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NHK裁判控訴審判決に関する「停止運動の会」の見解

 NHK受信料支払い停止運動の会は昨日、NHK裁判控訴審判決(1月29日判決)に関する見解をまとめ、今日、NHK橋本元一会長宛てに郵送することになった。その全文は以下のとおりである。
 なお、この見解は、「NHK受信料支払い停止運動の会」のホームページにも掲載されている。
http://blog.goo.ne.jp/shiharaiteishi/e/468fdb8b2c793e4e2f5d86da64cc690e

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NHK
会長
橋本元一 様

2007131

番組改編の責任を認めて上告を撤回するようNHKに要求する

――NHK裁判の東京高裁判決に関する私たちの見解――

NHK受信料支払い停止運動の会

1.129日、東京高等裁判所(南敏文裁判長)は、2001130日に放送されたNHKETV番組「問われる戦時性暴力」の改編問題をめぐる控訴審判決において、番組改編に関するNHKほかの不法行為責任を認め、原告VAWWNET JAPAN 200万円の損害賠償を命じる判決を下した。しかし、NHKはこれを不当判決と称し、最高裁判所へ即日抗告した。

2.本件番組改編事件の内部告発と報道を契機に発足した当会は、政治に弱いNHKの体質を改め、政治から自立した公共放送を確立するよう、訴え続けてきた。この意味で、当会は、NHKの番組改編行為を、憲法で保障された編集の自由を乱用し、自主、独立を内容とする編集の自由を自ら放棄したものと断じた今回の東京高裁判決を高く評価する。NHKはこうした判決の重みを真摯に受け止め、政治におもねる体質をいまこそ清算すべきである。

3.判決はNHKによる上記のような番組改編は番組制作に関わった原告らの期待権、信頼の利益を侵害すものであったこと、NHKが番組改編の経過を原告に説明しなかったことは番組からの離脱を含めた原告の自己決定権を侵害するものであったこと、を認めた。

 こうした「期待権」の乱用が許されないことはいうまでもないが、もともと、メディアの編集の自由は、自己充足的なものではなく、視聴者の知る権利に奉仕する意味で尊重されるべきものである。この意味で今回の判決が、NHKの編集の自由を絶対視せず、「編集の自由」の名のもとに、政治家との関係で編集の自由を放棄したNHKを断罪したことは極めて全うな判断と評価できる。

4.他方、判決は、問題の番組改編の過程で、国会議員らの関与があった事実は認定しながらも、番組改編の主因はこれらの言動をNHKが「必要以上に」忖度した結果生じたものであるとし、番組制作への政治家の直接の介入を否認した。そして、干渉の疑惑を受けた安倍晋三氏はこの判決により、政治介入がなかったことが証明されたとコメントしている。

 しかし、番組放送日の前日にNHK幹部と面会した際、安倍氏(当時、官房副長官)が番組の主題であった「従軍慰安婦」問題について持論を語ったうえで、「公平公正にやるよう」発言すること自体、番組制作への牽制・干渉にあたることは動かせない事実である。まして、安倍氏が「従軍慰安婦」問題に関する日本政府の責任を認めた河野談話に敵愾心を燃やす「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の事務局長(当時)として、「従軍慰安婦」問題を学校教科書から削除するよう強硬に主張していたことは周知の事実であった。こうした背景に照らせば、安倍氏との面会の場で同氏から前記のような発言を受けたNHK幹部がその後、あたふたと番組改編に着手したことを「必要以上の」忖度とみなすのは不正確な事実認定と言わなければならない。したがって、当会は今後も安倍氏らの番組干渉発言の違法性(放送番組への干渉を禁じた放送法第3条違反)を厳しく追及しながら、NHKに対して政治からの自立を促す運動を継続していくことが重要と考える。

5.以上から、当会はNHKに対し、上記2~4で指摘した今回の判決の重みを真摯に受け止め、最高裁への上告を撤回するよう、要求する。

以上

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違憲の手続きで改憲を誘導する国民投票法案

 主権者の注視と意思表示が急務 : 与党と民主党の修正協議
 改憲の手続きを定める国民投票法案について、与党が民主党の主張を取り入れた修正に応じた場合、25日から始まった通常国会で法案が成立する公算が強まったと報道されている(『毎日新聞』2007年1月23日朝刊)。
 では、与党と民主党の協議で与党修正案のどこがどう変わるのか、それは法案全体の骨子を変えるものなのかどうかを国民が注視し、判断の意思表示を発信することが急務と感じる。
 そのための参考資料として、自由法曹団のホームページに掲載されている<改憲手続法案 与党案・民主党案と『修正案』>の比較表を紹介しておきたい。
   http://sdaigo.cocolog-nifty.com/tohyohoan_hikakuhyo.pdf

財力が物をいう有料広告を放任
 国民投票のための広告放送をどの程度、制限するのかが論点の一つになっている。これについての与党修正案と民主党修正案を比較すると、次のとおりである。

 与党修正案 :
   投票日の14日前から投票日まで禁止
 民主党修正案 : 次の3案を検討
   A.14日前から禁止
   B.14日前から禁止、かつ賛否平等扱い
   C.発議した日から禁止

 上記の『毎日新聞』記事によると、これについて、与党と民主党は双方の共通項、すなわち、「14日前から禁止」で合意に至ったと伝えている。
 察するところ、民主党が、他に2案を並列したとはいえ、与党修正案と同じ案を掲げること自体、協議の落としどころをはじめから用意したのも同然ではないだろうか? かりに、このA案に「賛否平等扱い」を追加しても、有料広告となれば、財力の格差で広告量に差がつくのは歴然としており、賛否の平等扱いは形骸と化すことは容易に予見できる。また、この意味では14日前までならOKとするのも小手先の規制に過ぎない。
 憲法改定という国の基本に関わるテーマをめぐる報道を、多数与党の意思で決まる法案で規制すること自体が誤りである。こうしたテーマの報道のあり方はメディアの自立的判断と有権者の監視に委ねるのが道理である。

 改憲ラインを作為的に引き下げるトリック
 何をもって改憲が承認されたと判断するのかという基準は、投票の帰趨を左右する重要な論点である。これについて、与党修正案と民主党修正案を比較すると、ポイントは次のとおりである。

  与党修正案 : 投票総数の2分の1超 
            投票総数=賛成票+反対票、とする。
  民主党修正案 :                       
          A.賛成は自書、記載なしは反対と分別する場合は、
            投票総数の2分の1超
          B.「賛成」○、「反対」×の自書の場合、あるいは、
            「賛成」、「反対」、「棄権」から選ぶやり方の場合
           は、
            投票総数=賛成票+反対票、とする。

 一見してわかるように、与党修正案も民主党修正案も大同小異である。「棄権」の選択肢を設けることで、国民の意思にかなう形式が揃えられたかに見えるが、「2分の1超」かどうかを判定するときの「投票総数」に棄権や白票を加えない点では与党修正案も民主党修正案も共通している。しかし、これでは、「投票総数」の真相は「有効投票数」にほかならない。投票率の下限が設けられないことと併せ、こうした母数の作為的引き下げが可決ラインの作為的引き下げを意味することは容易に察知できる。

言論・表現活動の重大な侵害
 与党修正案も民主党修正案も、国民投票運動において、国家公務員法、地方公務員法等における政治的行為の制限規定を適用しないことにしている点は共通している。公務員の政治的行為を一律に(休日も含め)禁止した現行法自体に問題があるとはいえ、特定公務員(選管委員等)の国民投票運動にそれを適用しないとしたことは、その限りでは評価できる。
 しかし、与党修正案も民主党修正案も、「地位利用による国民投票運動の制限」なる項を設け、公務員等や教育者の国民投票運動を禁止している。これについて、与党と民主党は「違反について罰則はしない」という点で合意したと伝えられているが(前記、『毎日新聞』)、行政処分の対象にはなるとみなされている。
 これでは、国家公務員法、人事院規則による規制から外れた大学法人の教員などは、国民投票法案の成立を機に、言論・表現活動に逆戻りの規制がかけられることになる。
 しかし、このように、改憲派が大々的に手がけることが可能な有料広告には規制を設けないか、緩和する一方、財力で対抗できない教育者らの言論活動を禁止するのでは、身勝手な改憲手続き法案というほかない。

 そもそも、「政治活動の自由は、単なる政治的思想、信条の自由のような個人の内心的自由にとどまるものではなく、これに基づく外部的な積極的、社会的行動の自由をその本質的性格とするものであり、わが憲法は、参政権に関する15条1項、請願権に関する16条、集会、結社、表現の自由に関する21条の各規定により、これを国民の基本的人権の一つとして保障しているのである」(猿払事件最高裁判決、1974年11月6日、における少数意見より)。
 とすれば、憲法で保障された国民の参政権、請願権、表現の自由を含む政治活動の自由がもっとも発揚されてしかるべき憲法改定論議の過程で、そうした国民の基本的人権に逆に制限を加える国民投票法案は、違憲の手続きで改憲を誘導する悪法と称して過言ではない
 一国の運命が左右されかねない憲法改定の手続きを、与野党の「出来レース」に近い修正協議で決しようとする状況を市民は座視してはならない。

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受信料義務化問題を考える

  スーパーモーニングに生出演して
  3日前、テレビ朝日のスーパーモーニングの制作スタッフから連絡があり、17日の番組枠の中でNHK受信料義務化問題を取り上げるが、この問題をどう考えるか?という取材を受けた。ひととおり意見を述べると、ビデオ出演をという依頼になった。ところが、前夜になって急遽、生出演をという依頼に変わり、結局、9時15分ごろから約15分間、義務化支持の松原聡さん(東洋大学教授)と対論することになった。
 局入りしてスタートまでの間に、番組チーフ・ディレクターのMさんから台本の説明を聞いた。しかし、一つ前の遺体バラバラ殺人事件の放送が延びた分、受信料義務化問題の放送枠が削られ、スタッフが用意したパネルは半分ほどしか使わず、進行案の6割程度で時間切れとなった。そのためか、放送後、多くの友人から「時間不足だった」という感想メールをもらった。
 そこで、このブログで松原さんとの対論で浮かび上がった論点を整理し、補足をしておきたい。

 義務化を法律で定めるのか? 契約に委ねるのか?
 
松原さんは義務化賛成の理由として、「当然の義務が守られていない状態を改めるため」とさりげなく発言した。これに対して、私は、「義務といっても、それを法律で定めるのか、契約で定めるのかはまったく異質」と発言した。なぜなら、受信契約は視聴者とNHKが交わす双務契約(権利と義務を分かち合う契約)である以上、NHKが公共放送としての責務、とりわけ、昨年3月にNHKが発表した新放送ガイドラインで、NHK自らが「生命線」と言い切った政治からの自立、が履行されないなら、視聴者はそれに対して、自らの義務(受信料支払い義務)の履行を停止するという抗弁が当然可能だからである。
  この点は戦後、放送法制定に関わった当事者や放送法の沿革史を研究した文献で早くから指摘されてきた。たとえば、放送法制定にかかわった元郵政省電波監理局次長の荘宏氏は、放送法に受信料の支払い義務制ではなく、契約義務制を盛り込んだ理由を次のように解説している。

   「(支払い義務制ではなく、契約義務制にしないと)受信者は・・・・・自由な契約によって金も払うがサービスについて注文もつけるという心理状態からは遠く離れ・・・・・・NHKを国民の総意によって設立し、国民の総体的支援によって維持し、NHKはその支持にこたえて公共奉仕に務めるようにしたいという放送法の基本方針にそわない」。
  (荘宏『放送制度論のために』1963年、日本放送出版協会)

  また、契約法の研究者も次のように記している。

   「国民的支援に支えられた番組編成、経営基盤(財源)の自主独立性を堅持し、国民の総意に沿ったサービスの提供に努めうる諸環境を存続させるためにも、NHKに完全な特権的、徴税的な心理を育成する方向には絶対に進むべきではなく、そのためにもNHKと受信者が受信契約の締結という行為を介して形成され、育成された相互信頼関係はその範囲で価値あるものであり、現行放送法32条は、それなりに評価に価(ママ)する規定である。」
   (河野弘矩「NHK受信契約」遠藤浩・林良平・水本浩監修『現代契約法大系』第7巻、サービス・労務供給契約、1984年、有斐閣)

  不払い問題と未契約問題の混同
  放送中、松原さんは何度か発言したが、彼が支払い義務化を支持する理由は、「今のままでは払っている人と払っていない人の不公平が続く」という議論に尽きていた。NHKや一部の与党政治家が言っていることのおうむ返しである。「これで識者なのか」というのが横で聞いていた私の率直な感想だった。
  松原さんの議論の問題点は一言でいえば、受信契約を結んだうえで支払いをしていない視聴者と、そもそも受信契約を結んでいない(したがって支払いもしていない)視聴者を意識的にか無意識的にか混同している点にある。NHKが発表したところでは、それぞれの概数は、前者が110~130万件、後者が1000万件である。
  ここで確認しておかなければいけないのは、受信料の支払い義務を法定することで対処しようとするのは前者であって、その約8倍に達する未契約者の問題は義務化を法定しただけでは解決しないということである。なぜなら、受信料の支払い義務は契約を締結していることを前提にしており、未契約者にその効力が及ぶわけではないからである。

  もっとも、受信機を置いていながら、受信契約を結んでいない視聴者を相手どってNHKが放送法32条を根拠に民事裁判を起こし、受信機のみなし設置日にさかのぼって受信料の支払い義務を適用するという手続きも考えられないではない。
  しかし、未契約者が受信機を設置しているかどうかの立証責任はNHKが負う以上、それを確認するために家屋に立ち入る権限をNHKが持ち合わせるのかとなると法的にも物理的にも実現の見込みは乏しい。また、それ以前に、受信機を置いただけでNHKを視る視ないに関係なく、NHKと受信契約の締結を義務付ける現行放送法の32条は思想・信条の自由を定めた憲法19条に反しないのかという根源的な議論が浮上するのは必至である。

  このように見てくると、受信料の支払い義務の法定で、受信料を払っている人と払っていない人の不公平が解消するかのように語るNHKや与党の一部政治家、そしてそれを受け売りする松原さんの議論がいかに実態無視のナイーブな議論であるかは、たちどころに判明するのである。この点で受信料の「不払い問題」と「未契約問題」を丸めて、不公平感の解消を喧伝する松原さんの議論は複雑な問題を単純化する一種のレトリックといってよい。

  今、必要なことは視聴者の義務の強化ではなく、権利の強化
    このように見てくると、受信料不払い問題、未契約問題の解決のためには、迂遠できれいごとのように聞こえても、受信料でNHKを支えようという視聴者の意識を培うNHKの努力をおいてほかに方策はないというのが私の結論である。
 そんな悠長な議論をする時期はとっくに過ぎているという反論があるかも知れない。しかし、NHKが強制法を後ろ盾にして、不払い者、未契約者をぎりぎり追い詰めるとしても(執行コストの点から言って、くまなく追い詰められるものではないが)、視聴者が甘んじてそれに従い、そっくり増収になると考えるのは甘い皮算用である。私が見るところ、そのような強行措置に対して、相当数の不払い者は、不払い→支払い再開ではなく、不払い→契約解除という行動を選択するのではないかと思われる。特に、若年層では、いまやテレビは視聴の一手段でしかなく、携帯やパソコンでテレビに代わりうる状況にある。
  もっとも、現行法を遵守してNHKと解約するには受信機を撤去しなければならないとなれば、
  ①本当に撤去したうえでの解約通知なのかどうかをNHKは確認するすべがあるのか? そうした作業を実行するコストは果たして支払い再開の増収とペイするのかどうか?
  ②NHKと解約しても民放は視る意思がある視聴者に、それでも受信機の撤去を迫るとなれば、「受信料を量り売り制にしてほしい」という声が噴出するだろう。また、上記の憲法論争に火がつく可能性も多分にある。

  このように予見すると、「双務契約の規律に依拠した受信料制度」という原則は理想論で終わるものではなく、現実論としても唯一可能な制度と思われる。問題はむしろ、受信料でNHKを支えようという視聴者の意識をいかにして醸成するのかという点である。これに関して私は、「権利行使の機会あっての義務の履行」という双務契約の原点を再認識する以外ないように思う。具体的には、
  ①経営委員の公選制、公募制の採用
   ②NHK会長を選任する際、当面、数名の候補者を視聴者から自薦・他薦で募り、そのなかから経営委員会が決定するといった間接的公選制を採用する。
   ③番組審議会委員を公募制にし、NHKではなく経営委員会が応募者のなかから選出する仕組みに変える。
   ④韓国の公共放送KBSが「開かれたチャンネル」という名称で採用しているような、放送時間枠の一部を市民に開放し、市民が企画・制作した番組をその枠内で放送するという制度を採用する。
   ⑤視聴者が参加する番組批評懇談会(仮称)を定期的に編成し放送する。

  食べてはいけない毒入り饅頭
  総務省は近く開会される通常国会に受信料義務化を盛り込んだ放送法改訂法案を提出する予定と伝えられている。しかし、義務化だけでは視聴者は納得しないとして、受信料の2割程度の値下げをNHKに要請するとも伝えられている。
  しかし、受信料の支払い義務を法律で定めるのか、受信契約で定めるのかは、NHKと視聴者のあるべき関係という視点から判断されるべき公共放送の本質的な問題である。他方、受信料の水準の適否は番組編成の全体像、NHKの財務の観点、関連会社への投資とその見返りのあり方等も含め、別途検討されるべき問題である。両者を絡め、値下げをまぶして義務化を通そうとする総務省の目論見は、「食べてはいけない毒入り饅頭」である。
 また、その「饅頭」自体も、不払いから契約解消へと流れる視聴者の趨勢、義務化や契約締結強制に要する執行コスト次第で空手形に終わる可能性が小さくない。視聴者の見識が問われる時である。

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ワーキングプアⅡを視聴して

 「ワーキングプアⅡ」をめぐるふれあいミーティングに応募
 昨年12月10日にNHKスペシャル「ワーキングプアⅡ~努力すれば抜けだせますか~」が放送された。このほど、NHKはこの番組の視聴者とともに、「番組が提示した日本の深刻な現状に対して、今私たちに何ができるのか、この現状にNHKが今後どう取り組むべきなのか、番組制作者とともに考え」るふれあいミーティングを行うことにした(2月3日)。詳しくはNHKオンラインにアップされた次の記事で説明されている。
http://www.nhk.or.jp/css/comunication/boshu/

 1回目の場合同様(このときは抽選もれ)、今回も上記の記事にセット・アップされた「エントリー・フォーム」から、E・メールで参加希望を送った。
   また、エントリー・フォームには、この番組に対する意見・質問(400字以内)、その他NHKの番組について普段感じていること(400字以内)を書く欄が用意されていたので、次のような感想・意見を送った。

 「ワーキングプアⅡ」への意見・質問
 「『生活保護制度は怠け者を生む、不労を助長する』という議論が一部の識者からまことしやかに喧伝されています。今回の番組は、ナレーションの最後にあった『私たちが取材した誰一人として、自助努力をしてこなかった人はいなかった』という言葉に集約されるように、こうしたモラル・ハザード論が現実を直視せず、社会的弱者に背を向ける議論であることを浮き彫りにしたと思います。
 今後の企画への希望として、全国各地の社会福祉事務所で、生活保護の申請を窓口でけちらす行政がまかりとおっている実態にも迫っていただきたいと思います。」

 その他NHKの番組について普段から感じていること
 「夜7時のニュースを視て思うことですが、限られた時間枠のなかで、『何を放送するか、取り上げるか』という価値付けが恣意的であると感じる場合が少なくありません。大リーグでの日本選手の動静、球団移籍をめぐる動きをたびたび事細かに放送することが公共放送の役割とは思えません。
 視聴者のうつろいやすい関心事におもねることなく、有権者に政治、経済、社会問題を考える題材を提供し、異なる意見と触れ合う公共空間を形づくるという使命を自覚してほしいと思います。」

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国際命令放送再論

 「命令」を「要請」に―ー姑息な言葉いじりーー
 総務省は放送法にある、NHKのラジオ国際放送に対する「命令放送」の条文を「命じる」から「求める」に改めるとともに、NHKに「求め」を応諾する義務があるとする規定を追加する方針を固めたと伝えられている(NIKKEI NET/2007.1.10/07:00)。「要請」と改めることで「番組編集の自由の侵害」という批判をかわすねらいがあるようだが、「応諾義務」を付した「要請」という用語は一種の形容矛盾であり、人を喰った表現といっても言い過ぎではない。
 また、総務省は放送命令にあたっては「番組編集の自由を尊重する」との規定を新設するとも伝えられている(NIKKEI NET、同上)。しかし、2006年11月3日の記事でも触れたように、
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_de1b.html
放送すべき課題の選択は自立した番組編集であるための大前提であり、国から指示された課題をどう編集しようと、放送の自由の生命線が侵害された事実を治癒できるものではない。

政府からもBBC本体からも自立したBBCワールド
 
では、英国で国際放送を担うBBCワールドの場合はどうなのか? これについてメディア研究者の門名直樹氏が興味深い議論をしておられるのを知った(以下、NIPPORO, 2007 January)。BBCワールドは運営経費の91.1%を政府からの交付金に依存しているが(BBC, Annual Report, 2005/2005)、外務省と交わした合意文書で編集経営は完全に独立することが定められている。さらに興味深いのは、政府からだけでなく、BBC本体からも自立している点である。たとえば、2001年の9.11事件や2005年のロンドン同時爆破事件の際、BBC本体が「テロリズム」と伝えたのに対して、BBCワールドは「アタック」と表現したという。視聴者の中にイスラム教徒もいるためと考えられるが、「国益を背負わない」という信念において彼我の差は歴然としている。

 国内放送も指定公共機関制度で縛られるNHK
 NHKオンラインにリンクされている第1031回経営委員会(2006年11月14日開催)議事録を調べると、大学教員の某経営委員は、命令放送を受諾したNHK首脳の姿勢に疑義を呈する別の委員の発言に対し、「これはあくまでも国際放送に関する話です。国内放送には『命令放送』という規定はなく、命令により戦前のような放送となるわけではない」と発言している。しかし、これは通称「有識者」らしからぬ木を見て森を見ない皮相な見解である。なぜなら、根拠法は違うが、国内放送も「指定公共機関」にNHKが指定されたことで、「有事」の際には政府が定めた放送責務によってNHKの番組編集が縛られる体制がすでに出来上がっているからである。

 この件で、NHKは2003年12月11日に意見を提出している。しかし、その要旨は、NHKは「指定公共機関を受けるかどうかにかかわらず、視聴者・国民に伝わるよう、公共放送として組織を挙げて全力で取り組む方針です」という無内容なものである。そして、条件付きとはいえ、指定そのものは受け入れている。政治との摩擦を避けたい一心のこうした言い回しは、国際命令放送の場合と軌を一にするものであり、ジャーナリズム精神はみじんも感じられない。

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飼い犬の死と向き合って

 昨日(9日)午後1時2分、わが家の姉犬チビが息を引き取った。翌10日、近くの動物霊園「やすらぎの郷」で火葬した。享年16歳。
 
 メニエル病から認知症へ
  チビとわが家の縁は、このブログの昨年4月11日付けの記事「啄木の犬の歌に寄せて」のなかで触れたとおりである。
  そこでも書いたが、一昨年12月4日、突然、横転を繰り返しながら、ぐるぐると時計回りに歩き出すメニエル病の症状が現れた。投薬と点滴で2週間後には食欲も回復し、スローペースながら妹犬といっしょに散歩にも出られるようになった。
  しかし、発病を機に声が出なくなり、飼い主の呼びかけにもまったく反応しなくなった。目も見えにくくなったようで、遠近感覚がなくなり、物にぶつかることが多くなった。動物病院の担当医に言わせると、人間でいう認知症とのこと。そんな自分に不安を感じたのか、発病以来、居間から離れようとせず、食卓や台所にいる連れ合いや私の足元にまつわりつく室内犬に様変わりした。

 冬場になって再発、新たに膣脱
  
こういう状況で昨年12月まで小康状態を保ったが、冬場になるにつれ、メニエル病の再発を思わせるような傾斜歩行がぶり返し、横転することも多くなった。1年前の発病のころはバレーの回転レシーブのように、横転してもすぐさま自力で起き上がったが、今回は転ぶと仰向けになったまま、両足で水をかくような仕草をするだけで、もはや自力で起き上がることはできなくなった。排便にも失敗するようになり、紙おむつが必需品になった。
  そのうえ、もうひとつ、厄介な症状が起こった。人間にも見られる膣が体外に垂れ下がって露出する「膣脱」である。12月初旬には、1センチ足らずはみ出る程度だったが、見る見る垂れ下がってきて、亡くなる1週間ほど前には5、6センチも脱出するまでになった。紙おむつで覆ってはいたが、転んだ拍子に何かに脱出部分をぶつけたのか、突然、患部から大量の出血をし、動物病院へ駆けつけたこともあった。膣脱のせいか、排尿がしにくくなり、少しの間、室外へ連れ出すだけでぐったりして息苦しそうに深呼吸をするようになった。
  医師に外科的治療のことを尋ねると、「この年齢では手術前の検査に耐えられえるかどうか。麻酔をかけると、そのままで終わってしまう可能性が高い」とのこと。

 夫婦交代で添い寝
  こうなると、夜一人で放っておくわけにはいかず、昨年12月20日ごろから、夫婦交代で居間で添い寝をするようになった。夜中も、ほぼ3時間おきに動き出す。あわてて抱きかかえ、外へ連れ出すと、タイミングよく排尿。その後はまた、飼い主にもたれかかる格好で寝入る有様だった。
  昼間も寝たきりに近く、もはや自力で歩行できない状況になってしまった。亡くなる3日前からは食事も受けつけなくなり、自宅で12時間おきに点滴をすることにした。背骨の近くを手でつまんで針を挿そうにも、やせ細っていて、挿す場所を決めるのに手間取った。
  1月7日からは意識もまだら模様となり、時折、目をさましては、かすれ声で何かを訴えるようになった。しかし、それが何を意味するのか飼い主はわからず、オムツを開いたり、脱脂面に水をしみこませて口元へ運んだりの試行錯誤だった。

 異様を察知したのか、妹犬が
  1月9日、鳴き止まないチビを見かねて、抱きかかえ外へ連れ出して用をたすのか試したが何もなし。ところが室内へ連れ戻したところで容態が急変。胸に手を当てた連れ合いが「呼吸をしていない」とつぶやく。私も手をあててしばらく様子を窺ったが反応はない。そのうちに口を大きく開いて最期の呼吸を数回したところで、動きが止まった。
  そのとき、玄関の外につないでいた妹犬(ウメ)が室内に向かって吠え出した。静かに姉犬をふとんに寝かせたあと、ウメをチビのそばに連れてきた。ふとんにちらちらと視線を向け、様子を確かめる仕草をしたのを見届けて、玄関先に連れ出すと、さきほどの様子が嘘のように、ぴたりと鳴き止やんだ。

  骨壷を抱えて柔らかな日差しの野道を帰る 
  10日、午前10時半、前の日に手配した動物霊園の「霊柩車」がやってきた。用意された棺に収め、その日の朝に帰宅した長女と夫婦の3人で後部座席に乗り込んだ。玄関では顔にあてがった布をとり、妹犬と最期の対面。
  霊園は隣の八千代市だったが、10分足らずで到着。受付で手続きを済ませると、一回り大きい棺に移し、そこへ生花と菓子を供えて焼香。人間の場合と変わらない。「1時間ほどかかるので、あちらのロッジ風の部屋でお待ちください」と係の職員に言われて外へ。しばらくあたりの墓石を巡り歩いたあと待合室に入った。CDと思われる静かな曲が流れるだけの室内だったが、入れ替わりで2組の家族が入ってきた。
  ちょうど1時間経った12時に別の職員が呼びに来た。皿に入れられた骨の部位の説明を聞いたあと、箸で壷に収めた。すべて人間の火葬と同じだ。白い袋に収められた骨壷を受け取り、かばんに入れて受付へ。支払いを済ませて霊園の外へ出た。帰りは柔らかな日差しが注ぐ野道を3人で歩き、チビとのいつもの散歩コースを通って帰宅した。
  「走馬灯のように」などと常套句を使う気にはならないが、歩きながら、ともに過ごした春夏秋冬を想い起こし、死別の実感がこみ上げてきた。

   みつめる

   犬が飼い主をみつめる
   ひたむきな眼を思う
   思うだけで
   僕の眼に涙が浮かぶ
   深夜の病室で
   僕も眼をすえて
   何かをみつめる

   (高見順『死の淵より』)


   円空が仏像を刻んだように
   詩をつくりたい
   ヒラリアにかかったナナ(犬)が
   くんくんと泣きつづけるように
   わたしも詩で訴えたい
    カタバミがいつの間にかいちめんに
   黄色い花をつけているように
   わたしもいっぱい詩を咲かせたい
   飛ぶ鳥が空から小さな糞を落とすように
   無造作に詩を書きたい
   時にはあの出航の銅鑼のように
   詩をわめき散らしたい

   (高見順『死の淵より』)

       Chibi2                  Chibi_reizen   

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