NHKアーカイブス(川口)へ行く
一昨日(4月3日)、川口市にあるNHKアーカイブスへ出かけた。
(道順と番組ライブラリーはこちら↓)
http://www.nhk.or.jp/archives/kawaguchi/access/index.html
このブログの前回の記事で取り上げた正田篠枝の足跡を記録した「耳鳴り~ある被爆者の20年~」を視るのがもともとの目的だった。しかし、数日前から、WEB上で「番組ライブラリー」を調べるうちに、原爆の記録や報道を取り締まった当時の占領軍の検閲制度を扱ったドキュメンタリ-が数点、保存されていることを知り、それらも併せて視ることにした。
アーカイブスは埼玉県が中心となって推進しているSKIPシティ(中小企業、映像関連産業を核とした、さいたま次世代産業拠点)の一画にある。JR川口駅からバスで13分ほどで、11時過ぎに着いた。平日とあって70ほどあるブースの約3割が埋まっていた。受付で、「2時間交代制」と告げられた。荷物を置いたまま長時間、席を離れる人がいるため、こういう時間決めにしたそうだ。ただし、平日で比較的空いているので、間違いなく更新できると告げられ、16時30分ごろまで3回転で落ち着いて視聴できた。
この日は次の5点を視聴した(括弧内の年月日は初回放送日)。
1.耳鳴り~ある被爆者の20年~(平和アーカイブス)(1965年11 月28日。)
2.人生読本 「ヒロシマを語りつぐ」(1)栗原貞子(1982年8月5 日。ラジオ)
3.人生読本 「ヒロシマを語りつぐ」(2)栗原貞子(1982年8月6 日。ラジオ)
4.NHKスペシャル あの炎を忘れない~被爆少女の手記とGHQ 検閲~(1993年8月9日)
5.ドキュメンタリー 爆心地のジャーナリスト(1980年8月6日)
以下では、4番目に視た「あの炎を忘れない~被爆少女の手記とGHQ検閲~」のあらましと感想記を書きとめておきたい。次回のブログ記事では、5番目の「爆心地のジャーナリスト」を取り上げたい。
検閲に抵抗した父親
アメリカ・メリーランド州立大学に保存されているプランゲ文庫で、14歳の時、長崎で被爆した石田雅子さんが兄の勧めで家族新聞用に書いた手記をまとめた『雅子斃れず』と題する手書きの稿本が発見された(注:これは、おそらく、モニカ・ブラウ著/立花誠逸訳『検閲 1945-1949 ――禁じられた原爆報道――』283ページで注記されている、検閲用に提出された仮刷版ではないかと思われる。日付は1947年6月20日となっている)。
プランゲ文庫とは、メリーランド州立大学教授のままGHQの参謀Ⅱ戦史室に勤務していたゴードン・W.プランゲ氏が持ち帰った出版物を同大学が「プランゲ文庫」と名づけて保存している日本占領期の資料集である。この書物の元原稿を手がかりに、被爆当時の長崎市内の模様を綴った日記風の手記にまでGHQの事前検閲が及んでいた実態に迫ろうとしたのが、この番組である。
番組の主な舞台は石田家であり、存命の雅子さんをはじめ、兄の譲一氏、さらには当時の民間検閲官、長崎軍政府代表団に所属した司令官らも登場する。しかし、主役は雅子さんではなく、原爆投下の当時、雅子さんと宿舎で2人暮らしをしていた父、壽(ひさし)氏である。壽さんは当時、長崎地方裁判所の所長の職にあったが、この番組は、職業上の法律知識と広い人脈を活かして、わが子が記した被爆の記録を書物にしようと奔走した壽さんの執念の行動を貴重な資料や関係者の証言をまじえながら生々しく再現している。
推薦状を書いて出版に力添えをした長崎軍政府司令官
(旧姓)石田雅子さんは爆心地から1.5キロ離れた兵器工場で働いていたところで被爆した。長崎県立高等女学校の3年生の時だった。その時の模様を「雅子斃れず」という表題で家族新聞に掲載したのを壽さんは手書きの書物にして民間検閲支隊福岡支部に提出した。当時は、1945年9月19日付で発出された「プレスコード」によって一切の出版物に事前検閲がしかれ、ゲラ稿を検閲当局に提出しなければならなかったからである。しかし、6日後、福岡の検閲当局から、「申請は手書きでは受け付けない、活字にして2部提出せよ」という簡単な返事が届いた。
そこで、壽氏は出版許可を待たず、乏しい紙をかき集めて印刷にとりかかる一方、交友のあった長崎軍政府デルノア司令官に推薦状を依頼した。この書物が反米感情をあおるおそれありとしてプレスコードにひっかかるのを恐れたからである。番組制作当時、マサチュセッツ州に在住し、インタビューに応じたデルノア氏は、壽氏が「娘さんの作文を持ってきたときは親バカだと思ったが、読んでみてすばらしい内容で娘さんに敬意を持った」と当時の様子を語った。その心情をデルノア氏は当時作成した推薦状に次のように記している。
「我々アメリカ人が原子爆弾の意味を正しく認識すること、多くの日 本人が体験したことと、その心境を知ることが今、大切である。」
「公共の安寧を害する」との理由で発禁処分
しかし、1947年7月16日、福岡の検閲当局は『雅子斃れず』を発禁処分にした。その理由はプレスコード第2条に違反するというものだった。念のため、この条文を原文で引用しておく。
Nothing should be printed which might, directly or indirectly, disturb the public tranquility.
福岡地区検閲官ソロブスコイ少佐は1947年7月16日に九州軍政府司令官に宛てて送った回答の中で次のように記している。
「本地区は、小説『雅子斃れず』が日本における公共の安寧を乱す であろうということ、そしてその小説が、爆撃は人道に対する犯罪で あることをほのめかすものであると信じるものである。」「戦争の傷跡 をあけたり、敵意をふたたびあおりたてるような風潮がもっとしずまる とき」までは日本では出版されるべきではない。(モニカ・ブラウ著/ 立花誠逸訳、前掲書、133ページ)
その際、ソロブスコイ少佐の返信では、原爆の傷跡をあまりに写実的に描いている箇所として次のような文章を引用していた(モニカ・ブラウ著/立花誠逸訳、前掲書、133ページ)
「火傷で皮ふがむきだしの裸体、皮をむいた桃のような死体・・・・。 私は気が動転していました・・・・。死体、脚が大きな川を埋めていま した。・・・・親子が抱き合って其の儘焦げちじれている死体・・・・。 ああ、何と悲惨な光景でありましょう。・・・・」
結局、『雅子斃れず』はゲラ奥付の「昭和22年6月30日発行」という年月日を削除のうえ、仮刷のまま、私家本として100部(一説では200部)を非売品として個人的に配布された(武市銀治郎「アメリカの対日占領期における検閲政策――原爆報道を中心にして――」『防衛大学校紀要』1996年9月、75ページ参)。
検閲隠し
占領期の言論・出版に対する検閲のなかで、特筆すべきことは、検閲の事実を一般読者の目に触れないよう、隠蔽する措置が取られたという点である。これについて、「GHQ占領下のジャーナリズムと原爆文学研究」(平成13年度~平成15年度科学研究費補助金〔基盤研究C〕、研究代表者:岩崎文人)は、CCD(民間検閲支援隊)がプレスコードの運用指針として配布した補足文書「出版社への注意書」の中で次のような事細かな注意書きを記していたことを明らかにしている(2ページ)。
「一.削除を指令されたる場合は左の如き行為をせず必ず組み変え印刷すること
1.墨にて塗りつぶすこと
2.白紙をはること
3.○○○等にて埋めること
4.白くブランクすること
5.頁を破り取ること」
こうした指示が、検閲の痕跡を消す意図をもってなされたことは明らかである。
人道の罪で他者を裁きつつ、自ら原爆投下という人道の罪を抱えた米国の自己撞着
1947年10月15日を機に、占領軍の事前検閲は事後検閲に移行し、1949年10月には事後の検閲も廃止された。壽氏が検閲当局を尋ねて、この書物にも事後検閲が適用されると知ったのは1948年9月だった。そして、『雅子斃れず』が婦人タイムズ社(長崎)から出版されたのは、半年後の1949年2月20日だった。
武市銀治郎、前掲論文は、「占領軍が自由唱道の表看板の裏で徹底した“検閲隠し”を実行し」たこと、原爆記録の出版が事後検閲へ移行と同時には増加せず、それからしばらく経って(極東国際軍事裁判が終了して以降に)遅延した背景をいくつかの文学作品等を例にして考証し(『雅子斃れず』もその一例として)、次のような仮説を提示している。
「極東国際軍事裁判の遂行過程と原爆報道の抑制との関連は、 極めて密接である。それは、裁判の対象になった『平和に対する罪』 『人道に対する罪』『戦争法規違反に関する罪』のいずれに対しても、広島・長崎〔へ〕の原爆投下が大きな障害になり得る可能性を孕み、その実態報道を禁圧する必要に迫られたからである。」(78ページ)
もとより、現存する資料から、この仮説を完璧に立証するのは至難のことだろう。しかし、当時の米国占領軍が、平和に対する罪、人道に対する罪で日本人戦犯を裁き、日本に言論・出版の自由を回復する措置を講じる一方で、自らも原爆投下という平和に対する罪、人道に対する罪を抱えるという抜きさしならない自己撞着を抱えていたことは疑う余地がない。原爆被害に関する言論・出版に殊のほか目を光らせ、過敏なまでの検閲を敷くと同時に、検閲の痕跡を残さない措置も周到に講じた理由は、こうした自己撞着のなせる業ではなかったと考えられる。
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