« NHKの経営委員長は経営者としての実績が物を言う役職なのか(前編) | トップページ | 本多勝一著『NHK受信料を拒否して40年』を読んで »

雑感 NHK「思い出のメロディ」を視て

感動とふるさとの押し売りは相変わらずだったが

 昨夜、NHK総合で「第39回 思い出のメロディ」が放送された。番組表で確かめていたわけではなく、夜7時のニュースを視たまま切らずにいると、この歌番組が始まったことから、今日が放送日と初めて知った。最初の3曲ほどがなじみの曲だったのにつられて、連れ合いと会話しながら最後まで視た。

 タイトルは「ありがとう青春の歌~心を支えた大切な一曲~」だった。友人と懐メロの話しをするとき、私は「演歌ではなく青春歌謡だ」と言い続けてきた。それにしても、番組を制作する側から、「ありがとう」とか「心を支えた」などと押し付けがましく命名されるのは気持よくない。何に感動するかは視る人それぞれの生い立ちや感受性によりけりだ。感動を押し付けるかのような司会者の振り付けは控え目にして、淡々と歌手に歌ってもらった方がすがすがしい。「ふるさとのありがたさ」を押し売りするあたりもNHKの変わらぬ体質だった。

 しかし、こんな不平不満を書き連ねると、それこそ独断の押し売りと言われかねないので、この記事ではなるべく淡白に視聴後の雑感を書き留めることにしたい。

歌手の歳月の歩みを彷彿とさせた曲

 昨夜の「思い出のメロディ」に限らず、最盛期から数十年経た歌手が同じ歌を歌う姿を視て、歌よりも、歌手自身の歳月の歩みに想いを誘われる場面が少なくない。22歳のとき、「若いふたり」というドドンパ調の歌が大ヒットした北原謙二が30年ほど経ったある日のテレビ画面に半身麻痺の姿で現れたときの驚き、その後に北原氏の病状、各地の医療施設を慰問して回っていることを知ったときの歳月の落差は今でも鮮かに記憶している。

 昨夜の「思い出のメロディ」で言うと、「柿の木坂の家」を歌った青木光一、「夜明けの停車場」を歌った石橋正次、「折鶴」を歌った千葉紘子などにその思いを感じさせられた。3人とも初出の頃と変わらぬ、否、それ以上に丹精込めた歌い方に歳月が刻んだ深みを感じさせられた。後で調べると、千葉紘子は現在までに法務省篤志面接委員を委嘱され、非行に走った女子の相談役を務めたり、青少年問題審議会、中央教育審議会委員など各種審議会委員を務めている。それを知ってテレビの画面を想い返すと、なるほどと納得してしまう。やたら、政府の審議会委員に名前を連ねる経歴からは、社会活動の中身が気になるが。

 3人の中で一番、年輪を感じさせたのはやはり最年長の青木光一だった。同氏の歌はどれもいまや「懐メロの中の懐メロ」の感があるが、全盛期と比べてスピードを落とし、その分、高低や強弱の付け方に気を使っている様子が画面からいやというほど伝わってきて、視る人と曲を大切にするプロの心にいつも打たれる。

曲と歌手のミスマッチ

 以上は同じ歌手が数十年の歳月を経て同じ曲を歌った場面についての雑感である。しかし、昨夜も、目下流行中の歌手数人が、自分がこの世にいないか、生まれて間もない頃に流行った歌を歌っていた。その中で、坂本冬美が歌った「一杯のコーヒーから」は本人の歌唱力にもよるが、古臭ささを感じさせない伸びやかな青春歌謡そのものだった。

 しかし、小林幸子が歌った「湖畔の宿」、氷川きよしが歌った「ああ上野駅」はいただけなかった。小林幸子の場合は明らかに曲と歌手のミスマッチ。この歌は元々映画俳優で歌手ではなかった高峰三枝子が素人っぽく歌った気取らない(連れ合い評)曲である。それをこぶしを利かせた演歌調で歌ったのでは清新さは台無しである。小林幸子に恨みはないが、昨日の顔ぶれでいえば、坂本冬美が歌えば元歌のよさを再現できた気がする。氷川きよしの「ああ上野駅」は、のっぺらぼうな歌い方で、曲を歌いこなせていなかった。井沢八郎が墓場で聴いたら「10年早い」と嘆いたのではないか。

「長崎の鐘」の出自へのこだわり

 番組の最後の曲は「長崎の鐘」だった。それまでにぎやかに番組を進行させていた司会者が襟を正して「原爆・・・・」と言い出したとき、私は思わず画面に向かって、「あの曲じゃないだろうね」とつぶやいた。あの曲とは「長崎の鐘」である。そして数秒後にやはり、この曲を秋川雅史が歌い出した。秋川のクラシック歌手しての歌唱力を云々する能力は私にはないが、それまで「流行歌手」の歌を聴いた後だけに、声量といい、発声力といい、この曲に似つかわしい歌手だと思えた。

 また、「長崎の鐘」を番組の最後に持ってきた制作者の思いも分かったつもりである。それでも私がこの歌に抵抗を感じたのは、この歌の原作とされる永井隆著『長崎の鐘』が刊行されたいきさつが、かの久間防衛大臣(当時)の「原爆仕方がない」発言とダブルからである。私のこだわりを簡潔に言うと、次の通りである。

 今年の春ごろ、あるきっかけで私は占領期にGHQが敷いた原爆被害の報道・言論に関する禁圧(プレス・コード)に関心を持ち始めた。そこで、いろいろ資料を調べていくうちに、横浜の日本通り駅そばにある放送ライブラリーに長崎放送が放送した原爆関連の番組が保存されていることを知り、出かけた。お目当ては2000年5月31日に長崎放送が放送した「報道特別番組 神と原爆~浦上カトリック被爆者の55年~」だった。最初はざっと流し視するつもりだったが視て行くにつれ、コマを止めてはノートを取る繰り返しになった。

「被爆者は神に差し出された小羊」!?

 そのわけは、原爆投下の直後、自らも被爆しながら、あちこちでもがき苦しむ多くの被爆者の看護に当たった長崎医科大学教員、永井隆作の『長崎の鐘』がGHQによる言論・出版統制をくぐりぬけて刊行されたいきさつが赤裸々に描写されていたからである。中でも衝撃的だったのは、この本の出版を許可すべきかどうかについて、GHQ内で賛否が分かれ、本国の判断を仰いだこと、その結果、アメリカ本国の判断で、フィリピンで日本軍が多数のキリスト教徒を殺害した蛮行を記した連合軍総司令部諜報課著「マニラの悲劇」を合本することを条件に出版が許可されたことだった。そればかりか、この条件を受け入れて出版する場合は、3万部分の用紙をアメリカ側が提供するという申出まで付けられた。

 問題は、なぜアメリカ側が『長崎の鐘』に異例とも思える厚遇を申し出たのかである。上記の長崎放送の番組によると、そのわけは永井隆が『長崎の鐘』の中で原爆を「神の摂理」、地震、津波といった天災(catastrohe as earthquakes, tidal waves)かのように描いているからだった。これなら、原爆投下に対する日本人の反感を打ち消すことができる、とアメリカは考えたという。

 帰宅後、資料を調べていくと、永井隆は原爆投下の同じ年の11月23日に行われた天主公教合同葬で天主公教浦上信徒代表として読み上げた弔辞の中で、天皇による「終戦の聖断」が聖母の被昇天の大祝日に下されたことは単なる偶然ではなく、「天主の妙なる摂理」であると解釈し、被爆者は神に差し出された「汚れなき小羊」であると謳いあげていたことを知った(長崎総合科学大学教授の高橋真司氏は著書『長崎にあって哲学するーー核時代の死と生』1994年、北樹出版、の中でこうした永井隆の論説を「浦上燔祭説」と呼び、厳しく批判している)。原爆投下に対する日本人の批判・反感の広がりを恐れたアメリカが永井隆『長崎の鐘』に高い利用価値を見出したゆえんであろう。

 歌としての「長崎の鐘」はこうした歴史的背景とは無関係に今後も原爆の悲しみを静かに歌い上げた名曲として愛唱され続けるのかもしれない。しかし、歌詞に即していっても被爆者が経験した辛酸を「うねりの波の人の世に気高く生きる野の花よ」と、つつましく生きる人の姿を礼賛するかのように昇華したのでは原爆体験を刻む歌には、およそ不似合いではないか? 

 先の参議院選挙の長崎選挙区では、原爆投下を「仕方がない」と発言した久間前防衛大臣が推した候補が下馬評に反して落選した。今や、「祈りの長崎」の市民も祈りだけで平和と核のない世界は到来しないことを悟った証しであろう。そういえば、上記の長崎放送の番組は最後のシーンで、「原爆は神の摂理などではない」と悟り、原爆語り部に参加していったカトリック教徒Kさんの姿を紹介していた。「長崎の鐘」が原作とは離れて、市民が主体的に平和に関わっていく意思を込めた歌として愛唱されることを願いたい。  

|

« NHKの経営委員長は経営者としての実績が物を言う役職なのか(前編) | トップページ | 本多勝一著『NHK受信料を拒否して40年』を読んで »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

NHK問題」カテゴリの記事

コメント

醍醐さま、
さっそくブログに来させていただきました。最後の秋川雅史さんの「長崎の鐘」、長崎総合科学大学の高橋真司さんが、その昔、ある学会で報告されたとき、たまたま司会をしていて、その鋭い永井批判に大きな感銘を受けたのを思い出していたのですが、奇しくも醍醐さんが取り上げておられて、さすが!と。

それと、もう一つ、その前日でしたが、深夜にNHKの解説委員が「真夏の夜のナマ解説・どう読む転換期の日本ー自民大敗・政治と社会のゆくえを展望する」と題して、11時から3時10分まで、年金、国際関係、教育問題について、専門の解説委員が迫力ある率直な意見を展開、見ごたえがありました。国民の審判が、NHKの姿勢そのものをも確かに変化させたことを実感しました。いよいよこれからですね。

投稿: 志水紀代子 | 2007年8月12日 (日) 18時58分

 「長崎の鐘」は毎年必ずと言っていいくらいに取り上げられる歌ですが、秋川雅史によってたくさんの人に覚えてもらえたと思います。このような歌は歌い継がなければならないですよね。
 「湖畔の宿」はよくなかったですか。番組はカーラジオで聴きましたが、この歌は聴き逃しました。小林幸子では余り期待できないのは想像できましたが、かと言って誰だったらまともに歌えるか、というとこれまた大変難しいと思います。

投稿: trefoglinefan | 2007年8月12日 (日) 17時51分

この記事へのコメントは終了しました。

« NHKの経営委員長は経営者としての実績が物を言う役職なのか(前編) | トップページ | 本多勝一著『NHK受信料を拒否して40年』を読んで »