« 構造改革という名の「合成の誤謬」(マイリスト・私の仕事「社会問題」にアップ) | トップページ | 国旗・国歌をめぐる「内心の自由」を考える(2) »

国旗・国歌をめぐる「内心の自由」を考える(1)

保護者・生徒・校長にまで広がる国旗・国歌強制の波

  東京都では卒業式等の学校行事で国歌斉唱の時に起立しなかったことを理由に停職・戒告・減給・嘱託の解雇・不採用などの処分を受けた教員が今年の629日現在で345人に上っている。こうした動きは東京都にとどまらない。広島でも、君が代斉唱で起立せずに懲戒処分された教員は2001年の入学式以降、延べで161人(広島市を除く)に達している(『毎日新聞』20065.13日)。
  
しかし、最近は、処分をちらつかせて国歌の起立斉唱を強制する動きが生徒、校長、市民にまで直接・間接に及んでいる。
  
たとえば、東京都では、さる316日の都議会予算特別委員会で、都立定時制高校の卒業式で卒業生の大半が起立して君が代を斉唱しなかった問題が取り上げられ、中村正彦教育長は「学習指導要領に基づく教職員の指導が適切に行われていれば、考えられないこと。処分の対象になる」との見解を改めて示した(『朝日新聞』2006316日)。こうなると、教員は生徒に起立斉唱させることを義務付けられたのも同然であり、起立斉唱の強制は教員を介して生徒にも及ぶことになる。
  
また、戸田市では、613日の市議会で「君が代斉唱の際に起立していない来賓がいる。市教委は把握しているのか」との質問に対し、伊藤良一教育長は「(起立しないのは)はらわたが煮えくりかえる」、「儀式の秩序を乱す」、「事実なら把握しなければならない」と答弁した(『朝日新聞』2006620日)。(ただし、後日撤回)
  
さらに、広島県教育委員会は714日、今年3月の卒業式で君が代斉唱の際に、起立しなかった教職員がいたにもかかわらず、それを報告しなかったなどとして、県立養護学校長を減給10分の1(6カ月間)の懲戒処分にしたと発表した(『毎日新聞』2006715日)。

「内心の自由」を保障するとは、どういう意味か?

  こうした国旗・国歌の強制に不服従を通して処分を受けた各地の教員は行政を相手どって処分取消の訴訟を起こし、法廷内外で争う構えを崩していない。これを支援する保護者、市民、研究者などの輪も広がりを見せている。
  
これらの裁判で争点になっているのは、日の丸・君が代をどう見るかではなく、国旗掲揚、国歌の起立斉唱を義務付けることが憲法第19条で保障された思想・良心の自由、特に、「内心の自由」の侵害にあたるのかどうかである。これに関する行政側の公式見解を要約すると、次のとおりである。

・学習指導要領に基づき国旗を掲揚し国歌を斉唱するよう教員に求めた校長の職務命令に従うのは公務員たる教員の義務であり、処分はこの義務に違反したことを理由とするものであるから、内心の自由を侵すものではない。

・内心の自由は、それが内心に止まるかぎりは絶対的に保障されるが、学校の公式行事等の場でそれを外形的に表すことについては、公務員としての職務上、制約を受ける。

このうち、一つ目の問題には、学習指導要綱の性格、職務命令が正当で法的拘束力を持つための要件は何かなど、間口の広い論点が関係するので、短文を旨とするブログでは言い尽くせない。そこで、この記事では2つ目の「内心の自由」を保障するとはどういうことかについて考えることにしたい。
  
私は以前、内心と内心を外に向かって表現する行為を分断し、外形的表現行為を制約したからといって、内心の自由を侵したことにはならないという解釈を批判して次のように述べた。

「思想、良心の自由はそれを表現する(起立しない、歌わないという不作為も含めて)自由を伴わなけれ  ば、空疎なものとなるのは自明です。」

  しかし、最近改めて「内心の自由」の意味を調べ直したところ、こういう批判は的確ではないかもしれないと思い始めた。それは行政側の解釈に理があるという意味ではなく、思想・良心の自由を保障した憲法第19条の本旨をどう読み取るのかに関わっている。憲法には「内心の自由」という表現はなく、第19条の思想・良心の自由の解釈から導かれる概念といわれている。
  
つまり、憲法第19条で保障された思想・良心の自由には、国民誰しも自分がどのような思想を抱いているかを露見させることを強要されないという自由、いわゆる「沈黙の自由」も含んでいるというのが定説なのである。また、この沈黙の自由には、国民は自分の思想・良心とは異なる見解を表現することを強制されないという意味も含まれるという学説もある。
  
このようにいうと、裁判において証人に罰則付きで出頭を命じ、宣誓のうえ証言を義務付けるのはどうなのかという疑問が起こるかも知れない。しかし、証言義務とは「自己が知り得た事実」に関する告示の強制であって、思想・良心の告示とは別だとみなされえている。
  
では、「内心の自由」をこのように「沈黙の自由」と捉えることが、近年、各地の学校現場で起こっている国旗・国歌強制の問題を考えるうえで、どのような意味を持つのか――これを次に検討してみたい。(続)

|

« 構造改革という名の「合成の誤謬」(マイリスト・私の仕事「社会問題」にアップ) | トップページ | 国旗・国歌をめぐる「内心の自由」を考える(2) »

「教育」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 構造改革という名の「合成の誤謬」(マイリスト・私の仕事「社会問題」にアップ) | トップページ | 国旗・国歌をめぐる「内心の自由」を考える(2) »