« 2009年8月 | トップページ | 2009年10月 »

通勤は自転車に乗って~コペンハーゲンで見た朝の光景~

通勤自転車の長蛇の列
 むかし、「お使いは自転車に乗って」という歌があった。
 http://www.youtube.com/watch?v=-iuoXW2b2-c
 作詞・上山雅輔、作曲・鈴木静一、歌・並木路子で、昭和18年に発売された歌である。しかし、私がコペンハーゲンで朝の散歩の折に見かけたのは「通勤は自転車に乗って」といいたくなるような軽快な自転車通勤の列だった。

 8月下旬、1週間ほど夫婦でオスロ、ベルゲン、コペンハーゲンを回ってきた。ベルゲン滞在中は途中、フロム泊でベルゲン・ミュルダール・フロム・グッドヴァゲン・ヴォス・ベルゲンという定番のフィヨルド周遊を楽しんだ。定番とはいえ、ミュルダール・フロム間のフロム鉄道の両側に広がる自然そのままの雄大な光景、フロム・グッドヴァゲン間の2時間余りのフィヨルド巡りの折、両岸に点在した小さな村々、切り立った岸壁から流れ込む滝の光景などはさすがだった。湖畔の宿のようなフロムのホテルとその前に広がる埠頭から見渡すフィヨルドの絶景も忘れられない。しかし、こうした周遊の旅の紀行記は後回しにして、この記事では、旅の最後に束の間の滞在をしたコペンハーゲンで出会った自転車通勤について記録をとどめておきたい。

 ホテルをチェックアウトする827日の8時半ごろホテルを出て市庁舎前広場からチボリ公園の東側道路を通る頃、向かって道路の右側を様々な模様を凝らした自転車が次々と通り過ぎるのに気がついた。前日、ローゼンボー宮殿を経て国立美術館へ向かう途中でも自転車で行き来する人の姿が多いのに気がついていたが、新カールスベア美術館そばの交差点からランゲ橋あたりを歩く時に見かけた自転車の列には驚いた。

40










赤信号のたびに交差点には自転車の長い列ができた。一見して通勤者だとわかるが、よく見ると、いろんな型の自転車に各々好みのデザインを施し、サイクリングカー並みのスピードで走りすぎていく。それにはわけがあることがだんだんわかってきた。


5_40_2










 1つ目の写真からもわかるように、大通りでは車道と歩道の間に幅
3mほどの自転車専用レーンが設けられている。また、一方通行で自転車同士がすれ違うことはない。交差点に近づくと、さっと右手を横に挙げて後続の自転車に右折の合図をする人が多い。私が見た限りでは接触や追突の危険を感じる場面は全くなかった。市民は互いに自転車運転の作法をよく心得ている様子で、カラフルな衣装で颯爽と通りすぎる若者の後ろ姿を見送りながら、自転車通勤が個性をアピールする場面のようにも思えた。また、狭い道路にマイカーがひしめく東京の光景がいびつに思えてきた。
 そうかと思うと、下の写真のように前に取り付けたボックスに2人の子供を乗せた自転車も何度か見かけた。ぜひとも写真に収めようと後方を振り返りながらシャッターチャンスを待ち受けたのだった。10時前、コペンハーゲンの一番の繁華街、ストロイエを散歩するころには通勤時間帯は終わり、通りでは時々、さらにユニークさを競うようなデザインの自転車に出合った。

40_3
440_2 











デンマークを自転車王国にした社会事情

 帰国して、改めてコペンハーゲンの自転車通勤の由来を調べ、少しずつその社会的背景がわかってきた。デンマークは、世界有数の自転車国家である。デンマーク人が自転車で走る距離は、年間20億キロ以上にもなるという。デンマークの地形が平であること、移動距離が短いことなども自転車利用の活性化につながったようだ。職住が地理的に遠隔化し、電車での1~2時間の通勤が当たり前の日本では自転車通勤はままならない。また、デンマークでは自動車保有税が非常に高いため、自動車に代わる移動手段として自転車が利用しやすいインフラ整備(自転車専用レーンや駐輪場の設置など)が進んだといわれている。
 ネットで調べたところでは、今日、コペンハーゲンの住民の約36パーセントが自転車を通勤の手段にしている。そのうえにコペンハーゲン市は、この自転車通勤率を、2015年までに50パーセントに上げることを目標にしているのだ。自転車の利用率が50パーセントになると、年間8万トンものCO2排出量が削減できるという。
 日本では、高速道路料金を無料化が提唱され、電気自動車の開発・普及でCO2の排出量削減につなげようという動きもある。確かに、今になって、自転車専用道路といっても空想に近い。しかし、自分が車の運転免許を持たない超マイノリティだからかも知れないが、すべての発想が車の個人所有・利用を前提に生まれることに何の抵抗も感じない人が大多数であることに違和感を覚える。コペンハーゲンでは自転車は単なる移動手段であることを超えて、<自転車文化>にまで成熟していると感じさせられた。

京都からコペンハーゲンへ~COP15
 200912月にコペンハーゲンで開かれるCOP15に先立ち、駐日デンマーク大使館は環境への関心を高めるためのサイクリングツアーを各地で開催した。これは日本サイクリング協会をはじめ、様々な公的機関や民間企業などが支援する、「カーボン・ニュートラル(包括的に二酸化炭素を排出しない)」なイベントである。これに備えて、デンマーク大使館では、外交官をはじめ自転車好きが集まり、毎週火曜日と木曜日に多摩川沿いを40キロ走行したそうだ。このサイクリングツアーは、2009523日東京からスタートし、安城、郡山、札幌、宮崎、広島、今治、和歌山、京都を巡り、200965日、コペンハーゲンで終了した。
 環境問題というと、「地球にやさしい」の合言葉が愛好される。しかし、地球環境保全・改善は言葉ではなく、自分の身の回りから一歩を踏み出すことだと実感させられた旅だった。

| | コメント (0)

NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言」を視て考えたこと

〔追伸〕「日本海軍 400時間の証言」が次の時間帯に再放送されます。
  98日(火) 010110 第1回 開戦 海軍あって国会なし

  9
9日(水) 010110 第2回 特攻 やましき沈黙
  9
10日(木)010110 第3回 戦犯裁判 第二の戦争

  現代史のなかでは私たち市民が知っているようで実はよく知らない、知らされていないことが少なくない。今年7月7日のNHKスペシャル「
JAPANデビュ-」第1回「アジアの“一等国”」が取り上げた日本による台湾統治はその一例である。さらに基本的な疑問として、あの太平洋戦争は具体的に誰のどのような発意で、どのようなプロセスを経て開戦に至ったのか、生きて帰れる道がない「特攻」という作戦は誰が発案し指揮したのか、東京裁判で死刑が軍部関係者6人に限られ、他に極刑を以て戦争責任を問われた者がいなかったのはなぜなのか?

「日本海軍 
400時間の証言」と題して89日から3回シリーズで放送されたNHKスペシャルは今まで謎に包まれていたこのような日本現代史の根本的な疑問に挑んだ番組だった。番組のタイトルにある400時間の証言とは海軍の基本作戦の立案・指導にあたった大本営の中枢ともいえる軍令部の元メンバーら(「水交会」と呼ばれた海軍OB会)の証言録のことである。彼らは昭和55年から11年間、秘密に集まって開戦から戦犯裁判までの経緯と戦争責任について延べ131回の「反省会」を開いていた。番組はそのやりとりを記録したテープを基本資料として編成された。ここでは3回シリーズを通して私の印象に強く残った点を記しておきたい。

「特攻は命令ではなく隊員の熱意から始まった」
 
1つは、「特攻」作戦が発案され、実行に移された経緯である。「自分が死ぬことでしか目的を遂げることができない」特攻作戦が始まったのは昭和1910月だった。当時、絶対防衛線と位置付けたアジア太平洋地域でアメリカ軍による攻撃を受け、大半の艦隊を失った日本海軍の中では「体当たりでやるしかない」といった空気が強まっていた。昭和188月の軍令部業務日誌には軍令部第2部長が「戦闘機による衝突撃」、「体当たり特攻機」を採用すべきと進言したとの記述が残されていた。さらに昭和20125日に総理大臣や陸海軍トップが参加して開かれた最高戦争指導会議では「1億総特攻」の名の下に特攻を主な戦力とすることが決定されていた。番組は海軍反省会の記録テープにこうした資料も添えて史実を固める作業を随所で施していた。
 
また番組では「自分の身体を兵器に代える」人間魚雷の訓練を受けた元隊員にも取材し、「鉄の棺桶」に入れられた時の恐怖、青年として生きたいという本能に変わりはなかったという述懐を伝えた。しかし、この「特攻」作戦を発案し指揮した軍令部のメンバーは反省会でも「あれは命令ではなく現場の熱意から始まった」、「命令ではなく、崇高な憂国の精神の発露だった」といってはばからなかった。その他のメンバーが自己責任に代えて異口同音に語ったのは、いかんともしがたい「組織の空気」になすすべなく「やましき沈黙」に流されたという釈明だった。
 特攻の最初の出撃基地フィリピンのマバラロットに建てられた碑文には“volunteer”(自ら志願した)という文字が刻まれている。また、この特攻隊の最初の出撃の12日前に戦果を鼓舞する電報を起案した源田実(戦後、航空幕僚長、国会議員を歴任)は神風特攻隊の慰霊碑に「青年が自らの意志に基づいて赴いた」と記していることも番組は紹介した。

「問題はどこで責任の遡上を食い止めるかだ」
 次に私の印象に強く残ったのは、元海軍軍令部のメンバーが第二復員省(二復)を拠点に東京裁判で旧組織のトップ(嶋田繁太郎元海相ほか)を守るために周到な作戦を練っていた事実を番組が生々しく伝えたことである。裁判を担当した豊田隈雄元大佐は東京裁判を「第2の戦争」と呼び、「与えられた裁判業務、これこそ私の戦場」と記している。彼らは出廷前の証人を密かに呼び出し、捕虜虐待は現場の判断によるものと証言するよう命じた。たとえば、東京裁判では潜水艦による魚雷が的中して海に浮かんだ連合軍隊員に機関銃を連射した日本海軍の行為に捕虜虐待の嫌疑がかけられたが、このような行為を命じたとされる軍令部の指示文書は何者かが偽造したものと言い張るよう命じた。しかし、実際はどうかというと、「口頭命令ではそのような行為はできない、やるなら文書による命令がほしい」という現場の指揮官の意向を受けて軍令部が文書で指示をしたものだった。

 また、番組は日本が中国本土への爆撃基地として香港の西、三灶島に第6航空基地を建設した際(昭和13~14年)に起こった現地住民迫害・虐殺事件を時間を割いて取り上げていた。日本軍は軍事機密を守るため、島民に島の外へ出ることを禁じ、家族の人数と名簿の提出を命じた。その記録と実際の人数が違った場合は逃亡の嫌疑がかけられ、厳しく追及された。番組では7歳の時に4人家族が日本軍に嫌疑をかけられたという現地住民が取材に応じ、山中に逃れ身を潜めていたところ幼い妹が泣き出した、自分たちが生き延びるため、心を鬼にして妹の首を絞めて殺したと嗚咽しながら語った。取材の過程で防衛研究所で発見された軍極秘の「三灶島特報」と題する資料によると、日中戦争勃発時に12,000人だった島民の人口は戦後は1,800人になっていた。大部分は逃走と考えられたが、資料には「一部に対し掃討作戦」とも記されていた。

 
東京裁判でオランダのローリング裁判官は元海相・嶋田繁太郎も死刑にすべきと主張したが、元軍令部の周到な裁判対策が功を奏し、嶋田は開戦の責任では有罪とされたが、捕虜虐待等の通常の戦争責任に関しては証拠不十分で無罪とされた。そして、嶋田は昭和30年には釈放された。反省会では「死刑になりさえしなければ終身刑でも講和条約まで頑張れば自由の身になれると考えていた」と証言したメンバーがいたが、現実はまさにそのとおりになったのである。
 
しかし、その一方で、捕虜虐待の罪で元海軍のBC級戦犯200人が死刑となった。番組では元軍令部のメンバーが作成したとみられる「弁護の基本方針」が紹介された。そこには、「天皇に累を及ぼさず。中央部に責任がないことを明らかにし、その責任は高くても現地司令官程度にとどめる。問題はどこで責任の遡上を食い止めるかだ」という記述があった。虐待を命じた者が最終的には無罪放免され、命令に従った者が死刑に処された――番組は侵略戦争の歴史のこうした悲劇を鮮烈に浮かび上がらせた。

「天皇に責任が及ばないためにはあらゆる場面で責任者がいなければならない」
 
最後に、私が注目したのは番組が海軍の東京裁判対策に触れる中で天皇に戦争責任の累が及ばないよう日米双方が水面下で突っ込んだ対策を練っていた実態を明らかにした点である。特に、マッカーサー元帥の軍事秘書官フェラーズ准将と接触した米内光政元海相の述懐として、アメリカ占領軍側は、「天皇が裁判に出されることは本国におけるマックの立場を不利にする」、「占領を円滑に進める上で、天皇には何らの罪はないことを日本側から明らかにしてほしい」、それには「東條(英機)に全責任を負わせることだ」とまで助言したという証言は東京裁判を検討する史実として注目に値する。
 番組は「戦犯裁判 第2の戦争」と題した3回目の放送の終盤で、海軍の用紙に記された「天皇の戦争責任に関する研究」という表題の文書を紹介した。そこには次のような記述があった。
 「天皇に責任が及ばないためには、あらゆる場面で責任者がいなければならない。」

 「軍隊は国民を守らない」という言葉をしばしば耳にする。しかし、それでもなお、日本の保守政権は国民のいのちと安全を守るためと称して防衛力強化を掲げ、「テロと戦う」アメリカへの軍事面での支援にまでのめりこもうとしてきた。では、その軍事力が本当に守ろうとするものは何なのか、軍事力の行使を発案した人間は常に安全地帯に身を置いて実働部隊を指揮すること、彼らは「戦後」の責任追及から生き延びる知恵にはたけていることを、知っておくことは無駄ではない。

| | コメント (2)

« 2009年8月 | トップページ | 2009年10月 »