還らざる学友の碑~慶応三田キャンパスで~
近頃、デジカメに凝っていて、どこかへ出かける時にはたいていカバンに入れて歩く。今年度後期(慶応義塾では秋学期と呼ばれている)、慶応義塾の商学研究科の会計職コースの「現代会計論」という講義科目を非常勤で担当している。この科目名からして、現代の会計問題なら何でも扱えるという自由を有難く思っている。最初の3回は最近、会計基準の国際的コンバージェンスの焦点の一つになっている「のれんの会計」を取り上げ、その後3回は「負債と資本の区分」を取り上げた。多くは私の講義中心であるが、時々、題材(文献)を指定して受講者(7名)にそのテーマ、文献に関する各々のコメント、見解をプリントで準備してきてプレゼンを求め、そのあと、全員で議論をかわすゼミ形式のやり方も採用している。先々週は「条件付償還義務株式の会計問題」をテーマにしてゼミ形式の授業をした。保有者のオプションで償還義務が生じる株式は、それを発行した企業にとって株式なのか負債(債券)なのかという問題である。なかなかユニークなコメントをする院生が多く、活発な議論になった。こういう授業は楽しいものである。
さて、話をデジカメに戻すが、昨日(金曜日)は講義の日で、秋晴れに誘われてキャンパス風景を撮ろうとカバンに入れて家を出た。早めに三田キャンパスに着いたので中庭をぶらぶら歩きした。中央にある大銀杏は学生の待ち合わせ場所とかでキャンパスのシンボルになっているそうだ。ちょうど昼休みでいつもながら、弁当を広げたり談笑したりする学生で華やいでいた。そのうちに、図書館の北側にある細長い庭に何か音楽の指揮者の前に置かれる楽譜台のような形の碑が見えたので近づくと、読みとりにくい字で次のような言葉が刻まれていた。
還らざる友よ
君の志は
われらが胸に生き
君の足音は
われらが学び舎に
響き続けている
碑の裏側に回ると、さらに読みとりにくい字で次のよう文章が刻まれていた。
還らざる学友の碑
この碑は今次大戦において志半ばにして逝った
学友を偲び慶応義塾が建立する
平成十年十一月
慶応義塾塾長 鳥居泰彦
慶応義塾の名誉教授の白井厚氏は第二次大戦中、義塾が被った戦禍の記録と戦争体験の継承、戦没者名簿の作成などに取り組んできた人である。2005年8月10日付『慶応キャンパス新聞』に掲載された同教授のインタビュー記事によると、1943年11月、慶応義塾でも出陣塾生壮行会が行われ、臨時徴兵検査を受けた学生4,268名のうち、3000人以上がこの時に入隊した。しかし、白井教授らがまとめた戦没者名簿によると、日中戦争以降の塾関係の戦没者数は2,224名に上るという。
また、白井教授は1991年から「太平洋戦争と慶應義塾」というテーマでゼミナールの学生と共同研究に取り組んできたが、その一環として行った昭和17~24年卒業生7,500人を対象にしたアンケート調査(戦中の学生の生活と意識に関する調査)によると、勇んで戦地に向かったのは全体の2割程度、反対に、体質的、性格的に軍隊に向かない、あるいは反戦思想から、戦地に向かうのを嫌った学生が約1割だったという。残りの7割は仕方がない、と考えたようだ。そう答えた人たちの中には、小学校の同級生などの多くが戦地に向かう中、高等教育を受けた同年代の自分たちが学業を終えるまで徴兵を猶予されたことを申し訳なく感じていた人も多かったのだろうと白井教授は語っている。
このインタビュー記事の最後で、今学生に伝えるべきことはと問われて白井教授は、日本で310万人が亡くなっただけでなく、アジアで2千万~3千万人が亡くなったと言われている、このことを知り、考えなければアジア諸国との友好関係は築けないと語っている。それに続けて、白井教授が「戦争の実態を知らないで平和を求めることはできません。日本では、戦争放棄は戦争研究放棄であるという雰囲気が少なからずあります」と語っていることに惹き付けられた。
上:還らざる学友の碑
下:三田キャンパスの風景
(いずれも2009年10月30日、撮影)
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