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国旗・国歌をめぐる「内心の自由」を考える(2)

 NHKには国歌・国旗を助長する責務があると公言した国会議員

  NHKの決算を審議した今年6月15日の参議院総務委員会で、質問に立った柏村武明議員はトリノオリンピックや日本ダービーの放送場面で、NHKが日の丸・君が代を放映しなかったことを責め立てる発言を繰り広げた。
  また、昨年3月28日に放送された「クローズアップ現代」が、国旗・国歌の強制に揺れる東京都の教育現場の実態を伝えたことを取り上げ、都教委の指導が「強制」であるかのように印象付けたのは「非常に偏った放送」であったと非難した。しかし、強制ではないといいつつ、柏村議員は同じ質問の中で、

 「国歌・国旗はもう法律までなっているわけですからね。法律にまでなってて、国の誇りですよ。旗も歌も。そうすると、やっぱりそれを助長するような責務があるじゃないでしょうかね、NHKは、公共放送としてはですよ。」 (参議院総務委員会、2006年6月15日、会議録より)

とも述べ、NHKに対して国旗・国歌の放送を事実上、強要する発言まで行った。

  このように、国旗・国歌を助長することをNHKの責務とまで断じ、日の丸・君が代の放映をNHKに迫るのは公共放送と国営放送の区別さえわきまえない稚拙な議論である。しかし、稚拙とはいえ、NHK予算、決算の承認という職権を持った国会議員が国会質問に名を借り、NHKの番組内容に干渉するのは、表現の自由を保障した憲法第21条、あるいは、放送番組編集の自由を定めた放送法第3条に違反する言動であることは明らかである。詳しくは、私も呼びかけ人に加わって同議員宛に2度にわたって提出した次の文書で述べられているので参照いただきたい。

  国会審議に名を借りた柏村武昭議員のNHKに対する政治介入発言に抗議し、発言の撤回・訂正を求める申し入れ書(2006年6月29日提出)
   http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kasimuragiinhenomosiire1.pdf

  柏村武昭議員の回答に対する私たちの見解(2006年7月27日提出)
   http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kasimuragiinnokaitonitaisurukenkai.pdf

  また、柏村武昭議員は自分のホームページでこの件に触れて、「校長が学習指導要領に基づき法令の定めるところに従い、所属教職員に対して本来行うべき職務を命じることは、当該教職員の思想良心の自由を侵すとはいえません」と記している。はたしてそうなのか? 君が代を起立して斉唱することは法令の定めるところに従った、教職員の本来行うべき職務なのか?

 「国旗・国歌の義務付けはしない」、「生徒指導の結果まで求めない」ーーこの政府答弁はどこへ行ったのか?―-

  この点を検証するため、7月29日付けで柏村議員宛に提出した上記の文書には、〔資料2〕として、「国旗・国歌の強制をめぐる国会審議録(抄録)」が添付されている。これは1999年に国旗・国家法が成立する過程の国会審議の模様を抄録としてまとめたものである。日の丸・君が代強制の動きが全国化しつつある今日、この資料を1人でも多くの方々に読んでいただきたいと思い、そのURLを掲載しておく。
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kokkikokkasingirokushoroku.pdf

  この中で、たとえば、小渕首相(当時)は1999年6月29日に開かれた衆議院本会議で次のように答弁している。

 「・・・・・・法制化に伴い、国旗に対する尊重規定や侮辱罪を創設することは考えておりません。・・・・・・政府としては、今回の法制化に当たり、国旗の掲揚等に関し義務づけを行うことは考えておらず、したがって、国民の生活に何らの影響や変化が生ずることとはならないと考えている旨を明らかにしたものであります。」(下線とゴチック体ーー醍醐追加)

  ところで、この小渕首相の答弁にある「国民」の範囲が2002年6月5日に開かれた衆議院文部科学委員会で問題になった。この「国民」には教員、生徒も含まれるのかどうかを質された遠山文部科学大臣(当時)は、「国民に教員それから児童生徒も含まれているという趣旨であろうかと思います」と答えている(下線ーー醍醐追加)。

  また、上記の国会審議録(抄録)には、本年3月29日に開かれた衆議院文部科学委員会における銭谷政府参考人の次のような答弁も収録されている。

 「・・・・・・国旗・国歌につきまして、校長、教員は児童生徒に対し国旗・国歌の指導はするわけでございますけれども、これは指導の結果までを求めるものではなく、あくまでも教育上、指導上の課題として指導を進めていくことを意味するものでございます。お話にございました当時の初等中等教育局長の答弁も、指導の結果、最終的に児童生徒が、例えば卒業式にどういう行動をとるか、あるいは国旗・国歌の意義をどのように受けとめるか、そういうところまで強制されるものではないと答弁したものでございます。そのことは、児童生徒に対する指導の結果まで求めるものではなく、あくまでも、教育指導上の課題として受けとめて指導を進めることが必要であるという趣旨でございまして、その立場に変わりはございません。」(下線ーー醍醐追加)

  しかし、現実はどうかというと、前回の記事でも記したように、東京都では、卒業式などにおいて国歌を起立斉唱しなかったことなどを理由に、これまでに345人の教員が停職、戒告、減給、嘱託の解雇・不採用などの処分を受けている。また、今年3月の都議会で中村正彦教育長は生徒が起立斉唱しない場合は、教員の指導に問題があるとみなし処分の対象にすると答弁している。

  さらに、東京都町田市では昨年1月、市教委が国歌斉唱の声量を平素から指導するよう通知を出している。広島県でも昨年3月の卒業式で起立しなかった生徒数を調べ、公表までしている。また、広島県教委は昨年4月13日、学校行事における君が代斉唱の歌声の大小を、「式場内に響き渡る歌声であった」、「響き渡るとはいえないが歌声は十分聞こえた」、「歌っているとはいえない歌声であった」の3段階に分けて選択させる形式の調査を行っている。

  筆者はもともと、国旗・国歌を国の誇り、愛国心醸成の具として生徒に指導すること自体を否定する立場であるが、個人の信念として国旗・国歌をどう受け止めるにせよ、上記のような実態は、もはや「教育上の課題として」国旗・国歌を指導していくといったものではなく、「指導の結果を求める」行為そのものである。

  また、このように処分をちらつかせた「指導」は、教員にしてみれば、自分の思想・良心に背いてでも服従しなければ大小の経済的不利益と甚大な精神的苦痛を伴うものであるから、自分の「生活に影響を受ける」ことは明白であり、実質は「義務化」そのものと言ってよい。
  これでは、国旗・国歌法制化およびその後の国会での政府答弁は何だったのかということになる。
  
 「強制」というより「強迫」
 
 こうした東京都の学校現場の実態を「クローズアップ現代」が「強制」と伝えたのはきわめて自然な表現であり、それを「偏向」と咎める側の目こそ、歪んでいるというほかない。ただ、こうした実態を表現する言葉としては、「強制」よりも「強迫」の方が適確なように思われる。なぜなら、事前に処分をちらつかせ、声量指導までして起立斉唱を徹底させる指導は、「力によって他人を従わせること」(三省堂『大辞林』第2版)を意味する「強制」よりも、「民法上、相手方に害悪が生じる旨を知らせて畏怖心を起こさせ、自由な意思決定を妨げること」(同上)を意味する「強迫」の方がぴったり当てはまるからである。

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国旗・国歌をめぐる「内心の自由」を考える(1)

保護者・生徒・校長にまで広がる国旗・国歌強制の波

  東京都では卒業式等の学校行事で国歌斉唱の時に起立しなかったことを理由に停職・戒告・減給・嘱託の解雇・不採用などの処分を受けた教員が今年の629日現在で345人に上っている。こうした動きは東京都にとどまらない。広島でも、君が代斉唱で起立せずに懲戒処分された教員は2001年の入学式以降、延べで161人(広島市を除く)に達している(『毎日新聞』20065.13日)。
  
しかし、最近は、処分をちらつかせて国歌の起立斉唱を強制する動きが生徒、校長、市民にまで直接・間接に及んでいる。
  
たとえば、東京都では、さる316日の都議会予算特別委員会で、都立定時制高校の卒業式で卒業生の大半が起立して君が代を斉唱しなかった問題が取り上げられ、中村正彦教育長は「学習指導要領に基づく教職員の指導が適切に行われていれば、考えられないこと。処分の対象になる」との見解を改めて示した(『朝日新聞』2006316日)。こうなると、教員は生徒に起立斉唱させることを義務付けられたのも同然であり、起立斉唱の強制は教員を介して生徒にも及ぶことになる。
  
また、戸田市では、613日の市議会で「君が代斉唱の際に起立していない来賓がいる。市教委は把握しているのか」との質問に対し、伊藤良一教育長は「(起立しないのは)はらわたが煮えくりかえる」、「儀式の秩序を乱す」、「事実なら把握しなければならない」と答弁した(『朝日新聞』2006620日)。(ただし、後日撤回)
  
さらに、広島県教育委員会は714日、今年3月の卒業式で君が代斉唱の際に、起立しなかった教職員がいたにもかかわらず、それを報告しなかったなどとして、県立養護学校長を減給10分の1(6カ月間)の懲戒処分にしたと発表した(『毎日新聞』2006715日)。

「内心の自由」を保障するとは、どういう意味か?

  こうした国旗・国歌の強制に不服従を通して処分を受けた各地の教員は行政を相手どって処分取消の訴訟を起こし、法廷内外で争う構えを崩していない。これを支援する保護者、市民、研究者などの輪も広がりを見せている。
  
これらの裁判で争点になっているのは、日の丸・君が代をどう見るかではなく、国旗掲揚、国歌の起立斉唱を義務付けることが憲法第19条で保障された思想・良心の自由、特に、「内心の自由」の侵害にあたるのかどうかである。これに関する行政側の公式見解を要約すると、次のとおりである。

・学習指導要領に基づき国旗を掲揚し国歌を斉唱するよう教員に求めた校長の職務命令に従うのは公務員たる教員の義務であり、処分はこの義務に違反したことを理由とするものであるから、内心の自由を侵すものではない。

・内心の自由は、それが内心に止まるかぎりは絶対的に保障されるが、学校の公式行事等の場でそれを外形的に表すことについては、公務員としての職務上、制約を受ける。

このうち、一つ目の問題には、学習指導要綱の性格、職務命令が正当で法的拘束力を持つための要件は何かなど、間口の広い論点が関係するので、短文を旨とするブログでは言い尽くせない。そこで、この記事では2つ目の「内心の自由」を保障するとはどういうことかについて考えることにしたい。
  
私は以前、内心と内心を外に向かって表現する行為を分断し、外形的表現行為を制約したからといって、内心の自由を侵したことにはならないという解釈を批判して次のように述べた。

「思想、良心の自由はそれを表現する(起立しない、歌わないという不作為も含めて)自由を伴わなけれ  ば、空疎なものとなるのは自明です。」

  しかし、最近改めて「内心の自由」の意味を調べ直したところ、こういう批判は的確ではないかもしれないと思い始めた。それは行政側の解釈に理があるという意味ではなく、思想・良心の自由を保障した憲法第19条の本旨をどう読み取るのかに関わっている。憲法には「内心の自由」という表現はなく、第19条の思想・良心の自由の解釈から導かれる概念といわれている。
  
つまり、憲法第19条で保障された思想・良心の自由には、国民誰しも自分がどのような思想を抱いているかを露見させることを強要されないという自由、いわゆる「沈黙の自由」も含んでいるというのが定説なのである。また、この沈黙の自由には、国民は自分の思想・良心とは異なる見解を表現することを強制されないという意味も含まれるという学説もある。
  
このようにいうと、裁判において証人に罰則付きで出頭を命じ、宣誓のうえ証言を義務付けるのはどうなのかという疑問が起こるかも知れない。しかし、証言義務とは「自己が知り得た事実」に関する告示の強制であって、思想・良心の告示とは別だとみなされえている。
  
では、「内心の自由」をこのように「沈黙の自由」と捉えることが、近年、各地の学校現場で起こっている国旗・国歌強制の問題を考えるうえで、どのような意味を持つのか――これを次に検討してみたい。(続)

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構造改革という名の「合成の誤謬」(マイリスト・私の仕事「社会問題」にアップ)

 だいぶ時が経ったが、『ダイヤモンド・ハーバード・ビジネスレビュー』2003年9月号に掲載した拙稿「構造改革という名の『合成の誤謬』」がWEB上にアップされているのがわかったので、そのURLをマイリスト「私の仕事」(社会問題)に加えた。
 この小論は一つのテーマ(構造改革の虚実)について3冊の書物を取り上げ、書評風にまとめたものである。取り上げた書物は次のとおり。
  小林慶一郎・加藤創太『日本経済の罠』日本経済新聞社、2001年
  小野善康『誤解だらけの構造改革』日本経済新聞社、2001年
  内橋克人『不安社会を生きる』文藝春秋、2000年 
 不良債権処理と景気回復の因果関係について、正反対の議論をした小林・加藤両氏の見解(新古典派経済学の系譜に属する構造改革論)と、小野氏の見解(ケインズ経済学の系譜に属する需要重視の経済学)を比較検討したものである。

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