障子の蔭から皇帝に助言をささやいた明成皇后・閔妃
公共図書館での新鮮な体験
退職後も東大の図書館は利用できるとのことだが、4月からは近くの公共図書館へ出かけている。自宅に近い市の公共図書館にこれまでに4回通ったが、昨日は10時前に家を出て県立文化会館のそばにある千葉県立中央図書館へ出かけ、昼食をはさんで15時半ごろまで日清戦争から韓国併合に至るまでの間の日朝関係史の調べ物をした。在職中は地域の公共図書館と縁が薄かったが、通い始めて大学図書館とは違った、さまざまな工夫が取り入れられていることを知り、新鮮な体験をしている。
1.市立図書館にも県立図書館にも共通するが、まずは、カウンターで登録をして貸出カード(県立は「資料貸出券」と名づけている)を発行してもらう。その時、登録番号(ID)と仮パスワードが割当られ、帰宅して、適宜、自分でパスワードを変更する。
2.これだけ準備した上で、自宅のパソコンまたは携帯電話で各図書館のホームページにアクセスして「資料検索」欄から必要な図書を見つけ、「貸出」の可否、「貸出中」でないかどうかを確かめたうえで「予約」ボタンをクリックすれば済む(予約可能点数、20点)。
3.その折、便利なのは各資料を所蔵する市内の図書館へ出かけなくても、最寄りの図書館(分館)まで送られてきて、そこで貸出手続きができることである(10冊まで、15日間)。「予約」は県立図書館所蔵の図書についても可能なので検察範囲はかなり広く、目下、自分が関心を持っている日朝関係史の資料もかなりヒットした。そして、県立図書館所蔵のものも市立図書館所蔵の図書と同様、予約すると最寄りの市立図書まで届けられ、到着の通知がE・メールで送られてくる(県立図書館からの貸出は5冊、2週間)。ただし、県立図書館所蔵の図書の予約はネットではできず、最寄りの市立図書館のカウンターまで出かけないといけないのが不便と言えば不便である。
4.なお、千葉県立中央図書館にあるレファレンス・デスクはインターネットでも資料調査の相談を受け付け、回答もE・メールで送られてくることになっている。私はまだ利用したことがないが、利用者にとってはありがたいことだ。
障子の蔭から皇帝に助言をささやいた明成皇后(閔妃)
さて、昨日の千葉県立中央図書館での調べ物の話に戻るが、次の資料を全て館内で閲覧し、かなりの分量のコピーをした。貸出すると返却するのに改めて出かけるのが面倒なこともあったからである。
1.市川正明編『日韓外交史料』第4巻、1979年、原書房、日清戦争
2.同上、第5巻、1981年、韓国王妃殺害事件
3.同上、第6巻、1980年、日露戦争
4.朝鮮総督府編『近代日鮮関係の研究』(下)1973年、原書房
5.朝鮮史編修会編纂『朝鮮史』第6編第4巻、1936年発行、1976年覆刻、東京大学出版会
6.ジグムント・バウマン著/中道寿一訳『政治の発見』2002年、日本経済評論社
7.アグネシカ・コズィラ『日本と西洋における内村鑑三――その宗教思想の普遍性』2001年、教文館
このところ、NHKが『坂の上の雲』をドラマ化して放送し始めたのを機に、原作で描かれた韓国併合に至る日清・日露戦争期の日朝関係史にあまりに無知だった自分を顧みて、一から勉強を始めることにし、二次文献を読みあさってきた。その中で事件史としては1985(明治28)年10月8日に起こった日本人「壮士」による朝鮮明成皇后(王妃閔妃)殺害事件に関心が向かい、何冊かの優れた文献を通読した。
8.角田房子『閔妃暗殺』1988年、新潮社
9.木村 幹『高宗・閔妃 然らば致し方なし』2007年、ミネルヴァ書房
10.金 文子『朝鮮王妃殺害事件と日本人』2009年、高文研
8は、閔妃殺害事件を日本に紹介した草分け的書物である。著者・角田房子さんはこの1月1日に亡くなられたことが3月12日に伝えられた。「あとがき」のなかで角田さんは本書を書き上げるまでに3年間、日韓関係史を学び、5回韓国に出かけている。目的に立ち向かう角田さんの強靭な意志と謙虚な知性に敬服するとともに、その何分の1かでも見習いたいと思った。
10は、奈良女子大学で東洋史を専攻した在日2世の著者が、角田さんの著書の巻頭に載せられた「閔妃の写真」に魅かれ、100年前の事件に関係した日朝の人物の子孫や関係先を尋ね歩いてまとめた極めて実証密度の高い書物である。
9は今回、上で列挙した一次資料にできる限り当ろうという意欲をかき立ててくれた書物である。閔妃殺害事件(韓国では乙未事件と呼んでいる)を扱ったのは第7章だけである。痛ましい事件の解説にしては余りに評論家的で気がひけるのだが、私が疑問に思ったのは、「なぜ国王はなく、王妃を狙ったのか」ということだった。当時の朝鮮王朝では王妃は外部の訪問者の面前に姿を現すことがなかったばかりか、臣下に対して直接口を開くこともほとんどなかったという。それほどだったから、閔妃の姿なり肉声なりを見たり聞いたりした日本人は全くといってよいほどいなかったという。
実は金文子さんが閔妃の写真にこだわったにも、王妃の寝室にまで乱入した日本の「壮士」にとって大きな難問は閔妃をどのように特定するかということだった。殺害現場に居合わせた関係者の証言によると、王妃に切りかかった一人の「壮士」は手に1枚の写真を持っていたという。この写真こそ、閔妃を特定するために用意されたものと推定されているが、では、日本人で閔妃と対面した者が全くといってよいほどいなかった当時、どのような経路で閔妃と思しき女性の写真が「壮士」の手に渡ったのかーーこの謎を解くことによって、閔妃殺害を計画し指揮した人物を絞り込む手掛かりが得られるのではないかというのが金文子さんの推論である。
上のような疑問とエピソードを頭の片隅において木村幹氏の著書を読んでいくと、現地ですこぶる評判が悪かった大鳥公使に代わって、1894(明治27)年に朝鮮公使に起用された元勲・井上馨が国王・高宗との内謁見の模様を本国に報告した文書のなかで閔妃の挙動に触れた箇所が目にとまった。それによると、高宗が座る玉座の背後に置かれた障子を通して閔妃がたびたび高宗にアドバイスを送ったという。木村氏がこのような状況を紹介した出典が『日韓外交史料』第4巻だったので、この資料を所蔵していることがわかった千葉県立中央図書館へ出かけ、原典で確かめたいと思ったわけである。
この資料に収録されている明治27年11月20日・21日付け・朝鮮国駐剳井上公使ヨリ陸奥外務大臣宛「謁見ノ模様報告ノ件」の中に次のような記述がある。
「公使 ・・・・先第一ニ王室即チ大院君李埈鎔氏若クハ外戚ノ方々ト国政上ノ御関係ヲ断タルルノ御困難ニタヘラルル御勇気御決心アラセラレザルベカラズ・・・・・陛下ノ思召又ハ各大臣ノ御意見ハ
此時大君主ノ背後障子ノ隙間ニアリテ王妃ト覚シク切リニ大君主ト耳語セラル」(235ページ)
「大君主 卿ノ言ノ如シ我国上下共ニ今日ハ貴国ニ依ツテ国歩ヲ進メント期スルモノナリ焉ンソ他意アランヤ(此時王妃ハ国王ニ耳語サラレ)朕又タ近日朴泳孝ヲ採用スルニ意アリ卿ノ考ヘハ如何果シテ同意ナラバ着手スル事トセン」(302~303ページ)
(下線は引用にあたって付加)
このような状況描写からいうと、王妃・閔妃は夫である高宗を背後で支え、あるいは高宗をコントロールすることで当時の朝鮮の政治・外交・内政に対する王室の権力行使に大きな影響力を及ぼす力量を持っていたことが窺える。日本軍が国王ではなく、王妃・閔妃を狙った理由は、こうした彼女の影響力を察知した上でのことではなかったかと考えられる。
なお、上記の木村氏の書物によると事件から2年4カ月後の1897(明治30)年11月22日に王妃・閔妃の国葬が行われた。参列者は外国使臣も含めて13,000人に上ったという。
明成皇后(王妃・閔妃)のものと伝えられている写真
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