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「坂の上の雲」のどこが問題なのか?(2) ~地元9条の会で講演~

◆日露戦争はロシアの脅威に備えた防衛戦争だったのか?◆

 では、日露戦争はどうだったのでしょうか? この戦争は原作が描いたようなロシアの南進を食い止め、日本の「利益線」を死守するための「祖国防衛戦争」だったのでしょうか? 

 開戦直前の1904(明治37)年2月10日、日本はロシアに宣戦布告をし、日露戦争は始まりました。しかし、その年の123日、朝鮮政府は日露間の「厳正中立」を宣言していました。にもかかわらず、日本は2月8日に臨時派遣隊を仁川に派兵し首都ソウルに進駐させました。こうした日本の軍事行動は朝鮮政府の名目的な「要請」に基づくものでさえなく、事前の承認を得たものでもありませんでした。また、ロシアが先に朝鮮に侵入したという事実もありませんでした。それどころか、陸奥宗光外相ら日本政府首脳はロシア公使からの情報により、当時のロシアは三国干渉を以て朝鮮半島での列強の勢力安定を望みこそすれ、南下の意図はなかったことを承知していました。

 「露京発西公使の電報に曰く、『露国外務省亜細亜局長の談話を聞くに,・・・・・露国政府の意向は別に異変せし所あるを見ず。もし我が割地の要求にして台湾および金州半島の外に出でざれば、露国はこれに対し敢えて異議を提出せざるべしと信ず。要するに露国の熱望する所は、目下の談判を以て速やかに平和を恢復して戦争の終結を見んとするにあり』とあり。」奥光、『新訂蹇蹇録』338~339ページ)

 結局、日本による朝鮮出兵の目的は朝鮮の独立の保護でなければ、ロシアの南下を食い止める防衛目的のものでもありませんでした。むしろ、朝鮮半島や遼東半島における日本自身の権益を確保し拡張することでした。
 そもそも、近隣国の要請もないのに一方的に自国の「主権線」や「利益線」のコンパスを他国の領土にまで延ばし、「自国防衛」、「近隣国の軍事的脅威への抑止力」を大義名分にして他国への派兵や軍備拡張を正当化しようとする論法こそ帝国主義的侵略の常套句であり、こうした論法こそが国家間の軍事的緊張を高め、戦争の原因を生みだすという現実が今日まで連綿と続いているーーこのような歴史の教訓をしっかりと伝えることがNHKに求められる社会的責任であると痛感させられます。
 NHKドラマ「坂の上の雲」で日露戦争が題材になるのは今年の12月に放送される予定の第8回「日露戦争」と第9回「広瀬、死す」です。そこで、原作に制約されながらも、日露戦争がどのように描かれ、伝えられるのか、注視したいと思います。

伊藤博文を非戦の平和主義者と描く歴史の歪曲◆

 上で紹介したようにNHKのドラマでは、日清戦争開戦のきっかけになった日本による朝鮮派兵の経過を描く場面で、派兵論の急先鋒だった参謀次長・川上操六、外務大臣・陸奥宗光と対比する形で伊藤博文を熱心な非戦論者、平和主義者であったかのように伝えました。原作にもこのような記述があることは確かです。確かに、川上・陸奥と伊藤の間で朝鮮出兵の大義名分・タイミング・規模をめぐって意見の違いがありました。しかし、最終的に出兵の断を下したのは上記のとおり時の首相・伊藤博文でした。しかも、朝鮮の植民地化に果たした伊藤博文の役割はこれで終わりではありませんでした。

 日露戦争の終結を受けて日本は、日露講和条約で謳われた、日本が韓国を被保護国化することを韓国が合意した証を立てる条約を締結することが必要でした。そこで、日本政府は1905(明治38)年10月、特派大使として韓国に出向き、この条約(第二次日韓協約)締結の交渉にあたったのが伊藤博文でした。日本側が示した条約案の骨子は韓国の外交権行使を韓国政府から「委任を受けた」日本政府が行うというものでした。これに韓国皇帝や内閣大臣らが独立国としての尊厳をかけて抵抗したのは当然でした。しかし、伊藤は内謁した皇帝高宗に向かって、「本案は帝国政府が種々考慮を重ね、最早、寸毫も変通の余地なき確定案にして断じて動かす能わざる帝国政府の確定議」と威圧し、調印を迫りました。また、自分の宿泊先に招いた韓圭萵参政(首相に相当)以下6人の大臣に向かって、「貴国政府が之を承諾せられずとて其の儘黙止するものにあらざることを記憶せられよ」と脅迫的な言い渡しをしました。

 同11月17日、王宮に大臣を呼び集めて開かれた御前会議は調印に向けた日韓最後の交渉の場となりました。しかし、「交渉」とはいっても王宮内には日本軍憲兵や領事館警察官、韓国政府に傭聘された日本人巡査が配置され、戒厳体制を敷いていました。その御前会議ですが、伊藤は妥協を促した皇帝の意向にも逆らって抵抗する韓圭萵参政を室外に連れ出させ、自ら大臣一人一人に協約案に対する賛否を質したのでした。それによると、反対を明言しなかった者2名を含め5名の大臣の賛成があったとして伊藤は多数決で可決されたものとみなし、皇帝の裁可も得たとして第二次日韓協約(韓国では「乙巳条約」と呼ばれている)の成立を宣言しました。

第二次日韓協約
 第2条 日本国政府は韓国と他国との間に現存する条約の実行を全ふするの任に当り韓国政府は今後日本国政府の仲介に由らすして国際的性質を有する何等の条約若は約束をなささることを約す
 第3条 日本国政府は其代表者として韓国皇帝陛下の闕下(けっか)に一名の統監(レヂデントゼネラル)を置く 統監は専ら外交に関する事項を管理する為め京城に駐在し親しく韓国皇帝陛下に内謁するの権利を有す 日本国政府は又韓国の各開港場及其他日本国政府の必要と認むる地に理事官(レヂデント)を置くの権利を有す 理事官は統監の指揮の下に従来在韓国日本領事に属したる一切の職権を執行し并に本条約の条款を完全に実行する為め必要とすへき一切の事務を掌理すへし
 第5条 日本国政府は韓国皇室の安寧と尊厳を維持することを保証する

 この報が伝わるや韓国内は抗議の声で騒然となり、高宗皇帝は、強制された調印は無効、皇帝の承認の欠如、を理由に挙げてオランダのハーグで開かれていた第2回万国平和会議に密使を送り、条約の無効を訴えました。また、協約案に賛成した5人の大臣は以来、韓国民衆の間で民族の主権を日本に売り渡した「乙巳五賊」と罵倒されました。こうした中、皇帝の侍従武官長・閔泳煥(日本軍に虐殺された明成皇后〈閔妃〉の甥)は抗議の自決をしたのです。また、元老・趙秉世もアヘンを飲んで自殺し、ハーグへ密使として送られた3人のうちの李儁も協約無効の訴えがままならなかったことに憤り、抗議の自殺をしました。

 伊藤博文が満州旅行の途中で立ち寄ったハルビンで安重根に射殺されたのはそれから4年後の1909(明治42)年10月26日でした。安はわが国では「テロリスト」と称されていますが、韓国の国定中学校国史教科書では彼のことを「わが国と大陸への日本の侵略をくいとめ、わが国の独立を維持することとともに、東アジアに平和をもたらす遠大な意志をもっていた」義兵将と称えられています(石渡延男監訳者・三橋広夫共訳者『入門韓国の歴史〔新装版〕――国定韓国中学校国史教科書』2001年、明石書店、318~319ページ)。このような史実をひも解けば、伊藤博文を「韓国の独立・保護に腐心した」非戦論者とか平和主義者と描くことがいかに現実のねつ造であるか、わかると思います。

日本は国際法を守ってフェアに戦ったと描く歴史のねつ造◆

 先に触れたように、原作もNHKのドラマも東郷平八郎の一言一句を取り上げて、日本は国際法を遵守した戦いをしたかのように描いています。また、作家の関口夏央氏は日本放送協会出版協会が刊行した『NHKスぺシャルドラマ・ガイド 坂の上の雲第1部』(2009年)に収録された談話のなかで、19世紀の戦争は二国間の限定戦争で、他国は当事国と軍事条約がないかぎり中立を守ったという意味で「フェアな」戦争だったと語っています。

 しかし、日露戦争において日本が日露間の「厳正中立」を宣言していた朝鮮政府の承認も「要請」も得ないまま臨時派遣隊を朝鮮に派兵して首都ソウルに進駐させたことはまぎれもない事実です。もっとも、日本は朝鮮へ出兵をしたり、当地での権益を拡大したり外交権を掌握したりする際には武力を背景にした威圧によって韓国皇帝や政府に非自発的「要請」という形をとらせるのが常套手段でしたから、国際法の手続きを形式的に踏まえたからといって無法な侵略行為を正当化するのは荒唐無稽な議論です。
 しかも、日本は日清・日露戦争において、人道的な意味でも「文明国らしい」フェアな戦いとは対極的な残虐行為を繰り返しています。ここではその典型例として、1895(明治28)年108日に起こった朝鮮王妃(明成皇后)殺害事件と日清戦争の終末時に起こった旅順虐殺事件を紹介しておきたいと思います。

(1)明成皇后殺害事件
 1985(明治28)年4月に下関条約が締結され日清戦争は終結しました。しかし、戦勝国のはずの日本は三国干渉により清国への遼東半島の返還を余儀なくされ、これを機に朝鮮では日本の影響力が後退し、朝鮮政府内ではロシアへの接近を強めようとした閔一族が勢力を拡張しつつありました。その閔一族の中で、日本政府が権力の中枢にいると見たのが王妃・閔妃(明成皇后)でした。
 同年9月に在韓公使に着任した三浦梧楼は陸軍中将上がりで行政手腕は全く劣っていましたが、陸軍で気脈を通じていた本国の川上操六と頻繁に電信連絡を取り合い、閔妃一族の排除、親日的政権の樹立を画策しました。同年108日未明、大院君を担ぎ出して王宮に侵入し、宮内の警備隊や王妃の身辺を世話した女官らを次々と殺害したあと、王妃の寝室に乱入して殺害し、死体を庭に引き出して焼き殺し、殺害の痕跡を消したのです。当初は閔一族の支配を快く思っていなかった大院君率いる朝鮮兵に王妃殺害を仕向ける計画でしたが、大院君がこれを渋る中、日本兵が直接王妃殺害を実行したとされています。この間、国王・高宗は王宮近くのロシア公館に逃げ込みました。
 事件が海外の新聞で報道されたため、日本政府は黙過し通すことができなくなり、関係者を召喚して裁判にかけましたが、全員証拠不十分で無罪放免されました。

 では、一国の王妃の寝室に刀を振りかざした日本兵が乱入し、問答無用で切り殺すというこの事件について、NHKのドラマはどのように伝えたでしょうか? この事件に触れたのは第5回「留学生」でしたが、この回は日清戦争が終わり、従軍から伊予松山に戻った正岡子規、軍艦「筑紫」に乗って呉に戻ってきた真之、陸軍乗馬学校の校長に任ぜられた好古の消息を、それぞれ描写する場面でした。番組では、これらの場面の合間に唐突に、また、こともなげに、「このころ、朝鮮で大事件が起きた。王妃閔妃(明成皇后)が朝鮮公使率いる日本人たちによって暗殺されたのである」というナレーションが流されただけでした。しかも、その直後には「この難局を突破するにはロシアに対応できる軍備の拡張しかありません」と主張する陸奥宗光に対し、「いまでさえ国民は重税にあえいでいる」といって反論する伊藤博文の姿をクローズアップしました。これで、残忍な明成皇后殺害事件は「平和主義者」かのごとく振る舞う伊藤博文の姿によってかき消された感がありました。

 この事件について、もう1つ、触れておかなくてはならない点があります。それはNHK出版が刊行した『NHKスペシャルドラマ 歴史ハンドブック 坂の上の雲』(2009年)に収められた「ひとくちMemo」の中で、この事件について次のように解説されている点です。

 「閔妃とは李氏朝鮮26代皇帝高宗の后であり、明成皇后と呼ばれる。大院君の追放後、近代化に眼を向けたのだが、旧式軍隊と大院君とのクーデターにより清国に助力を頼み、日清戦争後は、ロシアに接近していく。閔妃に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国に警戒され、1895年、大院君を中心とした開化派武装組織によって景福宮にて暗殺され、その遺体は武装組織により焼却された。悲しい運命に翻弄された一人でもある。」(17ページ)

 私はこのような一文が、NHKの子会社が出版する書物に書かれているのを知った時、驚きあきれました。閔妃と大院君が確執しあっていたことは確かですが、大院君は閔妃殺害はおろか、日本が仕組んだ閔妃追い落とし工作に加担することさえ拒んだのが事実でした。また、事件当日、王宮内に武装した開化勢力がいたという事実は日本軍からも報告されていません。
 それどころか、まるで武勲かのように自分がやったと名乗る日本兵が幾人かいるのが実態です。福岡の櫛田神社には皇后の寝室に乱入した3人のうちの一人、藤勝頼が寄贈した肥前刀が保管されています。この備前刀は江戸時代の16世紀に忠吉という職人が殺傷用に製造した刀といわれていますが、その白木の鞘には「一瞬電光刺老狐」と刻まれています。「狐」というのは事件の首謀者・三浦梧楼が閔妃を「女狐」と呼び、暗殺計画に「狐狩り」という暗号を付けていたことに由来するとみられています。また、鞘に記名された「夢庵」は勝頼の号で、彼の第二刀が王妃を絶命させたといわれています(高大勝『伊藤博文と朝鮮』2001年、社会評論社、118ページ)。

 韓国では「日帝の七奪(罪)という言葉があるそうです。七奪とは、王母、民族、土地、食糧、自由、名前、人命を奪ったという意味です。ここでいう一番に挙げられている「国母」とは王妃・閔妃です。なお、安重根が伊藤博文を暗殺する時に挙げた15条の理由の第1が閔妃殺害でした。

(2)旅順虐殺事件

 原作は「日清戦争」の項の中で、「旅順というのは、戦いというものの思想的善悪はともかく、二度にわたって日本人の血を大量に吸った」(第二分冊、107ページ)と記しています。そして、NHKのドラマでも原作にならって、旅順攻略にあたって好古が砲台を攻略する作戦に関する意見書を提出したこと、それを第二軍司令官・大山巌が絶賛したことを時間を割いて紹介しました。もっとも、当の好古が率いた騎兵第一中隊は目標地に向けて進軍する途中で予想外に大規模な清国軍と遭遇し、退却を余儀なくされますが、ここでもNHKは原作に忠実に、好古が自ら酒をぐいと飲みながら、危険な最後尾で敢然と指揮を執り、敵の追撃を食い止めた剛毅な名将ぶりを印象づけました。

 しかし、事実はどうだったのでしょうか? 第二軍の旅順攻撃が功を奏して市内に入った日本軍部隊が1894(明治27)年11月21日以降の4日~5日間にわたって、抗戦の意志がほとんどなかった清国兵士のみならず、逃げまどう民間人も無差別に殺戮するという事件が起こったのです。その時の「地獄に等しき惨状を目撃し」、本国に伝えた外国新聞記者の手記等を収集した井上晴樹『旅順虐殺事件』(1995年、筑摩書房)によれば、市内に突入した第二軍兵士が、その3日前の戦闘で生け捕りにされた日本兵の生首が道路わきの柳の木に吊るされていたのを目撃して激情し、復讐心を募らせたのが引き金になったとのことです。それはともかく、日本兵は民家の隅で道路わきでおののきながら命乞いをする住民や小売商人を捕虜にするのではなく、サーベルや銃で次々と殺戮していったのです。虐殺された人数については諸説ありますが、中国が建立した旅順の万忠墓には「1万8百余名」と刻まれています。

 このような史実を知れば、「旅順というのは、・・・・・日本人の血を大量に吸った」とのみ記し、被侵略国の相手軍の多数の兵士・民間人が日本兵によって虐殺された事実を伝えず、「受け身の戦争だった」などと解説することがいかに史実を歪めるものか明らかです。

 なお、『NHKスペシャルドラマ・ガイド 坂の上の雲 第1部』(2009年、NHK出版)は「従軍記者が見た日清戦争」というコラムを挿入し、その末尾で日清「戦後に起こった旅順での民間人殺害事件は、こうした外国人記者の報道によって明るみに出たのである」(133ぺージ)と記しています。しかし、これでは、どのような殺害事件だったのか、まったく伝わりません。

 また、ドラマの第4回では、日清戦争末期に自ら志願して戦地に赴いた正岡子規が陣中日記に書き留めた「なき人の むくろを隠せ 春の草」という句を子規と面会した森林太郎(鴎外)が詠みあげ、「正岡君らしい写実の句だね。簡潔だ。だからこそ胸を打つ。」「戦争の本質から目をそらして、やたらと戦意をあおるだけの新聞は罪深い。正岡君が書く従軍記事なら、写実でなくては困るよ」と語りかける場面を挿入しています。これと前後しますが、旅順虐殺事件の翌年、1895(明治28)年4月15日の陣中日記の中で子規は、「○○湾に碇を投ずれば乞食にも劣りたる支那のあやしき小舟を漕ぎつけて船を仰ぎ物を乞ふ。飯の残り莚の切れ迄投げやる程の者は皆かい集めて嬉しげに笑ひたる亡国の恨は知らぬ様なり」と記し、それから数日後の日記には「條約交換も今日に迫りて復た休戦の噂など漏れ聞ゆ。心安からぬ事多かり」と記しています。このような子規の遺した戦場体験の記録をみても、子規が歩んだ道もまた「明るい明治の青春の坂道」と形容するには程遠かったことが分かるでしょう。

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コメント

 右でも左でもない
ただの主婦が 抱えられなかったものは
「息子や娘の韓国人の友人達に申し訳ない!」といった感情でした。

知性を磨き乗り越えなければ・・・と
思っています。 

投稿: グリ猫のママ | 2010年6月 1日 (火) 11時20分

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