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NHK副会長、永井多恵子さんの公共放送像を読んで

 『朝日新聞』の文化芸能欄で、「公共放送像を語る」が連載されている。9月15日の第8回(最終回)にはNHK副会長の永井多恵子さんが登場し、自身の公共放送像を語っている。NHK幹部が何かを発言しても、テープレコーダーに吹き込まれた「公式見解」を聞かされるような無味乾燥な思いをするのが常だが、永井さんの語りからは、随所に組織人としての縛りが窺えるにしても、言葉の端々からNHK改革にかける使命感としなやかな知性が伝わってきた。以下、永井さんの発言を抜粋しながら、感想を挿入していくことにする。

思考空間の個別化、固定化がもたらすものは?

 「現況の受信料支払率は7割で、この数字を向上させることに全力をあげなければならないが、『罰則なしで、この数字はすごい』というのが率直な感想だ。」

 私も同感である。メディア研究者の中には、「受信料はお賽銭みたいなもの。3割も払っていない現状では受信料制度は崩壊したのも同然」という人がある。しかし、私は受信料は視聴者がNHKに一方的に収める「施し」ではなく、視聴者が言論、文化、娯楽の共同空間を作り、維持するために拠出しあう負担金だと思っている。平たく言えば、受信料制度とは自分が見たい番組を制作する財源を他の視聴者の拠出に頼る反面、他の視聴者が見たい番組の制作費を自分も拠出する共助システムといってもよい。そして、多くの視聴者の視聴体験をつなぎ、それを互換し合って様々な言論の出合いの場を創るのが公共放送の役割ではないかと思っている。

 この共助システムに加わらない人(不契約者)はどこで、どんな情報を得ているのだろうか? 多くは各自の生活空間(自室?)の中でパソコンでつながったネットから自分の好みにあった情報を随意に手に入れているようだ。いや、多くの若者の情報源はパソコンではなく、携帯であるらしい。そこから、どれほどの質量の情報が得られているのだろうか?
 「自分の好みに合った」というと聞こえはよい。しかし、そこから、異なる意見や体験に触れて、自分の既成の観念や思考を相対化し、研ぎ澄ます機会にどれほどめぐり合えているのだろうか? 異論に対する不寛容や他者からの批判に「切れやすい」若者、大人が増えている現象と、こうした思考空間の個別化、固定化は関係していないのだろうか?


意見のるつぼの中から共感を生み出すこと

 「NHKの役割とは、放送を通じて『公共』の時間と空間を作り出し、意見のるつぼの中から人々の『共感』を導き出すことだと思う。そのために大切にしたいのが質。娯楽番組も同じで、ドラマでは脚本家に良い本を書いてもらうために段ボール箱に何箱もの資料を集めたり、一緒に徹夜で議論をしたりする。質こそ絶対譲れないというのが、公共放送としての『一分』だ。」

 「公共の時間と空間における意見のるつぼの中から共感を導き出す」という言葉に注目したい。先日、WEBで資料調査をしている最中に、電通4代社長の吉田秀雄氏が残した「鬼十則」に出合い、その十番目に「摩擦を恐れるな。摩擦は進歩の母、積極の肥料だ。でないと、きみは卑屈未練になる。」という戒めがあることを知って考えさせられた。最近、自分の周辺でも、摩擦を恐れ、大勢になびく人がなんと多いことかと感じていた矢先だけに、この言葉が目に止まったのだと思う。いや、私の周辺だけでない。昨今、日本の社会全体に、思考停止の状態で大勢になびく空気がただよっているのではないか? どこかの国では与党第一党の党首選びが進行しているが、最有力候補に我も我もと支持者が群がり、早くも党役員や大臣ポストの待合室があふれているという。

 しかし、この間、当の最有力候補は、外交問題にまで発展した靖国神社参拝問題に象徴される歴史認識について、「後世の史家が判断すること」と嘯いて口を閉ざしている。他の候補も靖国神社参拝問題は争点にしないという談合にいち早く合意している。しかも、この点を質した上で支持・不支持を判断しようという動きは党内に見られない。どうやら、判断の基準は政見ではなく、「勝ち馬は誰か」にあるらしい。

 (ちなみに、私が吉田秀雄氏の鬼十則に出合ったサイトには、次のような裏十則があることも紹介されていた。
  「(10) 摩擦を恐れよ。摩擦はトラブルの母、減点の肥料だ。でないと君は築地のドンキホーテになる。」)  

他者の思考に触れ、自分の思考習慣が動揺するとき、新しい思考が始まる

 よく、公共放送の「公共」とは言論の公共空間を設けること、といわれる。では、「公共空間」を必要とする理由は何なのか? 私はそれを解くヒントは、
「他者の思考に触れ、それによって現代の思考習慣が動揺するとき、私たちの思考は始まる」(斉藤純一『公共』岩波書店、2000年、26ページ)という言葉に込められていると感じている。そして、ここでいう「他者の思考や体験に触れる」もっとも身近で共通の場が放送、それも視聴率やスポンサーを気にしないで番組を制作できる公共放送ではないか。

 ただ、この場合の「共感」は国家が市民に無理強いするものではないし、公共放送が誘導するものでもない。市民一人一人が他者の思考や体験との摩擦、自省の中から生み出すものであること、公共放送が対立する問題について多様な意見を伝えるよう義務付けられているのは、市民が異なる意見のるつぼの中から自律的に自分の意見を形成する材料を提供するためであること、を銘記したい。

公共性を育むのは視聴者、しかし、それは視聴者迎合を意味しない


 「NHKを定年で退職した後、私は公立の文化センターの運営を任され、地域の人々と接しながら『公=パブリック』とは何かを考えた経験がある。公共性というものは本来、そこに住んでいる人、暮らしている人と生み出していくものだと実感した。
 ただ、住民のみなさんの趣味嗜好に合わせたものばかり創るのは危険だとも感じた。常に時代の先を見る必要性もある。」


 私が参加している視聴者運動団体には、いまでもNHKの集金人の横柄な対応、視聴者の苦言にもなしのつぶてのNHKに憤った方々からの声がメールや電話で寄せられる。それに応対しながら、「公共放送とは本来、視聴者とNHKの協働で生み出していくもの」という理念がNHKの日々の経営や番組編成に浸透していたら、これほどの受信料不払いは生まれなかっただろうとつくづく感じさせられる。それには、「視聴者、お客様のご満足のために」と、視聴者を「お客様」扱いするNHKのカルチャーを変革することが第一歩である(NHKのホームページの下記サイト参照)。
  http://www.nhk.or.jp/css

 後段の「視聴者の嗜好にあわせるばかりでは危険」という永井さんの指摘に私は大いに賛同する。『週刊金曜日』編集長の北村肇さん、今年の5月17日付けで、日本ジャーナリスト会議の「リレー時評」欄に「新聞が重要な記事を書かない理由」と題する論説を寄稿している。その中で北村さんは、王ジャパンが野球世界一になったニュースを号外まで出して伝える一方で、共謀罪法案の動きをほとんど伝えない大手各紙のことを次のように批評している。

 「全国紙はスポーツ記事を書くなとか、小さく報じろというつもりはない。しかし、だ。新聞がネット時代を生き抜くためには、利点を前面に押し出すしかない。最大のポイントは『価値付け』である。今日の主なニュースはこれこれ。重要度の高い順に並べるとこれこれ。この『価値付け』こそ、プロのジャーナリスト集団にしかできない『技』であり、これがきちんとできてさえいれば、新聞が息絶えることはない。」


 そもそも新聞は時に、読者に記事を押しつけなくてはならない。『スポーツは楽しいでしょう。でも共謀罪の危険性を知り反対することはもっとはるかに重要です』。こういうメッセージを伝えなければジャーナリズムではない。生活保守主義が小泉流ポピュリズムを生んだといわれる。共謀罪より野球世界一のほうが重要という価値付をする新聞も共犯だ。」

 北村さんの指摘はNHKにも当てはまると私は体験的に感じている。5月の連休に帰省して夜7時のNHKニュースを見ていると、松井秀樹が3ヶ月ほど治療が必要な骨折をしたニュースを取り上げていた。それだけならわからないではないが、街頭を歩く市民数人に「松井負傷のニュースをどう思いますか」とマイクを向ける場面も含め、私の記憶では延々と15分ほどこのニュースに時間を割いていた。その次に、広島原爆症認定基準の拡大を命じた判決のニュースが1分ほどで終わったこともあって、その後、北村さんのいう「報道の価値付け」を考えさせられた。

 永井さんの上記の言葉がどこまでNHKに浸透し、目に見える形で現れてくるのか―ー視聴者が待ったなしにNHKに求めているのは、「言葉」ではなく、「実践」である。

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わいろ献金お助け判決―熊谷組政治献金判決を考える―

熊谷組の政治献金をめぐる係争事件の争点
  8月30日、福井地裁は熊谷組(本店福井市)の政治献金をめぐって争われた株主代表訴訟で原告(株主オンブズマン)の訴えを退ける判決を言い渡した。この件では数日前に『朝日新聞』福井総局と『毎日新聞』福井支局から判決に対するコメントの依頼を受けた。判決の翌日の両紙朝刊に掲載された記事は次のとおりである。私の元のコメントはもっと長いが、紙面の制約からかなりカットされた。

『朝日新聞』福井版、2006年8月31日
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kumagaigumi_kenkinhanketu_asahi.pdf

『毎日新聞』福井版、2006年8月31日
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kumagaigumi_kenkinhanketu_mainichi.pdf

  この訴訟の争点は、①熊谷組が1993~99年にかけて自民党長崎県連に対して行った政治献金(総額2500万円)は見返りとして諫早湾開拓企業に関連する公共事業の受注を期待したわいろにあたるのかどうか、②本件献金は国民の参政権、国民主権を侵害するものかどうか、③本件献金は株主の政治的信条の自由を侵害するものかどうか、④本件献金は熊谷組の定款の目的の範囲外の行為かどうか、⑤本件献金は選挙に関して寄附を行うことを禁じた公職選挙法第199条1項に違反するのかどうか、⑥本件献金は取締役の善管注意義務に違反するのかどうか、という点であったが、福井地裁判決はいずれの争点についても原告の訴えをほぼ全面的に退けるものであった。

見返りを期待すればわいろ、見返りを期待しなければ会社財産の目的外浪費
ーー政治献金に宿る二律背反ーー

  もともと、企業の政治献金は、見返りを期待するものであればわいろにあたり、見返りを期待しない(できない)ものであれば、取締役が株主から受託した財産を会社目的外に浪費したこと、つまり、取締役の職務遂行上の善管注意義務違反が成立するという二律背反の原罪を背負っている。今回の判決で私がもっとも注目したのは、企業の政治献金に宿るこのジレンマを裁判所がどのように裁くのかという点だった。これを本件の争点にあてはめていうと、争点①で被告無罪(見返りを期待した献金でない)となれば、争点⑥で被告有罪(会社財産の目的外浪費)とならざるを得ず、逆に争点⑥で被告無罪となれば、争点①で被告有罪とならざるを得ないのである。

  もっとも、争点①と争点⑥は同じ次元で両立するしないを論じられる性格の問題ではない。なぜなら、株主は違法行為を犯してまでも取締役に会社の利益を追求するよう期待することはできないから、争点①に関してある献金が違法と判断されれば、争点⑥に関して、その献金が会社に利益をもたらすと期待できるものであっても、そのことをもって争点①の違法性が相殺免責されるものではない。

福井地裁は政治献金に宿る二律背反をどのように裁いたか?
  上記の二律背反に関する福井地裁の判断は次のとおりである(以下、「判決要旨」より引用)。

  「熊谷組がほかのゼネコン各社とは全く異なる理由で本件寄附をしたという被告らの主張に副う各証拠をそのまま信用することはできず、少なくとも、本件寄附には、公共工事の受注上の不利益を回避する目的があったことは否定できないと認められる。
  そして、このような性質を有する県連に対する寄附は、発注先である県と企業との間の癒着を招き、贈収賄等の犯罪の温床となる危険性を有するから、コンプライアンス重視の観点からすれば、可及的に解消されることが望ましいといえる。」

  「しかしながら、熊谷組が営利法人であることを考慮すれば、競合する多数の会社が政治資金を寄附している状況下で、寄附を拒否することによって生ずる営業上の困難を防止するという意味で、本件寄付が会社の利益となっていたことは否定できないから、本件寄附をもって、熊谷組の目的の範囲外の行為であるということはできない。」

  一読してわかるように、判決は争点⑥では本件寄附が公共事業の受注に絡んで会社の利益に資するものであったことを認めた。そのうえで、争点①に関しても、一般論として企業の政治献金は贈収賄の温床になる危険性を有するから可及的に解消されることが望ましいとも述べている。
  ところが、本件寄附のわいろ性はどうかとなると、次のように述べて争点①についても被告無罪の判断を導いている。

  「長崎県連に対する寄附と長崎県からの公共工事の受注額との間に明確な相関関係があるとはいえないから、本件寄附が賄賂に近いものであると評価することはできない。」

  つまり、原理的にいえば、被告にとって二律背反の争点①と⑥について、福井地裁は「寄附と工事受注額の相関関係」という新たな判断基準を挿入することによって、本件寄附が会社の利益に資する見返りを期待できるものであることを認めながら、そのわいろ性を否定するというレトリックを仕立て上げたのである。

献金額と工事受注額の相関関係を使い分けて二律背反の宿罪を放免した判決
  しかし、争点①に関して寄附と工事受注額の相関関係を判断基準にするのであれば、争点⑥に関しても同じ相関関係を判断の拠り所にするのが首尾一貫した判決というものである。とすれば、同業他社との対比で寄附の額に比べて受注額が不相応に少ない分(わいろ性が乏しいと見なされる根拠になった対価性がない分)は会社財産の目的外浪費にあたると判断し、取締役の責任を問うのが道理である。ところが、判決は、争点⑥に関しては寄附と受注の金額の相関関係には何ら言及せず、献金をしなかった場合との対比で献金の効果を認定している。

  反対に、判決が争点⑥で示したように、同業他社との相対関係で献金と受注額の相関性を問題にすることなく、献金が会社の利益に資する効果を期待できるものであったとみなすのであれば、争点①で献金が見返りを期待するわいろにあたると認定するのが首尾一貫した判断である。

  このように献金額と工事受注額の相関関係を便宜的に使い分けて、原理的には二律背反の争点①と⑥を「双方両立」を導くよう仕立て上げたところに今回の福井地裁の最大の特徴がある。私が今回の福井地裁判決を「わいろ献金お助け判決」と評したのは、つぎはぎの判断基準で本件政治献金のわいろ性を退け、とにもかくにも被告無罪に着地する苦肉のシナリオを仕立てあげたと考えたからである。

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