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NHKスペシャル「日本国憲法誕生」を視聴して

 昨夜(4月29日、午後9時~10時14分)、NHKスペシャル「日本国憲法 誕生」を視聴した。さきほど、その感想をE・メールでNHKスペシャル担当へ送ったが、600字以内という字数制限のため、用意した原稿を大幅に削らざるを得なかった。そこで、元の原稿をこのブログに掲載することにした。

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 予告で番組を知り、視聴しました。全体を通して、豊富な資料を駆使し、関係者の肉声での証言も交えて、新憲法の制定過程を丹念に検証したドキュメンタリー番組であったと感じました。特に、天皇制の護持に執着する日本政府と日本の再軍備の脅威を根絶しようとするGHQの思惑、さらには天皇の戦犯と天皇制そのものの廃止まで迫ろうとした極東委員会の構成国の意思が絡み、戦争放棄と象徴天皇制が抱き合わせで盛り込まれた経緯が克明に描かれたのが印象的でした。

 しかし、こうした国際的な交渉の狭間で、日本の民間人あるいは各党代表者からなる憲法研究会、小委員会等の発案で生存権条項の追加、義務教育の年限の延長、戦争放棄の条項の補足等がなされた事実が史実に沿って明らかにされたことは貴重でした。こうした知見を提供するところにドキュメンタリー番組の真髄があると感じました。

 個別的なことをいいますと、「至高」か「主権」か、「前掲」か「前項」か、「輔弼」か「助言と同意」かなど、条文の一字一句をめぐる論議にも立ち入った場面は、解釈改憲が叫ばれる今日、示唆に富んだ編集であったと感じました。

 総じて、「押し付け」憲法論が喧伝されてきた中で、①日本人が自主的に新設・補足した条項が少なくなかった点を照射したのは貴重な知見の提供であったと思います。②他面、GHQや極東委員会の強い意思で制定された条項が少なくなかったことも事実として直視すべきと感じました。

 その上で、極東委員会の強い意向で主権在民が明文化されたこと、当時22歳だったベアテ女史の強い進言と起草で女性の地位向上を定めた条項が盛り込まれたこと等を「押し付け」、「戦後レジームからの脱却」などというレトリックで清算しようとしてよいのかという問いかけが重要と思われました。(ちなみに、安倍首相自身の思考回路について言えば、「戦後レジームからの脱却」ではなく、「戦前レジームからの脱却」が強く求められている。)

 
「押し付け」を言う前に、市民の総意を集約して自律的に新憲法を創造する基盤が成熟していなかった当時の日本社会における民主主義の成熟度こそ、現在・将来への反省を込めて、問いかけられるべきであった(ある)と思われてなりません。

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放送法「改正」法案の実態は「総務大臣の権限拡大」法案

 46日、総務省は「放送法等の一部を改正する法律案」を今国会に提出した。そのうち、NHKに関しては、ガバナンスの強化を謳い文句に掲げて、経営委員会の機能を整理・強化する条項を盛り込んだのが特徴とされている。民放に関しては、①総務大臣が定めた要件を満たすことを条件に、傘下に複数の子会社を持つ放送持株会社を容認し、マスメディア集中排除原則を緩和している点(第52条の2937)、②関西テレビの「あるある大辞典」における番組捏造事件のような事態が起こった場合、総務大臣に「再発防止計画」の提出を命じる権限を新設するとともに、提出された計画について総務大臣に意見を付ける権限を設ける条項が新設されている点(第53条の82)、が特徴である。

 これらを総合すると、今回の放送法「改正」法案は、NHKか民放かを問わず、「総務省の権限拡大法案」と呼ぶにふさわしい――これが私の結論である。以下、この記事では、NHKに関係する法案部分に限定して、この見解を検証しておきたい。

実態は経営委員会の権限強化ではなく、総務省の権限拡大
 
法案は、NHKのガバナンスの強化を謳い文句に経営委員会の決定事項として次のような条項を新設している。
  ・「監査委員会の職務の執行のため必要なものとして総務省令   で定める事項」 (第14条第1項一のロ)
  ・「会長、副会長、理事の職務の執行が法令及び定款に適合す   ることを確保するための体制その他協会の業務の適正を確保      するために必要なものとして総務省令で定める体制の整備」
    (第14条1項のハ)
  ・「経営委員会は、前項に規定する権限の適正な行使に資する    ため、総務省令の定めるところにより、第32条第1項の規定に    より協会とその放送の受信についての契約をしなければなら      ないもの〔受信契約者のこと:醍醐追加〕の意見を聴取するも
    のとする」(第14条第2項)

 また、運営上の規則として、次のような条項を新設している。
  ・「〔経営〕委員長は、総務省令で定めるところにより、定期的に   経営委員会を招集しなければならない。」(第2222項)

 以上、一見してわかるように、新設される経営委員会の権限、運営規則はすべて、今後、総務省が定める省令等で実施の細目が決められる仕組みになっている。言い換えると、監査委員会の職務の執行に必要な事項、会長・副会長、理事の職務の執行状況を経営委員会が監督するのに必要な事項、経営委員会が受信契約者の意見を聴取する権限を行使するにあたっての規則は、外見上、経営委員会の決定事項となっているが、法案をよく読むと、これら規則等はすべて総務省が省令で具体的な運用規則を決めることになっているのである。おまけに、経営委員長が経営委員会をどのように招集するかまで総務省がおせっかいを焼くと名乗りを挙げている。

省令は国会の審議も議決も要しないことを銘記すべき
 さらに、ここで注意しなければならないのは、「省令」の制定の仕方である。大辞泉によると、省令とは、「各省大臣が、主任の事務について発する命令。執行命令と委任命令とがある」と解説されている。このうち、「執行命令」とは「法律の規定を執行するために必要な細則を定める命令」で、「施行令」、「施行規則」などを指す。また、「委任命令」とは、「法律の委任に基づいて発せられる命令」のことで、「政令」、「省令」などがこれにあたる。今回の放送法「改正」法案に頻繁に登場する「省令」とは、この法案の委任に基づいて発せられる命令といえるから、「委任命令」に当たる。

 つまり、法律の委任を受けて所管大臣が発令すれば法的効力を持ち、国会での審議・議決を経る必要はないのである。このように、今回の放送法「改正」法案は、国会の関与なしで決定される省令に実施細則の重要部分(経営委員会の権限の整理・強化に関わる部分)が委任されている点でも、総務省の権限拡大法案という性格が加重される。

法律の重要部分を省令に委ねるとどうなるか
――男女雇用機会均等法における「間接差別」の判定基準を事例にして――

 では、法律の根幹に関わる実施細則を国会での審議・議決を必要としない省令に委ねるとどうなるか――この41日から施行された改正男女雇用機会均等法における「間接差別」の範囲を決定するプロセスを参考事例にして、この点を検討しておきたい。

 2006615日の衆議院本会議で改正男女雇用機会均等法が全会一致で可決・成立した。今回の改正で大きな論点の一つになったのは、性別の中立性を標榜しながら、結果として一方の性に不利になるような「間接差別」の禁止をいかに実効あるものにするかという点だった。これについて法案の第7条は、次のような表現になっていた。

  「事業主は、募集及び採用並びに前条各号に掲げる事項に関する措置であって労働者の性別以外の事由を要件とするもののうち、措置の要件を満たす男性及び女性の比率その他の事情を勘案して実質的に性別を理由とする差別となるおそれがある措置として厚生労働省令で定めるものについては、当該措置の対象となる業務の性質に照らして当該措置の実施が当該業務の遂行上特に必要である場合、事業の運営の状況に照らして当該措置の実施が雇用管理上特に必要である場合その他合理的な理由がある場合でなければ、これを講じてはならない。」(下線は醍醐が追加)

 これについては、国会審議の場で「何が間接差別に当たるのか」を省令でどのように定めるのかについて各党から懸念が示され、次のような附帯決議が全会一致で採択された(下線は醍醐が追加)。

  「政府は、本法の施行に当たり、次の事項について適切な措置を講ずるべきである。
 1.間接差別の法理・定義についての適正な理解を進めるため、事業主、労働者等に対して周知徹底に努めるとともに、その定着に向けて事業主に対する指導、援助を進めること。また、厚生労働省令において間接差別となるおそれがある措置を定めるに当たっては、国会における審議の内容、関係審議会における更なる検討の結果を十分尊重すること

 2.間接差別は厚生労働省令で規定するもの以外にも存在しうるものであること、及び省令で規定する以外のものでも、司法判断で間接差別法理により違法と判断される可能性があることを広く周知し、厚生労働省令の決定後においても、法律施行の5年後の見直しを待たずに、機動的に対象事項の追加、見直しを図ること。そのため、男女差別の実態把握や要因分析のための検討を進めること。」(以下、省略)

 しかし、20061011日に公表された「労働省令第183号」では、間接差別は、①募集・採用の際に身長・体重・体力を要件とすること、②総合職を募集・採用の際に転居を伴う転勤に応じることを要件とすること、③昇進にあたり、転勤の経験があることを要件とすること、の3点に限定され、それ以外の間接差別が存在する余地は明文化されなかった。また、5年後の見直し規定も盛り込まれなかった。

スケジュ-ル消化に堕落したパブリック・コメント
 もっとも、国会での審議を要しない代わりに、省令の制定にあたっては、通常、審議会への諮問が義務付けられている。また、最近では、パブリック・コメントが募集されるのが通例になっている。2006年の男女雇用機会均等法に係る省令の制定にあたっても、約1ヶ月間(2006829日~927日)、パブリック・コメントが実施された。では、その実態はどうであったか? 間接差別関係に限定して、それを確かめておきたい。

 厚生労働省雇用均等・児童家庭局雇用均等政策課が発表した意見募集の結果に関する報告によると、計197者から意見が寄せられたが、寄せられた意見に対し、担当部局課は次のような「考え方」を示している。

      (意見の概要)            (意見に対する考え方)
 間接差別の規定について5年    通常、省令に見直し規定をおくこ
 以内見直しを明記することを求  とはない。
 めたもの

 間接差別と考えられるものの   均等法上の間接差別として違法
 例を追加することを求めるもの   とするものについては、労働政策
                     審議会でコンセンサスの得られた
                      3つの措置についてとされたところ
                      であり、その他の例を省令上規定
                      することは適当ではない。

 これを見てもわかるように、寄せられた意見に対する行政側の応答は木で鼻をくくったようなそっけないものである。特に後者のように、間接差別の範囲は前年に提出された審議会の報告(建議)で示された3項目で決まりといって、寄せられた意見を退けてしまうぐらいなら、そもそも意見を募集する以前に「結論ありき」だったことになる。これでは意見募集は「スケジュール消化」の通過儀礼に過ぎず、まじめに意見を寄せた関係者を愚弄するものである。また、これでは、「総務省による総務省のための」放送法「改正」と言ってもなんら過言でない。

視聴者主導の放送法改正論議が求められる
 つまり、外見上、広く市民・利害関係者の意見を聞くデュー・プロセスを踏むかの体裁を整えても、寄せられた意見の扱いは所管庁の判断次第というのが実態である。ことほど左様に所管庁の裁量が幅を利かせる省令に、法案の運用細則を委任する条項が随所に盛り込まれた今回の放送法「改正」案を成立させることは、後々に大きな禍根を残すことを視聴者はくれぐれも銘記しておく必要がある。

 具体的にいうと、第14条第1項一のロを受けて定められる総務省令を通じて、総務大臣は監査委員会の権限の及ぶ範囲を自在にコントロールできる。
 また、第14条1項のハを受けて定められる総務省令を通じて、総務大臣は経営委員会が会長以下NHKの理事の職務執行に対する経営委員会の監視の範囲を自在にコントロールできる。
 さらに、総務大臣は、第14条第2項を受けて自らが定める省令によって、経営委員会と受信契約者の関係を自在に定めることが可能になる。

 しかし、それでも、市民・視聴者の中には、「あるある大辞典」に見られたような番組捏造事件や、低俗なやらせ番組が頻発すると、放送の公共性、番組内容の健全性を維持するには、国会や行政の関与もやむを得ないという意見も少なくない。しかし、本当にそうなのか? この点を考える際には、次の指摘が含蓄に富んでいる。

 「視聴者は有権者と同義なのか。有権者の代表たる衆参両議院の議員は、同時に、税金とは別に受信料を払っている視聴者を代表できるということか。あるいは、NHKは予算等の説明を国会ですれば、視聴者へのアカウンタビリティ-(説明責任)を果たしたことになるというのだろうか。おそらく、そうではない。NHKに限らずマスメディアは、立法・行政・司法の三権から十分な距離をとって存在し、広範な視聴者や読者とのあいだに<直接的>な信頼関係を築くことで、その存在の根拠と正統性を獲得するものである。」(「デジタル時代のNHK懇談会」最終報告書より)

 私もこの指摘に共鳴するところ大であり、公権力を介さない視聴者とNHKの受信料を通じた一種の信託関係(川島武宣)に基づく自律的な放送法改正論議が待たれるところであると痛感している。ただ、これは極めて大きなテーマなので稿を改めて議論することにし、ひとまず、その手がかりになると思われる資料を添付しておきたい。これは、去る421日に開催された「拡大放送フォーラム」(「放送を語る会」主催)で私が担当した報告の際の参考資料として作成・配布したものの一部である。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/sankoshiryo_nhk_gyoseifu.pdf



 

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自主自律の堅持をNHKに迫った経営委員の気概と良識(2)

「自主自律の堅持」を明記するようNHKに迫った経営委員の良識
 第1040回経営委員会の議事録を読んで印象深いのは、多数の委員が平成19年度の“約束”の中に「自主自律の堅持」を明記するよう、NHKに強く求める発言をしている点である。経営委員会に出席した永井副会長は、放送の自主自律の堅持は、一昨年3月にNHKが公表した「NHK新生プラン」や「経営3ヵ年計画」において掲げており、“約束”でも年度ごとにブレークダウンして盛り込んでいるので、“約束”に明記するには及ばないという発言を繰り返している。しかし、発言したすべての委員はこれに納得せず、次のような文言で“約束”に明記するよう、執行部に迫っている(このほか、経営委員会は委員の総意として、“約束”策定にあたり、2.教育番組・福祉番組の充実、3.視聴者を啓発するチャレンジングな報道および番組の制作、を重要項目として取り入れるよう求めている)。

  「放送の自主自律の堅持(放送法に定める不偏不党を遵守するため、いかなる団体、いかなる組織からの圧力・介入にも屈しない)」

 これについて、2人の委員の発言を引用しておきたい。

  「(一力委員) ・・・・・今NHKに対する国民からの信頼が損なわれており、これを取り戻すためには、『不偏不党・自主自律を堅持し、いかなる権力や圧力にも屈しない』という決意表明が必要です。このことをぜひ“約束”に入れていただきたいと思います。今のNHKのおかれた状況では、視聴者に対して『これだけの覚悟でやる』と意思表示することが一番わかりやすいと思います。・・・・・」

  「(多賀谷委員) 特に、放送の自主自律の堅持については、経営委員会として、執行部の外から指摘することに意義があります。会長のメッセージに入れるよりも、意見として伝えた方がいいと思います。」

 BCなら、放送の自主自律は当たり前のことで、それを視聴者への“約束”に書き込むかどうかでこれほど議論が交わされること自体、異様に思える。にもかかわらず、経営委員がある種の危機意識を持って、自主自律の堅持をNHK執行部に要求する背景には、かのETV番組改編問題をめぐる控訴審裁判でNHKが敗訴したという事情が絡んでいるものと思われる。

ETV
番組改編問題をめぐるNHKの対応に疑問・批判を投げかけた経営委員
 現に、2名の委員は、次のように発言し、この裁判におけるNHKの対応に疑問・批判を向けている。

  「(保委員) 私は前回、公共放送の存在意義や放送の自主自律の堅持について、“約束”で明確にするべきだと申し上げたと思います。・・・・・ETV裁判において、番組の内容が変えられたということが議論されたこと自体、世に中に不信感がかなり根強く存在しているように思います。NHKとして、いくら『しっかりと放送している』、『それを踏まえている』と言っても、世論に今ひとつ理解されていないように思います。今回の“約束”においても、そのことを『十分踏まえたもの』、『反映している』とお考えかもしれませんが、きちんと伝わる形で明文化しなければ、国民・視聴者との溝は埋められないと思います。・・・・・」

  「(小林委員) 報道に関して、やはり一番問題なのは、保委員がご指摘になったETV問題の対応だと思います。これに関する不信感がますます強くなっていると感じています。ETV裁判については、上告してしまったからには、しばらくは見守る時間も必要かもしれませんが、これについて、きちんと話し合うことが必要だと思います。また、あらためて考えてみますと、世界中が注目しているETV裁判の結果について、執行部が、経営委員会に何も相談なく上告したということは、それでよかったのでしょうか。東京高裁の判決が出てすぐに上告し、そのことが当日のニュースで放送されましたが、NHKの最高意思決定機関である経営委員会として、どのようにそれにかかわっていくのかという疑問が当然わいてくると思います。ですから、上告する前に相談というか、何らかの説明があってしかるべきではなかったか今あらためて思っております。・・・・・」

 どちらの委員の発言も正論というほかない。特に、小林委員の発言はとかく「美しい言葉」で終わりがちな放送の自主自律を、現に起こった事実に引き付け、NHKの言行の乖離を質した点で、また、NHKの自主自律に経営委員会がコミットできるし、すべきことを明言した点で、特筆に値する。なぜなら、自主自律の堅持はNHKの責務であり生命線であると同時に、NHKの後見人たる経営委員会もNHKが自主自律の放送を堅持するための「砦」としての役割を果たす責務を負っているからである。
 
NHKは経営委員会の意見にどう対応したか
 では、NHKはこうした経営委員会の意見にどう対応したのか――その顛末を見届けておく必要がある。
 これについての詳しい経過は知る術がないが、45日付でNHKが報道発表した平成19年度の“約束”がHPに掲載されている。
 「平成19年度“約束”の公表にあたって」(200745日)
   http://www3.nhk.or.jp/pr/keiei/otherpress/070405.html

 これを見ると、“約束”の前文の中に次のような記述がある。

  「・・・・公共放送にとって変わらない役割は、放送の自主自律を堅持し、みなさまの安全・安心な生活を守り、だれもが知識や情報を共有したり、違いを超えて共感したりできるような場を提供することです。・・・・」

 委員のなかには、「どうしても“約束”の中に3項目を明記して欲しい」という意見もあったが、結局は前文の中で書き流す形で「しぶしぶ、取り入れられた」形になったようである。こうしたNHKの対応に各経営委員がどう反応するのか、次回の委員会での議論を注目したい。

 ともあれ、各委員が最後までこだわった“約束”それ自体は、抽象的な美辞の羅列である。そう割り切れば、“約束”に何を明記するか、表現ぶりをどうするかにこだわることにどれほどの実質的意味があるのかと冷めた見方もないではない。しかし、私は、第1040回経営委員会議事録から別の意味を汲み取れる気がした。それは、NHKの事業運営方針、番組編成の基本方針に自分たちもコミットできるし、しなければならない、そうすることが、視聴者の声を代表する経営委員としての責務であるという意識が経営委員の発言の端々に窺えるという点である。

 もちろん、そうはいっても、NHKの番組編成の基本に何を据えるのか、NHKの事業運営方針に経営委員会はどこまでコミットするのかをめぐって、経営委員の間に認識のバラつきなり温度差なりがあることも読み取れる。事実、「いかなる権力や圧力にも屈しない」という表現を追加して放送の自主自律の堅持を重視する委員もあれば、自主自律の堅持を、災害報道などNHKならではの放送と並列で価値付けする委員も見受けられる。

 こうしたバラつきは市民・視聴者の間にある公共放送像の多様性を反映したものといえるので、それ自体の当否を経営委員会で決する性格のものではないといえるかも知れない。

 しかし、年度ごとに更新される視聴者への“約束”というからには、今、NHKに最も欠けていることを行動規範として明記し、事後の評価の対象にするのが本来の目的にかなっている。この点で、多数の経営委員が放送の自主自律の堅持を“約束”に明記するようNHKに結束して迫ったことは、ETV番組改編をめぐる控訴審判決でNHKが敗訴した現実、あるいは総務省による行政介入が目に余る昨今の状況に照らして、画期的な意義があったと評価できる。

 こうした多数の経営委員の気概と良識を胎動で終わらせず、通常の姿として定着させるには、経営委員の責任意識の高揚もさることながら、視聴者からの監視・激励も欠かせない。この記事はそういう思いも込めて書き留めたのである。(了)

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自主自律の堅持をNHKに迫った経営委員の気概と良識(1)

経営委員会に変化のきざし?
――注目に値する第1040回議事録――

 去る413日に公開された第1040回NHK経営委員会議事録に目を通して、私はある種の感慨を覚えた。それは、この議事録から、とかく無機能ぶりが指摘されてきた経営委員会に変化のきざしを読み取れたからである。
 論評に入る前に議事録全文のURLを紹介しておく。ぜひ、全文をお読みいただきたいと思う。、特に、必読と思えるのは「2.議決事項(1)平成19年度“約束”について」をめぐる議論である。
 
1040回NHK経営委員会(2007327日開催)議事録全文
  http://www.nhk.or.jp/keiei-iinkai/giji/giji_new.html

 今回の議事録の中で注目に値すると思われたのは次の3点である。
【1】 NHKが準備した「平成19年度“約束”」案に関して、前回の経営委員会で多くの委員が出した改訂の要望が全く反映されていないことに委員がこぞって反発していること、この点の議論を通じて、有名無実化したNHKに対する経営委員の監督機能を実効性のあるものに改めようとする委員の意気込みが示されていること。

【2】 “約束”の中に「自主自律の堅持」を明記するよう、多数の委員がNHKに迫っていること。

【3】 2名の委員が、ETV番組の改編問題をめぐる裁判の場でのNHKの対応に厳しい疑問・批判を投げかけていること。

経営委員会の復権にかける委員の意気込み
 今回の議事録全体から伝わってくるのは、「NHKの最高意思決定機関」たる経営委員会が有名無実化している現状をどうにかして改めたいという経営委員の意気込みと、そうした意気込みに支えられた良識ある発言である。私が印象深く思った発言を23引用しておきたい。

  「(菅原委員) 私は前回、“約束”の中に『報道』という言葉がないことを指摘し、『NHKとして、報道の役割は大きく、視聴者の期待も高いことから、もっとしっかりと踏み込んで取り組んでいただきたい』と発言したのですけれども、全然聞いていただけなかったということですね。」

  「(佐々木委員) ・・・・・今、経営委員会の監督機能が非常に弱いと指摘されていますが、私の経験では、経営委員会で意見を申し上げても、執行部の考えが変わらないということが、これまで何度かありました。執行部として、私たちの意見を尊重してくださらなければ、何も改革できないと思います。」

 どの発言も、運営財源のほぼ100%を視聴者が拠出する受信料で支えられているNHKを監督する経営委員会の委員としては、当然の発言ではある。まして、自らの報酬も受信料で賄われている経営委員にしてみれば、視聴者の目線で物を言うのは「熱意でも見識」でもなく、当たり前のことと言ってもよい。

 翻っていえば、経営委員会のあるべき姿を語り、それと現実の乖離を批判するのはさほど難しいことではない。重要なことは、その乖離を埋めていく道筋を示すことである。そのためには、あるべき姿から見て、小さな変化であっても、それを見逃さず、それを大きな変化に育んでいく視聴者サイドからの(切捨て御免的ではなく)理知的な批判あるいは激励・支援のメッセージが大切である。

現行法の下でも経営委員会はその気になれば重要な権限を行使できる
 
そこで、上記の議論を現行の放送法が定めた経営委員会の権限と責任に照らして考えてみたい。現行放送法の中で経営委員会の設置及び権限を定めたのは第13条~23条であるが、第132項は次のような文言になっている。
  「経営委員会は、協会の経営方針その他その業務の運営に関する重要事項を決定する権限と責任を有する。」
 続いて、第14条では経営委員会の議決を経なければならない事項として13の事項が列挙されているが、その5項目は次のとおりである。
  「5 第3条の31項に規定する番組基準及び放送番組の編集に関する基本計画」

 総務省が今国会に提出した「放送法等の一部を改正する法律案」では、経営委員会の権限強化が柱の一つとされている。しかし、事新たに法律を改正するまでもなく、現行の放送法でも、NHKの事業運営の根幹をなす番組基準及び放送番組の編集に関する基本計画は、経営委員会の議決を経なければ決定できない仕組みになっているのである。

 ところで、今回の経営委員会で議題にされたNHKの“約束”は、「NHKの事業運営の目標」といわれていることから判断して、放送法第14条の5でいう「番組基準及び放送番組の編集に関する基本計画」の一種に該当すると考えられる。この意味で、石原委員長が国会に参考人として出席して不在の間、経営委員会の議事進行役を務めた梅原委員長代行が、

  「われわれが指摘したことを“約束”に反映できないというのであれば、経営委員会としても、この場で議決することはできません。」

と発言したのは、放送法の定めに照らせば、まっとうな見識といえる。つまり、経営委員会は現行放送法のもとでも、その気になれば、NHKの経営方針、番組編成の基本方針の決定にあたって、絶大な権限を持っているのである。したがって、これまで経営委員会が機能しなかった理由は制度にあるのではなく、NHKに物申す経営委員会の自律性と委員一人ひとりの気概、物申すことができるだけの公共放送に関する知見の不足にあったというべきなのである。

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放送法「改正」法案の全文判明

 総務省は先日、「放送法等の一部を改正する法律案」を国会に提出したが、昨日夕方、法案全文が総務省のHPにアップされていることがわかった。URLは次のとおり。
  http://www.soumu.go.jp/menu_04/k_houan.html

 この間の経過は、「「ちょっと待って! NHK受信料義務化を考える全国市民連絡会」のHPに掲示されている。
  http://nhk-shiminrenrakukai.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_267e_1.html

 その連絡会の記事でも指摘されているが、総務省のHPにアップされた文書はかなりの分量である。部外者には、そのうちの「放送法等の一部を改正する法律案新旧対照条文」が有用と思われる。このブログの今回の記事では、法案の全容判明という情報の掲示にとどめ、次回の記事では、この新旧対照条文にそって、主な「改正」箇所とそれに関する私見を述べていくことにしたい。

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被爆少女の手記にまで及んだGHQによる原爆記録の検閲

NHKアーカイブス(川口)へ行く
 一昨日(43日)、川口市にあるNHKアーカイブスへ出かけた。
 (道順と番組ライブラリーはこちら↓)
 http://www.nhk.or.jp/archives/kawaguchi/access/index.html
 このブログの前回の記事で取り上げた正田篠枝の足跡を記録した「耳鳴り~ある被爆者の20年~」を視るのがもともとの目的だった。しかし、数日前から、WEB上で「番組ライブラリー」を調べるうちに、原爆の記録や報道を取り締まった当時の占領軍の検閲制度を扱ったドキュメンタリ-が数点、保存されていることを知り、それらも併せて視ることにした。

 アーカイブスは埼玉県が中心となって推進しているSKIPシティ(中小企業、映像関連産業を核とした、さいたま次世代産業拠点)の一画にある。JR川口駅からバスで13分ほどで、11時過ぎに着いた。平日とあって70ほどあるブースの約3割が埋まっていた。受付で、「2時間交代制」と告げられた。荷物を置いたまま長時間、席を離れる人がいるため、こういう時間決めにしたそうだ。ただし、平日で比較的空いているので、間違いなく更新できると告げられ、1630分ごろまで3回転で落ち着いて視聴できた。

 この日は次の5点を視聴した(括弧内の年月日は初回放送日)。
  1.耳鳴り~ある被爆者の20年~(平和アーカイブス)(196511   28日。)
  2.人生読本 「ヒロシマを語りつぐ」(1)栗原貞子(198285    日。ラジオ)
  3.人生読本 「ヒロシマを語りつぐ」(2)栗原貞子(198286    日。ラジオ)
  4.NHKスペシャル あの炎を忘れない~被爆少女の手記とGHQ   検閲~(199389日)
  5.ドキュメンタリー 爆心地のジャーナリスト(198086日)

 以下では、4番目に視た「あの炎を忘れない~被爆少女の手記とGHQ検閲~」のあらましと感想記を書きとめておきたい。次回のブログ記事では、5番目の「爆心地のジャーナリスト」を取り上げたい。

検閲に抵抗した父親
 アメリカ・メリーランド州立大学に保存されているプランゲ文庫で、14歳の時、長崎で被爆した石田雅子さんが兄の勧めで家族新聞用に書いた手記をまとめた『雅子斃れず』と題する手書きの稿本が発見された(注:これは、おそらく、モニカ・ブラウ著/立花誠逸訳『検閲 19451949 ――禁じられた原爆報道――』283ページで注記されている、検閲用に提出された仮刷版ではないかと思われる。日付は1947620日となっている)。

 プランゲ文庫とは、メリーランド州立大学教授のままGHQの参謀Ⅱ戦史室に勤務していたゴードン・W.プランゲ氏が持ち帰った出版物を同大学が「プランゲ文庫」と名づけて保存している日本占領期の資料集である。この書物の元原稿を手がかりに、被爆当時の長崎市内の模様を綴った日記風の手記にまでGHQの事前検閲が及んでいた実態に迫ろうとしたのが、この番組である。

 番組の主な舞台は石田家であり、存命の雅子さんをはじめ、兄の譲一氏、さらには当時の民間検閲官、長崎軍政府代表団に所属した司令官らも登場する。しかし、主役は雅子さんではなく、原爆投下の当時、雅子さんと宿舎で2人暮らしをしていた父、壽(ひさし)氏である。壽さんは当時、長崎地方裁判所の所長の職にあったが、この番組は、職業上の法律知識と広い人脈を活かして、わが子が記した被爆の記録を書物にしようと奔走した壽さんの執念の行動を貴重な資料や関係者の証言をまじえながら生々しく再現している。

推薦状を書いて出版に力添えをした長崎軍政府司令官
 (旧姓)石田雅子さんは爆心地から1.5キロ離れた兵器工場で働いていたところで被爆した。長崎県立高等女学校の3年生の時だった。その時の模様を「雅子斃れず」という表題で家族新聞に掲載したのを壽さんは手書きの書物にして民間検閲支隊福岡支部に提出した。当時は、1945919日付で発出された「プレスコード」によって一切の出版物に事前検閲がしかれ、ゲラ稿を検閲当局に提出しなければならなかったからである。しかし、6日後、福岡の検閲当局から、「申請は手書きでは受け付けない、活字にして2部提出せよ」という簡単な返事が届いた。

 そこで、壽氏は出版許可を待たず、乏しい紙をかき集めて印刷にとりかかる一方、交友のあった長崎軍政府デルノア司令官に推薦状を依頼した。この書物が反米感情をあおるおそれありとしてプレスコードにひっかかるのを恐れたからである。番組制作当時、マサチュセッツ州に在住し、インタビューに応じたデルノア氏は、壽氏が「娘さんの作文を持ってきたときは親バカだと思ったが、読んでみてすばらしい内容で娘さんに敬意を持った」と当時の様子を語った。その心情をデルノア氏は当時作成した推薦状に次のように記している。

  「我々アメリカ人が原子爆弾の意味を正しく認識すること、多くの日 本人が体験したことと、その心境を知ることが今、大切である。」

「公共の安寧を害する」との理由で発禁処分
 しかし、1947716日、福岡の検閲当局は『雅子斃れず』を発禁処分にした。その理由はプレスコード第2条に違反するというものだった。念のため、この条文を原文で引用しておく。

  Nothing should be printed which might, directly or indirectly,   disturb the public tranquility.

 福岡地区検閲官ソロブスコイ少佐は1947716日に九州軍政府司令官に宛てて送った回答の中で次のように記している。

  「本地区は、小説『雅子斃れず』が日本における公共の安寧を乱す であろうということ、そしてその小説が、爆撃は人道に対する犯罪で あることをほのめかすものであると信じるものである。」「戦争の傷跡 をあけたり、敵意をふたたびあおりたてるような風潮がもっとしずまる とき」までは日本では出版されるべきではない。(モニカ・ブラウ著/ 立花誠逸訳、前掲書、133ページ)

 その際、ソロブスコイ少佐の返信では、原爆の傷跡をあまりに写実的に描いている箇所として次のような文章を引用していた(モニカ・ブラウ著/立花誠逸訳、前掲書、133ページ)

  「火傷で皮ふがむきだしの裸体、皮をむいた桃のような死体・・・・。 私は気が動転していました・・・・。死体、脚が大きな川を埋めていま した。・・・・親子が抱き合って其の儘焦げちじれている死体・・・・。  ああ、何と悲惨な光景でありましょう。・・・・」

 結局、『雅子斃れず』はゲラ奥付の「昭和22630日発行」という年月日を削除のうえ、仮刷のまま、私家本として100部(一説では200部)を非売品として個人的に配布された(武市銀治郎「アメリカの対日占領期における検閲政策――原爆報道を中心にして――」『防衛大学校紀要』19969月、75ページ参)。

検閲隠し
 占領期の言論・出版に対する検閲のなかで、特筆すべきことは、検閲の事実を一般読者の目に触れないよう、隠蔽する措置が取られたという点である。これについて、「GHQ占領下のジャーナリズムと原爆文学研究」(平成13年度~平成15年度科学研究費補助金〔基盤研究C〕、研究代表者:岩崎文人)は、CCD(民間検閲支援隊)がプレスコードの運用指針として配布した補足文書「出版社への注意書」の中で次のような事細かな注意書きを記していたことを明らかにしている(2ページ)。

  「一.削除を指令されたる場合は左の如き行為をせず必ず組み変え印刷すること
    1.墨にて塗りつぶすこと
    2.白紙をはること
    3.○○○等にて埋めること
    4.白くブランクすること
    5.頁を破り取ること」
 こうした指示が、検閲の痕跡を消す意図をもってなされたことは明らかである。


人道の罪で他者を裁きつつ、自ら原爆投下という人道の罪を抱えた米国の自己撞着

 19471015日を機に、占領軍の事前検閲は事後検閲に移行し、194910月には事後の検閲も廃止された。壽氏が検閲当局を尋ねて、この書物にも事後検閲が適用されると知ったのは19489月だった。そして、『雅子斃れず』が婦人タイムズ社(長崎)から出版されたのは、半年後の1949220日だった。

 武市銀治郎、前掲論文は、「占領軍が自由唱道の表看板の裏で徹底した“検閲隠し”を実行し」たこと、原爆記録の出版が事後検閲へ移行と同時には増加せず、それからしばらく経って(極東国際軍事裁判が終了して以降に)遅延した背景をいくつかの文学作品等を例にして考証し(『雅子斃れず』もその一例として)、次のような仮説を提示している。

  「極東国際軍事裁判の遂行過程と原爆報道の抑制との関連は、 極めて密接である。それは、裁判の対象になった『平和に対する罪』 『人道に対する罪』『戦争法規違反に関する罪』のいずれに対しても、広島・長崎〔へ〕の原爆投下が大きな障害になり得る可能性を孕み、その実態報道を禁圧する必要に迫られたからである。」(78ページ)

 もとより、現存する資料から、この仮説を完璧に立証するのは至難のことだろう。しかし、当時の米国占領軍が、平和に対する罪、人道に対する罪で日本人戦犯を裁き、日本に言論・出版の自由を回復する措置を講じる一方で、自らも原爆投下という平和に対する罪、人道に対する罪を抱えるという抜きさしならない自己撞着を抱えていたことは疑う余地がない。原爆被害に関する言論・出版に殊のほか目を光らせ、過敏なまでの検閲を敷くと同時に、検閲の痕跡を残さない措置も周到に講じた理由は、こうした自己撞着のなせる業ではなかったと考えられる

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