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兵士を「持ち駒」、予備軍を「虎の子」の「新鮮な血」と呼んではばからない好戦趣向~『坂の上の雲』は軍国日本をいかに美化したか(第4回)~

多数の犠牲の責任を稚拙な作戦・指揮者に帰す戦術趣向
 『坂の上の雲』は日清・日露戦争を題材にした歴史小説であるが、前回、前々回の記事で紹介したように、その内容は交戦当事国、特に日本の陸海軍及び政府の戦争戦略・作戦の巧拙を実況中継さながらに描いた小説である。そこには日本軍の戦闘を指揮した職業軍人、東郷平八郎、乃木希典、山本権兵衛、伊地知幸助らの人物評や日本の命運を左右した作戦の巧拙に関する記述が続き、交戦相手のロシア軍あるいは侵略地・朝鮮、中国の市民がなめた苦難、不幸の描写は全くと言ってよいほどない。また、前線に駆り出された日本軍兵士の犠牲に関する記述が時折みられるが、その描写はあくまでも戦闘作戦・戦術の巧拙を語る傍論でしかない。たとえば、凄惨を極めた旅順総攻撃の模様を記した冒頭に次のような一節がある。

 「作戦当初からの死傷すでに2万数千人という驚異的な数字にのぼっている。もはや戦争というものではなかった。災害といっていいであろう。
 『攻撃の主目標を、203高地に限定してほしい』という海軍の要請は、哀願といえるほどの調子にかわっている。203高地さえおとせばいい、そこなら旅順港を見おろすことができるのである。大本営(陸軍部)参謀本部もこれを十分了承していた。参謀総長の山県有朋も、よくわかっていた。
 ただ、現地軍である乃木軍司令部だけが、『その必要なし』と、あくまでも兵隊を要害正面にならばせ、正面からひた押しに攻撃していく方法に固執し、その結果、同国民を無意味に死地へ追いやりつづけている。無能者が権力の座についていることの災害が、古来これほど大きかったことはないであろう。」(第4分冊、308~309ページ)

 つまり、司馬によれば、旅順総攻撃による死傷者2万数千人という犠牲は戦争の犠牲者ではなく、無能な作戦に固執した乃木軍司令部らの責に帰すべき災害とみなされたのである。ここには、戦争という行為そのものに対する評価ではなく、第一線で戦争を指揮した参謀らの作戦の巧拙の評価に関心を向ける司馬の問題意識が如実に表れている。自国兵士の犠牲をこのように個々の軍事作戦の巧拙に帰するのは視野狭窄といえるが、何よりも大きな問題は日本軍によって殺傷された交戦相手国の犠牲者が視野の外に置かれているということである。「国家間の戦争である以上、それは致し方ないこと」というのであれば、交戦両国の兵士らに多大な犠牲が生じることが予見できる開戦――領土拡大・占有地での権益保全のための武力行使――の意思決定に関わった当事者の戦争責任が問われてしかるべきだが、『坂の上の雲』にはそういう問題意識が欠落している。


兵士は「持ち駒」、予備隊は「虎の子」の「新鮮な血」!?
 「旅順総攻撃」の章では、上の引用文の後に次のような文章がある。

 「日本の陸軍兵力は、底をついてしまっている。例を将棋にとると、その対局に持ち駒が必要なように、戦争にもそれが必要であった。その持ち駒が、『予備隊』であるということは、すでに触れた。野戦で作戦中の軍司令官や師団長なども、かならずその持ち駒をもちながら駒をすすめている。必要かつ決定的な戦機をつかむと、すかさずその持ち駒を打って敵の死命を制するのである。
 全陸軍についても、この持ち駒が必要であった。それを大本営は後生大事に持ち、内地にひかえさせていた。」(第4分冊、310ページ)

 「戦場は、新鮮な血を欲していた。一戦ごとに減ってゆく兵力の補充については、いままで応招の後備兵を送っていた。後備兵は兵として齢も長け、妻子のある者が多く、戦士としては現役兵より相当劣るということは、この世界の常識であり、事実である。が、内地にひかえさせてきた第七、第八師団は新鋭そのものの現役兵師団であった。『それを旅順になど送れるか』というのが、大本営の一致した気分であった。乃木軍は戦術転換もせずに、新鮮な血だけを要求してきている。『日本にとっては虎の子というべきこの師団を、いたずらに無能な作戦のもとに全滅させるにしのびない』という気分であり、参謀本部次長の長岡外史などは、『至愚である』ということばさえつかった。」(第4分冊、312ページ)

 つまり、前線に配備される兵士を将棋の対局にたとえて「持ち駒」とみなし、国内に待機させられた予備隊を前線に送るのは「戦場は新しい血を欲していた」からだというのである。このような戦場の最前線に赴かされた兵士を軍事作戦上の手駒のように扱う表現が筆の走り過ぎといったものではなく、司馬遼太郎の明治期の日本社会をみる独特の史観に発したものであることは「あとがき1」の中の次のような文章から伺い知ることができる。

 「維新後、日露戦争までという30余年は、文化史的にも精神史のうえからでも、ながい日本歴史のなかでじつに特異である。これほど楽天的な時代はない。むろん、見方によってはそうではない。庶民は重税にあえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、足尾の鉱毒事件があり女工哀史があり小作争議がありで、そのような被害意識のなかからみればこれほど暗い時代はないであろう。しかし、被害意識でのみみることが庶民の歴史ではない。明治はよかったという。その時代に世を送った職人や農夫や教師などの多くが、そういっていたのを私どもは少年のころにきいている。」(第8分冊、309~310ページ)

 だが、足尾の鉱毒事件も女工哀史も小作争議も「意識の世界」での被害ではなく、「現実の世界」で起こった被害である。これらを「暗い」時代を象徴する事例に挙げることに何のためらいも要らない。むしろ、現実世界については子供のころの伝聞でぼかし、動かぬ史実を「意識の世界」で濾過して「明るい明治」に改変する司馬の論法こそ問われなければならない。こうした歴史をみる目の歪みに触れず、彼の歴史認識を「史観」の次元で論じる危うさを悟る必要がある。



日露戦争のパラドックス
~戦費調達のための増税がもたらした有権者の激増=政治の民主化の地盤の培養~

 ところで、上の引用文に出てくる「重税」について補論的に言及しておきたい。三谷太一郎は自著『近代日本の戦争と政治』(1997年、岩波書店)の中で日露戦争当時の増税とそれがもたらした選挙権者の急増=政治的底辺の拡大について、次のように記している。

 「さらに戦争は戦費を支えるための著大な増税を国民に課し、その結果として選挙権者を倍増させた。すなわち戦時における第一次及び第二次非常特別税法(1904年3月31日及び12月31日公布)によって、直接国税三税目はそれぞれ大幅に増税され、地租は2.5%が20%(市街地)、8%(郡村宅地)及び5.5%(田畑その他)となり、所得税はとくに個人所得に対して、まず第一次非常特別税法によって一率に税額の70%が増徴され、さらに第二次非常特別税法によって、500円未満から10万円以上までの各所得階層について累進的に30%から200%が加徴されることとなり、また営業税においては、各種営業について150%の税率の加重をみた。しかも戦後第22議会において、非常特別税法が改正され(1906年3月1日公布)、戦費調達のための時限立法の性格を明らかにしていた文言が削除された結果、非常特別税は恒久税となるにいたった。このことによって直接国税10円以上の納税者である選挙権者が2倍を超える自然増加をみた。」(42~43ページ)

 「しかも日露戦争の4年前の1900年には選挙法改正が行われ、直接国税の納税要件が15年から10円に緩和された結果、選挙権者はほとんど倍増していた。したがって日露戦争をはさんでその前後の4年間に選挙権者は4倍に膨張したことになる。これは決して小さな変化ではない。そしてこれこそ日清・日露両戦争が日本とその交戦国の国民の犠牲を代償としてもたらした民主化そのものであったといえよう。このような変化を背景として、普通選挙運動が勃興し、1911年3月の第27議会においては、議員提出の普通選挙法案が衆議院を通過したのである。」(43ページ)

 三谷氏がこうした戦費調達のための増税がもたらした有権者の増大=政治の民主化基盤の培養を政治学者、ダ―ルの唱えた「ポリアーキー」の概念を適用しうる政治的底辺の拡大と評価しているのは注目に値する。

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