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「坂の上の雲」のどこが問題なのか?(1) ~地元9条の会で講演~

 今日、地元の9条の会(さくら・志津憲法9条をまもりたい会)からの依頼で標題のようなタイトルの講演をした。会の世話人からの事前の説明では、資料はA4サイズの用紙20枚までなら印刷するということだったので、これまでと比べ、資料調べと原稿の作成に時間をかけた。結局、A4サイズ14枚と年表1枚を準備して会場で配ってもらい、ドラマ「坂の上の雲」に関連した画像と追加資料をスクリーンに映しながら、1時間15分ほど話をした。
 主催者によると、参加者は57名とのこと。私の話のあと45分ほど、質問、発言が相次いだ。「こんな(「坂の上の雲」のような)ドラマを制作し放送することの是非についてNHK内部で議論されなかったのか?」、「時の権力者は歴史の真実を伝える記録を残さないのが常だと心得ておく必要がある」、「いや、以前と比べ、最近のNHKは歴史ものについて踏み込んだ調査をし、優れた番組を放送している」、「戦争を始めるときにはいつも、『自衛のため』が大義名分に使われる。なぜ開戦にいたったのかについて私たちは歴史をもっとよく知り、これからに活かす必要がある」・・・・・。

 集会のあと、近くのレストランに移動してお茶とケーキで1時間ほど懇親会。参加者は20名ほど。「坂の上の雲」をめぐって活発な議論が続いた。そこでは、学校時代、近現代史を学ぶ機会があまりにも少なかった、だから、明成皇后殺害事件などまったく知らなかったという人が多かった。
 日頃、歴史や政治について会話をしたことのないご近所の方も多数参加されたので、いつもより緊張したが、これまでに自分で調べ、考えてきたことを身近な地域の方々に話し、議論を交わす機会を持てたことは大変ありがたかった。以下、3回に分けて、準備した資料を掲載しておきたい。

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                          2010530
           
         「坂の上の雲」のどこが問題なのか?
       ~史実の偽造を拡散させるNHKの社会的責任~

                             醍醐 聰

 今日は、『坂の上の雲』をドラマ化し、放送することにしたNHKに問われる社会的責任を次の二つに分けてお話したいと思います。一つは、原作『坂の上の雲』に見られる史実――特に日清・日露戦争――の改ざん・黙殺を公共の電波を使って拡散させる責任です。もう一つは、NHKが、生前、原作の映像化を拒み通した司馬遼太郎の遺志に背いてまで原作のドラマ化に執心し、企画を推し進めた責任です。また、こうしたNHKの社会的責任と併せて、学校時代に近現代史を十分に学ぶ機会を得ないまま大人になった私たち自身がこれを機会に日韓関係史の視点から日清戦争以後、日本がどのような侵略戦争の道を歩んできたかを学び合うことができれば幸いです。

1 史実を改ざん・黙殺した原作の誤りを公共の電波で拡散させる責任

◆NHKの企画意図は時代錯誤◆
NHKは原作をスぺシャル・ドラマとして放送することにした企画の意図を次のように説明しています。

  『坂の上の雲』は、国民ひとりひとりが少年のような希望をもって国の近代化に取り組み、そして存亡をかけて日露戦争を戦った「少年の国・明治」の物語です。そこには、今の日本と同じように新たな価値観の創造に苦悩・奮闘した明治という時代の精神が生き生きと描かれています。この作品に込められたメッセージは、日本がこれから向かうべき道を考える上で大きなヒントを与えてくれるに違いありません坂の上の雲」ウエブサイト「企画意図」より)

 確かに原作は秋山好古・真之兄弟と正岡子規の生涯を通して「明るい明治」、「少年のような国・明治」を描こうとした歴史小説です。しかし、秋山兄弟が歩んだ「坂道」は平和でのどかな道ではありませんでした。兄・好古は日露戦争において世界に名を馳せたロシアのコサック騎兵隊と対戦した陸軍第一師団騎兵第一大隊長であり、「名誉の最後を戦場に遂ぐるを得ば、男子一生の快事」(原作、第三分冊、文春文庫、289ページ。以下、引用の表記同じ)と書き残した滅私奉公の職業軍人でした。司馬は好古のこの言葉に対し「国家が至上の正義でありロマンティシズムの源泉であった時代のもっともロマンティックな思想」(第三分冊、289ページ)と賛辞を表しています。

 しかし、個人が国家のためにあるのではなく、国家が個人のためにあることを宣言した戦後憲法の時代に、個人が国家に仕える滅私奉公に身を呈した職業軍人の足跡を称えた原作を「日本がこれから向かうべき道を考える上で大きなヒントを与えてくれる」と持ちあげて憚らないNHKの制作姿勢は時代錯誤も甚だしいといわなければなりません。

 また、弟・真之は日露戦争で東郷平八郎連合艦隊司令長官のもとで作戦参謀を務めた人物であり、「筑紫などという小さなふねにのっているようなことでは、主決戦場にはのぞめない」として大艦に乗って主決戦場に向かうことを志願した職業軍人でした(第二分冊、66~67ページ)。しかし、その真之も被弾した兵士の肉片が船上を飛び交う旅順での激戦を体験して衝撃を受け、出家して自分の作戦で殺された人々を敵味方の別なく弔いたいと言い出した有様です。

 「『作戦ほどおそろしいものはない』と真之はつねにいった。この人物は、軍人としてはやや不適格なほどに他人の流血をきらう男で、この日露戦争がおわったあと、『軍人をやめたい』といいだした。僧になって、自分の作戦で殺されたひとびとをとむらいたい、というのである。海軍省はあわてて真之に親しい人々を動員して説得にかかったが、真之はきかず、一時発狂説が出たくらいであった。ともかくしかし海軍省としては真之に坊主になられては迷惑であった。かれのいうことを海軍が道理としてみとめれば、一戦争がおわるたびに大量の坊主ができあがることになる。(第三分冊、257ページ)。
(注)ドラマでは、この部分は次のようにナレーションでさらりと伝えられただけでした。
 「敵の巨弾は『筑紫』の左舷に命中し、爆発しないまま中甲板をつらぬいて右舵側とびだしていった。あたりは肉や骨がとび散り、血だらけになっている。・・・・・このとき、真之が人の死からうけた衝撃は人一倍深刻であった。」(第4回、日清開戦)

 このような原作の中身に照らせば、秋山兄弟を「希望にみちた坂道」を「ひたむきに登った」人物と文学的修辞で賛美し、彼らの生き方を美化してよいのでしょうか? 朝鮮民族から見れば、日清・日露戦争は自国の主権を根こそぎ奪った韓国併合に連なる屈辱の歴史であり、そうした戦争における秋山兄弟の武勲を「愛国的栄光の表現」(第八分冊、344ページ)とみなし、両戦争を「民族的共同主観のなかではあきらかに祖国防衛戦争だった」(第八分冊、360ページ)と言って憚らない原作を韓国併合100年を迎えたこの時期に3年間にわたって公共の電波に乗せて放送するNHKの歴史認識の歪みと責任意識の欠落は計り知れません。

 以下では、原作『坂の上の雲』が描いた日清・日露戦争の記述にどのような誤り、史実の黙殺があるかを具体的に説明し、NHKがそうした史実の歪み・黙殺をドラマではどのように扱ったかを見ていきたいと思います。

日清戦争を「受け身の」「祖国防衛戦争」とみなす史実のねじ曲げ◆

 司馬は原作の中で日清戦争の原因は朝鮮に対する宗主権を死守しようとする清国から朝鮮の独立を守るためだとか、沿海州、満州を制圧し、その余勢をかって朝鮮も支配下に置こうとしたロシアのアジア進出が地理的に日本にとって脅威となるのを恐れ、ロシアの南下を阻止しようとして起こった「祖国防衛戦争」とみなし、「清国や朝鮮を領有しようとしておこしたものではなく、多分に受け身であった」と記しています。また、日露戦争についても「日本側の立場は、ぎりぎりの防衛戦であった」と述べています。

 「そろそろ、戦争の原因にふれねばならない。原因は朝鮮にある。といっても韓国や韓国人に罪があるのではなく、罪があるとすれば朝鮮半島という地理的存在にある。・・・・・清国が宗主権を主張していることは、ベトナムとかわりがないが、これに対しあらたに保護権を主張しているのはロシアと日本であった。・・・・・朝鮮を領有しようということより、朝鮮を他の強国にとられた場合、日本の防衛は成立しないということであった。・・・・・その強烈な被害者意識は当然ながら帝国主義の裏がえしであるにしても、ともかくも、この戦争は清国や朝鮮を領有しようとしておこしたものではなく、多分に受け身であった。『朝鮮の自主性をみとめ、これを完全独立国にせよ。』というのが日本の清国そのほか関係諸国に対するいいぶんであり、これを多年、ひとつ念仏のようにいいつづけてきた。(第二分冊、48~49ページ) 

 「韓国自身、どうにもならない。李王朝はすでに五百年もつづいており、その秩序は老化しきっているため、韓国自身の意思と力でみずからの運命をきりひらく能力は皆無といってよかった。」(第二分冊、50ページ)

 「日露戦争というのは、世界史的な帝国主義時代の一現象であることにはまちがいない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、追いつめられた者が、生きる力のぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であったことはまぎれもない。」第三分冊、182ページ)

 ドラマの第1部では「祖国防衛」という言葉こそ使われませんでしたが、第三回「国家鳴動」の中では旅順、大連といった良港がある遼東半島制覇を虎視眈々と狙うロシアの動きをナレーションで語らせ、陸奥宗光、川上操六らの朝鮮派兵論を抑えようとした伊藤博文を場面の主役に据えて、日本がいかに開戦回避に努めたかを印象づける映像を流しました。そして、「日本はこの朝鮮半島を露清両勢力から独立した地帯にすることを国防の主眼に置いていた」というナレーションを挿入しました。また、日清戦争開戦にあたっての日本の宣戦布告は「国際法にてらしてことごとく合法であることがわかった」というナレーションと東郷平八郎の言動を併用して、日本がいかに国際法を遵守してフェアに戦ったかを印象づけようとしました。

 しかし、史実はどうかといえば、1894(明治27)年5月31日に大規模な東学農民の蜂起に直面した朝鮮政府が清国軍に出兵を要請したとの情報を受けて6月2日に開かれた閣議で、参謀総長・次長を閣議(総理大臣・伊藤博文)に招いて出兵を決定しました。その時、派兵の大義名分とされたのは1882(明治15)年に朝鮮との間で交わした「済物浦条約」を拠り所にした日本公使館と居留民の警護ということでした。しかし、閣議決定を受けて混成第九旅団が仁川に到着した時には朝鮮政府軍と東学農民軍の間で和解が成立し、農民軍は地方へ撤退を始めていたため上記の大義名分は失われていました。現に、1894(明治27)年69日に海兵隊を連れて京城に帰任した公使大鳥圭介は朝鮮国内の状況が思いの外平穏であることを知り、
増派を思い止まるよう繰り返し本国政府に打電しました。

 「同公使が京城に入るや、既にその本国出発の時に予想せし所と違い、朝鮮国は意外に平穏にして清国派出の軍隊も牙山に滞陣するまでにて、いまだ内地に進行するに至らず。・・・・・同公使は頻りに政府に電報し、当分の内余り多数の軍隊を朝鮮に派出し朝鮮政府および人民に対し特に第三者たる外国人に向かい、謂われなきの疑団を抱かしむるは、外交上得策に非ざる旨を勧告したり。」陸奥宗光著・中塚明校注『新訂蹇蹇録』1983年、岩波文庫、45~46ページ)

 
また、日本政府は清の本国政府と汪公使の間の暗号電報を解読して、清は朝鮮政府の要請を受けて撤兵する意図があったことを察知していました。それでも日本は「外交にありては被動者たるの地位を取り、軍事にありては常に機先を制せん」(陸奥、前掲書、47ページ)とする方針に従い、「朝鮮の中立化」を標榜して清が一方的に朝鮮から撤退した場合、派遣された日本軍は朝鮮残留の名分を失うことを危惧し、派兵部隊の長期駐留を正当化する口実を作るのに苦慮したのでした。

 「密電之趣ニ依レハ、彼(清)ハ〔日本との]衝突ヲ避クルヲ得策トスルノ意充分相見
候上ハ、殆ント猶予スヘカラサル之情況ト被察候故、可成速ニ〔清公使と〕御開談相成候而ハ如何。昨日小生ノ〔汪への〕回答ヲ得タル上ノ〔清の〕決意ト察セサルヲ得ス。彼ハ我ト同時ニ撤兵セン●ヲ臨ムト云ト雖、若シ我ニ関セス撤シタルトキハ〔日本軍は〕充分手持無沙汰ノモノニハ無之乎、御考慮可被下候。(高橋秀直『日清戦争への道』1995年、東京創元社、352ページ)
1894(明治27)年69日付け、伊藤博文が陸奥宗光に送った書簡)

 「東学党鎮圧ノ事全ク支那兵ノミノ手ニナリ、我ガ兵ハ一発モ打出サズ帰国候様ニ相成候ヘバ、大体上至極ノ事ト存候ヘ共、邦内ノ議論ハ何トナク不平ヲ起シ種々ノ非難ヲ捏造スベシ。・・・・・何トカシテ朝鮮政府ヨリ援兵請求セシメ候手段有之候ヘバ頗ル妙カト存候。・・・・・然ルニ万一ニモ何モカモ行ハレズ我兵ハ空シク帰国スベキトノ事ニナレバ、此際従来『ベンジンククエーション』ナル日韓交渉事務ヲ一切片ケ候様ニ御談判相成、少シク強ハモテニ御遣リ付被成テハ如何。」(高橋、前掲書、340~341ページ)

 そこで、大鳥公使が本国政府に提案したのは、日清両国が共同で朝鮮の「内政改革」に当たるため、当分、派兵部隊を朝鮮に駐留させるという案、すなわち、「東学党鎮定後、此機ニ乗シ朝鮮政府ヲ革新スルノ機必失スヘカラス、此政策素ヨリ清国政府ト計画シテ相与ニスル」という策略でした。しかし、朝鮮の宗主国を自認する清が「日本と共同で」朝鮮の内政改革にあたるという提案を受け入れるはずもありませんでした。

 そこで、第2の策として大鳥公使が考案したのは、朝鮮は清国の属邦なのかどうかを清に質すのではなく、朝鮮に質すという策略でした。つまり、1876年に朝鮮政府が日本と結んだ江華条約では朝鮮は「自主の邦」と謳われていました。にもかかわらず、朝鮮が清の属国というのではおかしいではないか、それなら清と手を切れと朝鮮に迫る「強て」の理屈が成り立つというわけです。朝鮮に対する武力行使を躊躇っていた伊藤博文もこうした狡猾な策略に関しては「最妙、・・・・・大鳥強手段一着手ト被察候」(陸奥宛書簡)と賛同しました。

 かくして、大鳥公使は1894(明治27)年720日に、朝鮮政府に対し、清との宗属関係の破棄を迫るに等しい上記のような詰問書を送り、同月22日までに回答するよう迫ったのです。中塚明氏が発掘した福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵の『日清戦史』草案にはこの間の経緯が次のように記されています。

 「・・・・本日該政府〔朝鮮政府のこと〕に向かって清兵を撤回せしむべしとの要求を提出し、その回答を22日と限れり。もし期限に至り確乎たる回答を得ざれば、まず歩兵一個大隊を京城に入れて、これを威嚇し、なお我が意を満足せしむに足らざれば、旅団を進めて王宮を囲まれたし然る上は大院君〔李是応〕を推して入闋
せしめ彼を政府の首領となし、よってもって牙山清兵の撃攘を我に嘱託せしむるを得べし、因って旅団の出発はしばらく猶予ありたし。」
720日、大鳥公使の意向を受けて、本野一郎参事官が第五師団混成旅団長大島義昌少将を訪ねて手渡した文書の一節。中塚明『歴史の偽造をただす~戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』~197年、高文研、44ページ)


 しかし、2日後を回答期限として、清と手を切れと言われても朝鮮政府にとっては無理難題で、日本政府を満足させる回答がなかったのは当然でした。大鳥公使や日本政府もそれを織り込み済みだったからこそ、本野参事官はその先を見越して王宮占領作戦を立てていたのです。

 この王宮(景福宮)占領計画はこれまで日本の公式の外交文書や日清戦史では、「日韓両国軍の偶発的衝突事件」と伝えられてきました。しかし、中塚明氏が発掘し調査した前記の「佐藤文庫」に所蔵された『日清戦史』草案によれば、作戦の実行部隊となった大島旅団長率いる第五師団は事前に「朝鮮王宮に対する威嚇的運動の計画」と題して、歩兵連隊・大隊・中隊という編成の下に進行時間まで定めた作戦計画を立てていました。

 1894(明治27)年723日に実行された作戦の要点は次のとおりでした。①王宮に進軍して韓国兵を駆逐し、これを占領して、高宗国王の身柄を確保する(第三草案では「国王を擒にし」となっていた)、②それと並行して閔一族の支配を快く思っていなかった大院君を王宮に引導して王位を継がせる、③その上で大院君に、
清軍の撃退を日本軍に嘱託させる。

 実際には、大院君が王宮へ出向くことを嫌がり邸宅にこもったため、日本軍は②③のシナリオを実行するのに手間取りました。第十一連隊第六中隊が大院君宅に到着したのが午前4時前でしたが、駆け付けた日本公使館・杉村書記官の説得を受けて大院君が第六中隊兵にまわりを固められて王宮に入ったのは午前11時でした。

 翌724日、大院君の下で発足した新内閣に対し、大鳥公使は清朝中国軍を朝鮮から駆逐する依頼文書を出させようとしましたが、容易にはかどりませんでした。結局、ソウル南方に待機した大島旅団長のもとに、牙山に駐留する清国兵を撃退すべしという朝鮮政府外務省の記名調印付の文書(実際は大鳥公使の親書)が届いたのは726日の夜でした。こうして在韓日本軍はとにもかくにも「
朝鮮政府ヨリ援兵ノ請求」を手に入れ、対清開戦へと突き進んだのです。しかし、それは朝鮮政府の自発的要請によるものではなく、国王を武力で威嚇するという「強て」の手段によって得た開戦の大義名分にほかならなかったのです。

 このような経過を振り返れば、日清戦争は日本にとって「受け身の」防衛戦争どころか、朝鮮の主権を踏みにじり、列強の領土強奪争いに割りこもうとした侵略戦争にほかならなかったことは明らかです。また、日清・日露戦争の時期に日本は「朝鮮の自主性をみとめ、これを完全独立国にせよ、とひとつ念仏のようにいいつづけてきた」などという司馬の原作の記述がいかに史実とかけ離れたものか、おわかりいただけると思います。

◆NHKドラマは日清開戦をどのように描いたか?◆

 では、NHKは以上のような史実あるいは原作をドラマ化するにあたって、どのように描き、脚色したでしょうか? 昨年11月~12月に放送された計5回のドラマ第一部のなかで、日清戦争を題材にしたのは、第3回「国家鳴動」の後半と第4回「日清開戦」でした。
 まず、第3回の後半では、東学農民の乱の勃発に驚いた朝鮮政府が反乱軍の鎮圧のため、清国に派兵を要請したこと、それを伝え聞いた日本政府部内での事態への対応をめぐるやりとりが放映されました。そこでは、朝鮮への即時派兵を主張する外務大臣・陸奥宗光と参謀次長・川上操六と派兵に慎重な態度を取った伊藤博文の緊迫した議論の模様を描いた上で、朝鮮が清に救援を申し入れた1894(明治27)年61日の翌日に政府が閣議で出兵を決定した経緯を伝えました。しかし、そこでは、この閣議決定は「単に出兵であり、実際に戦うと決めたわけではない」と発言した伊藤博文を場面の主役に据えて、派兵即侵攻ではないかのように印象付ける脚色をしました。

 その後、ドラマは陸海軍に出撃命令が下り、好古・真之の秋山兄弟が朝鮮へ出兵していく姿を描き、725に真之が乗り込んだ日本艦隊が豊島沖で清国艦隊と遭遇し、戦闘の火ぶたが切られたと伝えました。

 続く第4回は、「明治27年(1894)年725日早朝、東郷平八郎率いる巡洋艦「浪速」が英国旗を掲げた一隻の艦船を発見したが、それには多数の清国陸軍の将兵が乗船していた、そこで東郷は船長に対し、ただちに錨を上げて本艦に同行するよう信号で命じたにもかかわらず、清国兵は命令に応じなかった、そこで東郷はマストに危険を知らせる赤旗をかかげ、そのあと撃沈の命令を下した、こうした事件のあと、日本は同年81日に清国に対して宣戦布告をした、という筋書きを伝えました。その後、ドラマでは、この事件は英国の朝野を激こうさせたものの、「詳細がわかるにつれて・・・・東郷平八郎のとった処置は国際法にてらしてことごとく合法であることがわかった」というナレーションを流しました。

 私は、このような日清開戦の描き方は、番組制作者の作為がいかほどかは別にして、客観的に見れば、史実との大きな乖離、事実の歪んだ取捨選択があると思います。
 第1に、開戦に至るに日時を追っていえば、なぜ62日(閣議で派兵を決定した日)から725日に飛ぶのかということです。これでは、この間に、「邦人保護」を名目に行われた朝鮮派兵がなぜ、全編的な日清開戦に至ったのか、その動機と経過を探る上で重要ないくつかの事件が起こったにもかかわらず、それらが全く伝えられないからです。

 610日 帰任した大鳥公使が現地の平穏な状況を目の当たりにして派兵を停止するよう本国政府に繰り返し進言
 616日 派兵軍の駐留の大義名分を得るため、陸奥外相、清国に共同で朝鮮の内政改革にあたることを提案するも清国、これを拒否
 720日 大鳥公使、22日を回答期限として朝鮮政府に清との宗属関係の清算を迫るも朝鮮政府、これに応じず
 7月23日 日本軍、京城の朝鮮王宮を占領
 725日 大院君に、清国を牙山からの撤退させる行動を要請

 こうした経過が飛ばされた結果、
 ①日本軍の朝鮮派兵は初期の時点でその法的大義名分(在韓邦邦人の保護)を失っていたこと。
 ②にもかかわらず、日本政府と在韓公使は派兵部隊の長期駐留の口実を作るため、種々の策を考案する必要に迫られたこと。
 ③最終的には、武力的威嚇を背景に王宮を占拠し、清露的とされた高宗国王を退位させ、新たに王位に就かせた大院君に迫って清国軍の掃討を要請させたこと。これが日清開戦の引き金となったこと、

が全く伝えられず、<戦地での宣戦布告の手順>という局面だけをズームアップし、そこに至るまでに日本政府が行った武力的威嚇、朝鮮の主権(独立国としての外交上の自己決定権)を露骨に侵害するという不法行為を黙殺したのです。

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