結果になりがちです。

2.実態調査が先決ですが、これについても行政は予算化に責任を負い、調査自体は企画の段階から報告書をまとめる作業まで独立した第三者機関に委ねることが重要と思います。

3.支援策は記事にあるとおり、専門施設の充実が喫緊の課題と思います。

4.施設さがし、費用の工面、介護者自身の健康管理などをワン・ストップで担当するマネ-ジャ-の養成が急務だと思います。

目下、わが国では「民にできることは民に」をスロ-ガンに、社会福祉を標的にした「小さな政府」路線が強行されようとしています。しかし、OECDの国際比較統計(添付-ここでは省略)をみても、日本は社会保障の分野でとっくに「小さすぎる」政府になっています。

遷延性意識障害者をたらいまわしする民間医療機関の実態を知るにつけても、今、日本で力説されなければならないのは、「民にできないことは公が」です。

追伸:
 「水俣病公式確認から50年」(200659日、平野美紀記者稿)にも大変啓発されました。特に、「政府代表の小池百合子環境相は『悲劇を二度と繰り返さない』と述べたが、『一度目』の悲劇は今も続いている」という指摘が胸に迫ってきました。

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60回目の誕生日

5月9日は私の60回目の誕生日。還暦という実感はわいてこないが、体力は(気力も、とは言いたくない)年齢相応に老いの始まりを感じる。

月曜日、何時も通り、15時に2階の202演習室に行くと明かりがついていない。おや、と思いながら、ドアを開けると暗闇の中でクラッカ-が飛び交い、ハッピ-・バ-スデイの歌が始まった。その瞬間、去年も同じように祝ってもらったのを思い出した。

明かりで照らされたテ-ブルには、2箱のデコレ-ション・ケ-キとシャンペン、赤・白のワインが用意されていた。さっそく、ケ-キにナイフを入れ、全員に分けて乾杯。ケ-キもシャンペンも好物の私には、ゼミ生の細やかな心遣いとあわせ、何よりの誕生日となった。

少し照れて、その場ではうまくお礼を言えなかったので、さきほど、ゼミのメ-リング・リストに感謝のメ-ルを送った。その末尾に書き添えた二首の短歌が60回目の誕生日を迎えた私の気持ちを代弁してくれているように思う。

風よりも静かに過ぎてゆくものを指さすやうに歳月といふ
                      
稲葉京子


同じ日に生まれしならん樹下(こした)なるどの蝉も今日裏返りをり
                      
稲葉京子

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天皇と皇室に寄り添う朝日新聞社説

 朝日新聞の5月4日の社説に強い危惧を感じた。数日、思案をした結果、今朝方、同社広報部を通じて論説室(社説執筆部署)に下記のような意見をメールで送った。

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『朝日新聞』が憲法記念日にちなんで掲載した、天皇と憲法を考える 国民と伝統に寄り添って」と題する5月4日付の社説を読んで大いなる危惧を感じました。私には天皇制論をじっくり語るゆとりも、十分な学識もありませんが、次の一節についてコメントして、この社説に対する私の危惧を伝えたい思います。真摯に吟味くださるよう要望します。

  「朝日新聞の世論調査は、78年から象徴天皇制について断続的に聞いてきたが、支持率は常に80%を超えている。多くの国民と同じような家庭をつくり、平和の大切さを説き、恵まれない人たちに手を差しのべる。そうした皇室のあり方が共感を呼び、国民とのきずなを強めていると思う。そのような行動は、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という憲法の精神に沿おうという天皇の意思の表れでもあるだろう。」

ここでの世論調査の方法を吟味してみる必要があるかも知れません。それは措くとしても、天皇制なり皇室が現代の日本社会で果たす役割(特に歴史の事実を直視し、それを伝えようとする言論を抑圧するための「タブー」として利用される役割)を、天皇個人のあれこれの言動(被災地訪問なども含め)に関する心情的評価にすり替えるのでは、ジャーナリズムの論説に値いしません。

2001年1月30日にNHKが放送したETV番組「問われる戦時性暴力)が政治家の介入によって「天皇有罪」の部分などが放送前に抹消・改ざんされた問題は、ほかでもない貴社が報道されたものですが、こうした政治介入は、上でいう「タブー」が今なお歴然と存在することを示す典型例です。

 また、「象徴」であれ何であれ、天皇によって「日本国民を統合」するなどという前時代的な言辞を無批判に反復する論説には、思考の退行を感じます。

ここまで、朝日新聞が「天皇と皇室に寄り添う」のはなぜなのでしょうか? 「目立たない」変質とは、このように進行するのかという思いに駆られました。

これに関連して、昨年11月19日にNHK教育テレビで放送されたETV特集「我が故郷はサイパン~玉砕戦を生き抜いた子どもたち~」を観て、私が知人にBCCで送ったメールを転送させていただきます。

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皆さま

昨夜、ご案内しましたETV特集「我が故郷はサイパン~玉砕戦を生き抜いた子どもたち~」(NHK教育テレビ、11月19日放送)を見ました。皆さんはご覧になったでしょうか? その後、NHKへ次のような感想をE・メールで送りました。

「番組を見た感想です。「玉砕」という美名の影に隠れがちなサイパンで「生き残った」民間人の生死を分けたものは何であったか、彼らは戦後をどう生き抜いたのかを、多くの証言に基づいて描いた秀作でした。異国の地でもなお、日本人を戦陣訓で染め上げた「言葉」の恐ろしさは決して過去のことではないと思われます。「逃げているときはアメリカ兵よりも日本兵の方が怖かった」という証言は、軍隊は市民を守らないどころか、市民を死へと駆り立てる本性を垣間見る思いがしました。」

なお、私はまだサイパンを訪ねたことはないのですが、インターネットで検索して、バンザイクリフのそばにある2つの慰霊碑に次のような詞が刻まれていることを知りました。

御製               

国のため命をささげし人々の      

ことを思えば胸せまりくる     


      皇紀二六五二年 平成四年二月吉日

慰霊碑

どんな気持ちで波間に消えた

時代は遠くはなれても

   なんでむなしく忘らりよか

   風も泣きますバンザイクリフ

    一九八一年 五月八日

私は、死者を今もって「臣民」視するに等しい、「国のため命をささげし」などという言葉は、「慰霊」の精神の対極にあるものだと思っています。「国のためと命を奪われし人々の」と言い表すべきところだと思います。歴史の現実を偽るこうした虚言は「胸せまりくる」という心情の吐露によって償われるものではありません。(下線部分は今回追加)


   
醍醐 

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人を憎んでミスを憎まない日勤教育

 これまで2回の記事では、JR西日本が行ってきた日勤教育が乗務員の人格権をいかに蹂躙するものかを見てきた。今回は、日勤教育が安全教育という面でどういう意味を持っていたのかを考えてみたい。

ミスを憎んで人を憎まず――ヒュ-マン・エラ-への対処の原則――

 福知山線脱線事故の発端になったオ-バ-ランのような運転士(人間)の操作ミスは「ヒュ-マン・エラ-」と呼ばれる。その中には、ひとつ間違えれば大事故につながるような出来事も含まれる。こうした事故一歩手前のトラブル(ヒュ-マン・エラ-に限られないが)のことを「ヒヤリハット」と呼んでいる。ヒュ-マン・エラ-やヒヤリハットを、それらが起こった状況を分析することによって、有効な事故対策を立案するための生きた基礎資料として活用するというのが交通におけるリスク・マネジメントの基本とされている。
 しかし、企業内での取り扱いを見ると、ヒュ-マン・エラ-やヒヤリハットの調査はエラ-をおかした個人の責任追及のために行われる傾向が強い。そのため、ミスを起こした状況の共有化が進まず、安全教育は精神主義的な懲らしめに流れる場合が多いといわれている。これについて、二つの専門的文書に記された見解を紹介しておきたい。 一つは、国土交通省自動車交通局内に設置された自動車運送事業に係る交通事故要因分析検討会が2002年にまとめた報告書『ヒヤリハット調査の方法と活用マニュアル』https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha03/09/090722/03.pdfである。その中で次のような指摘がされている。
 「ヒヤリハット調査はヒヤリハットを起こしやすいドライバ-を特定し、個人責任の追及のために行うわけではない。ヒヤリハットの経験をドライバ-個人の経験に止めず、全てのドライバ-が共有することにより、ヒヤリハットの起こる状況、つまりヒヤリハットの起こる構造性をつかみ、より有効な事故リスクの低減のための対策を講じることにある。」
  こうした基本哲学に続けて報告書は、ヒヤリハット調査を成功させる3つの鍵を示しているが、その1つとして「ヒヤリハットの申告に対して、不利な扱いはしない」、むしろ、「申告を大いに歓迎し、事故対策の糧とする」と記している。報告書は、これとは逆に、ヒヤリハット調査失敗の3つの鍵の1つとして「ヒヤリハットの申告を個人の評価に使う」ことを挙げている。


 もう一つは、福知山線脱線事故をきっかけに国土交通省内に設けられた「公共交通に係るヒュ-マンエラ-事故防止対策検討委員会」がこの4月に公表した「最終取りまとめ」http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha06/01/010426/01.pdfである。その中に次のような指摘がある(下線は醍醐が追加)。
 「従来、ヒュ-マンエラ-が関連する事故やトラブルが発生すると、エラ-をおかした人間の不注意(ミス)のみがあげつらわれる傾向があるが、不注意は災害の原因ではなく結果である。なぜエラ-をおかした人間がそういう不注意を招いたかの背後関係を調べることが重要である。」 「このようなシステム全体を考えるアプロ-チをとらないと、『ヒュ-マンエラ-』を単なる『失敗』と同一視して、エラ-をおかした人間だけをどう改善するかということが問題視され、エラ-防止に有効なシステム改善がなされないで終わる危険がある。」
 以上のような考え方は一口でいえば、「ミスを憎んで人を憎まず」という安全対策の哲学と呼ぶことができる。

人を憎んでミスを憎まない日勤教育

 言われてみれば当たり前のことだが、これと対比してみると、JR西日本が行ってきた日勤教育は「人を憎んでミスを憎まない」前近代的な個人制裁と呼ぶべきものであったことが思い知らされる。つまり、

 1.日勤教育中、乗務手当を支給しないというやり方は、ミスの申告を個人の評価に用いないという原則と背反している。
 2.その結果、ミスをおかした状況の共有が妨げられる。福知山線脱線事故でオ-バ-ランをした運転士が車掌にミスを過小に報告するよう頼んだのはその一例といえる。
 3.日勤教育の内容はミスをおかした個人の責任追及、陰湿な制裁の場となっており、エラ-が起こった背後関係の調査・検討がなおざりにされるため、ミスを安全対策の基礎資料として活用する途が閉ざされている。
 4.さらに言えば、JR西日本は事故当時も、1秒単位で運転の遅れを報告させ、遅れの程度に応じてボ-ナスを減額する仕組みが採用されていたという。そうなると、運転士は途中で遅れが出た場合、「回復運転」と称する無理なスピ-ドアップに駆られる心理的状況に置かれるのは必定である。

 こうした事故の因果関係からすれば、JR西日本の運転管理者(使用者)が安全配慮義務違反ないしは業務上過失致死傷容疑で刑事責任を追及されるのは当然といえる(asahi com, 2005年4月29日、0628分)。

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