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障子の蔭から皇帝に助言をささやいた明成皇后・閔妃

公共図書館での新鮮な体験
 退職後も東大の図書館は利用できるとのことだが、4月からは近くの公共図書館へ出かけている。自宅に近い市の公共図書館にこれまでに4回通ったが、昨日は10時前に家を出て県立文化会館のそばにある千葉県立中央図書館へ出かけ、昼食をはさんで15時半ごろまで日清戦争から韓国併合に至るまでの間の日朝関係史の調べ物をした。在職中は地域の公共図書館と縁が薄かったが、通い始めて大学図書館とは違った、さまざまな工夫が取り入れられていることを知り、新鮮な体験をしている。

 1.市立図書館にも県立図書館にも共通するが、まずは、カウンターで登録をして貸出カード(県立は「資料貸出券」と名づけている)を発行してもらう。その時、登録番号(ID)と仮パスワードが割当られ、帰宅して、適宜、自分でパスワードを変更する。
 2.これだけ準備した上で、自宅のパソコンまたは携帯電話で各図書館のホームページにアクセスして「資料検索」欄から必要な図書を見つけ、「貸出」の可否、「貸出中」でないかどうかを確かめたうえで「予約」ボタンをクリックすれば済む(予約可能点数、20点)。
 3.その折、便利なのは各資料を所蔵する市内の図書館へ出かけなくても、最寄りの図書館(分館)まで送られてきて、そこで貸出手続きができることである(10冊まで、15日間)。「予約」は県立図書館所蔵の図書についても可能なので検察範囲はかなり広く、目下、自分が関心を持っている日朝関係史の資料もかなりヒットした。そして、県立図書館所蔵のものも市立図書館所蔵の図書と同様、予約すると最寄りの市立図書まで届けられ、到着の通知がE・メールで送られてくる(県立図書館からの貸出は5冊、2週間)。ただし、県立図書館所蔵の図書の予約はネットではできず、最寄りの市立図書館のカウンターまで出かけないといけないのが不便と言えば不便である。
 4.なお、千葉県立中央図書館にあるレファレンス・デスクはインターネットでも資料調査の相談を受け付け、回答もE・メールで送られてくることになっている。私はまだ利用したことがないが、利用者にとってはありがたいことだ。

障子の蔭から皇帝に助言をささやいた明成皇后(閔妃)
 さて、昨日の千葉県立中央図書館での調べ物の話に戻るが、次の資料を全て館内で閲覧し、かなりの分量のコピーをした。貸出すると返却するのに改めて出かけるのが面倒なこともあったからである。
 1.市川正明編『日韓外交史料』第4巻、1979年、原書房、日清戦争
 2.同上、第5巻、1981年、韓国王妃殺害事件
 3.同上、第6巻、1980年、日露戦争
 4.朝鮮総督府編『近代日鮮関係の研究』(下)1973年、原書房
 5.朝鮮史編修会編纂『朝鮮史』第6編第4巻、1936年発行、1976年覆刻、東京大学出版会
 6.ジグムント・バウマン著/中道寿一訳『政治の発見』2002年、日本経済評論社
 7.アグネシカ・コズィラ『日本と西洋における内村鑑三――その宗教思想の普遍性』2001年、教文館

 このところ、NHKが『坂の上の雲』をドラマ化して放送し始めたのを機に、原作で描かれた韓国併合に至る日清・日露戦争期の日朝関係史にあまりに無知だった自分を顧みて、一から勉強を始めることにし、二次文献を読みあさってきた。その中で事件史としては1985(明治28)年108日に起こった日本人「壮士」による朝鮮明成皇后(王妃閔妃)殺害事件に関心が向かい、何冊かの優れた文献を通読した。
  8.角田房子『閔妃暗殺』1988年、新潮社
  9.木村 幹『高宗・閔妃 然らば致し方なし』2007年、ミネルヴァ書房
  10.金 文子『朝鮮王妃殺害事件と日本人』2009年、高文研

 8は、閔妃殺害事件を日本に紹介した草分け的書物である。著者・角田房子さんはこの11日に亡くなられたことが312日に伝えられた。「あとがき」のなかで角田さんは本書を書き上げるまでに3年間、日韓関係史を学び、5回韓国に出かけている。目的に立ち向かう角田さんの強靭な意志と謙虚な知性に敬服するとともに、その何分の1かでも見習いたいと思った。
 10は、奈良女子大学で東洋史を専攻した在日2世の著者が、角田さんの著書の巻頭に載せられた「閔妃の写真」に魅かれ、100年前の事件に関係した日朝の人物の子孫や関係先を尋ね歩いてまとめた極めて実証密度の高い書物である。
 9は今回、上で列挙した一次資料にできる限り当ろうという意欲をかき立ててくれた書物である。閔妃殺害事件(韓国では乙未事件と呼んでいる)を扱ったのは第7章だけである。痛ましい事件の解説にしては余りに評論家的で気がひけるのだが、私が疑問に思ったのは、「なぜ国王はなく、王妃を狙ったのか」ということだった。当時の朝鮮王朝では王妃は外部の訪問者の面前に姿を現すことがなかったばかりか、臣下に対して直接口を開くこともほとんどなかったという。それほどだったから、閔妃の姿なり肉声なりを見たり聞いたりした日本人は全くといってよいほどいなかったという。

 実は金文子さんが閔妃の写真にこだわったにも、王妃の寝室にまで乱入した日本の「壮士」にとって大きな難問は閔妃をどのように特定するかということだった。殺害現場に居合わせた関係者の証言によると、王妃に切りかかった一人の「壮士」は手に1枚の写真を持っていたという。この写真こそ、閔妃を特定するために用意されたものと推定されているが、では、日本人で閔妃と対面した者が全くといってよいほどいなかった当時、どのような経路で閔妃と思しき女性の写真が「壮士」の手に渡ったのかーーこの謎を解くことによって、閔妃殺害を計画し指揮した人物を絞り込む手掛かりが得られるのではないかというのが金文子さんの推論である。
 
 上のような疑問とエピソードを頭の片隅において木村幹氏の著書を読んでいくと、現地ですこぶる評判が悪かった大鳥公使に代わって、1894(明治27)年に朝鮮公使に起用された元勲・井上馨が国王・高宗との内謁見の模様を本国に報告した文書のなかで閔妃の挙動に触れた箇所が目にとまった。それによると、高宗が座る玉座の背後に置かれた障子を通して閔妃がたびたび高宗にアドバイスを送ったという。木村氏がこのような状況を紹介した出典が『日韓外交史料』第4巻だったので、この資料を所蔵していることがわかった千葉県立中央図書館へ出かけ、原典で確かめたいと思ったわけである。

 この資料に収録されている明治271120日・21日付け・朝鮮国駐剳井上公使ヨリ陸奥外務大臣宛「謁見ノ模様報告ノ件」の中に次のような記述がある。

 「公使 ・・・・先第一ニ王室即チ大院君李
埈鎔氏若クハ外戚ノ方々ト国政上ノ御関係ヲ断タルルノ御困難ニタヘラルル御勇気御決心アラセラレザルベカラズ・・・・・陛下ノ思召又ハ各大臣ノ御意見ハ
  此時大君主ノ背後障子ノ隙間ニアリテ王妃ト覚シク切リニ大君主ト耳語セラル」(235ページ)

 「大君主 卿ノ言ノ如シ我国上下共ニ今日ハ貴国ニ依ツテ国歩ヲ進メント期スルモノナリ焉ンソ他意アランヤ(此時王妃ハ国王ニ耳語サラレ)朕又タ近日朴泳孝ヲ採用スルニ意アリ卿ノ考ヘハ如何果シテ同意ナラバ着手スル事トセン」(302~303ページ)

(下線は引用にあたって付加)

 このような状況描写からいうと、王妃・閔妃は夫である高宗を背後で支え、あるいは高宗をコントロールすることで当時の朝鮮の政治・外交・内政に対する王室の権力行使に大きな影響力を及ぼす力量を持っていたことが窺える。日本軍が国王ではなく、王妃・閔妃を狙った理由は、こうした彼女の影響力を察知した上でのことではなかったかと考えられる。

 なお、上記の木村氏の書物によると事件から2年4カ月後の1897(明治30)年11月22日に王妃・閔妃の国葬が行われた。参列者は外国使臣も含めて13,000人に上ったという。

   明成皇后(王妃・閔妃)のものと伝えられている写真 Photo

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「名曲アルバム」の魅力

 NHKの長寿番組の一つに「名曲アルバム」がある。私がこの番組に感じる魅力は名曲・映像・字幕の相乗効果である。自宅のHDDに録画した曲目は150を超える。食事中や食後のひととき、あれこれの曲を選んで再生して聴く・視る・読むのが日課になっている。そして、夫婦でその曲にちなんだ地に出かけた思い出にふけったり、その曲にまつわる歴史や作曲家にちなんだエピソードを再発見するのを楽しみにしている。

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歳の無名の少女が作曲した「乙女の祈り」

 誰もが知る「乙女の祈り」の作曲家がポーランドの無名の18歳の少女/テクラ・バダジェフスカだということを知ったのは数年前にこの番組を視たときだった。専門の音楽教育を受けたことのない彼女はこの曲がパリで評判になるまでは手書きの楽譜を自ら売り歩いたというエピソードを伝える字幕を見て、一層この曲への親しみが湧いてきた。しかし、彼女はこの曲を作曲したのち、5人の子供を残して1861年に27歳で世を去った。
 今日、ポーランドでは彼女のことを知る人は少ないという。連休明けの5月にポーランドへ出掛ける予定にしているが、ワルシャワに滞在する間に彼女の墓碑があるポヴォンスキ墓地を訪ねたいと思っている。

ノルウエーの美しい自然をうたったアガサ・バッケル=グルンダール

 「名曲アルバム」で取り上げられたアガサ・バッケル=グルンダールも世界の音楽界と離れた位置で美しい曲を残したピアニスト・作曲家の一人である。番組では彼女が残した400を超える作品の中から「夏の歌」を選んで放送した。小林緑編著『女性作曲家列伝』によれば、アガサはリストやバーナード・ショウにそのピアノ演奏ぶりを絶賛されながら、音楽家としての国際的活動には進まず、生まれ故郷・オスロ郊外のホルメストランドで家事の傍ら楽譜に書き留めるのを日課にしたという。画面に現れる北欧の美しい樹木と港町を眺めながら、「夏の歌」の清楚なメロデイを何度も味わっている。
 昨年8月、オスロへ出かける前、地図でホルメストランドの位置とオスロからのアクセスを調べていた。今、町の図書館になっている彼女の生家を字幕と映像で視てぜひとも訪ねたいと思っていたのだが時間の余裕がなく、果たせなかったのは大変、残念だった。

韓国民の独立への願いを込めた「鳳仙花」
 韓国の芸術歌曲「鳳仙花」については、このブログでも2008514日の記事で取り上げた。
 鳳仙花二題――植民地韓国の辛酸と自国独立への希望を託した歌
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_8951.html
 メロディと映像と字幕の相乗効果という点でこの曲は「名曲アルバム」の魅力を代表する一つではないかと思っている。

この曲は日本帝国主義の植民地支配からの独立を願う韓国民の願いを鳳仙花の四季のうつろいを惜しむ詩に託したものであるが、字幕によると、東京音楽学校に留学中の作曲家/洪蘭坡(ホン・ナンパ。18971941年)は日本の植民地支配の下で朝鮮古来の民族楽が危機に瀕していることを危惧していたが、母国で三・一独立運動が勃発したのを知るや急いで帰朝し、独立運動に参加した。その5年後に朝鮮最初の芸術歌曲である「鳳仙花」が公開されると民衆の強い共感を呼び、またたく間に全国に広がったという。しかし、これも字幕で流されたが、日本の官憲は彼を危険分子として監視した。その圧力に精神的に追い詰められた洪は1941年に44歳の若さ世を去った。その3ヶ月後に太平洋戦争が始まったのだった。

 番組では年配の人々がくつろぎ、高校生が陽気に走り過ぎ、若いカップルが結婚の記念写真を撮る徳寿宮の映像と重ねて、この地が日韓併合(正しくは韓国併合)が決定された朝鮮王朝最後の王宮であるという字幕が流された。NHKが3年にわたって「坂の上の雲」を放送し始めたのをきっかけに日朝の現代史を勉強し始めた私にとって、この番組を再生して視ると自分の無知を改めて思い知らされる。

 ちなみに、徳寿宮は、1592年、豊臣秀吉が朝鮮へ派兵した壬甲の乱の際に景福宮を焼きはらったため、皇帝・宣祖がここにあった王族の私邸を臨時の王宮として使ったことが始まりと言われている。その後、1895108日、日本から送りこまれた武装兵士によって明成皇后(閔妃)が殺害された時、高宗は景福宮からロシア公館近くのこの王宮(当時は慶運宮と呼ばれていた)に逃げ込んだ。その後、19051117日に韓国の外交権を奪う(日本に委譲させる)第2次日韓協約が締結されたのもこの地である。高宗の後を継いだ純宗が長寿を祈願して「慶運宮」を「徳寿宮」と改名して現在に至っている。
 今日、徳寿宮は市民の憩いの場所であるとともに、観光スポットにもなっている。この地を訪ねる日本人のうち、どれだけが上で述べたような歴史を知っているのだろうか? この地を訪ねたことが不幸な歴史を学ぶきっかけになればと「鳳仙花」を視るたびに考えさせられる。

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  自宅の近くの空き地につながれていた犬。近づくとおびえるように近寄ってきた。
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日本の植民地支配の受動性を印象づけ、主権蹂躙の実態をはぐらかしたNHKスペシャル~「韓国併合への道」を視て~(2)

2.治政者の主観に寄り添い、歴史の本質をはぐらかした伊藤博文評価
 日本の歴史学界には、朝鮮・中国の直轄植民地化、武断政治を唱えた山県有朋、寺内正毅、長谷川好道らと対比する形で伊藤博文を国際協調派・朝鮮の部分的自治を容認しようとした融和派と捉える見解がある。今回のNHKスペシャルはこうした見解を取り入れる形で、伊藤は当初は韓国「併合」とは別に朝鮮に「責任内閣」制を導入し、同国にも一定の行政権・立法権を認める「自治植民地」構想も考えていたという点に焦点を当てた。しかし、韓国民衆はこうした伊藤の構想を信用せず、民族自立のナショナリズムを先鋭化させ、経済面でも日本からの自立を図ろうと国債報償運動(タバコや酒を断ち、指輪やかんざしなどを拠出して、日本からの借款を国民の募金で返済しようとする運動)まで興した。伊藤はこれに不快感を抱き、高宗皇帝が第2次日韓協約の無効を訴える密使をハーグに送ったことが発覚したこともあって、「自治植民地」構想をあきらめ、「韓国併合」の道を選んだというのが番組の大まかなストーリーだった。

こうした筋書きだと、伊藤博文は韓国に一定の自治を認める融和的植民地統治を進めようとしたにもかかわらず、韓国民衆の過激なナショナリズムに直面して行き詰まり、やむなく「併合」の道を選んだかのような印象づけになる。しかし、史実はどうだったのか? 

 伊藤博文は日清戦争の開戦当時、出兵のタイミング、大義名分、規模をめぐって即時派兵を唱えた外務大臣・陸奥宗光や参謀次長・川上操六らと一線を画していたことは確かである。第2次日韓協約締結(1905年)後の韓国統治のあり方をめぐっても、軍事的威圧を行う必要上、武官統監論を唱えた韓国駐箚軍司令官・長谷川好道大将や山県有朋らの主張に対してシビリアンコントロールを説いたのは伊藤だった。
 しかし、日本が日清戦争開戦の口実を作るために起こした王宮占領の狡猾な計画を知らされた伊藤はそれを「最妙だ」とみなして同調する手紙を陸奥外相に送っている(中塚明『歴史の偽造をただす~戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』1997年、高文研、42ページ)。

 また、日露戦争開戦時に伊藤は積極的に非戦を説いたわけではない。伊藤は、韓国への2個師団の出兵を主張する枢密顧問官・山県有朋と時期尚早論を説いた山本権兵衛、大山巌らの間に入って人員数を混成一旅団くらいに減らして派兵する折衷案を持ち出したに過ぎない。韓国を「保護」する名目で日本軍を派兵するという山県の考えを伊藤も諒としていた(以上、平塚柾緒『図説 日露戦争』1999年、河出書房新社、2224ページ)。

3.第2次日韓協約の承認を強要した伊藤博文
 伊藤の強権的朝鮮支配の姿が露見したのは1905年に彼が日本側特派大使として韓国に出向き、第2次日韓協約書の調印をめぐる交渉の場面だった。この年の
1117日、王宮に韓国大臣を呼び集めて開かれた御前会議は調印に向けた日韓最後の交渉の場となったが、王宮内には日本憲兵や領事館警察官、韓国政府に傭聘された日本人巡査が配置され、戒厳体制が敷かれた。

その御前会議において、伊藤は調印にあくまで抵抗する韓圭萵参政を別室に連れ出させ、自ら各大臣に協約案に対する賛否を質し、賛否を明言しなかった大臣を含め5名の賛成があったとして多数決で可決されたものとみなし、協約の成立を宣言した。この報が伝わるや韓国内では抗議の声で騒然となり、高宗皇帝は、①強制された調印は無効、②皇帝の承認の欠如を理由に挙げてハーグに密使を送り、条約の無効を訴えた。また、協約案に賛成した5人の大臣は以来、韓国民衆の間で民族の主権を日本に売り渡した「乙巳五賊」と罵倒された。こうした中、皇帝の侍従武官長・閔泳煥(日本兵に虐殺された王妃閔妃の甥)は抗議の自決をした。

 NHKスペシャルはこの第2次日韓協約の調印に至る伊藤の強権的手法をかなり詳細に伝えていた。私がこの番組の中で評価できると思ったのはこの場面だが、一国の外交権をその国の意思に背いて日本側に「委任」させた協約が相手国の主権を根こそぎ奪うものであったという認識は番組から伝わってこなかった。

4.伊藤博文の「自治植民地」構想の実相
 
次に、初代統監に就任した伊藤の朝鮮内政改革はどう評価されるのか?伊藤は在任中、ほぼ毎週のように韓国大臣と施政改善協議会を開いたが、この「協議会は伊藤が指導する閣議であり、行財政・司法・諸産業育成・教育など内政万般にわたる問題が伊藤提案をもとに審議決定された。第2次日韓協約に賛成し、そのまま大臣に留めおかれ、増俸と身辺警護で傀儡化した彼らの統監に向き合う気持ちは、近代への憧憬(あこがれ)と嫌悪と恐怖が混ざり合っていた。伊藤に対し反対する自由はない」(海野福寿『伊藤博文と韓国併合』2004年、青木書店、78ページ)のは当然だった。しかし、皇帝は第2次日韓協約で委任したのは外交権だけで内政にまで介入するのは不当であるという不満を募らせた。そこで、伊藤は韓国に対して助言をなすことを定めたにすぎない第2次日韓協約では事足りないとみなし、韓国に対して助言ではなく、直接指導・命令ができる根拠法規として第3次日韓協約へと進んだのである(以上、(伊藤、同上書、7883ページ)。
 このようにみてくると、伊藤が構想した「自治植民地」論は韓国の主権の根幹を侵害する点において直接統治論と同根であり、彼がいう一定の「自治」は自分の統治に従順に応える韓国政府や民衆に対する上からの施し、あるいは植民地統治をより狡猾に行うための外装に過ぎなかったのである。

 番組に登場した某大学教員は伊藤の「自治植民地」構想が行き詰った理由を、韓国のナショナリズムが予想以上に強かったためと解説していた。伊藤の主観と客観のギャップを評論する言葉としては大過ないであろう。しかし、歴史学者としての役割からすれば、番組のストーリーに忠実に伊藤の主観をなぞるのではなく、内政・外交全般にわたって主権を根こそぎ奪われた国の民衆の側の意識にも視線を向け、日本における朝鮮の植民地統治の歴史的意味、その負の遺産を客観的に評価する発言が求められたはずである。

  ご近所の柴犬
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日本の植民地支配の受動性を印象づけ、主権蹂躙の実態をはぐらかしたNHKスペシャル~「韓国併合への道」を視て~(1)

 4月18日、NHKスペシャルでシリーズ「日本と朝鮮半島」の第1回として「韓国併合への道」が放送された。伊藤博文と彼を射殺したアン・ジュングン(安重根)の軌跡を辿りながら、1910年の韓国併合に至る歴史をロシア、アメリカ、英国など当時の国際列強の動きと絡めながら明らかにするというのが番組制作者のねらいだった。しかし、番組を視終えた私の感想は、日本による朝鮮の植民地支配の受動性を印象づけ、核心的な史実である主権蹂躙の実態がはぐらかされたということだった。
 私がいう受動性の印象づけは次の2面からなされた。一つは朝鮮のそれなりの「自治」を認めようとした伊藤博文の融和的統治方針を朝鮮民衆が聞き入れず、過激なナショナリズムに走ったため、伊藤や日本政府は「併合」という手段を選ぶほかなかったというストーリーの仕立て方がされたという点である。
 受動性を印象づけたもう一つの手法は、朝鮮を属邦にしようとする清の野望とロシアのアジア進出の脅威を随所で際立たせることによって、日本が朝鮮の占領支配とその継続を余儀なくされたかのようなストーリーの仕立て方である。以下、これら2つのストーリーの真偽を検討していきたい。

1.日清戦争は日本が朝鮮の独立保持のために起こした戦争だったのか? 
 番組は冒頭で、18947月、日本は朝鮮王宮を武力で制圧した後、清に宣戦布告をしたというナレーションをさらりと流した。そして、こうした日本の行動は、日本が東洋の平和をめざしていたにもかかわらず、清は朝鮮を属邦にしようとする野望を持っていた、朝鮮を自主の国とするためにはこうした野望を持つ清の影響を断ち切る必要があったからだと解説した。さらに、番組は三国干渉で半島の返還を要求したロシアや中国進出を伺う西洋列強の動きも伝え、「日本と朝鮮王朝は否応なくこうした動きと向き合わなければならなかった」と解説した。これでは日本が朝鮮の後見人として列強の進出から同国の独立を守るために戦ったかのような歴史像を視聴者に植え付けることになる。
 番組がこのような印象づけをしたトリックの種は日本軍による王宮占領事件がなぜ起こったのか、それと清に対する開戦はどのようにつながったのかに一切触れず、ブラックボックスにした点にある。この日本兵による朝鮮王宮占領事件については、福島県立図書館所蔵の「佐藤文庫」に含まれている旧日本陸軍参謀本部筆の『日清戦史』草稿を解析した中塚明氏による詳細な研究成果が公表されている(中塚明『歴史の偽造をただす~戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」~』(1997年、高文研)。この草稿の中に1894(明治27)年720日付けで本野一郎参事官が第5師団混成旅団大島義昌少将に提出した次のような申し入れ文書が収録されている。

 「ちかごろ朝鮮政府はとみに強硬に傾き、我が撤兵を要求し来たれり。因って我が一切の要求を拒否したるものとみなし断然の措置に出でんがため、本日該政府に向かって清兵を撤回せしむべしとの要求を提出し、その回答を22日と限れり。もし期限に至り確乎たる回答を得ざれば、まず歩兵一個大隊を京城に入れて、これを威嚇し、なお我が意を満足せしむるに足らざれば、旅団を進めて王宮を囲まれたし。然る上は大院君〔李是応〕を推して入闕せしめ彼を政府の首領となし、よってもって牙山清兵の撃攘を我に嘱託せしむるを得べし、因って旅団の出発はしばらく猶予ありたし。」

 現実はこの申し入れ通りに進行したのであるが、要するに日本は朝鮮政府に対し、期限を切って清の撤兵を要求させる、それが聞き入れられない時は京城に歩兵一個大隊を進軍させて威嚇し、なおも朝鮮政府から満足のいく回答を得られない場合は旅団に王宮を占領させ、高宗皇帝を斥けて国王の実父である大院君を王位に就かせて、清軍を朝鮮から掃討することを日本軍に委嘱させるという作戦なのである。この提案を受けた大島旅団長は、「開戦の名義の作為もまた軽んずべからず」と言って同意した。
 この作戦にそって、1894(明治27)年723日、午前零時30分、大鳥公使から「計画通り実行せよ」の電報が届くや景福王宮に向けた混成旅団の威嚇行進が始まり、迎秋門を破壊した兵隊が次々と王宮の奥へと進み、雍和門内威和堂に在室した国王を発見、山口大隊長は彼の目の前で剣を振りかざして威嚇したのである。他方、この日午前11時に、日本軍は大院君をその邸宅から連れ出して王宮に入城させた。
 こうして、いわばクーデターにより高宗皇帝を退かせ、筋書き通りに傀儡の大院君を即位させた日本は新内閣に、牙山に駐留した清国軍を駆逐する任を日本に委託する文書を725日付けで出させ、清軍艦隊に対する攻撃を開始したのである。(以上、中塚明『歴史の偽造をただす~戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」~』1997年、高文研、3768ページ参照)

 以上のような事実経過に照らすと、日本は清の進出から朝鮮の独立を守るために清との開戦を余儀なくされたのではなく、―――朝鮮を属領としようとした清の動向は事実としてもーーそれとは逆に、朝鮮における自らの権益の確保・拡充のために武力を背景に王宮を占領し、国王を拉致・威嚇して政権を転覆させ、自らが発足させた傀儡政権からの「要請」に応じるという形で清との戦争に突入したことがわかる。この意味で、日清戦争は日本が清の進攻から朝鮮の独立と東洋の平和のために「余儀なくされた受け身の戦争」であったかのように描いたNHKスペシャルは史実を著しく捻じ曲げて伝え、歴史のねつ造を拡散させたといっても過言ではない。

                      飼い主の腕枕で眠るウメ   50_2


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安川寿之輔さんの福沢諭吉批判を聴いて考えたこと

 43日、東京、千駄ヶ谷区民会館で開かれた不戦兵士・市民の会主催の不戦大学「『韓国併合・大逆事件』100と『坂の上の雲』」で安川寿之輔さんが、「「暗い昭和」につながる「明るくない明治」」と題する講演をされると聞き、連れ合いといっしょに出かけた。少し遅れて会場に着くと、受付で安川さんが準備された30ページに及ぶ資料が手渡された。
 安川さんはそれを読みあげる形で約Ⅰ20分に及ぶ講演をされた。講演の内容を丹念に紹介するゆとりはない。いずれ、活字にされるものと思うので、以下は、私が特に啓発を受けた箇所を紹介しながら、ところどころで感想を挿入することにしたい。

1.福沢諭吉の天賦人権論の虚実

 「明るい明治」と「暗い昭和」を対置する司馬遼太郎の歴史観は、近代日本を「明治前期の健全なナショナリズム」対「昭和前期の超国家主義」と捉える丸山真男の二項対立史観をわかりやすい表現に言い換え、踏襲したものである。そして、その丸山が明治前期の健全なナショナリズムの代表格として評価したのが福沢諭吉の天賦平等論であり、一身独立論であった。
 しかし、福沢の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というフレーズは、「・・・と云へり」という伝聞態で結ばれていることからわかるように福沢自身の思想を表したものではない(アメリカの独立宣言を借りたことばであった)。丸山氏はこの点をすっぽり落としている。「万人の」という意味では後掲の福沢の天皇制論に見られる愚民籠絡論や、ここでは紹介できないが工場法反対論にみられる貧困市民層に対する蔑視の思想、家父長制的な女性差別論などは、福沢の人間平等論の虚実を示す典型例といえる。こうした福沢の天賦人権論の虚実を精緻な文献考証を通じて徹底的に立証した点で安川さんの研究には特筆すべき価値があると感じた。

2.福沢諭吉の「一身独立論」の変節
 福沢が『文明論の概略』の中で、「人類の約束は唯自国の独立のみを以て目的と為す可らず」、「一国独立等の細事に介々たる」態度は「文明の本旨には非ず」という正しい認識を記していた。(もっとも、順序としては「先ず事の初歩として自国の独立を謀り、(一身独立のような)其他は之を第二歩に遺して、他日為す所あらん」と述べ、「自国独立」優先の思想を明確にしていたが)。
 また、福沢は自ら、アメリカ独立宣言を翻訳するにあたって、「人間(じんかん)に政府を立る所以は、此通儀(基本的人権のこと)を固くするための趣旨にて、・・・・・・政府の処置、此趣旨に戻(もと)るときは、則ち之を変革し或は倒して、・・・・新政府を立るも亦人民の通儀なり」と訳し、人民の抵抗権、革命権を正当に訳出・紹介していた。
 しかし、かく紹介する福沢も自分の思想となると、「今、日本国中にて明治の年号を奉る者は、今の政府に従ふ可しと条約(社会契約のこと)を結びたる人民なり」と記して国家への国民の服従を説いた。
 さらに、その後、自由民権運動と遭遇した福沢は1875年の論説において、「無智の小民」「百姓車挽き」への啓蒙を断念すると表明し、翌年からは宗教による下層民教化の必要性を説き、「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合せならん」という人間蔑視の思想を憚りなく公言するに至った。こうして福沢は啓蒙期の唯一の貴重な先送りの公約であった「一身独立」をも放棄したのであった。

 ところが丸山真男は、福沢自身が優先劣後の区別をした一国独立と一身独立の議論の実態を無視し、さらにはその後の福沢が一身独立の思想を放棄した現実を顧みず、個人的自由と国民的独立の見事なバランスと言い換え、両者に内在する矛盾、軋轢――後年の福沢の一身独立論を変節に導く伏線となる要因――を無視して、福沢賛美の根拠に仕立て上げたのである。

3.福沢の変節の極みとしての神権天皇制論
 安川さんの講演の中で開眼させられた一つは福沢の天皇制論に対する言及だった。福沢は『文明論の概略』の第9章までの記述の中では、たとえば、「保元平治以来歴代の天皇を見るに、其不明不徳は枚挙に遑(いとま)あらず」と記し、「新たに王室を慕うの至情を造り、之(人民)をして、真に赤子の如くならしめんとする」のは「頗る難きこと」と述べて、天皇制に批判的な考えをしていた。
 ところが、福沢は1882年に「帝室論」を書く頃には天皇制論を大転換させ、「帝室・・・・に忠を尽くすは・・・万民熱中の至情」などと言いだした。これについて、福沢は国会開設後の「政党軋轢の不幸」に備えて人心の軋轢を緩和する「万世無欠の全壁」たる帝室の存在が必要になったと説くとともに、「其功徳を無限にせんとするが故に」帝室は日常的には政治の外にあって下界に降臨し、「一旦緩急アレハ」天下の宝刀に倣い、戦争の先頭に立つよう説いた。
 ところが、丸山真男は福沢が日常的にはと断って説いた皇室=政治社外論を一般化し、福沢が「一貫して排除したのはこうした市民社会の領域への政治権力の進出ないしは干渉であった」と誤解したのである。

4.福沢のアジア侵略思想の歩み
 1880年代前半に福沢が『時事小言』、「東洋の政略果たして如何せん」などにおいてすでにアジア侵略の強兵富国  政策を提起していたが、日清戦争が近づいた1894年に書いた論説「日本臣民の覚悟」では、「我国四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽くし、・・・・事切迫に至れば財産を挙げて之を擲つは勿論、老若の別なく切死して人の種の尽きるまで戦ふの覚悟」を呼びかけた。ここに至って、福沢のかつての一身独立論は国家への滅私奉公の前に完全に呑み込まれ、跡形なく消失したといえる。
 また、これに続けて福沢は、「戦争に勝利を得て・・・・吾々同胞日本国人が世界に対して肩身を広くするの愉快さえあれば、内に如何なる不平等条理あるも之を論ずるに遑あらず」と公言して憚らなかった。
 さらに、福沢は旅順の占領も終わり、日清戦争の勝利が見えてきた18951月に書いた論説(「朝鮮の改革・・・・」)において、「主権云々は純然たる独立国に対する議論にして、朝鮮の如き場合には適用す可らず。・・・・今、日本の国力を以てすれば朝鮮を併呑するが如きは甚だ容易にして、・・・・・」と記し、その後の韓国併合の可能性を予見するかのような主張をしていたことに安川さんは注目を喚起された。

 こうした福沢の言動は安川さんも指摘されたように、『坂の上の雲』において司馬が日本にによる朝鮮出兵を「多分に受け身であった」と記しているのがいかに史実に悖る虚言かを、同時代人の言説を通して物語るものといえる。 また、NHKは『坂の上の雲』の第一部で毎回、冒頭に「まことに小さな国日本が」というフレーズを流したが、上の福沢の言説は当時の日本が少なくとも対朝鮮との関係では「小国」どころか、何時でも朝鮮を呑みこめる国力を持った強兵富国の大国であったことを意味している。植民地として統治された相手国の認識を等閑に付して、武力で近隣国を占有した自国を「小さな国」などと呼号するのは、過去に自国が犯した罪に対していかに無邪気かを物語っている。

5.福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間の大きな懸隔
 安川さんの講演については、まだまだ、触れなくてはならない重要な指摘があるが、紙幅の関係でこのあたりにし、最後に、私が安川さんの講演から(正確には安川さんの後掲の3部作から)感じた福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間に大きな懸隔が生まれたのはなぜかということを考えておきたい。
 まず、安川さんの資料から同時代人の評価として私の印象に強く残った論評を2点だけを紹介しておきたい。

 吉岡弘毅(元外務権少丞):「我日本帝国ヲシテ強盗国ニ変ゼシメント謀ル」・・・・のは「不可救ノ災禍ヲ将来ニ遺サン事必セリ」

 徳富蘇峰:「主義ある者は漫りに調和を説かず。進歩を欲する者は漫りに調和を説かず。調和は無主義の天国なり」

 福沢が執筆した(『時事新報』の社説等を含む)全著作を吟味する限り、同時代人の評価が適正な福沢評であることは否めない。にも拘わらず、それと対極的な評価があろうことか、戦後の「進歩的」知識人の間に広まった理由は、安川さんが精根込めた考証で明らかにしたように、丸山真男の福沢誤読――『文明論の概略』など初期の著作のみを題材にした雑駁な読解に依拠し、福沢の政治論、天皇制論、アジア統治論などがもっとも鮮明に記されたその後の論説を顧みない文献考証の重大な瑕疵――とそれに多くの「進歩的」知識人が事大主義的に追随したことにあったといってよい。

 かくいう私も丸山神話に侵された一人だった。3月
20日に私の退職送別会を兼ねて開かれたゼミのOB&OG会に参加した第1期生がスピーチの中で、夏休みのレポート課題として私が丸山真男『『文明論之概略』を読む』を挙げたことを懐古談として話した。自分では忘れていたが、そう言われて記憶が蘇ってきた。2次会でそのゼミOB生と隣り合わせ、今では自分自身、福沢に対する見方がすっかり変わってしまったことを釈明した。

 戦後日本の「民主陣営」に浸透した丸山神話は、過去のことではない。権威主義、事大主義が今日でもなお「進歩的」陣営の中でも、陣営の結束を図るのに「便利な」イデオロギーとして横行している現実が見受けられる。しかし、そうした個の自律なき結束は、陣営の外にいる多数の市民の支持を得るのを困難にし、長い目で見れば破綻の道をたどる運命にある。だから私は楽屋落ちの議論や個人の自律を尊ばない組織や運動を拒むのである。

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2010年3月31日 最後の出勤日

今日が最後の出勤日となった。といっても年度内に大学に提出しなければならない報告書のまとめがのびのびになって昨日は徹夜になった。どうにか午後に提出して一段落すると、36年間の教育職の最後の日という実感が湧いてきた。
 帰宅すると、もう10数年前に北海道大学へ非常勤の集中講義に出かけた時の受講生の一人(今は会計学の教育・研究職に就いている人)から、また、以前、田中康夫氏が知事の時代に長野県で審議会の委員をしていた時に取材で出会って以来、お付き合いをしてきた某全国紙の記者の方から、花が届いていた。連れ合いにも大きな花を用意して帰宅を迎えてもらった。

 今日までに学部の同僚やゼミのOB&OGによる送別会、私の演習に参加したり論文指導をしたりした大学院生や親しくお付き合いいただいた方々との会食など、それぞれに意義深いひと時を過ごさせていただいた。そんな中で私が何よりもありがたかったのは現役のゼミ生と、私が東京大学出版会から書物を刊行するにあたってお世話になった出版会の歴代の編集担当の皆さんから寄せ書きをもらったことである。その画像をアップさせていただく。

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 東大出版会の皆さんからもらった寄せ書きに、初版以来第4版まで『会計学講義』の印刷を担当された精興社の方からも送別のことばをいただいたのは思いもよらないことで感慨深かった。

 もう講義の準備をしなくてよいのかと思うとほっとする反面、フレッシュな大学生と向き合う機会がなくなるのはやはりさみしい気がする。しかし、その分増える自分の時間をこれからは研究の時間に充て、現役時代にやり残した多くのことを自分に残された持ち時間の中で少しでもやり遂げたいと思う。また、これまで十分に立ち入れなかった会計の外の世界にも翼を広げて知的好奇心を形のあるものに実らせ、娘から届いた花に添えられていた「アグレッシブな生活を」という言葉に応えたいと思う。

 最後になりましたが、今までこのブログにアクセスしていただき、ご交誼や叱声をいただいた皆様に厚くお礼を申し上げます。これからはより精力的にこのブログで日々の体験や思索を発信していきたいと思っています。どうか、よろしくお願いいたします。

   歌の上に節を曲げざるわれのため  今よき友らわが周りに集う
                         小島 清
   (小島清氏は私の姉を短歌の世界に導いていただいた歌人で、私たちの     結婚式の折に媒酌人を務めていただいた方である。)

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