福沢諭吉の実像をどこまで伝えたか?----NHK「日本と朝鮮半島2000年」第10回を視てーー
1月31日、NHK教育テレビの10時からETV特集「シリーズ 日本と朝鮮半島2010年 第10回 “脱亜”への道~江華島事件から日清戦争へ~」が放送された。新聞の番組表に「“坂の上の雲”が描かなかった朝鮮への進出 征韓論から日清戦争へ」と記されていたのが気になって録画を取りながら視た。
番組が伝えた江華島事件の真相
番組は江華島事件から日清戦争開戦までの流れを資料や現地の映像、スタジオでの解説を交えて、丹念に伝えていた。特に、江華島事件について表(外国向け)の報告と裏(部内)の報告が存在したこと、表向きの報告書にある、「ちょっとした事件が起こった」、「島に立ち寄り」、「しかたなく応戦した」という記述は、欧米から国際法に違反したという非難を招かないよう、井上良馨艦長が作成した海軍内部向け報告書を改ざんしたものであったこと、実態は日本側からの侵略行為といえるものであったことを資料に沿って克明に伝えたのは、国の公式説明をなぞるのではなく、独自の取材で史実に迫ろうとする意欲的な編集と思えた。
番組が迫った福沢諭吉の知られざる実像
この番組の予告記事を見て、私が特に注視したのは福沢諭吉の「脱亜論」だった。「脱亜論」とは福沢諭吉が自ら創刊した『時事新報』の明治18年3月16日号に社説として掲載した論説である。福沢がこうした標題の論説を発表した背景には、彼が朝鮮の近代化を推進する人材として期待し支援もしたキム・オッキュン(金王均)ら開化派が1884年12月に企てた甲申事変(清国に頼る閔氏一族の政権を打倒し、国王を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立を企てた一種のクーデター)がわずか3日で挫折したのを目の当たりにして李氏朝鮮の「近代化」の可能性を見限った福沢のいらだちが根底にあったといわれている。
番組では、「脱亜論」の中の次のような重要な一節をクリップで写し出した(一部、原文が省略されていた)。
「・・・・主義とする所は唯脱亜の二字に在るのみ 我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず」
「其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪友を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」
アジア諸国を「悪友」と言い切り、彼らとの絶縁、西洋への接近を説いた点が注目される。さらに私が注目したのは、番組の中で、上のような『脱亜論』の一節ばかりでなく、福沢諭吉の中国・朝鮮論を知る上でもっとも重要な論説とされる『時事小言』(明治14年出版)をほぼそのまま踏襲した「朝鮮の交際を論ず」(『時事新報』明治15年3月11日付社説)の末尾の次の一節中の下線部分をクリップで紹介したことである。
「今の支那国を支那人が支配し、朝鮮国を朝鮮人が支配すればこそ、我輩も深く之を憂とせざれども、万が一も此国土を挙げて之を西洋人の手に授るが如き大変に際したらば如何。恰も隣家を焼て自家の類焼を招くに異ならず。西人東に迫るの勢は、火の蔓延するが如し。隣家の焼亡、豈恐れざる可けんや。故に我日本国が、支那の形勢を憂ひ、又朝鮮の国事に干渉するは、敢て事を好むに非ず、日本自国の類焼を予防するものと知る可し。」
このように、福沢が隣国朝鮮の「有事」を日本にとっての脅威と捉え、日本の国益の名において朝鮮の国事に干渉することを正当化したことは一般には知られていない。
大東亜共栄圏構想のさきがけ~福沢諭吉のアジア文明史観の実相~
福沢諭吉というと、大半の国民は万人の平等を説いた『学問のすすめ』から明治の自由主義思想の代表的論客というイメージを抱いてきた。また、戦後の多くの知識人は丸山真男の『「文明論の概略」を読む』の講釈に感化され、福沢を明治におけるリベラリズムの騎手のごとくみなしてきた。それだけに、この番組が、通説的な福沢諭吉像を揺るがす彼の言説を、原文を示しながら紹介したのは特筆すべき点だった。しかし、「類焼の防止」という比喩を真に受けて福沢の「朝鮮干渉」論を受け身の国防論と捉えるのでは不十分である。同じ「朝鮮の交際を論ず」のなかで福沢は次のように記している。
「仮令ひ或いは自衛の備えを要せずとするも、彼の国人心の穏やかならざる時に当て、我武威を示して其人心を圧倒し、我日本の国力を以て隣国の文明を助け進るは、両国交際の行き掛りにして、今日に在ては恰も我日本の責任と云ふ可きものなり。
我輩が斯く朝鮮の事を憂て、其国の文明ならんことを冀望し、遂に武力を用ひても其進歩を助けんとまでに切望するものは、唯従前交際の行き掛りに従ひ、勢に於て止むを得ざるものあればなり。・・・・此時に当て亜細亜洲中、協心同力、以て西洋人の信凌を防がんとして、何れの国かよく其魁を為して其盟主たる可きや。我輩敢て自から自国を誇るに非ず、虚心平気これを視るも、亜細亜東方に於て、此首魁盟主に任ずる者は我日本なりと云はざるを得ず。」
つまり、福沢の脱亜論は消極的な「脱亜」ではなく、文明開化を助けるという尊大なアジア蔑視の思想を錦の御旗にして、朝鮮への武力侵略を正当化するイデオロギーにほかならなかったのである。また、彼の「入欧」とは西洋文明への同化ではなく、アジアの盟主として欧米列強のアジア進出に対抗するためのイデオロギーにほかならなかったのである。言い換えると、「脱亜」と言いつつ、日本をアジアの盟主と呼び、「入欧」と言いつつ西洋列強との対抗を唱導する福沢の主張には論理的な首尾一貫性はなかったものの、その後に日本を席巻した「大東亜共栄圏」の原型というにふさわしいものだった。番組がこの点にまで踏み込まなかったのは物足りなかった。
丸山真男によって造作された福沢神話を福沢の原作に沿って徹頭徹尾反証してきた安川寿之輔氏は、この番組を視た感想を次のように記している。長年にわたる同氏の福沢諭吉に関する批判的研究の蓄積が活きた論説で、私も大いに啓発された。
安川寿之輔「ETV特集「日本と朝鮮 2000年 第10回」について」2010年2月6日
http://kakaue.web.fc2.com/b1.html#YASUetv
このほか、「坂の上の雲が伝えなかった歴史を描く」というふれこみにしては、朝鮮王宮占領事件を一言のナレーションで素通りしたのは拍子抜けだった。
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