「私は貝になりたい」(日本テレビ放映)はBC級戦犯の叫びをどこまで伝えたか?
加藤不二子さんからの一報
去る8月24日の21時から23時24分まで、日本テレビで「終戦記念特別ドラマ」と題して、「私は貝になりたい―ー真実の手記 BC級戦犯 加藤哲太郎―ー」が放送された。副題にあるとおり、このドラマは終戦時の1945年、新潟の俘虜収容所の所長をしていた主人公・加藤哲太郎(中村獅童役)が同収容所で起こった捕虜射殺事件(犯人不明)の責任を一人で被る決意をし、3年に及ぶ逃亡を続けた末逮捕され、BC級戦犯裁判にかけられた事件を題材にしたものである。原作は加藤哲太郎が各所に匿名で発表した手記を収録して出版された『私は貝になりたい』(1994年、春秋社)である。
その日の朝刊のテレビ番組表と各紙の番組予告欄でドラマ放映のことを知っていたが、午後に加藤不二子さんから電話をいただき、ぜひ視てほしいという知らせをもらった。番組をご覧になった方はすぐおわかりのことと思うが、加藤不二子さんはドラマでは優香が演じた、加藤哲太郎の妹さんで、死刑判決が下った兄の助命をマッカーサーに嘆願するため、皇居前のGHQに出向き直訴文を手渡した並外れた正義感と行動力の持ち主である。
『私は貝になりたい』の出版記念会で
今から15年ほど前、ある機縁で加藤不二子さんのことを知り、2、3回私信を交わしたころ、上記の『私は貝になりたい』(1994年、春秋社刊)の出版記念会の案内状をいただいた。確か、皇居前(旧GHQ本部近く)の東京會舘で開かれたと記憶している。私のような縁の薄いものにまで案内をもらったときは驚いたが、自分の世界を広げるためにと思い立って出席した。確か、日立鉱山の俘虜収容所で哲太郎氏と一緒だったという高齢の人が同じテーブルに着き、「なぜ自分がB級で○○がC級なのか、わからない」と話しておられたのが記憶に残っている。
あの日の記念会が加藤不二子さんとは初対面だったが、各テーブルをこまめに回って多くの出席者と精力的に挨拶を交わしておられた姿が印象に残っている。そのとき、会場の受付で『私は貝になりたい』を買った。これまで何度か読み返したが、今回、放送後に改めて読み直し、ドラマで伝えられたこと、伝えられなかったことを確かめることができた。
原作と脚本のはざまで
新聞数紙でドラマの予告記事を読んだとき、原作がどのようにドラマ化されるのか、期待半分、不安半分だった。A級戦犯の裁判の陰に埋もれがちなBC級戦犯の裁判の実態に光を当て、長時間の放送枠を組むこと自体、貴重な企画に違いない。加藤不二子さんからの電話で日本テレビの下請けの制作会社の若いスタッフが原作を読んで感銘し、ぜひ取り上げたいといって取材に訪れたいきさつを聞いた。
ただ、新聞の試写室欄を読むと、逃亡生活中に出会った女性・倉沢澄子さん(飯島直子役)との純愛物語あるいは肉親の助命を必死に嘆願する家族愛の物語に仕立て上げられたのではないかという危惧も拭えなかった。
実際、放送されたドラマの前半を見た限りでは、この危惧が当たらずとも遠からずだった。とりわけ、哲太郎との出会いから結婚、逃亡の身の哲太郎に寄り添うことを決意した澄子の一途な姿、逃亡・逮捕、そして絞首刑の日が刻々と迫る中、哲太郎の安否に気をもむ加藤家の煩悶の描写にかなりの時間が割かれ、BC級戦犯を生み出した時代背景、哲太郎が獄中から何を訴えたかが背後に追いやられているという印象を拭えなかった。
こんなドラマ仕立てを見ながら、番組制作・放送局への取材協力者の信頼の利益をどのように保証するのかという大きなテーマが頭をよぎった。そして、テレビで取り上げてもらおうと思えば、原作者や取材協力者はどの程度の脚色を受け入れ(甘受し)なければならないのかという複雑な問題を当事者ではない私も考えさせられた。
ただし、どこまでが原作でどこからが脚色かは正直、私もわからない部分があったが、ドラマの後半で、哲太郎が死刑の執行を免れるために発狂を装ったことから入院させられた米軍361病院での目を覆うような虐待(原作117~118ページ)、狂人のまねを止めて巣鴨の死刑囚ブロックに戻されてから「死の待合室」で同居した中村雅俊役の元軍医との会話、元軍医が絞首台に連行される際に残した叫びは、このドラマを締めくくるにふさわしい圧巻だった。また、脚色の功罪は別にして哲太郎役の中村獅童、不二子役の優香、上記の中村雅俊など、スタッフ一同、それぞれの持ち役に徹した熱演はさすがだった。
しかし、こうしたドラマの功の部分を認めながらも、最後まで見終えた私には、「終戦記念特別ドラマ」と銘打つなら、ぜひに伝えてほしかった原作の真髄の部分がさらりと流された印象を拭えなかった。それは哲太郎が巣鴨刑務所から危険を覚悟で匿名で書き付けた手記(原作に収録)の中の次のようなくだりである。
BC級戦犯釈放は再軍備の引換え切符ではない
「下されたカーテン〔講和条約のこと―ー醍醐〕の中で両者は妥協へと急いだ。吉田〔茂〕は事実上の再軍備、即ち漸進的な予備隊の強化を約し、ダレスは将来に於て戦犯釈放の可能性への道を残した。そして其の時期は日本が再軍備をした時であった。」(原作92~93ページ)
「私達は再軍備の引換え切符ではない。私達は戦争地獄へ渡る三途の川の渡し守へ支払う一文銭であってはならない。
私達が欲するのは、人道的見地を盾にとった、他からきり離して戦犯釈放だけを対象とした、死の商人達の運動のおかげで釈放されることではない。
私達が望むのは、祖国がそのすべての旧交戦国と友誼的な平和条約を結び、植民地の圧制から独立し、平和を愛する諸国民の寛大な取りはからいによって、私達が戦争に協力した道徳上の罪を赦され、暖かい日本国民の懐に帰り、平和愛好の国民の一員として祖国の独立と平和とを守り、以って人類の幸福に貢献し得る機会を与えられることである。」(原作95~96ページ。この手記は『世界』1952年10月号に「一戦犯者」の匿名で発表されたもの。)
天皇陛下、こんご日本人に生まれかわってもあなたの思うとおりにはなりません
「天皇は、私を助けてくれなかった。私は天皇陛下の命令として、どんな嫌な命令でも忠実に守ってきた。そして日頃から常に御勅諭の精神を、私の精神としようと努力した。私は一度として、軍務をなまけたことはない。そして曹長になった。天皇陛下よ、なぜ私を助けてくれなかったのですか。きっとあなたは、私たちがどんなに苦しんでいるか、ご存じなかったのでしょう。そうだと信じたいのです。だが、もう私には何もかも信じられなくなりました。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍べということは、私に死ねということなのですか? 私は殺されます。そのことは、きまりました。私は死ぬまで陛下の命令を守ったわけです。ですから、もう貸し借りはありません。だいたい、あなたからお借りしたものは支那の最前線でいただいた七、八本の煙草と、野戦病院でもらったお菓子だけでした。ずいぶん高価な煙草でした。私は私の命と、長い間の苦しみを払いました。ですから、どんなうまい言葉を使ったって、もうだまされません。あなたとの貸し借りはチョンチョンです。あなたに借りはありません。もし私が、こんご日本人に生まれかわったとしても、決して、あなたの思うとおりにはなりません。二度と兵隊にはなりません。」(原作、26~27ページ。この手記の日付は1952年10月20日。飯塚浩二編『あれから七年』光文社、1953年に志村郁夫の名で収録されたもの)
私の拙い解説はもはや不要だろう。原作の末尾に収録された内海愛子さんの解説で引用された資料によると、起訴されたBC級戦犯容疑者は5,700人、有罪者は3,419人、うち984人が死刑であったが、死刑囚の11%は俘虜収容所関係者だったという。
思えば、私が生まれた1946年、哲太郎は絞首刑の恐怖におびえながら逃亡生活を続けていたことになる。BC級戦犯とその裁判の実相、13段の絞首台に引き出されるのが明日とも知れない極限の状態で彼らが必死に書き残したメッセージは60年近く経った今でも極く限られた人々にしか知られていない。それを次世代の若者に伝えるのは、BC級戦犯にならずに済んだ私たち戦後世代の道義的責任である。
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