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入不二基義『相対主義の極北』を読んで(1)

司馬史観を支える歴史相対主義
 司馬遼太郎の『坂の上の雲』に示された日清・日露戦争の歴史認識とそれを肯定する論者の思考回路を見ていくと、根底に歴史相対主義が共有されていることに気がつく。司馬史観をより根源から評価するには、この歴史相対主義と対峙しなければならないと考え、その基礎として、相対主義を扱った何冊かの書物を読み始めた。この記事では、そのうちの一つ、入不二基義『相対主義の極北』(ちくま文庫、2009年、2001年刊の原書を文庫本にしたもの)を読んだ感想を記すことにしたい。

 まず、この後の議論のために入不二氏が前記の書物で示した「相対主義」のとりあえずの定義を紹介しておく。

 「とりあえず、相対主義とは『真偽や善悪などは、それを捉える『枠組み』や『観点』などに応じて変わる相対的なものであり、唯一絶対の真理や正しさなどはない』という考え方だとして話を始めよう。」(21ページ)

 こうした相対主義はさまざまな学問領域や分野に浸透しており、「制度・信念・慣習などの『文化現象』は、他の文化から持ち込まれた概念・基準によって理解されてはならないのであり、各々の文化にはそれぞれ異なった理解の仕方や基準がある」(25ページ)という考え方は「文化相対主義」と呼ぶことができる。また、列強が領土争奪戦をした時代に日本はやむにやまれず参戦したのであって、それを侵略と批判するのは筋違いだという議論、昭和の戦争は悪かったかもしれないが明治時代の戦争はよかったという議論、現在の価値観で過去を見てはならないという議論などは歴史相対主義といえる(歴史相対主義の主なタイプは、山田朗『歴史修正主義の克服』2001年、Ⅲで平易に説明されている)。

 相対主義なり歴史相対主義をこのように定義した上で、私が日清・日露戦争をめぐる司馬史観の根底に歴史相対主義が流れていると考えるのは、『坂の上の雲』の中の次のような記述を念頭に置いている。


 「そろそろ、戦争の原因にふれねばならない。原因は朝鮮にある。といっても韓国や韓国人に罪があるのではなく、罪があるとすれば朝鮮半島という地理的存在にある。・・・・・清国が宗主権を主張していることは、ベトナムとかわりがないが、これに対しあらたに保護権を主張しているのはロシアと日本であった。・・・・・朝鮮を領有しようということより、朝鮮を他の強国にとられた場合、日本の防衛は成立しないということであった。・・・・・その強烈な被害者意識は当然ながら帝国主義の裏がえしであるにしても、ともかくも、この戦争は清国や朝鮮を領有しようとしておこしたものではなく、多分に受け身であった。」(文春文庫、第2分冊、48~49ぺージ)

 「日露戦争というのは、世界史的な帝国主義時代の一現象であることにはまちがいない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、追いつめられた者が、生きる力のぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であったことはまぎれもない。」(文春文庫、第3分冊、182ページ)

 平たくいうと、日本は日清・日露戦争を領土的野心からではなく、朝鮮半島が清国なりロシアなりの領土になった場合、日本はこれら列強と近接することになる、そうした国家の存亡に関わる脅威を排除するために日本は、やむなく清国およびロシアと戦ったのだという論法である。こうした論法は、ある戦争をどう評価するかはその戦争が起こった特定の時代状況(ここでは領土拡張に列強がしのぎを削った時代状況)、地政学的環境(ここでは朝鮮半島という地理的要因)に依存し、戦争の功罪を評価する唯一絶対の基準はないという思考の枠組みを採っている。この意味で日清・日露戦争を祖国防衛戦争と捉える司馬の歴史観は歴史相対主義を支柱にしているといってよい。

 また、日清・日露戦争を歴史相対主義の観点から捉える思考は、司馬の歴史観を擁護する人々の思考の支柱にもなっているように思われる。当時は清国やロシアが朝鮮半島の領有を虎視眈々と窺っていたのであり、日本が手をこまねいていたら、日本自身がロシアの植民地になった可能性がある、そうした時代背景を顧みず、日本の朝鮮出兵を侵略と決めつけるのは特定のイデオロギーによる断定にすぎない、という議論がそれである。

相対主義に対する外在的批判
 話を入不二氏の前掲書に戻すと、本書を読んで一番「頭の体操」になったのは相対主義に対するポピュラーな批判、つまり、認識の枠組みに依存しない絶対的な真理は存在しないという相対主義の主張は自己論駁的(self-refutation)だ、ないしは「自己無効的だ(self-vitiation, self-vitiating)」という批判の有効性を徹底的に吟味した箇所である。
 著者は、反相対主義者がいう「自己論駁的」にもさまざまなタイプがあると指摘したうえで、まず、外在的批判(ここで「外在的」と呼ぶのは私の解釈で、相対主義者が共有しそうにない前提条件を拠り所に相対主義を批判するタイプのこと)の有効性を吟味している。つまり、このタイプの批判者は、しばしば「相対主義の考え方からは、ある受け入れがたい帰結が出てくる」(75ページ)というのであるが、この場合の「受け入れがたい帰結」の中身は様々で、「相対主義からは非合理主義が帰結する」という主張もあれば、「相対主義からはニヒリズムが帰結する」という主張もある。また、著者は「普遍的な真理の探究を放棄する相対主義からは道徳的な退廃が帰結する」という主張もこれと類似の反相対主義とみなしている。
 しかし、著者はこれらの主張は相対主義への批判としては強力なものではないという。なぜなら、著者によると、批判者が挙げる帰結(非合理主義、ニヒリズム、道徳的退廃など)は受け入れがたいものであるという前提条件は批判者にとっての前提であっても、それを相対主義者が共有する保証はなく、そうした帰結が相対主義の考え方から導かれる結論であると論証されているわけでもないからである。要するに、こうした相対主義批判は、相対主義から導かれると自らが想定したものを、自らの前提条件に基づいて批判しているだけで、相対主義者に届いていないのである(75~76ぺージ)。

相対主義は自己論駁的か? ~相対主義の自己適用問題~
 そこで、次に著者が吟味の俎上に乗せるのは、相対主義は自己論駁的であるという内在的批判である。ここで「内在的」批判というのは、相対主義自体の前提に基づいて相対主義を否定する帰結を導こうとする批判の仕方という意味で(入不二氏ではなく)私が命名した用語である。真理は認識の枠組みに依存するという相対主義が自己論駁に帰着するかどうかを著者は相対主義の自己適用問題として検討している。

 まず、著者は、相対主義は自己適用されないと想定した場合の論理的帰結を吟味している。ここで「自己適用されない」というのは、「どんな主張や見解もある認識の枠組みにおいて相対的に真であるにすぎない」という相対主義の命題は相対主義自体には適用されないという意味である。となると、相対主義は、なんらの認識の枠組みにも依存しないような絶対的真理の存在を否定すると同時にそれを肯定するという自己矛盾(自己論駁)に陥っているというのが、ここでの相対主義批判のエッセンスである。
 しかし、入不二氏はこうした相対主義批判は成功しているとは思えないという。なぜか? 著者によると、相対主義は自己適用されないというのは、相対主義は自分にだけを例外扱いし、自らを絶対的な真理の位置においているという点でその「尊大さ」を責められるかもしれないし、なぜ相対主義だけが例外でありうるのかが問われるだろうという。しかし、こうした尊大さや不誠実は「矛盾」ではないと著者はいう。さらに、相対主義は絶対的な真理の存在を考察対象のオブジェクトレベルで否定する一方、絶対的な真理の存在をメタレベルで肯定しているのである、このように真理の相対性と絶対性を異なるレベルで主張することは矛盾ではない、よって、相対主義はそれを自己適用しない場合、自己論駁には陥らないというのが入不二氏の結論である。

 では、相対主義を自己適用する場合はどうか? ここで相対主義を自己適用するとは、「『どんな主張や見解も採用される認識の枠組みに依存するという意味で相対的に真であるにすぎない』という主張もまた、採用される認識の枠組みに依存するという意味で相対的に真であるにすぎない」という命題を指す。著者は、このような帰結は相対主義の矛盾でも自己否定でもないという。むしろ、著者は「すべての真理は相対的である」という真理もまた相対的であるという帰結は、すべての真理を例外なく相対化する相対主義の力(魅力)の発現とみなし、自己論駁ではないと切り返すのである。

相対主義の自己適用の徹底~相対主義の彼岸にあるものは?~
 しかし、著者はこうして相対主義が自己論駁を免れることを論証してよしとせず、相対主義の自己適用を徹底した彼方に見えてくる帰結を追跡する。本書ではそれを素人にはいささかくどく思える記号式を使って説明しているが、平たく言うと、
 T0:すべての真理は相対的である。
 T:T自体も相対的である。
 T:T自体も相対的である。
 T:T2自体も相対的である。
 ・・・・・・・
 T:Tnー1自体も相対的である。
 ・・・・・・・
という無限後退(無限遡及)となり、相対主義の「あらゆる真理を相対化する力」は「相対化に終わりはない」という帰結を導く。では、無限後退するということは相対主義にとって何を意味するのか、と著者は問いかける。相対主義の徹底は確定した主張に収斂しないということは自滅なのか? 著者はそうとは見ない。むしろ、著者は昆虫の変態をたとえにして、「蛹」という時期には食事も移動も行われず、幼虫期の身体の構造がいったん失われてしまうが、そうした時期を経過して初めて、内部器官や組織が成虫へと改変されるのと同様に、相対主義は無限後退を続けることで新たな生の段階へ移行することを意味しているという。
 著者はこうした相対主義の無限後退が意味することを、出来事の過去・現在・未来という時制の無限後退をたとえにして説明している。我流の理解で平たく要約すると、ある出来事はそれが生起する以前に予見という未来事象として認識される。やがて時間の経過ととともに、予見された事象が現に生起し、現在事象となる。が、その出来事は瞬時に過去事象となる一方、新たな出来事が予見されたり(新たな未来事象)、現に生起したり(現在事象)する。歴史上のすべての事象はこうした未来・現在・過去という時間軸上の無限連鎖を経て生成・消滅を繰り返す。それと同様に、相対主義も無限後退を通じて次々と真理を相対化する潜在力を発揮するーーー著者が言いたいのはこういうことらしい。「らしい」というのは、正直のところ、この箇所は私には非常にわかりにくく、誤読の可能性もあるからである。しかし、入不二氏と同学の野矢茂樹氏が書いた「解説」を読んで、本書のこうした難解さはどうも私の理解力の不足だけに起因しているのではなさそうだと思えてきた。野矢氏は「解説」の中の数箇所で哲学者たちの議論の構造を分析する入不二氏のメタ哲学的手腕を称賛しながらも、必ずといってよいほどそれに続けて、著者が用いた例は抽象的であると記し、「ふーむ、これはつまりどういうことなのだろうという感を強くした」と述べている。相対化の無限運動というくだりについても、である(301302ページ)。

 そもそも、私には、さまざまな出来事が時間軸の上で未来事象・現在事象・過去事象へと転変するという、それ自体自明の無限連鎖は、真理の相対性を主張する相対主義の相対性の無限連鎖の帰結を評価するときのたとえとして適切なのか、形式的に対比が可能だとしても両者を対比することにどのような実質的含意があるのか、疑問に思えるし、著者はそれについて何も語っていない。

 しかし、私が相対主義の自己論駁性をめぐる入不二氏の議論のなかでより重要と思ったのは、相対主義の論理に内在的な矛盾があるかどうかということよりも、著者が相対主義に秘められた力とみなす「相対化の無限の力」の中身であり役割である。これを著者自身の言葉で言い換えると、「相対主義を修正するのではなく、相対主義を徹底することによって、相対主義が純化され、その極点で蒸発するまでのプロセスを追いかけるというのが、私の基本方針である」(355ページ)と入不二氏がいう時の「相対主義を徹底する」とか「相対主義を純化する」とか「その極点で蒸発する」という言葉の中身は何なのかということ、そして、「相対主義を徹底し純化したその先に現れる帰結」とは何なのか、その帰結にどのような効用が期待されるのかということである。しかし、著者が採用するメタ倫理学的手法からすれば、ある主張なり見解をその効用に照らして評価するという方法が共有されるとは限らない。現に、本書では相対主義の無限後退に続く節で「相対主義は自己無効的か」という見出しで相対主義の有効性を対論者との関係の中で吟味している。(この稿、続く。)

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