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2008年3月30日 (日)

映画「犬と私の10の約束」を観て考えたこと

 先日、近くのシネマ・ホールで松竹映画「犬と私の10の約束」を観てきた。NHK総合18時10分からの「首都圏ネットワーク」で紹介されているのを見たのがきっかけだった。映像の予告編であらすじをご覧いただくのが早いと思うので、ネットで知ったURLを貼り付けておく。
 http://www.inu10.jp/trailer/index.html

あらすじ
 両親と娘の3人家族の斎藤家が庭に迷い込んだ子犬のゴールデン・レトリバ-を飼い始めたことから物語は始まる。母親芙美子(高島礼子)が体調の急変で入院した病院へ子犬を連れて出かけ、家で飼いたいと言い出した娘のあかり(福田麻由子→田中麗奈)に向かって芙美子は「犬との10の約束」(ルーツはインターネットで広まった作者不詳の短編詩「犬の十戒」とのこと)を教える。
 
 子犬は前足の片方が靴下を履いたように白いことから「ソックス」と名付けられた。しかし、新しい家族を迎えた生活も束の間、母親はまもなく他界する。そのショックであかりは首が回らなくなるが、それを癒し治してくれたのは母親の形見のソックスだった。その後、父娘の2人暮らしが続いた。その間、大学病院に勤める父親祐市(豊川悦司)は仕事に多忙を極め、遅い帰宅が続く。あかりはそれに不満をもらしながらも、同級生でギタリストを目指す星進(佐藤翔太→加瀬亮)との楽しい語らいの時間を過ごした。しかし、その進は両親の強い勧めでロンドンへ留学に旅立つことになった。この別れを機に二人の間には強いきずなが芽生えた。ある日、街角で見かけた演奏会のポスターで進が帰国していたのを知ったあかりは進との再会を果たし、結婚へとストーリーは進行する。このあたりはありふれた展開である。

 話しは前後するが、父親の祐市はあかりと一緒の時間を増やしたいと大学病院を辞して開業医として再スタートする。しかし、それとすれ違うかのように、大学の獣医学部を卒業したあかりは旭川の動物園に就職し、獣医の仕事を始める。そして、今度は動物の世話に追われるあかりの方が帰省もままならず、帰宅した時も仕事のストレスからソックスを邪険にするようになる。しかし、ソックスの方はそんなあかりに対し、これまでと変わらないひたむきなまなざしを向ける。そんなある日、あかりの携帯電話に父親からソックス危篤の連絡が入る。仕事のために旭川にとどまろうとするあかりに対して上司の中野(ピエール瀧)は強い口調で帰宅を悟した。実家に駆けつけたあかりは居間に横たわったソックスを父親ととともに看取るのである。

犬との10の約束
 さて、母親があかりに教えた犬との10の約束とは次のとおりである。
 1.私と気長につきあってください。
 2.私を信じてください。それだけで私は幸せです。
 3.私にも心があることを忘れないでください。
 4.言うことを聞かないときは、理由があります。
 5.私にたくさん話しかけてください。人の言葉は話せ  ないけど、わかっています。
 6.私をたたかないで。本気になったら私の方が強いこ  とを忘れないで。
 7.私が年を取っても、仲良くしてください。
 8.あなたには学校もあるし友達もいます。でも、私に  はあなたしかいません。
 9.私は10年くらいしか生きられません。だから、でき  るだけ私と一緒にいてください。
 10.私が死ぬとき、お願いです。そばにいてください。  そして、どうか覚えていてください。私がずっとあな  たを愛していたことを。

犬への過剰で身勝手な感情移入の戒め
 上のあらすじからわかるように、この映画のストーリーはいたって平凡であり、安直さを覚える場面も少なくないが、ホームドラマと思えば、自然なことなのだろう。だから、私自身、犬との長いつきあいがなければ、さらに、今、わが家にいる犬(ウメ)も前足の両方がソックスどころか、「ストッキングを履いているみたい」と通りがかりの人に何度か言われた体験がなければ、この映画に関心を持たなかっただろう。

 しかし、それでも、この映画を見た多くの愛犬家は自分と犬の関わり方、自分にとっての犬の存在の大きさを改めて考えさせられたのではないか?
 犬がかくも人間と親密な間柄になれた理由は何かと考えると、それは、自分に対する人間の接し方がどう変わっても、犬は変わらぬまなざしで人間と接してくれるという安心感ないしは犬は人間と違って自分を裏切らないという深い信頼を犬に寄せるからではないか? 言い換えると、犬と人間の深い絆は、人間と人間の絆の希薄さ、はかなさの裏返しといえなくはない。そうだとすると、いつか人間は、人間という大きな身体の小心な動物から身勝手な精神的扶養を求められる犬から疎まれる日が来ないとも限らない。あるいは、今現在、犬から、<自分に依りかかってばかりいないで、人間同士の絆を回復するよう努めてはどうか>と諭されているのかも知れない。犬への過剰な感情移入を戒めながら、犬と静かに意思を通い合わせることができる共生の関係をどのように築けばよいのか――そんなことを感じさせられた映画だった。

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2008年3月28日 (金)

公共放送の多様性、非国家性を理解できない古森経営委員長は即刻退場を

「国際放送では国益の主張を」という古森発言

 さる311日に開催された第1064回NHK経営委員会で放送法改正に伴う国際番組基準の一部変更が審議された際、経営委員長の古森重孝氏が、「国際放送では日本の国益を伝えるべき」と発言したことが波紋を広げている。そこで、公表されたこの会合の議事録で発言の脈絡・論点を確かめ、論評していくことにする。(以下、発言は関係する部分の摘記。全文は下記をご覧いただきたい。)

 1064回NHK経営委員会議事録
 http://www.nhk.or.jp/keiei-iinkai/giji/giji_new.html

古森委員長)それから、第3章第2項で「解説、論調は公正な批判と見解のもとに、わが国の立場を鮮明にする」とあります。わが国の立場となると国際的な問題がいろいろあります。この場合には、日本の国益に立つということですか。
今井副会長)国益という表現が必ずしも明確ではないと認識しております。そのうえで、公正な、さまざまな見解が存在していることも踏まえながらわが国の立場を鮮明にするということです。
古森委員長)〔放送法〕第33条第1項は国際放送の内容を規定したものではなく、国が大事だと思う事項については要請ができるという条項です。規定したものがあるとすれば「国の重要な政策に係る事項」といった程度しかないですね。
今井副会長)それと同時に、第33条第2項に、編集の自由ということがあります。
多賀谷代行)編集の自由には配慮しなければなりませんが、第33条第3項に、「協会は、総務大臣から要請があったときは、これに応じるよう努めるものとする」とあります。編集の自由と要請放送に従うよう努める義務はそこでバランスになるということです。
今井副会長)基本的には、編集の自由ということを大事にさせていただき、NHKの国際放送で報道することが一方的なものになることのないように担保したいというのが私どもの考えです。
古森委員長) 私どもも海外のビジネスをずいぶんしてきましたが、だれも相手のことを最初から考えて話すことはしません。まずは、われわれの立場で話をします。外交でも同じことだと思います。日本は日本の立場、相手には相手の立場がある。どこで折り合いをつけるかという話が外交でありビジネスです。国内放送では放送法に「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにする」とありますのでそうします。しかし、国際放送の場合、いろいろな考え方があることを日本の公共放送として発信するのか、はっきり腹を決めないといけないと思います。さきほどの話では、そのとき国を代表する政府の外交方針に従ってオピニオンを述べるとのことですが、国際放送の場合には立場というものが必要です。

 このやりとりで注意する必要があるのは古森氏の次の2つの認識である。
 1.放送法が定めた編集の自由、多様な意見の反映は国内放送に限定されたものとみなす認識
 2.国際放送は自国政府の見解にそった国益を押し出すべきという認識

 まず、古森氏の1つ目の認識から吟味しておこう。
 古森氏が挙げた「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにする」という定めは放送法第3条の2の第4項を指している。そして、この条文は確かに「国内放送の放送番組の編集等」に関する原則を定めたものである。しかし、ここから、国内放送とは違って国際放送では「国内放送のようにいろんな意見がありますと全部並べるだけで済むわけにもいきません」という古森氏の発言はあまりに短絡すぎる。NHKが自主放送として行う国際放送はもとより、政府の要請を受けて行う国際放送でも「編集の自由を尊重する」旨が放送法で明記された。これは、国内放送か国際放送か、NHKか民間放送かを問わず、放送全般に対する最高規範を定めた放送法第1条の2項で、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること」と明記されていることに照らして当然のことである。

 これについて、国際放送をめぐって議論が交わされた1954320日開催の衆議院電気通信委員会で、NHK会長・古垣鉄郎氏(当時)は次のように発言している。

 「・・・・NHKが自由を与えられて最も公正に、かつ国際親善に役立つように番組を組むということになっておりますから、外部の権力をもってこれを出せということに屈することは絶対にいたさない方針でございます。それからまた放送法の中にも出ておりますように、一方の意見が出た場合には、その反対の側の意見も公正に出すようにしなければならない、そういうことも国際放送においても考えるべきでございます。そのような観点から、外部の干渉とかあるいは力というようなものに屈して番組を組む、ことに国際放送の場合に組むということは決してありませんし、将来もいたさないということを申しておきます。」(下線は醍醐が追加)

アルジャジーラの
One Opinion, the Other Opinionの社是

 また、2007327日に開催された参議院総務委員会で、遠山清彦議員(公明党所属)はアルジャジーラの社是を引き合いに出して、国際放送の魅力的番組制作について次のように発言している。

 「私、昨年、政務官としてカタールに行きましたときにアルジャジーラの本部に参りまして、いろいろと現地でお話を伺いました。・・・・これは単にアラビア語ができる視聴者が世界的に三千万人近くいるというだけでなく、やはり私は、非常に斬新な視点と、欧米メディアにない、独自の取材努力と、そして魅力的な番組制作ということがあったからアルジャジーラは今日の地位を築いたというふうに思っておりまして、御承知のことだと思いますが、アルジャジーラの報道コンセプトは、英語で
ワン・オピニオン・ジ・アザー・オピニオンと。1つの意見があれば別の意見があるというスローガンでやっておりますし、・・・・」

 つまり、国際放送が諸外国の視聴者を獲得し、信頼を得る最大のカギは自国の国益を背負わない、文字どおりグローバル・メディアとしての質を備えた番組を制作し発信することにある。そして、こうしたコンセプトを実践するには、一つの問題について自国の政府の見解を紹介するにとどまらず、かつまた、自国の政府の見解に寄り添うのではなく、それから常に距離を保って、自国の政府の見解と異なる意見も海外に伝える多様性を持ち続けることが不可欠である。アルジャジーラが中東の視聴者を超えて世界各地で視聴者を獲得したのも、One Opinion, the Other Opinionを社是に掲げ、以前はタブーとされてきたアラブ各国の非民主的王政や男女の不平等も正面から取り上げて世界に発信した非国家性、多様性がアラブ内外の人々に信頼を広げる魅力となったからだろう

公共放送の価値を理解できない古森氏は経営委員として失格

 さる31日に東京四谷で開催されたメディア総合研究所主催の「NHK『再生』の道」と題したシンポジウムの前半で基調講演に立った原寿雄氏(元共同通信編集主幹)は公共放送でいう「公共性」の要件として、多様性、情報公開の徹底、非国家性、非市場性、自律性を挙げられた。その中で私にとって特に新鮮な響きがしたのは、まさに今回の古森氏の発言に欠ける多様性の原則、非国家性の原則だった。これらの価値の意義を理解できない古森氏はとりもなおさず、公共放送の価値を理解する能力・資質を持ち合わせない人物といって差し支えない。このような人物がこともあろうにNHKを監督する経営委員会の委員に選ばれ、その長の職に就いていることは日本の公共放送にとって大きな不幸である。これまでも、公共放送の価値を壊す言動を繰り返してきた古森氏を12月の任期切れを待たず、一日も早く経営委員会から退場させることがNHK改革を進めるための重要な一歩である。(以下、続く)

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2008年3月26日 (水)

新銀行東京への追加出資 PartⅡ:      まやかしの付帯決議は石原都政に追随する免罪符にならない


採決を目前に控えて

 新銀行東京への追加出資案は今日、都議会の予算特別委員会で採決される。各紙の世論調査によると、都民
7割以上が追加出資に反対している。それでも都議会与党の自民・公明両党は賛成する意向と伝えられている。その際、両党は、
 1
400億円が毀損されないよう、再建計画に基づいて全  力を挙げる。
 2.外部委員による監視組織を整備する。
 3.再度の追加出資は認めない。
などを盛り込んだ付帯決議を付けて、無条件の賛成ではないことをアピールする準備を進めているという。しかし、このような決議を付けても追加出資に賛成するアリバイづくりにはならない。以下は、そう考える理由の説明である。

280
億円は損失補てんのために取り崩すことを織り込み済み

 本年3月に都産業労働局が都議会経済・港湾委員会の要求に応じて提出した資料の中の「追加出資400億円の考え方」と題する資料によると、今回の追加出資は、「新BIS規制〔自己資本比率規制のこと――醍醐〕により、従来の自己資本比率確保に加え、貸倒引当金ではカバーできない将来発生の可能性がある損失を自己資本で手当」するためと記され、400億円を次のようなリスクへの備えとして割り当てるとしている。

 1.貸出金が回収できなくなるリスク、保有資産に損失が  生じるリスク等々への備え 280億円
 2.銀行における最低所要自己資本比率を確保するため    80億円
 3.その他(中小企業のニーズにきめ細かに対応するため  の資本、災害発生等のリスクに対応するための資本)  40億円

 このうち、80億円は自己資本比率規制(国内業務行の場合は4%)をクリアするために必要な自己資本という意味でひとまず別にするとして、再建計画では400億円のうち280億円は貸倒損失や保有する有価証券の値下がり損失の補てんのために取り崩すことを織り込み済みなのである。もちろん、この場合の損失は予想の潜在的な損失であって、確定した損失ではない。しかし、20079月末の中間決算の段階でいうと、新銀行東京には次のとおり、金融再生法で不良債権に分類される債権(破産更生債権、危険債権)のうち担保・保証等で保全もされず、貸倒引当金でカバーもされていないものが約102億円存在する。また、保有する有価証券には約20億円の評価損(値下がり損)が発生している。

   表1 新銀行東京の不良債権の保全状況
     (20079月末現在)
             (単位:百万円・%)
  不良債権(A)          29,066
  担保・保証等による保全額(B)      538
  貸倒引当金(C)         18,310
     
非保全額(A-B-C)                  10,217
   保全率(B+C)/A        64.85%

 このように、再建計画の想定どおりに経営が進捗したとしても、すでに追加出資額280億円のうちの120億円前後は不良債権の貸倒損失や保有する有価証券の値下がり損失を補てんするために毀損される可能性が生じているのである。こうした現実を直視せず、「400億円が毀損されないよう、再建計画に基づいて全力を挙げる」と決議しても<おまじない>にしかならない。

新銀行東京は貸し手を選別できる銀行ではなく、借り手に選別される銀行

 では付帯決議案の二つ目の<外部委員による監視組織の整備>はどうか? ここでの監視組織とは新銀行東京のさんな与信審査体制の改善が目的のようである。その理由として新銀行東京の経営破たんは甘い、ずさんな貸出審査にあったという指摘が多い。しかし、新銀行東京はその出自からして、厳格な審査体制の整備という一般論が通じる銀行ではなかったことを認識することが重要である。その理由は新銀行東京の預貸金の利子構造の特異性にある。後発の新銀行東京は預金獲得のために開業以来4回にわたる預金キャンペーンを実施し、民間銀行の利率を大幅に上回る利率を付けていた。たとえば、20065月から9月にかけて5年定期で1.7%、3年定期で1.5%の利率で預金を集めた。これは当時の国内行の56年物の定期預金の平均金利0.510.79%と比べて破格の水準であった。今年1月末の預金残高4,000億円のうちの約1,250億円はこうした破格の水準の利率が付いた定期預金だった。

 ちなみに、新銀行東京の預金債券等利回りを地方銀行のそれと比較すると次のとおり、同行の利回りが地方銀行より4倍かそれ以上、高かったことがわかる。

  表2 新銀行東京と地方銀行の預金債券利回り
     の比較(%)

        2004  2005  2006  2007中間
 地方銀行           0.04     0.03     0.11       0.25
 地方銀行Ⅱ       0.07     0.07     0.14       0.28
 新銀行東京       0.55     0.68     1.03       1.12
(出所)地方銀行は『全国銀行財務諸表分析』各
       年版、
新銀行東京は各期決算説明資料

 そうなると、順ざやを保ちつつ所要の経費や信用リスク分を上乗せして決まる新銀行東京の貸出金利は他行と比べ、割高にならざるを得ない。それなら、信用リスクが低い優良な事業者は割高な利率の新銀行東京の融資を受けるよりも、自己の相対的に低い信用リスクに見合った利率で融資に応じてくれる他行の貸出を選ぶことになる。新銀行東京の預貸率が38%前後と異常に低いのは、融資先を確保するのに四苦八苦する同行の実態を物語っている。逆に、それでも、新銀行東京から融資を受ける事業者は他の金融機関からは融資を受けられない信用リスクの高い顧客になってしまい、どうしても貸倒れ率が高くなる。

 このことは、新銀行東京が貸し手を選別できる銀行ではなく、借り手に選別される銀行であったことを意味している。かといって、新銀行東京が融資にあたって審査を厳しくすると、貸倒損失を引き下げる効果はあっても、借り手がさらに狭まり、融資実績はいっそう細る結果になる。同行が審査体制を問題にする以前に、借り手に選別される銀行であったとみなすゆえんである。

付帯決議は免罪符にならない

 以上のような検討結果から、都議会与党(自民党、公明党)が新銀行東京への
400億円の追加出資案に賛成する条件として準備している付帯決議案は追加融資の毀損を防ぐ手段としても、新銀行東京の再建を図る手段としても無力同然の便法と言って差し支えない。これでは、無謀な追加出資の免罪符にならないことを両党は思い知るべきである。また、東京都民はこうしたまやかしの付帯決議で無謀な石原都政への追随を糊塗しようとする都議会議員の行動を鋭く見極める必要がある。

融資の引き継ぎ先の確保・あっせん
――石原都政に求められる真の責任――


 新銀行東京の支配株主でもある石原都政に今、真に求められるのは死に体の銀行を公金を投入して延命させることではなく、新銀行東京の債権・債務を丁寧に仕訳して清算を進めながら、引き続き、融資を必要とする中小企業等について、現在の融資残高を都の制度融資に切り替える、あるいは民間金融機関の融資へとスムーズに移行できるよう、あっせん等を責任を持って完遂することである。

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2008年3月23日 (日)

新銀行東京への追加出資:           可決が一蓮托生なら責任も一蓮托生で

見苦しく、あさましい石原都知事の自己保身
 新銀行東京に対する400億円の追加出資を盛り込んだ都の補正予算案の採決が目前に迫っている。今回の追加出資について私はこのブログの2つ前の記事で、無謀無益な公金の浪費だと書いた。しかし、伝えられるところでは都議会の議席の過半を占める与党(自民、公明両党議員)は追加出資案に賛成する意向という。
 ならば、今回の400億円の追加出資が、すでに出資された1,000億円もろとも毀損したとき、誰が損害賠償責任を負うのか? 事態がここまで来た今、後々の責任の取り方を見据えた議論なり住民の監視なりが必要である。

 新銀行東京は石原知事自らが選挙公約に掲げて設立し、東京都が84%の出資をしている事実上の都の公設銀行である。また、設立当時、石原都知事は返済リスクが高い中小企業向け融資を無担保・無保証で行う銀行を立ち上げること自体に反対する周りの意見を聞き入れず、独断専決で同行を設立したとの証言も出ている。にもかかわらず、このところ石原都知事は新銀行東京の経営破たんの責任を旧経営陣に、あげくはその経営陣を自分に推薦した経団連幹部に転嫁するなど、自己保身に汲汲としている。その姿は実に見苦しく、あさましい。また、これに呼応するかのように新銀行東京の現経営陣はもっぱら旧経営陣に対し、損害賠償の訴えを起こす準備をしているという。
 しかし、損害賠償というなら、誰よりも石原知事自身の責任を問うのが先決であるが、追加出資が都議会で可決されるとなれば、議案に賛成した議員の議決責任を不問にして済むのか?

議会で議決されたことを理由に市長を無罪にした判決
 
1990年に下関市が姉妹都市、釜山と下関間に高速船を就航させるために第三セクターとして設立した日韓高速船株式会社(以下、「日韓高速船」という)が開業当初からの業績不振で1年半後に運休した。これに伴って、下関市は市議会による補正予算の可決を得て1994年に日韓高速船が傭船契約の中途解除のために必要とした解決金相当額46,500万円(第1補助金)と、同社が地銀、信金から借り入れた融資残高相当額38,000万円(第2補助金)を同社に交付した。これに対して下関市民グループがこれら2の補助金は地方自治法232条の2定められた「公益上必要ある場合」に該当しない違法な公金支出にあたるとし、住民監査請求の棄却を経て当時の下関市長を相手に支出相当額に金利分を加算した金額を市に払うよう求める住民訴訟を起こした。

 第1審判決(山口地判
平成1069日)と2審判決は、範囲は異なるが訴えを認め、下関市長に補助金の損害賠償を求めた。しかし、最高裁第1小法廷判決(平成171110日)は、本件補助金交付は、その支出の当否につき市議会において審議の上で可決されたものであることを理由の一つに挙げて、市長には裁量権の逸脱または濫用があったと断定するほどに不合理なものとはいえないとして原審を破棄し、住民らの請求を棄却した。
 もっとも、この多数意見に対して、裁判長の才口千晴氏は、補助金交付について市長は、①納税者たる市民の負担増加に思いを致し、政治的判断を優先させることなく、これを無益な補助金であるとして議会に提出しないか、予算執行を避けるなどの決断をして経費の支出を必要最小限度にとどめる義務があった、②補正予算として議会の承認を経ていたとしても、裁判所が公益上の必要性の有無について独自に判断することを妨げるものではないという少数意見を述べた。

免責特権は議会に対する王権の介入を排除するために生まれたもの
 確かに議会の議決を経て行われた補助金の交付や損失補償の履行などについて、首長個人の責任だけを問うことには私も納得できない。しかし、それは最高裁多数意見のように首長の損害賠償責任を無に帰すという趣旨ではなく、被告適格(損害賠償の責任主体としての適格性)の拡張という形で解決を図るべきだというのが私見である。

 最近、行政訴訟では「原告適格」のハードルを下げる見直しが検討され、
2004の行政事件訴訟法改正にあたって、裁判所は法律上の利益の有無(原告適格性)を判断するにあたっては法令の文言のみでなく、法令の趣旨、目的を考慮するよう定めた9が新設された。しかし、原告適格のハードルの引き下げが強調されたのに対して、被告適格の範囲については、これまでほとんど議論がされてこなかった。

 改めて説明すると、「被告適格」とは訴訟上の原告適格と対をなす当事者適格のことをいう。「当事者適格」とは、ある者を訴訟上の当事者から除くことによって、紛争の有効で妥当な解決の妨げになるのかどうか、裁判の効率化に役立つのかどうかに照らして、特定の者が訴訟当事者(原告または被告)として適格かどうかを判断することをいう。そして、その下にある「被告適格」とは、原告に法的利益を得させる上で被告とすることが必要と判断された者のことをいう。先の日韓高速船補助金交付事件のような場合は被告を行政組織(の長)に限るのか、それとも予算案の議決に加わった議員も被告にすべきかどうかが問題になる。

 行政訴訟という以上、訴えの相手を行政(の長)に限るのは当然のことと考えられてきた。特に、議会内での議員の発言は院外で刑事上、民事上の訴追を受けないという議員の免責特権は、議員を相手どった院外からの刑事・民事の訴訟から議員を守る盾として大きな威力を発揮してきた。わが国では、憲法
51条で、議会内での議員の言動は議会外で責任を問われないという免責特権が与えられている。そして、この場合の「発言」は、意見の表明だけでなく、賛否の表決も含むとされ、民事上の責任とは院内の発言に起因する被害者への損害賠償責任を指すと考えられてきた。

 しかし、明文上、地方議会議員には同様の免責特権は与えられていない。そもそも、1689年のイギリスの権利章典第5項第9号に起源を持つといわれる議員の免責特権は、議会での法案提出や発言を理由として、しばしば議員が国王から刑事上の訴追を受け、投獄されたという事件を踏まえて、国王からの議会の自律を確保するために生まれた制度である。そのため、フランスではすでに18世紀末から、対市民との関係で議員免責特権をどう捉えるべきかが活発に議論され、議員の独立性を強調することが自らの義務からの独立になってしまうのを警告する議論が現れた。また、「人民に敬礼」という名のもとに、対住民との関係では議員免責特権を否定する意見も見受けられた

 以上、免責特権の沿革については次の文献を参照
1
土橋友四郎「国会議員の特権――比較法的考察――」  『専修大学論集』19571
2
新井誠「フランス憲法学における議員免責特権――その  歴史的・理論的位置付けについて――」『法学政治学論  究』慶応義塾大学、19996

無謀な公金支出に賛成した議員も被告席に
 このような沿革を持つ議員の免責特権を住民からの訴追の盾にするのは時代錯誤である。むしろ、今回の都の追加出資のように、無謀な浪費で終わることを十分予見できる公金の支出は、それを提案した首長のみならず、その提案の可決に加わった議員も住民から損害賠償責任の訴追を受ける被告適格者とすることを避けて通れない。それによって初めて、行政に対する議会の監視を実効あるものとし、財政規律の維持、向上に議会が十分な機能を果たすことを期待できるのである。

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2008年3月22日 (土)

強迫的な日銀総裁空白リスク報道に思うこと

横並びの思考停止報道の標本

 最近の新聞、放送を見ていると、横並びの思考停止報道を繰り広げるメディアの腐食ぶりを思い知らされる。

 アメリカ民主党大統領候補の予備選をめぐって「オバマ候補はどういう政策を掲げているのか、クリントン候補とどこが具体的に違うのか」にほとんど触れず、オバマ・ブームだけをあおる報道が続いている。これでは、一国の大統領候補を選ぶ政治報道として落第である。

 あるいは、日銀総裁のポストが1日でも空席になったら、市場から不信を突きつけられ、株価がさらに暴落する一大事かの強迫的報道は何を根拠にしているのか? 総裁ポストが空席になることは異例には違いない。しかし、期日までに誰でもよいから決めればよいというものではない。総裁、副総裁候補として名前が挙がった人物は過去、日銀が採用してきた超金利政策をどう評価しているのか、今後、物価上昇にどう対処しようとするのかなど、日銀首脳候補に不可欠な見解を問うことなく、経歴ばかりに焦点を当て、空白責任をめぐる与野党の駆け引きばかりをズーム・アップする報道も政局報道ではあっても政治・経済ジャーナリズムに値する報道ではない。
 
自分の持ち場で直球勝負を

 一昨日(321日)の『毎日新聞』朝刊2面の「発信箱」に経済部記者の中村秀明氏筆の<歴代総裁の責任>というタイトルの短い論評が載っていた。中村氏はその冒頭で次のように記している。

 「マスコミの編集幹部が数人集まった会合で、だれかが言った。『いまさらだけど、日銀総裁って、大事な仕事なのかな?」