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自由の抑圧が人間道徳を崩壊に導く危機への警鐘~映画「懺悔」観賞記(2・完 批評)~

隠喩に託した現世界への警鐘
 法廷でのリアルタイムの場面と主人公ケテヴァンの8歳の頃の回想が交差し、さらに幻想の世界が挿入されたこともあって、この作品のメッセージ、余韻をどう読み取るかは、人によって様々ではないかと思う。それが制作者の意図だったのかも知れないが、旧ソ連邦下の厳しい検閲を経て完成されたという事情が絡んでいるようにも思える。
 たとえば、騒音が響き渡る聖堂の温室の中で教会の建物の保存を訴えた画家のサンドロに対し、強権市長ヴァルラムが恫喝まがいの言葉を吐いてその場を去った後、突然、聖堂内に“偉人シリーズ”の放送と称して、アインシュタインの言葉を朗読するアナウンサーの声が流れる。

 「現代の科学者の運命は悲惨だ。何よりも自由と明晰さを欲する彼の創り出したものが、自分の隷属や人類滅亡のための道具として使われてしまうからだ。彼はものを言う権利も奪われる。・・・・頭脳と研究の成果を、科学者が自由に活用し、世の中に貢献できた時代は既に終わったのか。研究に没頭するあまり科学者は、社会的責任も自尊心も忘れ果てたのか。現代の危機の規模を権力者達は知らない。」

 いささか唐突なシーンではあるが、幻想の世界で科学者の権威の力を借りることによって検閲をかいくぐり、自由を失った科学者の不幸、科学者の自由を奪う権力者の野望が全人類を不幸に追いやる危機への警鐘を隠喩に託して伝えようとしたのだろう。

国の命運を盾にした強権正当化への懐疑
 私がこの映画の中で特に印象に残るのは、ヴァルラムの遺体を掘り返した罪を問われたケテヴァンの法廷での証言を聴くうちに、事件の真相、背景を知ったトルニケが父親アベルに詰問する場面である。

 アベル「彼は悪人じゃなかった。難しい時代だったんだ。お前には分からないさ。」
 トルニケ「時代は関係ない。」
 アベル「大いに関係ある。国の命運がかかった時代だったんだよ。周りの国はすべて敵だ。そんな時は国内の敵をまずやっつけるんだ。」
 トルニケ「国の安定が先だなんて言うけど、言い訳じゃないか。」
 アベル「知った口をきくな。公務に就いている者は、社会の利益を真っ先に考えた。個人のことは後回しだ。」
 トルニケ「公務員だって結局は個人じゃないか。」
 アベル「お前は現実無視の理想論だ。オヤジは公益を優先してた。自分の意に反する事もやらざるをえなかった。」
 トルニケ「命令されたら皆殺しもやったわけだ。」

 こうしたやりとりは、ある時代、ある国、ある地方でたまたま見られる会話ではない。その後も、現在も少なからぬ国で、ある時は「国体の護持」、「公共の安寧の維持」と称して、ある時は「テロの脅威とのたたかい」と称して、繰り返されてきた会話である。この映画では、「国の安定」を訳知りに語る大人と、そうした言い回しにストレートに疑問を投げかける少年を向き合わせることによって、問題の本質を観賞者に突きつけたのだ。

人間を道徳崩壊の危機に追いやる自由の抑圧

 この映画を観る前、予備知識を持っておこうとネット上で紹介記事をいくつか読んでみた。しかし、あらすじと「懺悔」というタイトルの関係が今一つ理解できなかった。観終わってもしばらく、誰の、何に関する「懺悔」なのか、腑に落ちなかった。しかし、こうしてブログ用の記事を書き進むうちに、この映画の主題は自由を抑圧された人間の苦悶と絆を描くこともさることながら、それ以上に、自由の抑圧は抑圧した側の人間、そして抑圧を黙過した人間を道徳崩壊の危機に導くという悲劇を描くということだったのではないかと感じるようになった。ストーリ―をふりかえれば、これは平凡な感想なのかも知れない。それはある夜、アベルが燭台をかざして自宅の地下に降り、十字架に向かって次のように語りかける場面に隠喩されている。一部は紹介済みだが、改めてその前段から引用しておこう。

 アベル「神父様、懺悔に参りました。私の心は分裂しています。」
 アベル「私は良心の分裂に悩んでいるのです。無神論を唱えながら、宗教にすがり、迷っているのです。」
 男「無神論を宣伝した後に、教会で懺悔をするのは立派なことだ。」
 アベル「そんな事ではなくて、私の道徳の基準が崩れたのです。善と悪の区別がつきません。信念を無くしました。」
 男「どんな信念を?」
 アベル「私はすべてを許したい。密告、裏切り、欺瞞、嘘・・・・すべての卑劣な行為を許したい。」
 男「すべてを許せるなら、お前はキリストだ。本当にそうか。」
  <中略>
 アベル「確かに怖い。空しさの恐怖を、自分をだましながら耐えてきた。仕事に没頭した。自分と向き合う暇を作らないためだった。考えたくなかったのだ。」
 男「一体何を?」
 アベル「最も大切な何かを。自分は何者なのか。なぜ生きているのか。自分の存在価値は何か。」

 つまり、この映画は、アベルの上記のような苦悶、懺悔を赤裸々に描くことによって、自由の価値を、自由を抑圧された人間にとっての問題としてだけでなく、抑圧した側の人間、自由の抑圧を看過した人間にとっての問題――そうした人間を襲う道徳崩壊の危機の問題――として描こうとしたのではないだろうか? 
 さらにいえば、こうした道徳崩壊の危機は孫をも襲ったし、研究に没頭するあまり、社会的責任も自尊心も忘れ果てた科学者にも実は忍び寄っているのだ――この映画は自由への抑圧が襲う人間道徳崩壊の危機をこのように普遍化して描き、警鐘を発したのではないか? そして、自由の価値を限られた人間――先鋭な反政府主義者など――にとっての問題に局限せず、広く市井の人間にひとしなみ関わる問題として訴えようとしたのではないか思われる。

 この映画の主人公は誰かと問われれば、誰しも、独裁市長を「墓地で眠らせない」と言い放ち、実行したケテヴァンを挙げるにちがいない。また、ケテヴァン役を演じたゼイナブ・ボツヴァゼが法廷で悠然と語る回想談はこの映画の骨格を描くにふさわしい力強さを見せつけている。また、映画のポスターに登場する少女時代のケテヴァン役を演じたナト・オチガワがマフラーで顔をすっぽり包んだ姿で父親を探すあどけない光景にも魅せられる。
 と同時に、独裁市長ヴァルラム・アラヴィゼを演じたアフタンディル・マハラゼの、鎧の下に剣を隠したかのような陰湿な演技は、この映画が発するメッセージを引き立たせるのにひときわ貢献している。

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