« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

中里介山の故郷、羽村を訪ねて

 仕事の合間をぬって書きかけ、資料探しに凝って未完成の記事をいくつか抱えている。気分転換のつもりで先日、連れ合いと出かけた羽村の中里介山の史跡のことを先に書くことにした。

 東西線で中野まで乗り、JR中央線に乗り替えて立川へ、そこからさらに青梅線に乗って約20分で羽村市に着いた。最初に出かけることにした羽村市郷土博物館は徒歩20分、場所も地図ではわかりにくそうだったのでタクシーにした。しかし、行き地を告げても運転手はよく理解できないようで、連れ合いが介山のことを話しかけたが、名前さえ知らなかった。だいぶ迷った末、11時過ぎに博物館に着いた。受付で帰りに乗る予定のコミュニティ・バス(はむらん)の発車時刻を確かめてから、玉川の郷土資料展示室もそこそこに「中里介山の世界」という札が付けられた部屋に入った。まず、介山の生い立ちをまとめた15分ほどのビデオを見た。展示室は10畳1部屋のこじんまりしたスペースだったが、前もって調べていたとはいえ、電話交換手や代用教員時代の集合写真、代表作『大菩薩峠』に関する同時代人の批評などを直に見ると、やはり、彼の故郷へ出かけた甲斐はあったと思う。

 年譜によると、介山は1885(明治18)年44日、神奈川県西多摩郡羽村(現・東京都羽村市)の玉川上水の取水堰近くの水車小屋で生まれた。本名・弥之助。貧しい家庭を支えるため、13歳の時、西多摩小学校高等科を卒業と同時に、日本橋浪花町の電話交換局で交換見習いとして勤務し始めた。しかし、15歳の時(1900年)、そこを依願退職して、母校の小学校の代用教員となっている。

 その間、12歳の時(1897年)に介山の「さても憂たての世の中や」という一文が愛読雑誌『少国民』に掲載された。18歳の時(1903年)、幸徳秋水ら社会主義者と接触し、『平民新聞』の懸賞小説に応募した「何の罪」が佳作入選した。そして、翌19歳の時、『平民新聞』に発表した「乱調激
韵」に次のような一節がある。ちなみに、この詩の冒頭2行は自著『会計学講義』(東京大学出版会)の第9章のプロローグに掲載したものである。

  我を送る郷関の人、願ば、暫し其『万歳』の声を止よ。
  静けき山、清き河。其の異様なる叫びに汚れん。
  万歳の名に依りて、死出の人を送る。我豈憤らんや、
 
**************
   
敵、味方、彼も人なり、我も人也。

   
人、人を殺さしむるの権威ありや。
   
人、人を殺すべきの義務ありや。
   
あー言ふこと勿れ。
   
国の為なり、君の為なり。


 介山は故郷で村人が出征兵士を送る光景が脳裡に染みついたらしく、1938(昭和13)年に発表した自伝小説『百姓弥之助の話』にはその光景がしばしば登場する。「乱調激
韵」に収められた上の詩は日露戦争当時のことと思われるが、『百姓弥之助の話』には次のような一節がある。

  「今出征兵を送る一行を見て、弥之助は四十何年も昔の葬式の事が何となしに思い出されて来た。あれとこれとは決して性質を同じゅうするものではないが、ただ、聯想だけがそこへ連なって来た、勇ましい軍歌の声が停車場に近い桑畑の中から聞えて来る。・・・ それを聞くと、昔のなあーんまいだんぶつ――が流れ込んで、高く登る幾流の旗を見やると、「生き葬い!」 斯(こ)ういう気持ちが犇々(ひしひし)として魂を吹いて来た。」

 
誰もが心底では感じながら口に出さなかったこと・・・・・そうした戦争への嫌悪感が『百姓弥之助の話』の各所にちりばめられている。こうした直載な物言いこそ、介山の真骨頂である。また、こうした反骨精神が、1942(昭和17)年、日本文学報国会の結成にあたって、小説部会の評議員への推薦を辞退した彼の気骨につながったといってよい。
 展示室を出て、隣の敷地にある旧下田家屋敷に上がり、庵を囲んでガイド役のシルバー・グループのボランティアの説明を聞いた。

 その後、郷土資料館に戻り、ちょうど企画展として飾られていた「羽村のひな祭り展」を見て写真に収めた後(1250分ごろ)、寒気がきびしい館の外へ出て、すぐそばにあるコミュニティ・バスのバス停で待った。帰りはこのバスに乗って10分ほどの寺坂にある禅林寺近くの停留所で下車、道に迷ったすえ、寺の裏手の墓地の一角にある中里介山居士の墓に辿りついた。墓はそれなりの広さだったが、質素なところがよかった。隣には中里家の先祖一人一人の名簿を彫った大きな墓石があり、墓誌には「弥之助 五十九歳」と刻まれていた。墓参の記しにと桶で持ってきた水を供え、帰路についた。玉川上水の桜が美しい季節にまた来ようと連れ合いに話しかけながら、中野行きの電車に乗ったのである。

上から
羽村郷土博物館で
介山の墓所で

Photo_2 

Photo_3

| | コメント (0)

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »