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醍醐志万子の短歌(2・完)

戦中・戦後の歌
征く意味を尋ねし賢しき少女なるわれに言葉を探し応へき
                (『霜天の星』1981年、所収)
挺身隊という名恥ずかしその上に女子挺身隊となれば尚更
                (『塩』第2号、200710月、所収)
メーデーを母の日のごと思ひゐる少女は本に花はさみ置く
                     (『花文』1958年、所収)


 前回記したように、志万子の最後の歌集『塩と薔薇』は第1~第4歌集の自選集であるが、その中に、「千代紙」というタイトルをつけて戦争末期から終戦まもない時期の自分とその周辺の状況を詠んだ5首を収めている。これは1981年に出版した第4歌集『霜天の星』からの自選である。志万子は1942年、16歳の時に高等女学校を卒業、20歳の時、終戦を迎えたことになる。
 1首目は近隣あるいは親戚の若者が兵にかりだされる理由(わけ)を、大人に向かってぽつりと、しかし、詰問調で質す姉の姿が想い浮かぶ歌である。「言葉を探し応へき」という結句は、返答の中身を表すよりもはるかに、その場の大人の反応を生き生きと伝えているように思える。

 志万子は
1945年、東洋ベアリング武庫川工場に挺身隊として勤務中に終戦を迎えた。その後、長く家業の事務の仕事を続けた志万子にとって、東洋ベアリングでの勤務は生涯のうちでわずかな外勤の期間だった。私が大学生のころ、いっしょに汽車で大阪へ出る途中、武庫川を通りかかったあたりで、「戦時中、ここで勤めをしていた」とぽつりと話してくれたのを覚えている。しかし、その後は、こちらから尋ねなかったこともあったが、姉から当時のことを立ち入って聞いた記憶はない。「挺身隊」という言葉の仰々しさを当時から感じていたのだろうか。それから60数年後に「恥かし」という文字で表したところに魅かれた。

 3首目の「少女」は、作歌当時の姉からみた少女ではなく、これも終戦まもない頃の自分自身を指したものだろう。昨今、メーデーはお祭りムードに傾いているが、戦後長く、「たたかう労働者の意気を鼓舞する日」だった。そんなメーデーを「母の日のごと」と表した少女ののびやかな理知に、当時の時代の息吹きが伝わってくる。

折々のうた
人の負い目やすやす衝ける幼子を幼子のゆゑわれはゆるさず
                   (『木草』1967年、所収)

 『朝日新聞』2007310日の「折々のうた」で紹介された歌である。大岡信さんは、出典を『塩と薔薇』(2007年、所収)と記しているが、原典は1967年に出版された志万子の第2歌集『木草』に収められた歌である。この歌について、大岡さんは、「幼子がそんなにやすやすと大人の『負い目』を衝けるものだろうか。相手が幼子であるゆえに許すことができないというのだから、事は軽くない。それは、幼子に対してもこんなに真剣に怒れる作者への共感を呼び起こすものであろう」と評している。この批評について、姉は後日、次のように率直な違和感を記している。

 「幼子は無垢ゆえに眼も心も鋭くて相手を見抜く力を、我々大人以上に持っている。無垢かと思えばその反面の魔性もしっかりひそめているのだ。そこまで幼な子を理解しているなら、『幼な子のゆゑわれはゆるさず』にはならないだろうに幼子は清らかという思いが抜き難く心の奥にあるという矛盾。幼子とわれへの二重の怒りである。」(醍醐志万子「大人と子供」『塩』第3号、20082月、所収)

 志万子は1963年、日本書道連盟より師範の免許を受け、翌64年から自宅で書塾を開いた。多い時期には100人を超す児童が通ってきた。この書塾をつうじて志万子は多くの子供に接し、その中で上の歌にあるような、子供からぐさりと突き刺さる言葉を投げかけられたこともあったのだろう。こういう場面を「幼子のゆゑ」と表現したところに、相手を問わず、子供にも真剣に向き合う姉の生涯変わることのなかった気性が現われているように思う。
 
家族の歌
酒、煙草止めずたちまちに死にし父商売下手を子らに残しぬ
               (『暦』第3号、200811月、所収)
並びねし妹弟四人かかる夜のまれまれなりしこれより後も
                    (『花文』1958年、所収)
向きあひて本読むよふけこの家に残る二人の姉弟として
                    (『木草』1967年、所収)

 志万子の歌集には家族を歌った作品は少ない。代々の飼い犬を歌った作品の方がはるかに多い。それだけに、晩年、母の介護をした時期に両親を歌った姉の作品に惹き寄せられる。父は「お人好し」の代名詞のような人間で、そんな父が営む自営業を姉は気をもみながら、時には激しく口論しながら、手伝っていた。「商売下手」といいつつ、後年の姉は世渡りに疎かった父親へのいとおしさが募ったようだった。
 2首目はいつのことを歌ったのか、私にはまったく記憶がない。姉は妹弟をそれとなく呼びよせることがあったが、法事の時もあわただしくすれ違うのが常で、一番下の私が還暦を迎えた3年前に実家で姉弟4人がそろって食事をしたのは、何数年ぶりだった。
 私が姉の歌をのぞき見するようになって以降、姉が私のことを歌った作品に出会ったのは皆無のような気がする。それだけに今回、姉の初期の歌を読み進むうちに、3首目のような作品に出会ったのは意外だった。実家へ帰省する時、私は――結果的にはあまり開くこともなかった――書物を抱えて帰ったものだった。夜には姉も送られてきた歌の添削や自分の作歌で夜なべするのが習慣だったので、おのずと2人で向かい合い、黙々とめいめいの仕事を続ける時間が長かった。それでも、姉は思い出したように話しかけ、それがきかっけで私の近況や歌壇の現状(私は話し相手になれていなかったと思うが)についてひとしきり、話し込むことも珍しくなかった。ただし、この歌が作られた当時の私は大学生で両親が就寝した後、堀炬燵の部屋で向き合って過ごした時のことを詠んだものだと思う。

晩年の歌
来るときも帰りゆくときもふり返り手を振る人に手を振り返す
                (『塩』第4号、20086月、所収)
佛には赤つめ草をたてまつれ車椅子よりわが手さしのぶ
                (『暦』第2号、200811月、所収)
遠ざかる空気の尻尾もう見えず苦しきねむりの中に落ちゆく
                (『暦』第3号、200811月、所収)

 第1首は、姉が亡くなる前年、近くの介護施設へ飼い犬を連れて車椅子で出かけた時のことを詠んだ歌ではないかと思う。ガラス戸の向こうの広々としたリビングでソファにもたれかかってうたたねをしたり、定まらない視線で物憂げな表情でいたりした入所者が、近づいていく私たちに気がつくや、一斉にこちらへ視線を注ぐのを見て、どきりとした。犬が近づいてきたのが物珍しかったのかもしれない。次の瞬間、私がこちらを食い入るように見つめる人たちに手を振ると、姉もそれにつられたように車椅子から手を振っていた。束の間の出来事だったが、施設の奥まで行って、Uターンをして引き返すとき、もう一度私はこちらを見つめる人たちに手を振った。今度はあまり反応はなかったが、それでも姉は小さく手を振っていた。
 2首目は、いつのことか不確かだが、姉はたまに晴れの日を選んで車椅子で外出すると、調整池や道ばたに花を見つけては、車椅子を近づけるよう言い、小枝を折って持ち帰ることがあった。それほど、志万子は花に興味が強かった。
 3首目の歌は24時間酸素吸入の生活となった最晩年の作品である。最後の自力呼吸も力尽きて息を引き取った自分の姿を見越すかのような自らへの挽歌のように思える。

7歳の時
Photo



















少女時代
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女学校時代
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