安川寿之輔さんの福沢諭吉批判を聴いて考えたこと
4月3日、東京、千駄ヶ谷区民会館で開かれた不戦兵士・市民の会主催の不戦大学「『韓国併合・大逆事件』100年と『坂の上の雲』」で安川寿之輔さんが、「「暗い昭和」につながる「明るくない明治」」と題する講演をされると聞き、連れ合いといっしょに出かけた。少し遅れて会場に着くと、受付で安川さんが準備された30ページに及ぶ資料が手渡された。
安川さんはそれを読みあげる形で約Ⅰ20分に及ぶ講演をされた。講演の内容を丹念に紹介するゆとりはない。いずれ、活字にされるものと思うので、以下は、私が特に啓発を受けた箇所を紹介しながら、ところどころで感想を挿入することにしたい。
1.福沢諭吉の天賦人権論の虚実
「明るい明治」と「暗い昭和」を対置する司馬遼太郎の歴史観は、近代日本を「明治前期の健全なナショナリズム」対「昭和前期の超国家主義」と捉える丸山真男の二項対立史観をわかりやすい表現に言い換え、踏襲したものである。そして、その丸山が明治前期の健全なナショナリズムの代表格として評価したのが福沢諭吉の天賦平等論であり、一身独立論であった。
しかし、福沢の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というフレーズは、「・・・と云へり」という伝聞態で結ばれていることからわかるように福沢自身の思想を表したものではない(アメリカの独立宣言を借りたことばであった)。丸山氏はこの点をすっぽり落としている。「万人の」という意味では後掲の福沢の天皇制論に見られる愚民籠絡論や、ここでは紹介できないが工場法反対論にみられる貧困市民層に対する蔑視の思想、家父長制的な女性差別論などは、福沢の人間平等論の虚実を示す典型例といえる。こうした福沢の天賦人権論の虚実を精緻な文献考証を通じて徹底的に立証した点で安川さんの研究には特筆すべき価値があると感じた。
2.福沢諭吉の「一身独立論」の変節
福沢が『文明論の概略』の中で、「人類の約束は唯自国の独立のみを以て目的と為す可らず」、「一国独立等の細事に介々たる」態度は「文明の本旨には非ず」という正しい認識を記していた。(もっとも、順序としては「先ず事の初歩として自国の独立を謀り、(一身独立のような)其他は之を第二歩に遺して、他日為す所あらん」と述べ、「自国独立」優先の思想を明確にしていたが)。
また、福沢は自ら、アメリカ独立宣言を翻訳するにあたって、「人間(じんかん)に政府を立る所以は、此通儀(基本的人権のこと)を固くするための趣旨にて、・・・・・・政府の処置、此趣旨に戻(もと)るときは、則ち之を変革し或は倒して、・・・・新政府を立るも亦人民の通儀なり」と訳し、人民の抵抗権、革命権を正当に訳出・紹介していた。
しかし、かく紹介する福沢も自分の思想となると、「今、日本国中にて明治の年号を奉る者は、今の政府に従ふ可しと条約(社会契約のこと)を結びたる人民なり」と記して国家への国民の服従を説いた。
さらに、その後、自由民権運動と遭遇した福沢は1875年の論説において、「無智の小民」「百姓車挽き」への啓蒙を断念すると表明し、翌年からは宗教による下層民教化の必要性を説き、「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合せならん」という人間蔑視の思想を憚りなく公言するに至った。こうして福沢は啓蒙期の唯一の貴重な先送りの公約であった「一身独立」をも放棄したのであった。
ところが丸山真男は、福沢自身が優先劣後の区別をした一国独立と一身独立の議論の実態を無視し、さらにはその後の福沢が一身独立の思想を放棄した現実を顧みず、個人的自由と国民的独立の見事なバランスと言い換え、両者に内在する矛盾、軋轢――後年の福沢の一身独立論を変節に導く伏線となる要因――を無視して、福沢賛美の根拠に仕立て上げたのである。
3.福沢の変節の極みとしての神権天皇制論
安川さんの講演の中で開眼させられた一つは福沢の天皇制論に対する言及だった。福沢は『文明論の概略』の第9章までの記述の中では、たとえば、「保元平治以来歴代の天皇を見るに、其不明不徳は枚挙に遑(いとま)あらず」と記し、「新たに王室を慕うの至情を造り、之(人民)をして、真に赤子の如くならしめんとする」のは「頗る難きこと」と述べて、天皇制に批判的な考えをしていた。
ところが、福沢は1882年に「帝室論」を書く頃には天皇制論を大転換させ、「帝室・・・・に忠を尽くすは・・・万民熱中の至情」などと言いだした。これについて、福沢は国会開設後の「政党軋轢の不幸」に備えて人心の軋轢を緩和する「万世無欠の全壁」たる帝室の存在が必要になったと説くとともに、「其功徳を無限にせんとするが故に」帝室は日常的には政治の外にあって下界に降臨し、「一旦緩急アレハ」天下の宝刀に倣い、戦争の先頭に立つよう説いた。
ところが、丸山真男は福沢が日常的にはと断って説いた皇室=政治社外論を一般化し、福沢が「一貫して排除したのはこうした市民社会の領域への政治権力の進出ないしは干渉であった」と誤解したのである。
4.福沢のアジア侵略思想の歩み
1880年代前半に福沢が『時事小言』、「東洋の政略果たして如何せん」などにおいてすでにアジア侵略の強兵富国 政策を提起していたが、日清戦争が近づいた1894年に書いた論説「日本臣民の覚悟」では、「我国四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽くし、・・・・事切迫に至れば財産を挙げて之を擲つは勿論、老若の別なく切死して人の種の尽きるまで戦ふの覚悟」を呼びかけた。ここに至って、福沢のかつての一身独立論は国家への滅私奉公の前に完全に呑み込まれ、跡形なく消失したといえる。
また、これに続けて福沢は、「戦争に勝利を得て・・・・吾々同胞日本国人が世界に対して肩身を広くするの愉快さえあれば、内に如何なる不平等条理あるも之を論ずるに遑あらず」と公言して憚らなかった。
さらに、福沢は旅順の占領も終わり、日清戦争の勝利が見えてきた1895年1月に書いた論説(「朝鮮の改革・・・・」)において、「主権云々は純然たる独立国に対する議論にして、朝鮮の如き場合には適用す可らず。・・・・今、日本の国力を以てすれば朝鮮を併呑するが如きは甚だ容易にして、・・・・・」と記し、その後の韓国併合の可能性を予見するかのような主張をしていたことに安川さんは注目を喚起された。
こうした福沢の言動は安川さんも指摘されたように、『坂の上の雲』において司馬が日本にによる朝鮮出兵を「多分に受け身であった」と記しているのがいかに史実に悖る虚言かを、同時代人の言説を通して物語るものといえる。 また、NHKは『坂の上の雲』の第一部で毎回、冒頭に「まことに小さな国日本が」というフレーズを流したが、上の福沢の言説は当時の日本が少なくとも対朝鮮との関係では「小国」どころか、何時でも朝鮮を呑みこめる国力を持った強兵富国の大国であったことを意味している。植民地として統治された相手国の認識を等閑に付して、武力で近隣国を占有した自国を「小さな国」などと呼号するのは、過去に自国が犯した罪に対していかに無邪気かを物語っている。
5.福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間の大きな懸隔
安川さんの講演については、まだまだ、触れなくてはならない重要な指摘があるが、紙幅の関係でこのあたりにし、最後に、私が安川さんの講演から(正確には安川さんの後掲の3部作から)感じた福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間に大きな懸隔が生まれたのはなぜかということを考えておきたい。
まず、安川さんの資料から同時代人の評価として私の印象に強く残った論評を2点だけを紹介しておきたい。
吉岡弘毅(元外務権少丞):「我日本帝国ヲシテ強盗国ニ変ゼシメント謀ル」・・・・のは「不可救ノ災禍ヲ将来ニ遺サン事必セリ」
徳富蘇峰:「主義ある者は漫りに調和を説かず。進歩を欲する者は漫りに調和を説かず。調和は無主義の天国なり」
福沢が執筆した(『時事新報』の社説等を含む)全著作を吟味する限り、同時代人の評価が適正な福沢評であることは否めない。にも拘わらず、それと対極的な評価があろうことか、戦後の「進歩的」知識人の間に広まった理由は、安川さんが精根込めた考証で明らかにしたように、丸山真男の福沢誤読――『文明論の概略』など初期の著作のみを題材にした雑駁な読解に依拠し、福沢の政治論、天皇制論、アジア統治論などがもっとも鮮明に記されたその後の論説を顧みない文献考証の重大な瑕疵――とそれに多くの「進歩的」知識人が事大主義的に追随したことにあったといってよい。
かくいう私も丸山神話に侵された一人だった。3月20日に私の退職送別会を兼ねて開かれたゼミのOB&OG会に参加した第1期生がスピーチの中で、夏休みのレポート課題として私が丸山真男『『文明論之概略』を読む』を挙げたことを懐古談として話した。自分では忘れていたが、そう言われて記憶が蘇ってきた。2次会でそのゼミOB生と隣り合わせ、今では自分自身、福沢に対する見方がすっかり変わってしまったことを釈明した。
戦後日本の「民主陣営」に浸透した丸山神話は、過去のことではない。権威主義、事大主義が今日でもなお「進歩的」陣営の中でも、陣営の結束を図るのに「便利な」イデオロギーとして横行している現実が見受けられる。しかし、そうした個の自律なき結束は、陣営の外にいる多数の市民の支持を得るのを困難にし、長い目で見れば破綻の道をたどる運命にある。だから私は楽屋落ちの議論や個人の自律を尊ばない組織や運動を拒むのである。
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コメント
お久しぶりです。
直接お話しする機会はありませんでしたが、私は大学院時代、醍醐さんの後輩に当たります。「丸山神話」にはほとほと困らされた経験があるので、大いに共感して読まさせていただきました。1990年前後、「われわれ」マルクス主義者が深刻な反省を迫られたとき、あたかも自分は丸山のような「近代化主義者」であったかのように、合理化を図った人間が身近かに居たからです。彼にとって丸山は「免罪符」のようなものだったのでしょう。しかし謎は丸山ともあろう者が、福澤の「脱亜論」帝国主義論を見過ごしたはずがないのに、そこまで持ち上げたのかということです。そうした虚構を作り上げる、丸山の思考回路に何かもっと恐ろしいものを感じます。
投稿: | 2016年1月 4日 (月) 09時12分
醍醐 聡 先生
私も安川先生の講演を聴いて。大変感銘を受けました。
丸山諭吉批判の全てに同感しました。
先生の感想も読みましたが、こちらも全て同感しました。
その上で私なりの丸山批判を考えましたので、是非ご一読いただいて、賛成いただけるかどうか、お聞きしたいと思いました。
賛成できない点がありましたら、一言その点を教えていただけないでしょうか?
以下、丸山批判
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丸山思想の決定的欠陥
鍜治 正啓
丸山真男は「文明論の概略を読む」を書いて福沢諭吉を礼賛しましたが、そこでは福沢の侵略思想を見落としており、私はこの見落としを丸山思想の決定的欠陥だと考えます。
福沢諭吉の実像は、日本の民主化への貢献というよりは、軍国主義を煽ったことの方にありました。
「時事小言」の社説で、「印度・支那の御(ぎょ)し方を英人に見習うのみならず、その英人をも苦しめて、東洋の権柄を我が一手に握るべし」とか「滅亡こそ朝鮮人民の幸福」などという非常識で勇ましい文章を書きなぐっていました。(このことは安川寿之輔氏の研究に詳しく書いてあります。)
この福沢の実態の見落としは、単なる軽率と済ませられるものではなく、丸山思想の根本的欠陥と見るべきと考えます。
福沢諭吉が日本の侵略主義を煽ったのは、自分の国は自分で守る気概を持った国民を作ること、つまり国民国家を作るためでした。こういう「国民」を作り出すためには、民族の一員としての平等感と国政への参加意識を持たせる必要がある、と考えました。
これが人民主権(民主主義)の思想の役割でした。
福沢にとって独立日本国を作ることが第一義で、民主化はそのための方便という二義的な意味しか持っていませんでした。
ところが丸山は「国民国家を作るための民主主義」という思想構造を理解できなかったために、福沢の民主主義の部分だけしか見えず、一方では福沢が重視した侵略思想の方を見落としたものです。
しかしながら福沢のこの思想は、福沢の性格のゆがみとか間違いというような個人的なものではなくて、明治期の時代の空気であったことに留意する必要があります。
この侵略思想は、自由民権運動の中にも顕著に現れていることは、板垣退助、大井憲太郎などの過激な侵略思想を見れば明らかです。福沢や民権派の運動の効果もあって、この思想が順次政府によって実行されて、挙句の果てに昭和の戦争を招いたものであり、長い眼で見れば、彼らは昭和軍国主義の先駆者ということが出来ます。
しかし福沢や民権派の人々が、この日本近代の侵略主義を作りだしたと言ってしまっては、彼らの力の過大評価になります。
彼等はこういう日本の近代化の時代の空気を代表して表現しているに過ぎません。
問題は日本の近代化という大きな流れの方にあるといえます。
この時代の空気を丸山は分析的に見ることが出来なかったのですから、思想家としては失格だったと言えます。
結論として、丸山は近代化の持つ暗黒面に気がつかなかったという意味で、「近代と言うものが理解できなかった近代主義者」だった、と言えます。
以上
投稿: 小林哲夫 | 2010年4月16日 (金) 22時04分