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フェルメール展に出かける

 「レトリック会計学を超えて――M&Aの会計を題材にして――」
 日本大学経済学部でゲスト・スピーチ

 さる22日、日本大学経済学部の今福愛志氏のお招きで、同学部の会計学関係の院生、学生ほかの皆さん相手に表題のような話をさせてもらった。スピーチ用に用意したレジュメを掲載しておきたい。

「レトリック会計学を超えて――M&Aの会計を題材にして――」
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/retorikku_kaikeigaku_wo_koete.pdf

 私が「レトリック会計学」と呼ぶのは、

1.論証すべきことを前提に滑り込ませて、特定の結論を、それとは意識させず誘導する議論、
2.論証すべき難問を、用語の置き換えで論証・説明できたかのような錯覚をふりまく議論、
3.論証の過程に非学問的な感性に訴える用語を挿入することによって、論証の飛躍を取り繕おうとする議論

を指す。

 オランダ風俗画展で考えたこと

 ところで、日大でのスピーチは午後3時からだったので、前日、急に思い立ってその前の時間を利用して連れ合いと乃木坂にある国立新美術館で開かれている「フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展」に出かけることにした。本展はアムステルダム国立美術館に所蔵されるオランダ美術コレクションの中から選ばれた、女性のイメージを描いた油彩画40点、素描・水彩画9点、版画51点で構成されている。館内はオランダの風俗画を17世紀から19世紀後半までに時代区分して配列されていた。

 展示された作品の大半は台所や炉辺で調理や裁縫にいそしむ女性(使用人)の姿を写実したものだった。平日とはいいながら、相当な人出で館内はあちこちで人の流れが滞っていた。

 海外に出かけた時は滞在先の美術館やコンサートによく出かけるが、美術館に展示された作品のほとんどは聖書や古典を題材にした宗教画である。その生活感の希薄さに私はなかなかなじめないのが常である。絵画の世界では、風景・風俗画を、眼に見える世界を単に模倣したものに過ぎず、独創性も高尚な理想・思想もない一段劣った作品とみなす伝統が根付いているらしい。

 そういえば、パリのマルモッタン美術館へ出かけて、印象派の巨匠とされるクロード・モネの「印象・日の出」に出会ったとき、ある評者がこの作品を「単に印象を描きだしただけの作品にすぎない」と酷評したのが「印象派」という名称の始まりだと知った。

 しかし、もともと写実的作品に親近感を感じる私には、ヨハネス・フェルメール<牛乳を注ぐ女>とともに、ヨーゼフ・イスラエルスの<小さなお針子>、ニコラース・ファン・デル・ヴァ-イの<アムステルダムの孤児院の少女>、ヤン・エーケルス2世<ペンを削る男>などの作品に魅かれた。

 どこにでも見られる台所で働く女性の姿にドラマ性は全くない。そこから伝わってくるのは、≪静寂≫、≪ひたむきさ≫だけである。ちなみに、出口近くの売店で買い求めた展覧会解説書によると、<小さなお針子>を描いたヨーゼフ・イスラエルスについて、次のように記されていた。

 「ヨーゼフ・イスラエルスは下層階級の日常生活を描いた最初の19世紀オランダ画家の一人であった。とはいえ、彼の絵画は、何らかの社会批判を含むものではなく、むしろ貧困を空想的に美化する傾きがあったことを付け加えておかねばならない。この傾向は、当時の中産階級の都市的な環境からは消えつつあった古い儀式や習慣に対する懐古的な願望から生じてきたものである。」

 しかし、そうだとしても、台所で働く使用人を、脇役としてではなく、正面に据えた作品がこれほど多く描かれたということは、華やかな中産階級の生活の陰にうずもれてしまいがちなこうした女性の存在に深い関心を注ぐまなざしがあったからに違いない。展覧会は12月17日まで。

 出口で連れ合いと交互にポスターを背に写真を撮った後、近くにいた係員に教えてもらった近道を抜けてメトロの乃木坂駅へ向かった。

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