« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »

視聴者コミュニティ、NHKの次期経営計画について意見を提出

 NHKは次期経営計画(2008~2012)についての意見募集を8月31日で締め切る。これについて、私が共同代表を務める「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」(以下、「当会」という)は、呼びかけ人と運営委員で協議をして下記のような意見をまとめ、8月30日、郵送で提出した。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/nhk_keieikeikaku_nitaisuru_iken_community20090830.pdf

詳細はこの全文をご覧いただくようお願いして、以下に要旨を摘記しておきたい。

(1)NHKが5ヵ年計画で重点的に取り組む放送サービスについて

 
この項については、まずはじめに、NHKが「高いジャーナリズム精神」を謳いながら、その中枢的役割である「権力を監視する機能」をいかに遂行するのかについて何も触れていないことを批判している。その上で、具体的に次の4項目の番組作りを要望している。

  ①時の政府の意向・意図を監視する戦争・戦地報道
   NHKの報道番組では、イラクのサマーワからの陸上自衛隊の撤退報道が目立ち、その一方で日本の航空自衛隊の対米軍協力が拡大している実態がほとんど伝えられていない点を踏まえた意見である。

 ②国会審議の解説・討論番組
   昼間の長時間の国会中継をなかなか見られない視聴者のために、夜の時間帯に「今日の国会」(仮称)と題して、その日の国会で何が審議されたか、どのような問題点が浮かび上がったかなどを討論をまじえて解説・放送するよう、要望したものである。

 ③現代史をテーマにした大河ドラマ
  NHKの大河ドラマというと、戦国武将の波乱の生涯や明治期の志士の群像を描いたドラマが定番になっている。しかし、「視聴者の選択と判断のよりどころとなる番組」というなら、日本が関わった近現代の侵略戦争・植民地支配の実態、東京裁判の実態と評価、現憲法の制定史、敗戦後の占領政策の実態など、若者に限らず、多くの日本人が知っているようで実はよく知らない、これからの日本の進路にも関わる現代史上のテーマを取り上げるよう要請したものである。

 ④核戦争の危険に通じる地球規模でのエネルギー危機を考える番組
  これは、30~50年後に地球が直面すると警告されているエネルギー危機、そしてそれが引き金となって勃発の危険が指摘されている資源争奪戦―→核戦争の危機をいかにして回避するのかという大きなスケールの番組を編成し、英語同時通訳付きで放送するよう要請したものである。

(3)5ヶ年の新規投資と経費削減計画について

 NHKの経営計画ではオリンピックやワールドカップなどの豪華主義、イベント主義に彩られたハード面への投資に傾斜している。この点を批判し、NHKが視聴者に誠実かつきめ細かに対応するために必要なソフト面への投資を充実させるよう要望していている。

 また、2011年のアナログ放送停止、デジタル化への移行に伴って「テレビ難民」が生じないよう、生活困窮者に対してNHKが責任をもって「変換チューナー」を提供する費用を確保するよう求めている。

(4)受信料公平負担の徹底に向けた取り組みや“還元”の考え方について

 これについては、まず、様々な問題があるにしても、NHKが政治的商業的圧力を排除して権力を監視し、良質で多様な番組作りをする財務的基盤を確保するため、受信料制度を今後も維持していくよう求めている。

 最近、議論されている受信料の値下げ論について、今、多数の視聴者がNHKに求めているのは、受信料の水準の是正というよりも、公共放送らしい権力を監視する役割、良質で多様な番組作りであることを指摘し、はじめに値下げありきの議論、ましてや、受信料の義務化とセットの値下げ論には強く反対すると記している。
 その上で、一律の値下げの前に、病弱の高齢者、心身障害者、母子家庭の視聴者などへの受信料減免枠を拡大するよう要望している。

 NHKが進めようとしている訪問集金の廃止については、集金費用を一律に無駄な経費と決め付けるのではなく、「NHKを支える視聴者の声を聞く必要経費」と捉え、訪問集金を存続するよう求めている。
 

| | コメント (0)

「私は貝になりたい」(日本テレビ放映)はBC級戦犯の叫びをどこまで伝えたか?

加藤不二子さんからの一報

 去る8月24日の21時から23時24分まで、日本テレビで「終戦記念特別ドラマ」と題して、「私は貝になりたい―ー真実の手記 BC級戦犯 加藤哲太郎―ー」が放送された。副題にあるとおり、このドラマは終戦時の1945年、新潟の俘虜収容所の所長をしていた主人公・加藤哲太郎(中村獅童役)が同収容所で起こった捕虜射殺事件(犯人不明)の責任を一人で被る決意をし、3年に及ぶ逃亡を続けた末逮捕され、BC級戦犯裁判にかけられた事件を題材にしたものである。原作は加藤哲太郎が各所に匿名で発表した手記を収録して出版された『私は貝になりたい』(1994年、春秋社)である。

 その日の朝刊のテレビ番組表と各紙の番組予告欄でドラマ放映のことを知っていたが、午後に加藤不二子さんから電話をいただき、ぜひ視てほしいという知らせをもらった。番組をご覧になった方はすぐおわかりのことと思うが、加藤不二子さんはドラマでは優香が演じた、加藤哲太郎の妹さんで、死刑判決が下った兄の助命をマッカーサーに嘆願するため、皇居前のGHQに出向き直訴文を手渡した並外れた正義感と行動力の持ち主である。

『私は貝になりたい』の出版記念会で

 今から15年ほど前、ある機縁で加藤不二子さんのことを知り、2、3回私信を交わしたころ、上記の『私は貝になりたい』(1994年、春秋社刊)の出版記念会の案内状をいただいた。確か、皇居前(旧GHQ本部近く)の東京會舘で開かれたと記憶している。私のような縁の薄いものにまで案内をもらったときは驚いたが、自分の世界を広げるためにと思い立って出席した。確か、日立鉱山の俘虜収容所で哲太郎氏と一緒だったという高齢の人が同じテーブルに着き、「なぜ自分がB級で○○がC級なのか、わからない」と話しておられたのが記憶に残っている。

 あの日の記念会が加藤不二子さんとは初対面だったが、各テーブルをこまめに回って多くの出席者と精力的に挨拶を交わしておられた姿が印象に残っている。そのとき、会場の受付で『私は貝になりたい』を買った。これまで何度か読み返したが、今回、放送後に改めて読み直し、ドラマで伝えられたこと、伝えられなかったことを確かめることができた。

原作と脚本のはざまで

 新聞数紙でドラマの予告記事を読んだとき、原作がどのようにドラマ化されるのか、期待半分、不安半分だった。A級戦犯の裁判の陰に埋もれがちなBC級戦犯の裁判の実態に光を当て、長時間の放送枠を組むこと自体、貴重な企画に違いない。加藤不二子さんからの電話で日本テレビの下請けの制作会社の若いスタッフが原作を読んで感銘し、ぜひ取り上げたいといって取材に訪れたいきさつを聞いた。

 ただ、新聞の試写室欄を読むと、逃亡生活中に出会った女性・倉沢澄子さん(飯島直子役)との純愛物語あるいは肉親の助命を必死に嘆願する家族愛の物語に仕立て上げられたのではないかという危惧も拭えなかった。

 実際、放送されたドラマの前半を見た限りでは、この危惧が当たらずとも遠からずだった。とりわけ、哲太郎との出会いから結婚、逃亡の身の哲太郎に寄り添うことを決意した澄子の一途な姿、逃亡・逮捕、そして絞首刑の日が刻々と迫る中、哲太郎の安否に気をもむ加藤家の煩悶の描写にかなりの時間が割かれ、BC級戦犯を生み出した時代背景、哲太郎が獄中から何を訴えたかが背後に追いやられているという印象を拭えなかった。

 こんなドラマ仕立てを見ながら、番組制作・放送局への取材協力者の信頼の利益をどのように保証するのかという大きなテーマが頭をよぎった。そして、テレビで取り上げてもらおうと思えば、原作者や取材協力者はどの程度の脚色を受け入れ(甘受し)なければならないのかという複雑な問題を当事者ではない私も考えさせられた。

 ただし、どこまでが原作でどこからが脚色かは正直、私もわからない部分があったが、ドラマの後半で、哲太郎が死刑の執行を免れるために発狂を装ったことから入院させられた米軍361病院での目を覆うような虐待(原作117~118ページ)、狂人のまねを止めて巣鴨の死刑囚ブロックに戻されてから「死の待合室」で同居した中村雅俊役の元軍医との会話、元軍医が絞首台に連行される際に残した叫びは、このドラマを締めくくるにふさわしい圧巻だった。また、脚色の功罪は別にして哲太郎役の中村獅童、不二子役の優香、上記の中村雅俊など、スタッフ一同、それぞれの持ち役に徹した熱演はさすがだった。

 しかし、こうしたドラマの功の部分を認めながらも、最後まで見終えた私には、「終戦記念特別ドラマ」と銘打つなら、ぜひに伝えてほしかった原作の真髄の部分がさらりと流された印象を拭えなかった。それは哲太郎が巣鴨刑務所から危険を覚悟で匿名で書き付けた手記(原作に収録)の中の次のようなくだりである。

BC級戦犯釈放は再軍備の引換え切符ではない

 「下されたカーテン〔講和条約のこと―ー醍醐〕の中で両者は妥協へと急いだ。吉田〔茂〕は事実上の再軍備、即ち漸進的な予備隊の強化を約し、ダレスは将来に於て戦犯釈放の可能性への道を残した。そして其の時期は日本が再軍備をした時であった。」(原作92~93ページ)

 「私達は再軍備の引換え切符ではない。私達は戦争地獄へ渡る三途の川の渡し守へ支払う一文銭であってはならない。
 私達が欲するのは、人道的見地を盾にとった、他からきり離して戦犯釈放だけを対象とした、死の商人達の運動のおかげで釈放されることではない。
 私達が望むのは、祖国がそのすべての旧交戦国と友誼的な平和条約を結び、植民地の圧制から独立し、平和を愛する諸国民の寛大な取りはからいによって、私達が戦争に協力した道徳上の罪を赦され、暖かい日本国民の懐に帰り、平和愛好の国民の一員として祖国の独立と平和とを守り、以って人類の幸福に貢献し得る機会を与えられることである。」(原作95~96ページ。この手記は『世界』1952年10月号に「一戦犯者」の匿名で発表されたもの。)

天皇陛下、こんご日本人に生まれかわってもあなたの思うとおりにはなりません

 「天皇は、私を助けてくれなかった。私は天皇陛下の命令として、どんな嫌な命令でも忠実に守ってきた。そして日頃から常に御勅諭の精神を、私の精神としようと努力した。私は一度として、軍務をなまけたことはない。そして曹長になった。天皇陛下よ、なぜ私を助けてくれなかったのですか。きっとあなたは、私たちがどんなに苦しんでいるか、ご存じなかったのでしょう。そうだと信じたいのです。だが、もう私には何もかも信じられなくなりました。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍べということは、私に死ねということなのですか? 私は殺されます。そのことは、きまりました。私は死ぬまで陛下の命令を守ったわけです。ですから、もう貸し借りはありません。だいたい、あなたからお借りしたものは支那の最前線でいただいた七、八本の煙草と、野戦病院でもらったお菓子だけでした。ずいぶん高価な煙草でした。私は私の命と、長い間の苦しみを払いました。ですから、どんなうまい言葉を使ったって、もうだまされません。あなたとの貸し借りはチョンチョンです。あなたに借りはありません。もし私が、こんご日本人に生まれかわったとしても、決して、あなたの思うとおりにはなりません。二度と兵隊にはなりません。」(原作、26~27ページ。この手記の日付は1952年10月20日。飯塚浩二編『あれから七年』光文社、1953年に志村郁夫の名で収録されたもの)

 私の拙い解説はもはや不要だろう。原作の末尾に収録された内海愛子さんの解説で引用された資料によると、起訴されたBC級戦犯容疑者は5,700人、有罪者は3,419人、うち984人が死刑であったが、死刑囚の11%は俘虜収容所関係者だったという。
 
 思えば、私が生まれた1946年、哲太郎は絞首刑の恐怖におびえながら逃亡生活を続けていたことになる。BC級戦犯とその裁判の実相、13段の絞首台に引き出されるのが明日とも知れない極限の状態で彼らが必死に書き残したメッセージは60年近く経った今でも極く限られた人々にしか知られていない。それを次世代の若者に伝えるのは、BC級戦犯にならずに済んだ私たち戦後世代の道義的責任である。

| | コメント (0)

有料老人ホームの入居一時金の怪

コムスン事件を機に入居一時金の怪を調査

 今年6月に厚生労働省がコムスンの指定介護事業所(全国で約1,600箇所)について来年4月以降、指定の更新を打ち切るよう、都道府県に通知した事件をきかっけに、コムスンの経営状況に関心を持ち、資料集めを始めた。報道では、コムスンの様々な不正請求が伝えられているが、調査を進めるうちに有料老人ホームが入所時に請求する一時金(入居一時金)に問題が山積していることに気がついた。

 さっそく入手できた財務資料を下調べし、それを基に6月15日に、コムスン(広報室)へ同室の指示にしたがってE・メール添付の書面で質問書を送った。しかし、なかなか回答が来ないので8月13日、回答を督促するE・メールをコムスン広報室へ送ったところ、8月18日に同室から回答できないとの返信が届いた。そこで、補足調査のため、東京都高齢社会対策部施設運営係に問い合わせをして、入居一時金一般に関するいくつかの重要な事実を確認できた。この記事はこうした経過を経てまとめたものである。

入居一時金の30%を即時償却し、残額を5年で償却してしまうコムスン

 入居者の経費負担には月払い方式、一時金方式および両者を組み合わせた方式がある。その中の一時金方式について、厚生労働老健局長通知「有料老人ホームの設置運営指導指針」は次のように説明している。

  「一時金方式(終身にわたって受領すべき家賃相当額の全部または一部を前払金として一括して受領する方式)」(下線は2006年3月31日付けの最終改正で追加されたもの)

  また、社団法人全国有料老人ホーム協会は、「入居一時金」の性格について、次のように説明している。
http://www.yurokyo.or.jp/knowledge/03.html

  「入居一時金  有料老人ホームは、建物の建築について、公的な補助はありません。ホームの建設費用は、入居者の方からいただく費用で成り立っています。入居一時金を支払うことによって、専用居室や共用施設を利用する権利を取得することになります。言ってみれば、長期の家賃相当分の前払いと考えることができます。」

 実際にも、各施設が作成した重要事項説明書では、入居一時金の趣旨を、「専用居室、共用部分の利用のための家賃相当額に充当されるもの」と記すのが通例になっている。このような入居一時金の説明と一時金の帰属、償却方法に齟齬はないのかを検討することがこの記事の究極の目的だが、本題に入る前に、まずは、入居一時金の金額、償却方法の実態を確かめておきたい。

 入居一時金については、その上限、償却方法、解約時の返還方法などが法令で規制されているわけではなく、一時金の算定根拠等を書面で明示し、保全措置を講じること等が上記の「指導指針」で通知されるにとどまっている。そこで、いくつかの施設の重要事項説明書ないしはホームページを検索して確かめた実例を紹介しておく。

〔コムスンガーデン南平台〕
   金額:居室タイプⅠ 2,280万円
       (別に、家賃・食費・管理費等の月額 292,500円)
      居室タイプⅡ 4,480万円(夫婦入居可能部屋)
       (同上の月額 511,500円)
  償却方法:30%を即時償却、残金を5年間で定額償却
  退去時の返金:入居年数に応じて入居金の未償却残高を返金

〔ロイヤルライフ多摩〕
  金額:1人入居の場合 5,200万円~14,700万円
       (別に、食費・管理費等の月額 200,550円)
      2人入居の場合 6,500万円~18,375万円
       (同上の月額 343,350円)
  償却方法:15%を即時償却、残金を入居時の年齢に応じて10
                   ~20年間で償却
  退去時の返金:入居月数に応じて入居金×85%の未償却残
                   高を返金

〔サンリッチ三島〕
  金額:1人入居の場合 2,515万円~8,426万円
       (別に、食費・管理費の月額 151,680円~171,420円)
      2人入居の場合 3,311万円~9,222万円
       (同上の月額 236,160円~255,900円)
  償却方法:15%を即時償却、残金を入居時の年齢に応じて15
              年間で償却
  退去時の返金:入居月数に応じて入居金×85%の未償却残高
              を返金

〔アビタシオン博多〕
  金額:1人入居の場合 990万円~3,730万円
       (別に、入居時費用として介護費400万円、食費・管理費
                の月額 125,475円)
      2人入居の場合 1,390万円~4,130万円
       (同上の介護費800万円、食費・管理費の月額 215,775
                円)
  償却方法:20%を即時償却、残金を8年間で償却
  退去時の返金:入居月数に応じて、入居金×80%の未償却残高
                を返金

なぜ即時償却なのか?

  調査した範囲では、入居一時金の即時償却率は施設によってまちまちだが、多くは15%~20%の幅に収まっていた。コムスンの30%という数値は稀な例といってよい。また、入居時の年齢に応じて償却年数を定める施設、例えば、80歳未満の場合は15年、80歳以上の場合は10年というように定めている施設も少なくない。
    しかも、この即時償却された入居一時金は償却期間内に解約・退所した場合でも返金の対象から除かれることになっている。それだけに即時償却率の多寡は入所者にとって重大な関心事である。しかし、割合以前に、そもそもなぜ契約開始日に入居一時金の15%~30%が償却されてしまうのか? その理由が問われるべきである。

 入所一時金が家賃の前払いというなら、入金の時点でいったん、長期前受金として負債に計上し、償却期間(=平均入所期間)にわたって、時間の経過に合わせて収益に振り替えていくのが合理的な会計処理のはずである。事実、入手できた各施設の貸借対照表を見る限りでは、即時償却した後の入所一時金については負債の部に「長期預かり保証金」として計上されている。おそらく、これが入所一時金の未償却残高の受け皿となっている科目で、この金額が解約者への返金額に相当すると考えられる。それなら、一時金の15%~30%をこうした期間償却に先立って契約開始日になぜ即時償却してしまうのか?

 コムスンガーデン南平台に2,280万円の一時金を支払って入所した高齢者を例にしていうと、そのうちの1,344万円は契約開始日に償却され、解約しても返金されない(施設側に帰属してしまう)仕組みになっているのはなぜなのか? これでは、入所一時金を家賃の前払いとする説明と辻褄が合わない。

 考えられる解釈としては、入所一時金の算定要素の中に施設の維持・運営に係る初期費用としての固定費が含まれており、その部分については期間の経過に関わりなく発生する費用の対価として契約開始日の属する年度に償却する(収益に振り替える)ことにしているのかもしれない。それなら、入居一時金の算定要素の明細を公表し、即時償却率がこの固定費的要素の占める比率に見合っているかどうかを立証する責任を事業主体に負わせるのが当然である。

なぜ5年~20年で償却を済ませるのか?

 上で説明したように、入居一時金はその15%~30%が契約開始日に即時償却され、残りは所定の期間にわたって均等額ずつ償却されていく仕組みになっている。この場合の所定の期間は施設によりまちまちであるが、大半は15年~20年の範囲内に収まっている。また、入居時の年齢に応じて償却年数を定める施設、例えば、80歳未満の場合は15年、80歳以上の場合は10年というように定めている施設も少なくない。いずれにしても、償却年数を5年としているコムスンは稀な事例である。

 入居一時金を居室の家賃の前払いと捉えるとすれば、いくつかの施設が重要事項説明書で記載しているように、入所者の平均的な想定居住年数に基づいて入居一時金の償却年数を定めるのが合理的である。とすれば、施設ごとに入所者の(入所時の年齢区分ごとの)平均居住年数の実績値を公表し、一時金の償却年数がそれに見合っているかどうかを立証する責任を事業主体に負わせるのが当然である。そうすれば、償却年数が施設によって5年であったり20年であったりとばらついているのが合理的なのかどうかが判明するはずである。   

| | コメント (0)

「これからの日本」(憲法9条をめぐるスタジオ討論)を視聴して

 昨夜(8月15日)、NH総合テレビで放送された「これからの日本」(憲法9条をめぐるスタジオ討論)を視た感想を番組のHPに設けられた感想・意見送信フォーマットを使って、番組担当宛にE・メールで送った。そのPDF版を掲載する。

 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/korekaranonippon20070815_heno_iken.pdf

| | コメント (2)

本多勝一著『NHK受信料を拒否して40年』を読んで

メダカ社会論が冴えわたる新著

 本多勝一さんの<貧困なる精神U集>『NHK受信料を拒否して40年ーーメダカ社会とジャーナリズムーー』(株式会社金曜日、2007年7月10日)が刊行された。書名にちなんだNHK受信料拒否のことはじめ、NHK報道番組の変わらぬ政府広報体質への批判のほか、ご自身の体験をまじえながら国歌・国旗法案を「軍国少年」への迷信を植えつけるものと批判する論説、石原慎太郎という行動力なき臆病者を痛罵すると同時に、彼を東京都知事に再選した都民の民度にこそ問題の根源があるとする論説など、その舌鋒は健在である。
 私事にわたるが、『週刊金曜日』誌上で連載された私との対談(一部追記あり)も収録されている(40~70ページ)。

 本多さんの論説にはいくつかのキーワードがあるが、対談を通じて私が強く印象付けられた言葉は本書の副題にも使われている「メダカ社会」である。<権威に弱く体制順応ないしは長いものに巻かれることに痛痒を感じない集団依存型人間からなる社会>という意味で使われている。

 例えば、「メダカ社会での自民党総裁選」と題したコラム(162ページ)では、『朝日新聞』の社説(2006年8月11日)を引用しながら、靖国問題やアジア外交をめぐって安倍晋三氏の路線を危ぶむ声が自民党内でも少なくなかったにもかかわらず、福田康夫氏が出馬を断念するや、理念や政策そっちのけで、なだれを打って安倍支持一色に変わった総裁選の模様が皮肉を込めて取り上げられている。

 その安倍氏の続投をめぐって自民党内に不満がくすぶりながらも、次第に党内の関心が次期内閣改造でのポスト確保に移っている報道を見ながら、このコラムを読むとなるほどと考えさせられる。ただし、本多さんのメダカ社会論は日本人の体質に向けられるだけでなく、そうした体質を助長し温存してきたマスコミ(ジャーナリズムではない)にも向けられている点が重要である。

批判は紙の上のものではなく、具体的な実践が伴わなければならない

 これは本書の冒頭で引用された本多さんの30年前の著書『NHK受信料拒否の論理』の中の一文である。本多さんは1931年生れというから、今年で75歳ということになる。70歳でのイラク取材はきつかったと述懐する(182ページ)本多さんではあるが、昨年11月に『朝日新聞』声欄に「NHK受信料未払いの理由」という見出しで送られた投書が本書に収録されている(74ページ)のを知り、驚いた(結局はボツになったとのこと)。

 その中で、本多さんは受信料支払い拒否の本質的な理由は受信料制度の不公平ではなく、NHKがジャーナリズムの核心的な使命である権力の監視役を果たしていない点にあると力説され、末尾で「業務(経営)と編集の分離そのほか、ジャーナリズムの基本が確立されたら払うつもりです」と記している。この一文を読んで、本多さんが私との対談の中で、自筆の黄色がかったノートに目をやりながら、「醍醐さんの言っていることと同じだと思うんです。『知る権利に応えると共に偏狭な市場主義に抗していくのだったら〔NHKを〕支援していくことをためらうものではない』と」(62ページ)と苦笑(?)しながら語られたのを想い起こした。

 「苦笑」に?を付けたのは、そうはいっても本多さんから見て、NHKがジャーナリズム精神を取り戻す可能性は限りなく小さいからであろう。ちなみに私が共同代表を務めたNHK受信料支払い停止運動の会は、支払い拒否を続ける本多さんに「後ろ髪を引かれる思い」(?)で、今年の2月8日を以って賛同者に支払い再開を呼びかけ、会を解散して、新しく「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」を立ち上げた。その経過は、編集者の求めに応じて、本書の68~70ページに追記として収録しているので参照いただけると幸いである。

 話は戻るが、「批判は紙の上だけのものではなく、相手に具体的な打撃を与え得る実践がともなわなければならなぬ」(5ページ)という本多さんの指摘に私も、自分の拙い体験から、共鳴すること大である。特に、日本には、公共放送の理念を語るメディア「論」専門家は多くても、NHKをいかにしてあるべき公共放送に近づけるかの実践的道筋を示すメディア専門家は少ないように思われてならない。

 そのような感想を抱きながら、今なお、新聞紙面に意見を投稿された本多さんの行動力に感服したのである。

旅先の風景、ウシの乳とヤギの乳、田中康夫論など

 以上は本書の書名にそった本多さんのメディア論であるが、本書にはこのほか、各地を取材で回った本多さんの旅行記や本多さんの生まれ故郷、伊那谷の風物記も収録されている。これらの中で、私は一人の読者として、私も立ち寄って名産の刃物を買い求めたドイツのゾーリンゲンの紀行文を収めた「旅先の風景」(157ページ以下)に感慨を覚えた。

 また、2006年の長野県知事選で田中康夫氏が落選したニュースに触れて、次のように発言されているのに興味深くうなずいた。

  「田中は負けるべくして負けたと思っています。相手が誰であっても負けたと思いますね。あの人が掲げている政策や、これまで進めてきた方向性は、決して間違っていなかったと思うんですよ。ただ、私は彼が知事になる前から知っていますが、人格としてダメなんです。そのことが県民に広く知られてきたら負けますよね。しかも石原慎太郎あたりに秋波を送るに及んでは(笑)・・・・・」(179ページ)

 私は田中知事時代に長野県が設置した二つの審議会委員に参加し、それを機縁に田中氏と多少交わりを持ったり、長野県議会に参考人・証人として呼ばれた経験から、田中氏が進めた政策や県政の方向性そのものにも疑義を感じる点があるが、「負けるべくして負けた」、「人格がダメ」という本多さんの指摘には完全に同感である。
 田中氏に対する私の寸評は、このブログの「私の仕事(新聞記事等)」に掲載した「審議会は知事の親衛隊か」(『朝日新聞』長野版記事)
http://mytown.asahi.com/nagano/news.php?k_id=21000159999990980
を参照いただけると幸いである。

| | コメント (3)

雑感 NHK「思い出のメロディ」を視て

感動とふるさとの押し売りは相変わらずだったが

 昨夜、NHK総合で「第39回 思い出のメロディ」が放送された。番組表で確かめていたわけではなく、夜7時のニュースを視たまま切らずにいると、この歌番組が始まったことから、今日が放送日と初めて知った。最初の3曲ほどがなじみの曲だったのにつられて、連れ合いと会話しながら最後まで視た。

 タイトルは「ありがとう青春の歌~心を支えた大切な一曲~」だった。友人と懐メロの話しをするとき、私は「演歌ではなく青春歌謡だ」と言い続けてきた。それにしても、番組を制作する側から、「ありがとう」とか「心を支えた」などと押し付けがましく命名されるのは気持よくない。何に感動するかは視る人それぞれの生い立ちや感受性によりけりだ。感動を押し付けるかのような司会者の振り付けは控え目にして、淡々と歌手に歌ってもらった方がすがすがしい。「ふるさとのありがたさ」を押し売りするあたりもNHKの変わらぬ体質だった。

 しかし、こんな不平不満を書き連ねると、それこそ独断の押し売りと言われかねないので、この記事ではなるべく淡白に視聴後の雑感を書き留めることにしたい。

歌手の歳月の歩みを彷彿とさせた曲

 昨夜の「思い出のメロディ」に限らず、最盛期から数十年経た歌手が同じ歌を歌う姿を視て、歌よりも、歌手自身の歳月の歩みに想いを誘われる場面が少なくない。22歳のとき、「若いふたり」というドドンパ調の歌が大ヒットした北原謙二が30年ほど経ったある日のテレビ画面に半身麻痺の姿で現れたときの驚き、その後に北原氏の病状、各地の医療施設を慰問して回っていることを知ったときの歳月の落差は今でも鮮かに記憶している。

 昨夜の「思い出のメロディ」で言うと、「柿の木坂の家」を歌った青木光一、「夜明けの停車場」を歌った石橋正次、「折鶴」を歌った千葉紘子などにその思いを感じさせられた。3人とも初出の頃と変わらぬ、否、それ以上に丹精込めた歌い方に歳月が刻んだ深みを感じさせられた。後で調べると、千葉紘子は現在までに法務省篤志面接委員を委嘱され、非行に走った女子の相談役を務めたり、青少年問題審議会、中央教育審議会委員など各種審議会委員を務めている。それを知ってテレビの画面を想い返すと、なるほどと納得してしまう。やたら、政府の審議会委員に名前を連ねる経歴からは、社会活動の中身が気になるが。

 3人の中で一番、年輪を感じさせたのはやはり最年長の青木光一だった。同氏の歌はどれもいまや「懐メロの中の懐メロ」の感があるが、全盛期と比べてスピードを落とし、その分、高低や強弱の付け方に気を使っている様子が画面からいやというほど伝わってきて、視る人と曲を大切にするプロの心にいつも打たれる。

曲と歌手のミスマッチ

 以上は同じ歌手が数十年の歳月を経て同じ曲を歌った場面についての雑感である。しかし、昨夜も、目下流行中の歌手数人が、自分がこの世にいないか、生まれて間もない頃に流行った歌を歌っていた。その中で、坂本冬美が歌った「一杯のコーヒーから」は本人の歌唱力にもよるが、古臭ささを感じさせない伸びやかな青春歌謡そのものだった。

 しかし、小林幸子が歌った「湖畔の宿」、氷川きよしが歌った「ああ上野駅」はいただけなかった。小林幸子の場合は明らかに曲と歌手のミスマッチ。この歌は元々映画俳優で歌手ではなかった高峰三枝子が素人っぽく歌った気取らない(連れ合い評)曲である。それをこぶしを利かせた演歌調で歌ったのでは清新さは台無しである。小林幸子に恨みはないが、昨日の顔ぶれでいえば、坂本冬美が歌えば元歌のよさを再現できた気がする。氷川きよしの「ああ上野駅」は、のっぺらぼうな歌い方で、曲を歌いこなせていなかった。井沢八郎が墓場で聴いたら「10年早い」と嘆いたのではないか。

「長崎の鐘」の出自へのこだわり

 番組の最後の曲は「長崎の鐘」だった。それまでにぎやかに番組を進行させていた司会者が襟を正して「原爆・・・・」と言い出したとき、私は思わず画面に向かって、「あの曲じゃないだろうね」とつぶやいた。あの曲とは「長崎の鐘」である。そして数秒後にやはり、この曲を秋川雅史が歌い出した。秋川のクラシック歌手しての歌唱力を云々する能力は私にはないが、それまで「流行歌手」の歌を聴いた後だけに、声量といい、発声力といい、この曲に似つかわしい歌手だと思えた。

 また、「長崎の鐘」を番組の最後に持ってきた制作者の思いも分かったつもりである。それでも私がこの歌に抵抗を感じたのは、この歌の原作とされる永井隆著『長崎の鐘』が刊行されたいきさつが、かの久間防衛大臣(当時)の「原爆仕方がない」発言とダブルからである。私のこだわりを簡潔に言うと、次の通りである。

 今年の春ごろ、あるきっかけで私は占領期にGHQが敷いた原爆被害の報道・言論に関する禁圧(プレス・コード)に関心を持ち始めた。そこで、いろいろ資料を調べていくうちに、横浜の日本通り駅そばにある放送ライブラリーに長崎放送が放送した原爆関連の番組が保存されていることを知り、出かけた。お目当ては2000年5月31日に長崎放送が放送した「報道特別番組 神と原爆~浦上カトリック被爆者の55年~」だった。最初はざっと流し視するつもりだったが視て行くにつれ、コマを止めてはノートを取る繰り返しになった。

「被爆者は神に差し出された小羊」!?

 そのわけは、原爆投下の直後、自らも被爆しながら、あちこちでもがき苦しむ多くの被爆者の看護に当たった長崎医科大学教員、永井隆作の『長崎の鐘』がGHQによる言論・出版統制をくぐりぬけて刊行されたいきさつが赤裸々に描写されていたからである。中でも衝撃的だったのは、この本の出版を許可すべきかどうかについて、GHQ内で賛否が分かれ、本国の判断を仰いだこと、その結果、アメリカ本国の判断で、フィリピンで日本軍が多数のキリスト教徒を殺害した蛮行を記した連合軍総司令部諜報課著「マニラの悲劇」を合本することを条件に出版が許可されたことだった。そればかりか、この条件を受け入れて出版する場合は、3万部分の用紙をアメリカ側が提供するという申出まで付けられた。

 問題は、なぜアメリカ側が『長崎の鐘』に異例とも思える厚遇を申し出たのかである。上記の長崎放送の番組によると、そのわけは永井隆が『長崎の鐘』の中で原爆を「神の摂理」、地震、津波といった天災(catastrohe as earthquakes, tidal waves)かのように描いているからだった。これなら、原爆投下に対する日本人の反感を打ち消すことができる、とアメリカは考えたという。

 帰宅後、資料を調べていくと、永井隆は原爆投下の同じ年の11月23日に行われた天主公教合同葬で天主公教浦上信徒代表として読み上げた弔辞の中で、天皇による「終戦の聖断」が聖母の被昇天の大祝日に下されたことは単なる偶然ではなく、「天主の妙なる摂理」であると解釈し、被爆者は神に差し出された「汚れなき小羊」であると謳いあげていたことを知った(長崎総合科学大学教授の高橋真司氏は著書『長崎にあって哲学するーー核時代の死と生』1994年、北樹出版、の中でこうした永井隆の論説を「浦上燔祭説」と呼び、厳しく批判している)。原爆投下に対する日本人の批判・反感の広がりを恐れたアメリカが永井隆『長崎の鐘』に高い利用価値を見出したゆえんであろう。

 歌としての「長崎の鐘」はこうした歴史的背景とは無関係に今後も原爆の悲しみを静かに歌い上げた名曲として愛唱され続けるのかもしれない。しかし、歌詞に即していっても被爆者が経験した辛酸を「うねりの波の人の世に気高く生きる野の花よ」と、つつましく生きる人の姿を礼賛するかのように昇華したのでは原爆体験を刻む歌には、およそ不似合いではないか? 

 先の参議院選挙の長崎選挙区では、原爆投下を「仕方がない」と発言した久間前防衛大臣が推した候補が下馬評に反して落選した。今や、「祈りの長崎」の市民も祈りだけで平和と核のない世界は到来しないことを悟った証しであろう。そういえば、上記の長崎放送の番組は最後のシーンで、「原爆は神の摂理などではない」と悟り、原爆語り部に参加していったカトリック教徒Kさんの姿を紹介していた。「長崎の鐘」が原作とは離れて、市民が主体的に平和に関わっていく意思を込めた歌として愛唱されることを願いたい。  

| | コメント (2)

« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »