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都民を欺く東京都と新銀行東京の二枚舌~新銀行東京の黒字決算はタコ足決算~

 2010124日、東京・御茶の水の明治大学11号館で、「新しい東京 福祉・環境都市を目指して」をテーマに、新東京政策研究会主催のシンポジウムが開かれた。主催者の発表では135名の参加があったとのことである。以下は、シンポジウムの第1部で私が報告用に準備したパワーポイントと読みあげ原稿である。

 報告内容は雑誌『世界』の200911月号に発表した拙稿と重なる部分もあるが、その後に入手した2009年度中間期(20099月期決算)で新銀行東京が開業以来初めて黒字を計上した決算の実態に関する分析を付け加えた。まず、1期前の決算と比較したポイント部分を摘記すると次のとおりである。

    新銀行東京の比較損益計算書(抜粋)        単位:百万円

20089月期

20099月期

業務粗利益  

3,117

1,509

貸倒引当金繰入

6,823

0

貸倒引当金戻入

0

2,073

税引前当期純利益

7,016

1,071

(参考)貸出金残高

163,281

115,230

 新銀行東京「平成223月期中間決算説明資料」より作成

 これを見ると、本業の業績を表す業務粗利益が半減したにもかかわらず、帳尻の税引前当期純損益の黒字化をもたらした増益要因のほほ全ては貸倒引当金の縮小(新規繰入の停止による費用の減少と残高の取り崩しによる利益ねん出)によるものであったことがわかる。
 もともと、金融機関の貸倒引当金は貸出債権の焦げ付きによる損失に備えるものであるから、この間、貸出金が481億円減少した(1,633億円 → 1,152億円)のに対応させて貸倒引当金を取り崩すのは自然なことと思える。しかし、私は分析の結果、次の3点を指摘した。

 (1)貸出金が総額で約480億円減少したとはいえ、不良債権(ここでは金融再生法で開示を義務付けられた債権)比率は17%から20%強へと上昇している。しかも、不良債権の中でも貸倒れの可能性がもっとも高い破産・更生債権は1年前より16億円増えている。もともと、他の金融機関と比べ、割高な調達金利に制約されて、他行と比べ、貸出金利が高めの新銀行東京からの融資に依存するのは信用リスクの高い顧客と考えられ、新銀行東京の融資残高にはこのような顧客層が少なくないとみられる。「『今や、新銀行で借りれば経営が苦しい』というようなもの」(「日本経済新聞」20081229日)といわれるゆえんである。とすれば、貸出金残高の縮小に対応させて貸倒引当金を縮小する(取り崩す)という単純な論法が新銀行東京に当てはまるのか、精査が必要である。

 (2)仮に、新銀行東京が抱えた信用リスクに照らして、上のような貸倒引当金の縮小に問題はなかったとしても、貸倒引当金の縮小(取り崩し益)にもっぱら依存した黒字化がおめでたいことなのか、というのが私の2番目の指摘である。なぜなら、銀行のコア資産というべき貸出金を縮小させ、それに伴って生じる貸倒引当金の縮小(取り崩し益)に頼ってしか、黒字化を達成できないのでは銀行業としての存立の自己否定を意味し、そのようないびつな「増益」要因による黒字化は「タコ足決算」というほかないからである。これでは「再建計画」ではなく、「清算計画」と呼ぶのがふさわしい。

 (3)最後に私が指摘したのは、新銀行東京あるいはそれを主導した東京都の説明の自己矛盾である。東京都は2008年の都議会第1定例会に新銀行東京に対する400億円の追加出資を提案する際、「貸倒引当金ではカバーできないリスク等に対応するために必要な資本の額が280億円でございます」(2008311日開催の予算特別委員会における佐藤産業労働局長の答弁)と説明していた。

 ところが、それとほぼ同じ2008220日付けで新銀行東京が作成した「再建計画」において計画期間中に貸出金を728億円から404億円へと縮小させるのに対応させる形で、収益計画において貸倒引当金戻入益を4年間累計で264億円計上していた。これは本業の業務収益の累計額218億円を超える金額である。この意味で2009年度の中間決算において、貸倒引当金を取り崩して利益を底上げしたのはシナリオ通りの決算といってよい。

 しかし、ほぼ同じ時期に、新銀行東京の資本増強の必要性を議会で訴える時には、貸倒引当金だけでは足りないという一方、決算においては信用リスク対比で貸倒引当金は余るとみなして取り崩すのは議会と都民を欺く二枚舌である


醍醐 聰「新銀行東京に清算以外の道はない」(シンポジウム「新しい東京 福祉・環境都市を目指して」(2010124日、主催:新東京政策研究会、における発表用原稿)
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/singinkotokyo_ni_seisanigainomichihanai_20100124.pdf


上記発表の際に使ったパワーポイント原稿

http://sdaigo.cocolog-nifty.com/singinkotokyo_pp_20100124.pdf

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放送を国民のものとするために~視聴者接触率を超えて~

 『法と民主主義』(日本民主法律家協会発行)の200911月号では<放送の公共性とは何か~NHKと情報法制の課題~>と題する特集が組まれた。私も執筆者の一人として、「放送を国民のものとするために――視聴者運動と放送の民主化――」というタイトルで小論を寄稿した。このたび、この拙稿を転載することについて同誌編集部の同意を得たので、以下、この記事に掲載することにした。

「放送を国民のものとするためにーー視聴者運動と放送の民主化ーー」(PDF版)(『法と民主主義』2009年11月号、掲載)

http://sdaigo.cocolog-nifty.com/hoso_o_kokuminnomonotosurutameni.pdf

 なお、この小論で私がNHKの番組の質の維持・充実を図るうえで、NHKが経営計画で「視聴者接触率」(1週間にNHKのテレビ、インターネット、携帯端末、DVDなどで5分以上NHKの番組を見たり聞いたりした人の割合)の目標値を掲げ、目標達成に向けて、あれやこれやと番組の編成換えをしていることに強い危惧を感じていることを指摘した。
 最近、各紙のテレビ批評・投稿欄で、NHKの放送について「番宣をやり過ぎ」といった意見をよく見かける。また、2009年12月8日に開催されたNHK経営委員会で、安田喜憲委員は、「20代、30代の接触者率を上げるには、例えば、企業の面接や入試には必ずNHKのどんな番組を見たのかというような問題が出るようになれば、必ず見ると思います。例えば、企業とうまく交流をとりながら、質の高い番組を放送して、その番組を見てどう思ったのかについての質問を、面接のときにしてもらうということなどを将来的に考えれば、今の若者は見るのではないかと思います。これは私の将来的な夢です」と発言している。
 質の高い番組を放送して視聴者に評価を問うという意見には賛同するが、学生をリクルートする企業に頼ろうとする発想はどこから出てくるのか、視聴者接触率を追求することと番組の質が正の因果関係を生むと論証できるのか、負の因果関係(番組の質の劣化)になる危険性の方が高いのではないかーー経営委員にはNHKと一体化した応援団の役割ではなく、公共放送の使命に関する高い見識と視聴者の番組批評に耳を傾けた、NHKに対する厳正な監視・監督の役割が求められている。
 ******************************************************************

                   
法と民主主義』200911

           放送を国民のものとするために
           ――視聴者運動と放送の民主化――

                                醍醐 聰
        
 
NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ・共同代表)

1.番組劣化の負の循環を断ち切るために
 NHKか民放かを問わず、放送局はしきりに「視聴者第一主義」を口にする。NHKは視聴者を「お客様」と呼んではばからない。しかし、言葉と現実の隔たりは依然として大きい。「視聴者と放送界を結ぶ回路」となるべく設立された「放送倫理・番組向上機構」(BPO)の2008年度年次報告会記録に収録された放送と青少年に関する委員会の各委員の発言録を読むと、放送界(特に民放)への各委員のあきらめにも近い苦言が随所に記されている。

 「勝手に『番組制作者は、本当は質の良い番組を作りたいのに、視聴率の確保や予算の制約、毎週毎週追われるように時間枠を埋めなくてはならない時間の制約の中で、やむなく視聴者から安易、低俗等々と批判されるような番組を作らざるを得ないのだろう』と思い込んでおりました。ところが、驚いたことに委員会に来られた担当者の方々は、どなたも自信に満ち満ちていて、BPOに“たまたま”(?)寄せられる視聴者意見がどうであれ、現に視聴率が取れているということは、多くの視聴者に支持されているということであり、それが即ち“良い番組”なのだと言わんばかりで、私は想像していた苦悩など、微塵も感じられませんでした。その繰り返しの中、正直なところ、青少年委員でいることに虚しささえ感じるようになりました。」(山田由紀子委員。『BPO報告』2008年度年次報告会特集号、2009.4.25所収)

視聴率の追求が番組の質にもたらす負の影響は民放だけではない。NHK2008年にまとめた3ヶ年(20092011年度)経営計画で経営目標の一つとして「接触者率」(1週間にテレビ、インターネット、携帯端末、DVD等で5分以上、NHKの番組を見たり聞いたりした人の割合)を2011年には80%に引き上げるという目標を掲げた。そして、この目標達成に向けNHKは、民放で人気を博したタレントを起用したバラエティ番組枠を増やすだけでなく、3-Screens と銘打って放送、録画に加え、NHKオンラインなど放送外のNHKの媒体へのアクセスも含めた接触者率の目標達成に向け、時間帯ごとにターゲット世代を定めたゾーン番組編成を組んでいる。特に、NHKへの接触率が低い若者世代を対象に、携帯などで撮影した映像を投稿してもらう『特ダネ投稿DO画』や、放送前に携帯にミステリー小説が配信された放送でトリックを明かす『探偵Xからの挑戦状』、簡単レシピや便利グッズなどを紹介する情報番組「ワンセグ ランチボックス」、大河ドラマ「天地人」のダイジェスト番組、「ダ-ウインが来た!」から派生したスピンオフ番組「ケータイ大自然」など、あの手この手の新企画を繰り出している(「平成21年度第1四半期業務報告」参照)。

 年代ごとに興味、関心に差があり、ライフ・ステージの違いに応じて視聴者が期待する放送番組に違いがあることは否めない。しかし、公共放送には世代ごとの縦割りの関心に応じた多様性ばかりでなく、世代を超えて有権者たる市民が政治への参加に必要な多様な知見を涵養する使命を負っている。また、不特定の視聴者に異なる意見、思想、文化との出会いの場を設け、各自の思考の固定化、教養の一面化を防ぐ言論の公共空間、放送文化の担い手としての役割も負っている。定期的な視聴率調査をにらみながら、なりふり構わぬ手法で週5分以上の接触者率の目標達成に躍起になることで、こうした公共放送の使命がなおざりにならないか、番組の内容を二の次にして、若者世代の好みに合うかどうかを尺度に番組を評価し、編制替えすることが公共放送に求められる視聴者第一主義なのか?

 翻って考えると、放送に求められる公共性とは大衆の好奇心を充足することではないし、制度としてのメディアの表現の自由は番組制作者に与えられた自然権ではない。権力の介入を受けることなく公共情報を行きわたらせるという使命を遂行するために与えられた自由である(奥平康弘「放送の自由をめぐるパラダイム転換」日本民間放送連盟研究所編『「放送の自由」のために~多チャンネル時代のあり方を探る』1997年所収を参照)。にもかかわらず、放送メディアが視聴者に対し、自分の興味・関心だけから断片的な情報を選択してアクセスできるコンテンツ・メニューを揃えるのに腐心したのでは趣味の「たこつぼ化」を助長することになってしまう。受信料制度とは市民誰もが共有すべき政治的経済的文化的教養を低廉なコストで視聴できるよう財源をプールする社会連帯のシステムではなかったか?(醍醐聰「公共放送における受信料制度の意義」『現代思想』20063月、参照)このように考える私は「接触者率」を経営目標に掲げたことが目に見えない形でNHKの公共性を蝕んでいく危険性を感じざるを得ない。こうした危うさを放送界はもとより、視聴者自身が直視し、「この視聴者にしてこの番組」といった劣化の負の循環を断ち切る努力が求められている。

 そこで以下では、このような問題意識を前提にして視聴者と放送局をつなぐ回路をどのように充実・強化していけばよいのか、視聴率を注視しながらも、それによって番組の質、放送の公共的使命を腐食されない放送メディア、そのための経営環境を確立するために視聴者は何ができるのか、何をなすべきなのかを検討してみたい。


2.視聴者と放送局をつなぐ回路の充実・強化
視聴者による番組の監視・激励
 基本的なことは視聴者一人一人が優れた番組には激励を、問題を感じた番組には批判・注文を直接放送局へ送るなり、様々な媒体(BPOや新聞の投書欄など)に送るなりする番組監視活動に取り組むことである。
 まず、BPOについていうと、機構内の3つの委員会のうち、放送倫理検証委員会は様々なルートから対象番組を選定して放送番組の取材・制作のあり方や番組内容などに関わる問題を審議することになっている。このうち視聴者から指摘された番組について審理の結果、虚偽の放送により、視聴者に著しい誤解を与え放送倫理上の問題があった場合は「勧告」または「見解」としてとりまとめ、当該放送事業者および放送番組審議会に書面により通知し、公表することになっている。また、放送と青少年に関する委員会は、
視聴者から寄せられた意見について審議し、委員会の見解を機構の構成員であるNHK、民放連および同加盟社に連絡するとともに公表し、放送事業者の自主的検討を要請する。そして、各放送局に検討結果または具体的対応についての報告を求め、これを公表することになっている(委員会運営規則第2条(1))。さらに、運営規則の第3条では視聴者から寄せられた意見(放送のあった日から3ヶ月以内に寄せられたもの)の取り扱い基準が定められ、委員の3分の2以上の賛成で委員会の「見解」とする(同第6条)。さらに、委員会は、審議結果を当該放送事業者に速やかに伝えるとともに、視聴者から寄せられた意見の概要、審議結果、当該放送事業者の対応等を月報等にまとめ、構成員、青少年関係機関等に配布する。また、機構が発行する「BPO報告」や、ホームページへの掲載、記者会見等適宜の方法により、公表することになっている(同第8条)。

 近年、BPOに寄せられた視聴者意見を種別にみると以下のようになっている。

      表1 BPOに寄せられた視聴者意見の種別件数の推移

番組全般

人 権

青少年

BPOに関

するもの

その他

合 計

2005年度

3,165

190

211

145

79

9,671

2006年度

4,724

211

1,319

621

3,157

11,032

2007年度

7,554

145

2,214

983

6,097

16,993

2008年度

8,765

79

1,496

736

4,845

15,923

(出所)BPO2008年度の視聴者意見に関する統計データ」より。

 
次に、NHKは視聴者コールセンターや本部各部局、全国各放送局に寄せられた視聴者の意見、それへの対応報告を2ヶ月ごとにまとめた「視聴者対応報告」を刊行し、NHK経営委員会に報告するとともに、NHKオンラインに掲載している。毎回の報告は、まず「視聴者の声」の内容別(意見・要望、問い合わせ、その他・不明)・分野別(放送番組、受信料、受信相談、経営、上記以外)等の集計結果、意見へのNHKの対応状況(受け付けた一次窓口で対応を完了する一次対応と該当部局へ転送する二次対応の区分)、各期間のピックアップ(反響が多かった番組に寄せられた好評意見と厳しい意見の件数とそれぞれの意見の摘記、反響の多かった上位10番組のリストと各番組への意見の摘記、再放送希望が多かった10の番組、意見や要望への対応)といった構成になっている。
 200978月分の報告に掲載された視聴者の意見をみると、反響が多かった番組のひとつとして、初めての裁判員裁判の報道が挙げられ、反響の詳細が次のように報告されている。

 表2 初の裁判員裁判の報道に関する視聴者意見(200983日~86日)

好評意見(計81件)

厳しい意見(計426件)

番組内容への要望

78

放送過剰

103

わかりやすい・勉強になる

16

ワイドショーのよう

27

期待・感謝

11

放送不要

18

その他好評意見

15

意図を感じる

13

映像不評

94

用語に疑問 **

73

コメント不評 ***

66

出演者(言葉遣い・服装など)

50

不十分・わかりにくい

48

その他厳しい意見

35

*判決後の記者会見での顔出し:72件、個人が特定されないか(会見以前):17
 **「被告」か「被告人」か:44
 ***個人が特定されないか:23件、細部に踏み込み過ぎ:16
 好評意見、不評意見とは別に、問い合わせ107件、持論159件、その他14

 こうした視聴者意見の集計・公表の仕方についていくつかコメントしておきたい。①まず、この種の件数を添えて意見を集計するにあたっては、各意見をどのように分類・集計するのかが重要である。「好評意見」の約3分の2を占める<番組内容への要望>とは具体的にどのような意見なのかを示さないまま「好評意見」に分類するのは適切だろうか? ②視聴者意見を公表すること自体、視聴者自身が情報を共有し、様々な意見に交わる機会を作るという点で有益であるが、寄せられた意見、特に多数の視聴者から集中した意見についてNHKの見解を示すことも重要である。上の裁判員裁判についていうと、NHKは「被告」「被告人」という用語については局の解釈を示しているが、視聴者とNHKの回路を実りあるものとするためには、それ以外でも件数が多かった<放送過剰>という意見、あるいは、より具体的に<判決後に裁判員が顔出しした記者会見の模様を伝えたことを疑問視する意見>についてNHKの見解が示される必要がある。

視聴者参加型の番組討論番組の定例化
 視聴者から寄せられた意見を第三者機関やNHKが整理して誰もがアクセスできる媒体に公表することは有意義である。しかし、このような方法だけでは視聴者と放送局の「一方通行的回路」となりやすく、視聴者にとっては「言い放し」という不満が残りがちである。そこで、視聴者と放送局の「双方向的回路」として、しかも多くの視聴者が番組や経営に関する自分以外の視聴者の意見、それに対する放送局の見解を知る「公共の討論の広場」を設ける意味で、「視聴者参加型の番組討論番組」を定例化することを提言したい。
 その手始めとしてNHK経営委員会が放送法第14条の3にもとづいて年4回以上開催することになっている受信契約者の意見を徴する会(通称「視聴者のみなさまと語る会~NHK経営委員とともに~」)の模様(録画)を多くの視聴者が視聴しやすい時間帯に編集を加えず、総合テレビなり教育テレビで放送することを提案したい。ちなみに、この「語る会」は全国の主要都市でNHK経営委員数名に加え、NHK会長、副会長もしくは役員が出席して年56回開催されている。

 こうした視聴者と放送局幹部との直接対話、そしてその生放送を通じて、対話に参加しなかった視聴者も番組や経営への視聴者意見を知ることができ、番組や経営への視聴者の関心と監視の力量を涵養するのに有益である。さらに、NHKは全国紙が紙面審査委員と編集部の責任者の紙面討論を定期的に掲載しているのに倣って、視聴者代表、放送番組審議会委員、メディア専門家らと局側との番組編成や経営のあり方に関する討論番組を多くの視聴者が視る時間帯に定期的に放送するという企画を試みてはどうか? 

支払意思額を指標にした放送評価の危うさ
 近年、視聴者による番組評価の手法として視聴者の支払意思額を受信料の便益価値、ひいてはNHKに対する視聴者の評価の指標として用いる試みがなされている。そこでは、事業支出決算額に対する視聴者の支払意思総額の倍率が放送事業のコストに見合う成果、すなわちNHKに対する視聴者の評価と解釈される。放送研究者の中には、NHKが支払容認価格による視聴者便益の調査手法を確立して定期的な調査を行うことにより、視聴者の番組評価をマクロ的に把握し公表することを期待する論者もいる。
 では、この支払意思額が意味するものは何なのだろうか? 放送局としてのNHKに対する評価なのだろうか、それとも地上放送、衛星放送などチャンネルごとの評価なのだろうか、あるいはジャンル別の番組(報道、娯楽、ドキュメンタリー、趣味・スポーツなど)に対する評価なのだろうか、それとも個々の番組に対する評価なのだろうか? 受信料をNHKが提供する総体としてのサービスに対する負担と解し(現行法上、受信料はNHKの放送サービスに対する対価とはみなされていないが)、それに対する便益(成果)として支払意思額を解釈して双方を対比するのであれば、支払意思額はNHKの放送ならびに経営(受信料の使途等)全般に対する視聴者の評価(満足度)の指標と解釈するのが論理的である。となると、支払意思額は放送(局)に対する視聴者の信頼性の総括的指標の一つとして用いることに一理はあるかもしれないが、多岐にわたる番組評価の指標となり得るわけではないことを銘記しておく必要がある。

 他方、こうした支払意思額(調査)は視聴者の側からみると、どのように受け取られるだろうか? 視聴した番組の総合評価の指標として「受信料をどれだけ払う意思があるか」を問われるとなれば、「自分の番組評価に応じて支払うのが合理的だ」という意識を視聴者に醸成するとしても不思議ではない。そして、こうした視聴者意識に行きつく先には、見たい番組を見た時間だけ受信料を支払う「スクランブル方式」がある。しかし、こうした受信料を視聴者個人の番組評価に基づく対価と捉える制度、特にそれが前記の接触者率追求と併用された時、「NHKの役割とは、放送を通じて『公共』の時間と空間を作り出し、意見のるつぼの中から人々の『共感』を導き出すことだと思う。そのために大切にしたいのが質。・・・・・質こそ絶対譲れないというのが、公共放送としての『一分』だ。」(永井多恵子「公共放送像を語る」、『朝日新聞』2006915日)という公共放送の根幹的存在意義を揺るがすことにならないか、大変危惧される。

独立放送委員会を視聴者主権の橋頭保とするために
 政権交代を機に、電波の割り当て権限を含む放送行政の権限を所管行政庁(総務省)、政府から独立した第三者機関(独立放送委員会:仮称)に移管させる構想が現実味を帯びてきた。「国家を監視すべき放送機関が国家に監視・監督される矛盾を解消する」という委員会創設の趣旨は放送の自主自律の核心を表現する言葉といってよい。問題は現実の制度づくりにあたって、この理念、特にここでは視聴者の放送への参加という理念をどう貫き、担保するのかということである。
 その点で注目すべきは委員の選考方法である。これを従来のNHK経営委員の人事にならって、総務省がリストアップした候補者を政府が国会へ提出し、国会の同意人事を経て選任するという方法を踏襲したのでは、政府による「オピニオン・ショッピング」がまかりとおり、政府・所管庁の意向を忖度しながら挙動する「有識者」の居心地の良いたまり場になる公算が大である。これでは政府、行政機関が委員会を遠隔操作する御用機関となり、放送への行政介入の可視性がかえって落ちて、視聴者による放送監視の実効性が後退しかねない。そうならないためには、放送問題の専門家、メディア研究者、法曹界、視聴者団体などから選ばれた委員で構成される選考委員会を設置し、メディア関連学会、日弁連、日本ペンクラブ等の団体の推薦を受けた候補者と公募・推薦を通じて名乗りを上げた候補者の中から、選考委員会が選任するといった方式が考えられる。

 その際、放送行政の代行者たる委員の地位を担保するために、選考委員会で指名された候補者を国会が形式的に承認するという仕組みを設けることが考えられる。しかし、その場合でも政府・国会は候補者の選考に一切、関与しない制度にすること必須の条件である。なお、こうした選考の仕組みは独立放送委員会の設置以前に、NHK経営委員の選任にも採用されるべきものと言える

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シンポジウム「新しい東京 福祉・環境都市を目指して」のお知らせ

 間近の案内になりましたが、124日(日)1330分より、御茶の水の明治大学で「新しい東京 福祉・環境都市を目指して」と題して新東京政策研究会主催のシンポジウムが開かれます。『世界』200912月号に掲載された特集<東京都政も転換を!>の執筆陣が主体になった企画です。
 私は第1部で、持ち時間20分と限られた時間ですが、「新銀行東京に清算以外の道はない」と題して報告をします。タイトルは上記『世界』に掲載した小論と同じで、報告内容も重なるところが多いのですが、データを最新のものに更新するとともに、開業以来初の黒字計上と喧伝されている2009年中間期(20093月~20099月)決算内容について吟味し、清算する場合の負債の決済とその財源の試算も示したいと考えています。
 ただし、単に過去の負の遺産の整理についてばかりでなく、今、東京都に求められている中小企業向け融資の強化にとって、もはや新銀行東京が必要とされていないことを論証したいと考えています。
 テーマに関心を持たれる方々に参加いただけたらありがたく思います。

チラシ
 (表面)http://sdaigo.cocolog-nifty.com/chirasi_20100124_omote.pdf
 (裏面)http://sdaigo.cocolog-nifty.com/chirasi_20100124_ura.pdf

シンポジウム 「新しい東京 福祉・環境都市を目指して」
主 催:新東京政策研究会
日 時:
2010124日(日)13301700
場 所:明治大学11号館53番教室(JR御茶の水駅下車、駿河台の坂を降り、山の上ホテルより1つ手前の道を左折)

プログラム
13
30 開会 
13
35 第1部「新東京政策研究会からの報告」
     進藤 兵「共同提言 チェンジ・ザ・イシハラ」
13
55  醍醐 聰「新銀行東京に清算以外の道はない」
14
15  尾崎正峰「オリンピックと地域スポーツ振興の架橋」

14
45 第2部 パネルディスカッション「都政転換への視座」
     コーディネーター 熊谷伸一郎(「世界」編集部)
     寺西俊一「地球温暖化対策に向けた都市環境政策」
     福川裕一「東京の都市像とまちづくり」
     中島明子「地域・自治体政策」
     森山 治「東京都の医療・福祉政策の課題」
      冒頭にコーディネーターから趣旨説明(5分)
17
00  3部 渡辺 治「都政への対抗と改革の展望」

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「カティンの森」を観て~歴史と向き合うことが人間の尊厳と理性を研ぎ澄ます~

 2010年1月1日
 皆様、よい新年をお迎えのことと思います。このところ、更新が滞りがちですが、アクセスいただき、ありがとうございます。今年も政治、経済、歴史、メディア、映画、絵画、旅行のことなど、なるべく体験を通じて得たこと、考えたことを書き留めながら、時々、私の専攻の会計が関わる問題も取り上げたいと思います。どうか、よろしくお願いいたします。

 昨年暮れは(今もですが)ゼミナールの4年生の卒業論文のレビュ-に追われましたが、冬休みに入ったところで、神保町の岩波ホールで上映中の「カティンの森」を観に出かけました。1940年、1万5000人といわれるポーランド将校がソ連軍によってソビエト領のカティンほか3ヶ所に連行され虐殺された事件を伝えた作品です。第2次世界大戦後もソ連がポーランド政府に強い影響力を及ぼしたことから長くタブーにされてきた事件ですが、父をこの事件で亡くした巨匠アンジェイ・ワイダ監督が旧知の作家・脚本家のアンジェイ・ムラルチクに映画用の原作を依頼して、事件後70年近く経った今、ようやく明かされたものです。原作の翻訳本(工藤幸雄・久山宏一訳)が同名のタイトルで集英社文庫として出版されています。それでも、ナチによる虐殺行為に比べ、この事件は日本ではあまり知られていないのではないでしょうか。

 列車を乗り継いでカティンの森に着いたトラックから一人ずつ引き出された将校が、突然視界に飛び込んだ死体の山を目の当たりにして顔面を引きつらせ、祈りをつぶやくのも束の間、背後から頭に銃弾が打ち込まれるラスト・シーンは息をのむ思いでした。これでもか、これでもかと一人ずつ銃殺されるシーンが繰り返された後、ぷつんと画面が消え、スタッフとキャストの名前が流れ出します。その間、館内は静まりかえり、誰も席を立とうとしませんでした。

 この映画は残酷さを売り物にしたわけではありません。生死の極限状態でも人間としての尊厳を貫こうとしたポーランド人の、理性を支えにした強靭な意思を伝えることで、無念の死に追いやられた人々を弔おうとした作品だと感じました。会場出口の受付で買ったガイドブックの中で久山宏一さんが紹介しているワイダ監督の言葉を引用しておきます。

 「芸術――わたしたちが墓参りをするのは、死者たちと対話をするためです。そうしない限り、彼らは立ち去りません。いつまでもわたしたちに不安をかきたてるのです。過去に親しむこと、それ以外に有意義な未来へ至る道はありません。」

 「歴史――歴史認識を持たない社会は、人の集合にすぎません。人の集合はその土地から追い出されるかもしれないし、民族としての存在をやめるかもしれません。今日、歴史の果たす役割は以前よりずっと小さなっています。人間の意識に歴史が占める場所を取り戻すために戦わなくてはならないのです。」

上映は2月上旬まで。詳しくは、岩波ホールのHPで。
http://www.iwanami-hall.com/

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