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入不二基義『相対主義の極北』を読んで(2)

相対主義は自己無効的か?
 著者は、相対主義は自己矛盾によって自己論駁的であるとも、無限後退によって自滅するとも証明されていないという。しかし、それでも、と著者は続けて次のように反問する。

 「相対主義は、相対主義者でない者を説得して自らの考え方を認めさせるだけの力を持たないのではないか。いわば、相対主義は、自らを否定しないまでも、他者に対して自らを積極的に肯定できない。そうして、相対主義は自らその主張を弱体化し、結局は自ら退場していく思想ではないのか。相対主義は、自分の主張が認められるという目標を、自ら拒んでいる主張ではないのか。つまり、相対主義は『自己無効的』ではないかという批判である。」(102~103ページ)

 著者はこうした相対主義批判を、メイランドの「認識の相対主義のパラドックス」(Meiland, J. W,. “On the Paradox of Cognitive Relativism,” Metaphilosophy, Vol. 11, No.2, 1980の第5~8節)に従って次の3つに分解し、それぞれを順番に検討している(103ページ以下)。

①相対主義者でない者が相対主義を受け入れる可能性は、まったくない。
②相対主義者でない者には、相対主義を受け入れる理由――合理的な根拠――はまったくありえない。
③相対主義者は、相対主義の説を述べる動機、特に、相対主義者でない者に向かって述べる動機をまったくもちえない。

 しかし、私は相対主義の自己無効性に関する議論をこのように整理するのは多分に恣意的で、「有効な議論(批判)とはいえない」という答えを半ば誘導するのに等しいと思えた。なぜなら、①のように「受け入れる可能性がまったくない」と表すと、「可能性はまったくないとは言えない」というおざなりの批判をあてがうことはたやすいからである。また、②のように「合理的な根拠はまったくない」と表すと、メイランドならずとも、「批判者の言う『合理性』の要求自体が合理性を欠いたイデオロギーではないのか」という切り返しをいとも簡単に思いつく。しかし、これでは水掛け論に過ぎず、哲学的思惟に基づく応答とは言えない。では、③はどうか? 入不二氏も言うように、これに対するメイランドの返答はいたってシンプルである。つまり、相対主義者はそもそも何かを「語る」「言う」動機をもちえないのではないかという批判は「語る」「言う」ということを狭くとらえ過ぎているから、相対主義者の「語り」が無力に見えてしまうだけである。しかし、純粋に客観的なあるいは絶対的なことだけが表明に値するわけではなく、文学・美術・音楽・詩など私たちの生に意味や意義を与えてくれる主観的な世界経験を語ることも意義があるはずである、とメイランドは反論する。入不二氏はこうしたメイランドの反論を援用して相対主義の自己無効性という批判は挫折すると結論づけている(109~110ページ)。

 こうしたメイランドの反論はどうも直感の域を出ない月並みな議論と思える。しかし、だから価値が低いというわけではなく、そこには重要な示唆が含まれていると感じる。それはどういうことかというと、相対主義には他者に向かって何かを主張するという能動性に欠ける点があるとしても、相対主義でないものの主張に絶えず懐疑を差し向け、その否定形として機能し、彼らに絶えず内省を促す「ネガ」としての役割を果たす、という点である。入不二氏はこれを相対主義の一つの帰結である懐疑論の潜在力という観点から次のように述べている。

 「徹底的な懐疑論とは、実在や真理についての知をただ『否定する』だけでの単純な不可知論ではないし、実在や真理をただ『否定する』だけのニヒリズムでもない。むしろ懐疑論は、全体化する否定性を介して、到達不可能な実在や真理との関係を創出し続ける。」(176ページ)

 入不二氏がいわんとすることはわかるような気がするし、私が相対主義に対して抱く上記の積極的側面と近いようにも思える。現に、「ネガ」という巧みな言葉は入不二氏が用いたものである。ただ、入不二氏が相対主義の帰結としての懐疑論がたんなる不可知論でもニヒリズムでもない、それ以上の何か積極的なものを持つというなら、下線部分の意味が重要になるのだが、肝心のその部分の文意が私には理解不可能である。むしろ、懐疑論の積極的意義を考えるには、下線部分のような難解な言い回しよりも、その箇所の少し後で入不二氏が記している次のような文章を吟味する方が懐疑論の功罪をより日常レベルで考えるのに適していると思える。

相対主義の建設的転回
 「懐疑論は、証拠によっても(超越的な)論証によっても、根絶することはできないとしても、それを回避し無視することはできるかもしれない。現に私たちの実際の生は、懐疑論的な疑いの可能性とは別のところで進行していく。・・・・懐疑論もその批判もともに生じることのない、ただ『実際こうなっている/こうやっている』という無根拠な原事実こそが、私たちの自然なのである。・・・・私たちの生のありよう=自然は、懐疑論を論駁するのではなく、それを『遊び駒/遊んでいる歯車』として無力化して脇へ退けてしまうのである。」(178~179ページ)

 入不二氏がまとめた懐疑論に対するこうした自然の生の立ち位置は私が懐疑論に対して抱く感想とぴったり重なる。野矢茂樹氏は本書に収録された解説のなかで、入不二氏の議論が「きわめて明解な論理をもちえているのは、その図式性によるところも大きい。だが、図式的な議論の明快さは、やはりそれなりに失うものをもっている。錯綜した構造をもつ議論が大胆に裁ち切られていくとき、何か断ち切りがたい思いが手元に残される。そして再び、(これはつまりどういうことなのか)という感に打たれるのである」と述べた後、「せめて、読者とともに本書の議論に少しでも寄りつき、入不二がどこで私を振り切って走り去っていくのか、その地点のひとつを示してみたい」(296~297ページ)と記している。
 この野矢氏の巧みな表現を借用していうと、「私たちの生のありよう=自然は、懐疑論を論駁するのではなく、それを『遊び駒/遊んでいる歯車』として無力化して脇へ退けてしまうのである」という言葉は、現実の私たちの生は懐疑論を擁護する入不二氏の難解な言い回しを「遊び駒」として「無視し」、入不二氏を「脇へ退けて」黙々と走り去っていくのである、というように反転させることができるのではないか?

 しかし、入不二氏は、このような懐疑論、あるいはそれを擁護しようとする入不二氏自身を脇に退け、無視して通り過ぎしまおうとする人々を次のように引き止めようとしている。

 「しかし、自然と反省とを対置し峻別するというその思考自体は、哲学的な反省ではないのだろうか。あるいは逆に、自然に逆らう哲学的思考をすること自体もまた、私たちの生の原-事実=自然ではないのだろうか。むしろそのことを確認することは、(無視され回避されるものとしての)懐疑論を呼び出し続けることになる。自然主義は、懐疑論を忘れることはできても、忘れたということを忘れてしまうことはできないのである。」(179ページ)

 はたしてそうだろうか? このような言葉からは懐疑論者と日常の生を営む市井の人々の間の哲学的思考力の落差が問われているかに聞こえる。確かに事実としてそのような落差があることが否定するまでもない。しかし、話はそれを確認し、「自然主義は、懐疑論を忘れることはできても、忘れたということを忘れてしまうことはできない」という、いささかレトリックめいた言い回しを投げ返して済むとは思えない。これは本書全体を通して私が感じることであるが、入不二氏の議論には、相対主義批判の有効性を判断するハードルと、相対主義の反批判の有効性を判断するハードルには相当な落差があるように思えてならない。後者と比べて前者のハードルは不均衡に高いという落差である。こうした落差は懐疑論と自然主義の論理を比較検討する時にも見受けられるような気がする。
 つまり、懐疑論擁護者は、私たちの実際の生のあり様に反省を促す前に、自らの論理―日常の生を営む市井の人々になぜ自分たちは無視され、退けられるのか、自分たちの議論が市井の人々の関心を惹き付けるに足る魅力を持ちえていないのはなぜなのかを内省する必要があるのではないか?

 これに関する私の応答は単純といえば単純である。入不二氏も言うように、懐疑論がたんなる不可知論でもニヒリズムでもない、それ以上の何か積極的なものを持っていて、反相対主義者との建設的な対話を可能にすると同時に、日常の生を営む市井の人々を自分たちの議論に引きとめるよう動機付けるためには、絶対主義に内省を促す「ネガ」としての他律的存在にとどまらず、既成の真理を相対化する新しい見解を能動的に提示するよう心掛けることであると思われる。他者の議論を相対化することが自己目的かのような存在になった相対主義の極北は、やはり不可知論ないしはニヒリズムでしかない。市井の生活者はもとより、社会の実践的課題に向き合う規範的倫理学にとって、他者に内省を促す「ネガ」に甘んじることはできない。そればかりか、自らがポジティブな別の認識の枠組みを提示してこそ、他者の議論を相対化し、他者に内省を促す説得力が増すのである。

歴史相対主義を超えて
 議論を歴史相対主義に具体化し、日清、日露戦争を朝鮮半島に南下しようとするロシアとの対抗上、やむなく開戦するに至った受け身の戦争と捉え、そうした時代背景のもとで日本が朝鮮半島に派兵したことを「侵略」と呼ぶのは時代錯誤であるという議論の真偽を考えてみよう。と言っても、ここで問題にするのは結論ではなく、論証の方法・枠組みである。入不二氏は行論でしばしば、互いに共有できない前提条件に基づく批判は外在的批判ないしは「遠回りの批判」であるとみなしている。はたしてそうか? この論法でいくと、歴史学における相互批判の大半は外在的批判となり、入不二氏によるとそれは有効でないとみなされることになる。しかし、特定の歴史認識は関連する史実の累積的分析・評価に基づいて形成されるものであり、そこでは史実の分析は歴史認識を支える前提条件といってよい。むしろ、そうした史実の丹念な調査・分析の支えを欠いたさまざまな議論が「○○史観」と称されて通用しているところに歴史学の不幸な混乱があるのではないか(と門外漢の私には思える)。とすれば、どのような史実をキー要素とするかは論者の恣意に委ねられてよいわけではないし、仮に論者によって史実の取捨選択に差が出たとしても、それを以て共有不可能な前提条件にもとづく外在的批判として斥けたのでは歴史学の分野の論争は大半が「不毛な」論争とみなされてしまい、それこそ不可知論が闊歩する状況になりかねない。
 あるいは、議論を転換させて、外在的批判ではなぜいけないのかという開き直りも可能と思える。研究者が用いる史実は研究技術や資料の公開の進展度に応じて時代の制約を受けるが、そうした制約の中で入手可能な史実を丹念に渉猟し、それを踏まえて議論を交換することにより、見解の幅を不断に狭めていくことは十分可能である。たとえば、日清・日露戦争の性格を議論する場合、開戦に至る経緯を明らかにすることが重要であるが、日清戦争についていうと近年、福島県立図書館に所蔵された佐藤文庫に収められている『日清戦史』草案を解読することによって、1894年7月23日に日本軍が実行した朝鮮王宮占領事件とそれを機に大院君に強要して日本軍が清兵掃討の「嘱託」を得た実態が克明に明かされた(これについては、中塚明『歴史の偽造をただす~戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』1997年、高文研を参照せよ)。また、日露戦争についていうと、近年、ロシア側に遺された資料が利用可能になり、ロシアの研究者との共同研究も進展したことによって、当時のロシアの極東戦略が従来以上に明らかになってきた。これを受けて日露戦争が必ずしも不可避ではなかったことが明らかになり、「ロシアの南下戦略の脅威」という開戦の大義名分が大きく揺らいでいる(和田晴樹『日露戦争起源と開戦』上、下、2009年、岩波書店、を参照)。このような史実は日清・日露戦争の性格を見極める上での前提条件に違いはないが、それが直ちに論者の間で共有されないからといって、有効な議論でないと退けたのでは歴史学は成り立たない。

 以上を要約して私の感想をまとめると、歴史上の出来事をめぐる議論や評価は何らかの史実を前提にして形成されるものであり、そこでどのような史実を主要なものとして採用するかは論者により一様ではないから、複数の見解が並存するのは当然のことである。しかし、このことを以て、歴史上の出来事をめぐる評価はその出来事が起こった時代背景、採用する史実の違いに応じて相対的な真実性しか持ち合わせないという議論を絶対視するのは誤りである。
 ある見解が相対的な真実性しか持ち合わせないとその見解を懐疑し、相対化することは、特定の見解を不易な真理として付和雷同するのを戒め、新たなより質の高い真理の探究に向けて人々の努力を誘う契機として極めて重要である。しかし、それは特定の見解の相対性を明かすことを自己目的とする相対主義を受け入れることを何ら意味しない。特定の見解の相対性を明かすことを自己目的とする相対主義は、選挙に臨む有権者にたとえていえば、「どうせどの政党が政権をとっても政治は変わらない」というニヒリズムを蔓延させ、有権者を政治から遠のかせる役回りを果たすことに帰着する。相対主義がこのような不可知論ないしはニヒリズムを帰結するのではなく、逆に、より高次の真理、よりよい質の生活や政治に人々を誘う建設的な役割を社会において果たすためには、他者の議論の矛盾なり限界を突いて相対化する「ネガ」の役割を果たして事足れりとするのではなく、他者の議論をより説得的に相対化するためにも、自ら別の見解を立てることが望まれるのである。これによって初めて、相対主義は他者の議論を弱体化させるだけで他者に対して積極的な見解を表明することがない自己無効の議論であるとか、相対主義は他者に自らの主張を認められたいという目標を持ち合わせない自閉的な議論であるとかいった批判を正面から跳ね返すことができるのだと私は思う。ただし、かくいう姿に相対主義が変貌したら、それはもはや語の本来の意味での相対主義ではなくなるのかもしれない。しかし、それは私からすれば相対主義の安らかな死であり、「相対主義死して相対化の価値残る」なのである。

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