小林経営委員による最高裁判決の「改ざん」
さる6月24日に開催された第1071回NHK経営委員会の議事録が7月11日に公表された。この日の会合で議題になったETV番組改編事件に係る最高裁判決をめぐって小林英明委員は次のように発言している。
「(小林委員) 先ほどの「ETV2001」の最高裁判決についてです。勝訴したことは喜ばしいことですが、これはNHKにも重い責任があることを示したものだと思います。この判決は、「放送現場の職員が当初、企画・制作した番組について放送局内でいろいろな立場、いろいろな視点から検討し、意見を述べるのは当然なことであり、その結果、最終的な放送内容が当初期待されたものと異なったり、企画や番組自体が放送されなくなることがあるのも当然のことだ」ということを言っています。つまり、放送事業体、すなわち法人としてのNHKに編集権、自主的判断権があり、放送現場個々にあるものではないということです。したがって、NHKが放送する以上、法人のNHKとして、きちんと責任を持った体制で、内容を吟味して放送するようにということです。放送現場が独走して、法律や倫理に違反した番組を作らないように、しっかりした体制で、きちんとした番組を作っていただきたいという趣旨の判決だと思いますので、その点をよろしくお願いいたします。」
この発言を受けて、福地会長は次のように発言している。
「(福地会長) おっしゃるとおりだと思います。記者や制作者はそれぞれ個人としての思想があると思いますが、NHKとして放送する以上は、ニュースや番組の内容は不偏不党でなくてはいけないと思います。私も、報道担当の今井理事もそのように考えております。」
しかし、上記の小林委員による最高裁判決の引用・援用には判決のどこにも記されていないNHKにおける編集権の解釈に関する意図的な脚色がある。最高裁判決は1審原告バウネット・ジャパンの訴え(取材協力者としての期待権)を退けたが、その際に挙げた論拠は次のとおりである。
「放送事業者の制作した番組として放送されるものである以上、番組の編集に当たっては、放送事業者の内部で、様々な立場、様々な観点から検討され、意見が述べられるのは当然のことであり、その結果、最終的な放送の内容が編集の段階で当初企画されたものとは異なるものになったり、企画された番組自体が放送に至らない可能性があることも当然のことと国民一般に認識されているものと考えられる。」
私はこのような論拠に大いに疑義があると考えているが(6月12日付けのこのブログ記事を参照いただきたい)、ここで最高裁が指摘したNHK内部での独自の編集とは「放送事業者の内部で、様々な立場、様々な観点から検討され、意見が述べられる」ことを言ったにとどまり、小林委員がいうような「法人としてのNHKの編集権」という概念を使ったわけではないし、NHK内部での番組編集が上下の階層構造の下に成り立っているといった解釈を示したわけでもない。これらは小林委員による最高裁判決の「改ざん」にほかならない。
小林経営委員は誰の代理人なのか?
さらに、小林委員は、「放送現場が独走して、法律や倫理に違反した番組を作らないように、しっかりした体制で、きちんとした番組を作っていただきたいという趣旨の判決だと思います」と発言しているが、小林委員は最高裁判決のどこからそのような「趣旨」を忖卓したのか、弁護士としての小林氏の判例解釈の資質を確かめたいものである。
また、最高裁判決が、放送現場の番組制作にどのような法律違反や倫理違反があったとどこで指摘しているのか、上記のような重大な発言をする以上、根拠を示すのが弁護士としての小林委員に求められる議論の初歩的作法であり道義的責任である。
今回の小林委員の発言は、もともと番組制作と関わりのない野島国会担当役員らが元「従軍慰安婦」や元日本軍兵士の証言などを快く思わない安倍晋三氏と面会したあと、番組制作現場に駆けつけ、安倍氏らの意向を忖卓して番組改ざんを指示した行為を、「放送現場の暴走を食い止めるための」「法人としてのNHKの編集権」なる修辞で言いくるめ、正当化しようとしたものといえる。これでは、小林経営委員は市民の知る権利の代理人たるべき経営委員として失格といわなければならない。
「編集権」なる概念とジャーナリズムにおける内的自由
上記のような小林委員の発言が出る背景には、「編集権」なる概念とジャーナリズムにおける内的自由に関する認識の欠如があると考えられる。この機会にこうした概念の理解を正す必要があると思われる。NHKの職員OBが中心になって1989年に発足した「放送を語る会」の内部に設置された「私たちの提案」作業チームは2006年6月26日付けで「“可能性としてのNHK”へ向かって(案)」と題する提案を公表した。その中で、NHKにおける「編集権」概念の意味が次のように記されている。
「私たちは法的な根拠もないこのような〔NHKの編集権は会長の業務執行権の中枢であるという〕編集権概念を到底認めることはできません。編集権を、経営者である会長や放送総局長から番組制作局長に移せばよい、という見解もありますが、これも危険です。
複雑で多岐にわたる現実を取材し、創造的な集団で集団的な作業と表現が要求される多数の番組について、たった一人のトップが適否を判断する、という体制は、番組制作・ニュース取材のように、精神的な作業を中心とする職場ではもともと不自然です。
放送局の構成員ひとりひとりが、国民の多様な知る権利の付託をうけ、それを実現する任務を負っている、と考えるならば、企画の採否や、番組内容の適否については、できるだけ現場の民主的な合議によって決するのが健康な状態です。組織である以上、セクションのトップが決定するということは避けられませんが、その際も現場に対して説明責任が果たされ、判断の理由が局内で公開される必要があります。」
放送現場の自由を抑圧する走狗と化した小林経営委員
言われてみれば、特に目新しいことはないかも知れないが、番組制作現場での長年にわたる実体験に裏付けられたこのような提言には説得力が伝わってくる。問題のETV番組の場合もある時点までは、制作現場のスタッフの間で時には激論も交えながら合議が続けられた。このような動きを指して「放送現場の独走」と咎める小林委員の発言はジャーナリズムにおける内的自由に関する無知無理解をさらけ出したものといえる。
また、こうした小林発言に呼応して、ETV番組の制作にあたり、放送現場のスタッフの中にあたかも個人的な思想に固執した不偏不党の原則に反する行為があったかのように発言した福地会長の見識もNHKのトップに求められる見識とはあまりに懸隔が大きい。
このような発言が平然と交わされるようでは、NHK経営委員会は放送ジャーナリズムの自由と自立のための砦どころか、脅威とさえいわなければならなくなる。視聴者はNHKの放送現場の良識ある人々と連繋して、このようにジャーナリズムの内的自由の抑圧の走狗と化した経営委員を厳しく監視し、経営委員としての適格性を質していく必要がある。
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