意地を主義と偽る小泉首相の靖国神社参拝
靖国神社にはじめて出かけた
百聞一見にしかずで、昨日、友人のSさんと靖国神社に出かけた。詳しいことは別の機会に書こうと思っているが、境内のあちこちに小泉首相の参拝を待ち受ける報道陣やカメラマンが見受けられた。そして、今朝、小泉氏参拝のニュースが流れた。今回の参拝に関する小泉首相の言動を観察すると、2つの論理矛盾が突き止められる。
小泉首相の言動の二つの矛盾
1つは、公約と内心の混同である。周知のように小泉氏は総裁選に立候補したとき、8月15日に靖国神社に参拝することを公約に掲げた。ところが、その参拝について内外から歴史認識をめぐる批判が起こると、「参拝は個人の内心の問題。誰からも干渉されるいわれはない」と開き直った。
これについて、13日の『朝日新聞』朝刊の「声」欄に、「心の問題なら公約にするな」という投書が掲載されていた。投稿をしたのは東京都在住の46歳の主婦である。「小泉首相自ら『心の問題』と言っているように、私的なことなら、そもそも公約にすべきではなかった」と指摘していた。実は、私もこの11日にBCCで知人に送ったE・メールのなかで、次のようなことを書いた。
「それにしても、日本の政治家は、靖国神社参拝を、あるときは
自分の内心の問題といい、あるときには有権者への『公約』と公言
する支離滅裂な総理大臣を筆頭に(個人の内心と公約が並立する
はずがありません!)論理的な思考力も真摯な応答責任倫理の
片鱗も窺えない低劣な人間がなんと多いのかと感じさせられる
このごろです。」
小泉首相の言動に見られるもう一つの論理矛盾は、公約の実行と職務の遂行の使い分けである。今日の参拝のあと、小泉首相は「参拝は職務に基づくものではない」との談話を発表した。こうした解釈は従来からの政府見解を踏襲したものである。昨年10月に公表された「靖国神社参拝に関する政府の基本的立場」でも、小泉首相は「総理の職務としてではなく、一人の国民としての立場で靖国神社に参拝している」と記していた。
しかし、小泉氏の8月15日の靖国神社参拝が一人の国民としての行動なら、公約を実行したことにならない。逆に、公約を実行するための参拝なら職務としてなされた行動であり、「自然人たる小泉に対して認められた前記信教の自由の実現にほかならない」(平成13年(ワ)第2870号損害賠償請求事件における被告答弁書、平成14年5月23日)とはいえず、政教分離の原則に反する行為となる。
私は小泉氏の参拝が総理大臣としての地位に基づくものか、一個人の内心の外形化にあたるものかは、当人の主観に委ねて判断されるものではなく、参拝をめぐる内外の客観状勢から判断すべきものと考えている。
また、かりに、これほど外交面で甚大な影響を及ぼす小泉氏の靖国神社参拝という「内心の外形的表現」が許される一方で、卒業式等学校行事に特段の混乱を来たすわけではない君が代の不起立不斉唱という教員の「内心の外形的表現」が処分の対象とされる不平等はどう説明されるのか、政府は応答する責任がある。
小泉首相に捧げる内村鑑三の警句
最後に、最近知る機会があった内村鑑三の諸言集のなかから、次の言葉を小泉首相に捧げたい。
「意地と主義
意地と主義とはその外形において相類す。
しかもその内容において相反す。
意地は我意の固執なり。主義は真理の奉戴なり。
意地は自己のためにして、主義は美徳なり。
ゆえに意地は害悪にして、主義は美徳なり。
吾人、意地を張るを称して主義を守ると唱うべからざるなり。」
(『聖書之研究』1904年12月より)
(注) この語録は、精神的自由権をめぐる言論史を調べている中で、web上で知った次の資料を参照したものである。目下、勤務先の附属図書館に所蔵されている、内村鑑三、矢内原忠雄、南原繁などの著作集を調べている。上記の語録も原文で確認しなけれればと思っている。
http://uchimurakorea.hp.infoseek.co.jp/uchimura/goroku/goroku.htm
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