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時価会計批判のいびつさと俗流「政治主義」

ある会計学界の集まりで
 半年ほど前、都内で会計学界関係者の集まりがあった。非常勤の講義を終え、開会時刻に遅れて会場に入ると、旧知のA氏とB氏がグラスを片手に会話していた。近づくと2人は時価会計のことを話していることがわかった。ちょうど、当時、サブプライム・ローン問題で有価証券の市場取引が低迷した起因として全国紙等が行き過ぎた時価会計に批判の矛先を受けているさなかだった。そのうち、B氏は私が近寄ったのを見て、「時価時価と言っていた人はどうしてくれるのですかね」と話しかけてきた。ちなみに私は会計学界では熱心な時価会計推奨論者の一人とみなされてきた。その後、次のようなやりとりを交わした。

 「醍醐:どうしてくれるのかって、どういう意味?」
 
「B氏:こんな状況になってどう思うのかということですよ。○○さんが〔時価会計を〕批判してきた通りになったじゃないですか?」
 「醍醐:あなたがいう時価会計批判とは時価会計のどこを指しているのですか? 私は時価会計に向けられた最近の批判は、①市場の流動性が極端に下がった時、それでも市場価格を時価として使うのかという批判、②もう一つは保有の目的別に有価証券の評価を分類してきた会計基準を見直す動き、だと思っていますが。」
 「A氏:それだけですかね。」
 「醍醐:時価会計のどこを問題にするのか定めないで時価か原価と言ってみても不毛ではないですか? ①の問題は、サブプライム問題が起こって急に浮上したことではなく、市場価格に代えて理論価格を使うこともありうると実務指針で定められています。問題は一口にいう理論価格とは何を指すのか、理論価格をどのように算定するの
かという問題だと思っています。これについては検討の課題だと考えています。②は今回あらたに浮上した問題ですが、私はもともと保有目的別時価会計、特に満期保有目的という目的を会計が一方的に定め、罰則を科してでもこの目的の中途変更を抑制しようとする会計基準は時価会計に固有のものとは考えていません。ですから、有価証券の保有目的別会計基準の見直しが始まったからといって、『それみたことか』と言い立てるのはナンセンスだと思っています。」
 「A氏:そうは思わないけれど、まあ、勉強させてもらいますよ。」

 A氏の最後の言葉が内心とかけ離れた社交辞令(捨てゼリフ?)であることは一目瞭然としていたが、それ以上会話を続ける意欲はなかった。

 俗流・軽薄の政治主義
 一つ前の記事の後段で、日本における会計基準の見直しは多くが海外での見直しの動きに追随した自律性のないものと論評した。しかし、日本の会計基準設定機関や会計研究者が国際会計基準にまったく異議を唱えてこなかったのかというとそうでもない。少なからぬ研究者は時価会計が国際的潮流になりかけたとき、それを「米国本位のグローバリゼーションの会計版」と見立てて執拗な異論を唱えてきた。しかし、私に言わせると、こうした抵抗は政治の世界の動きを会計の世界の動きに安直にダブらせる俗流「政治主義」以外の何物でもない。それでいて、時価会計が国際的潮流として定着したかに見えた時期には表向き沈黙を守りながら、サブプライム・ローン問題をきっかけにした金融不況で株価が低迷し、前の記事に書いたような保有目的別時価会計の見直しが始まるや、「それみたことか」と言わんばかりに沈黙を破って、時価会計を「株価至上主義の市場原理の権化」かのように咎め、原価主義への回帰を唱える時流便乗の研究者が見受けられる。時流の助けを借りなければ自己の見解を公然と表明できないのでは自立した研究者と呼ぶに値しない。
 ちなみに、「株価」を時価として用いることを以て、時価会計を「株価至上主義」とみなすのは軽薄な暴論の類である。時価会計に限らず、会計は実態を描写する道具であり、そのこと自体に特定の経済体制観が潜んでいるわけではない。「原価」か「時価」かの違いは何を以て「実態」とみるかの解釈の違いである。そして、どちらの解釈が適切かは、評価の対象である資産(ここでは有価証券)に備わるリスク・リターンの特性から判断するほかない。

 また、時価の下落で決算が評価損に直撃される状況の真因を時価会計に向けるのも本末転倒である。評価損が決算を直撃したのは価格変動リスクや信用リスクを伴う金融商品を銀行や企業が大量に保有したからである。時価会計はそれを描く鏡の役割を果たしたまでである。原価基準に切り替えたところで、売買を想定して保有し続ける限り、評価損は「消滅」するわけではなく、財務諸表に「表現」されなくなるだけである。会計情報を実態の鏡とするにとどまらず、リスク管理の道具にするというなら、リスクの顕在化を隠し、投資家や監督当局のモニターを効きにくくする原価会計よりも、「損失」を公表し、モニターを促す時価会計の方が優れていると考えるのが道理である。そこに、大げさな「主義」があるわけではない。

 しかし時価会計は万能ではない

 しかし、こういったからといって、私は時価会計が万能だと考えているわけでは決してない。その好例は債券の評価基準である。ここで詳しい説明をするゆとりはないが(詳しくは拙書の202204ページ、344~347ページを参照いただきたい)、満期のある債券には大きくは2つの投資のコースがある。一つは満期まで保有して約定どおりの元利のキャッシュ・フローを得るというコースである。もう一つは金利の動向とそれを基因とする債券の時価の動向を見極めながら、満期前に適宜売却してその時点の時価に相当するキャッシュ・フローを獲得した上で、手取り金を新たな投資対象に振り向けるというコースである。
ところが、現在の彼我の会計基準はいずれもこうした複数のコースの併用を認めず、企業が債券を購入した時点でどちらかのコースを選ばせ、原則としてそのコースを走り続けてゴールするよう、ペナルティ付きで規制してきた。
 それにしても、金利の変動等をにらんで、なぜ途中でコースを変更してはいけないのか? 満期前に売却する余地を残しておこうとすれば、一貫して時価評価を適用しなければいけないのか? 時価が低迷した時、満期まで保有する想定に切り替えてはなぜいけないのか? 満期まで保有するとなっても、なぜ時価を適用して市場価格の変動を貸借対照表に表さないといけないのか?
 逆に、当初は満期まで保有するつもりのところ、途中で時価が高騰した時、満期を待たず、当該債券の一部を売却しようものなら、残りの債券まで満期保有に分類することを不可とされることを厭わない覚悟を固めないといけないのか? 企業の投資行動への会計のいわれなき介入・干渉以外の何物でもない。

 前記のような金融商品の保有目的別会計基準を見直す動きは、外形的にはサブプライム・ローン問題をきっかけにした市場価格の暴落、低迷への対応ではあるが、その根底には企業の投資行動への会計基準の不条理な介入の行き詰まりがあったとみるべきである。また、こうした動きは金融商品の会計を安直に「原価」か「時価」かの選択に還元してしまう議論に対する戒めとも捉えるべきであろう。

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本文とは無関係ですが。今年の8月末、夫婦で出かけたノルウェーの写真

上:フロム港の前方に広がるフィヨルド
下:ベルゲンの郊外、トロールハウゲンにあるグリーク・ハウスのコンサ  ートホール。舞台の後方の窓から海が見える贅沢な設計だった。ここ  で、グリークにちなんだピアノ・コンサートを聴いた。

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