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今に生きる内村鑑三の「愛国心」論

 国歌・国旗への「敬意」の強要
 
 近年、東京都はじめいくつかの地域の公立学校で、学校行事における国歌斉唱・国旗掲楊の場面で起立せず、斉唱に参加しない教員を教育委員会が処分をする事例が多発している。そればかりか、東京都では再発防止のためと称して、処分を受けた教員を呼び出し、国歌・国旗と無関係な一般的服務規律を筆記させるなどの「研修」を強制している。内容からして、「再発防止」という名目の公権力による「思想改造」の勧めの場といってよい。

君が代斉唱時に起立しなかった北海道文化賞受賞者

 このように国歌・国旗への「敬意」の強要は学校現場にとどまらない。昨年11月5日、札幌市内で開かれた北海道文化賞贈呈式で壇上にいた受賞者の一人で演劇作家の鈴木喜三夫氏(76歳)と夫人が、国歌斉唱時にいったん起立したものの、国旗に背を向けたまま自席に着席し、斉唱に参加しないという一幕があった。

 道教委は入学式や卒業式で国歌斉唱時に起立しない教職員を処分しており、今回の事態についても「道教委の行事で国旗・国歌を尊重しない行為があったことは問題だ」という声が上がっているという。道教委は「こういう事態は聞いたことがない。事前にこういう考えの人だとは聞いていなかったので、事情を調べる」(吉田洋一教育長)そうである。式典後、鈴木氏は「先の戦争で多くの仲間が特攻隊で死んでいった。とても立って(国歌を)歌う気になれない」と語ったという。
(以上、『産経新聞』2007年11月5日、17時16分配信)

 ちなみに、北海道教育委員会のHPにアクセスして、北海道文化賞の趣旨を調べてみると、「本道の芸術、科学、教育などの文化の向上発展に貢献した方々の功績を讃え」て贈呈すると記されている。では、吉田教育長の「こういう考えの人だとは聞いていなかった」という発言はどういう意味だろうか? 「国歌・国旗を尊重しない」人だとわかっていたら受賞候補者から外したという意味なのだろうか? また、吉田教育長の「事情を調べる」とは、どういう事情を調べるのだろうか? 「愛国心の欠けた人」を事前にチェックできなかった体制の不備を調べるということなのか? 調べてどうするのだろうか? 今後は受賞候補者のリストを作る際に、 「国歌・国旗を尊重する」人かどうかの思想調査をするということだろうか? そうだとしたら、、「本道の芸術、科学、教育などの文化の向上発展に貢献した」人かどうかだけでなく、思想傾向が教育委員会の審査基準にそわなければ受賞はかなわないということにある。
 しかし、このように、まるで教育委員会が人間の思想を裁く権限を持つかのようなふるまいは思想信条の自由を保障した憲法第19条をまっこうから踏みにじる行為である。

  人の真心はその愛国心によりて保証することあたわざるなり、そは愛国心はあまりに「悪漢の最後の拠り所」なればなり(内村鑑三)

 
昨年、あるきっかけで内村鑑三の著作を調べる機会があった。そして、その短い文章の中に現代に生きる鋭い時代評論が数多くあることに驚いた。その中に「病的愛国心」(Diseased Patriotism)と題する時評がある。『万朝報』1898年3月11日に掲載された短文である。以下はその一部である。

 「愛国心が純粋にして真実なる為には、其は無言にして無意識ならざるべ可からず。真実なる人にして己が国に対し熱裂なる愛を有せざる者は有り得ざるなり。・・・・・・我等に真の人を示せ、然らば彼の愛国心を保証せん。然れ共、人の真心は其愛国心に依て保証すること能はざるなり、そは愛国心は餘りに屢々『悪漢の最後の拠り所』なればなり。」

 「無言に畑に耕す農夫、
読書に勤む学生は、愛国心を説くことを職業とする人々より遙かに愛国者なり。しかして数百万の斯る無言の農夫と数十万の斯る勤勉なる学生のこの国にあるは、少数のこれら職業的愛国説教者のあるよりも、日本国民の愛国心のために多くを弁ずるものなり。・・・・・・」

 「しかして愛国心とは、我等が己れの国に負う明白なる義務を果すこと以外の何物なりや! 隣人に親切なること、貧しき者乏しき者に同情すること、謙遜にして鄭重なること、等々は、我等の見る所に依れば、国家の拡大を策し我国民の美徳を誇ることと同じだけ愛国的なり、多くの場合は其以上に愛国的なり。芝居がかりの愛国心は、実に十分以上を有せり。日本が大いに必要とするものは、深き、無言の無意識なる愛国心にして、今日の騒々しき愛国心にあらざるなり。」

 国に帰依する愛の危うさ

 「芝居がかりの愛国心」、「騒々しき愛国心」に対する内村鑑三の警鐘を読むと、研修が必要なのは、国歌斉唱・国旗掲揚の時に起立斉唱しなかった教員ではなく、「愛国心を悪漢の最後の拠り所」にするがごとき教育委員会であるといえる。

 しかし、私は内村鑑三の愛国心論に無条件に傾倒するものではない。私が内村鑑三の愛国心論と一線を画したいと思う所以は、彼が愛国心そのものの価値を認めたうえで、その方法――有言の他律的な方法による「注入」か、自然の内面からの涵養に委ねる自律的な方法か――を問題にしている点である。

 これに対して私はそもそも国に帰依する愛には危うさが付きまとうと考えている。ただし、議論の順序からいえば、愛の対象とする「国」とは何なのかを問うことが先決である。国=民衆なのか、それ自体が一個の巨大な「私」にほかならない国家権力なのかである。隣人に親切なること、貧しき者乏しき者に同情すること、勤勉にして鄭重なること、を指して愛国心というのが内村鑑三の愛国心の本旨であれば、それは前者の意味での「国」を対象にした愛である。それなら私は内村鑑三の愛国心論に異議はないどころか全面的に賛同する。

 しかし、「愛国心とは、われらが己れの国に負う明白なる義務を果たすこと以外の何物なりや」という時の内村鑑三の愛国心は後者の意味も混濁したあいまいさが拭えない。それは彼の真意ではなく、時代の空気へのぎりぎりの配慮だったのかもしれない。その推測は別にして、「国を愛する心」が再び高調される今日、国に帰依させる愛がしばしば排外的で偏狭な愛の喧伝に利用され、国境を超えたより普遍的な愛への進化を妨げる他律的なイデオロギーに通じることを認識する必要がある。
 自己への「愛」を強要する国家がいかほど民(たみ)に災禍をもたらしたかを私たちは歴史から学ぶ必要がある。

一周忌近づく姉犬の骨壺にかけし首輪の硬くなりける

姉犬が遺せし首輪妹犬の首に回せば寸法足りず

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コメント

成畑様 コメントありがとうございます。また、皆様の「交流の広場」にご紹介いただき、お礼申し上げます。これからも社会の先鋭な問題を捉えて情報、意見を発信していきたいと思います。 醍醐

投稿: 醍醐 聰 | 2008年1月10日 (木) 01時45分

経済学研究に従事するもので、たびたび「ちきゅう座」に書いていますが、醍醐さんが提起した問題にも関心があり、「交流の広場」に書いてきました。いまも掲載されています。今後も、醍醐さんから提起があれば、「交流の広場」欄に考えるところを表していきたいと考えています。よろしくお願いいたします。

投稿: 成畑哲也 | 2008年1月 8日 (火) 17時11分

ちきゅう座の「交流の広場」に書きます。いつも、ご活躍されて、ひそかに応援しています。

投稿: 成畑哲也 | 2008年1月 7日 (月) 19時02分

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