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長崎の原子野で被爆者の辛苦を綴った詩人・福田須磨子~被爆65年目の長崎・広島を訪ねて(1)~

 これまでに私はこのブログで原爆に関する次のような記事を書いた。

①正田篠枝:原爆歌集「さんげ」に触れて(2007328日)
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_c69b.html


②被爆少女の手記にまで及んだGHQによる原爆記録の検閲(200745日)
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_8c34.html


③雑感 NHK「思い出のメロディ」を視て(2007812日)
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_e386.html


 その後も、GHQによる原爆報道や原爆に関する著作物への検閲について、細々とではあるが資料を調べたり、手に入れた資料に目を通したりしてきた。そんな中、今年の7月にインターネットを検索しているうちに、長崎県立図書館で「平成22年度長崎ゆかりの文学展<第2回企画展>」と銘打って、「原爆文学展」が開催されていること、またそれと併せて石田雅子『雅子斃れず』の原稿なども展示されていることを知った。「原爆文学展」では林京子、山田かん、福田須磨子らの直筆原稿や書簡等が展示されているとのこと。『雅子斃れず』というのは上のブログ記事②で「被爆少女の手記」と書いた石田雅子の原爆体験記のことである。これはまたとない機会と思い、95日までとなっていたので、別の仕事が終わる9月早々に出かけることにした。しかし、せっかく長崎まで行くなら、この機会に広島にもと思い立ち、結局91日から34日の日程で長崎、広島に出かけ、原爆の史跡と碑めぐりをすることにした。ただし、現地へ行ってみると、各地の資料室(長崎県立図書館、広島平和記念資料館内の原爆資料室、広島市立中央図書館)に被爆地ならこその資料がそろっていることがわかり、時間的にはこれらの資料室で調べ物をする時間が一番多くなった。以下、4日間の長崎、広島巡りを通じて特に印象に残ったことを主題別に数回に分けて書き留めておきたい。一回目は長崎の原爆詩人・福田須磨子を取り上げる。

長崎県立図書館で
 出かける前に私が長崎ではここだけはと考えていたのは、県立図書館で『雅子斃れず』の直筆原稿等の展示物を確かめることと前記のブログ記事③で触れた永井隆の旧居「如己堂」、永井隆記念館を訪ねることだった。しかし、下調べのつもりで古書店から買った水田九八二郎『ヒロシマ・ナガサキへの旅』中公文庫、1993年、を読むうちに、長崎の原爆文学では福田須磨子に関心が湧いてきた。それまで私は彼女のことはまったく無知だったが、上記の「原爆文学展」にも彼女の展示物が入っていたことから、どんな人物なのか気になったのだ。
 91日、1015分に長崎空港に着き、11時半ごろJR長崎駅前のバスターミナルで下車、ホテルに荷物を預け、駅前の百貨店の2階のレストランで昼食を済ませて、市電で長崎県立図書館に向かった。図書館は長崎歴史文化博物館の裏手の丘の位置にあった。県立というにしてはいささかこじんまりした建物だったが、「原爆文学展」は4階の「郷土資料」階にあった。入室して手前が展示室、その奥が閲覧室になっていた。

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 展示室に入ると福田須磨子のコーナーには飼い犬を抱いてほほ笑んだ写真入りの略歴が掲示されていた。彼女の生い立ちの説明に代えて、それを転記しておくことにする。

             〔福田須磨子の略歴〕
 
*大正11323日 長崎市生まれ
 
*昭和4942日  没(52歳)
 ○略歴
    高等女学校卒業後、小学校の代用教員となり、のち師範学校勤務。昭和20年  
    被爆、家族は爆死する。
 昭和30年(33歳)
  *朝日新聞「ひととき」欄に、被爆者の苦しみをつづった詩「ひとりごと」が掲         
   載される
  *被爆による紅斑症の症状があらわれ、入退院を繰り返す
  *「長崎をつづる会」に入会
 昭和31年(34歳)
  *処女歌集「ひとりごと」がガリ版刷りでつづる会より発行される
 昭和33年(36歳)
  *第二詩集「原子野」が刊行される
  *原水爆禁止運動に積極的にヵかわり、鋭い告発をする
 昭和35年(38歳)
  *全国的反安保闘争に参加、被爆者代表の一人として病をおして上京
 昭和38年(41歳)
  *第三詩集「烙印」発行
 昭和42年(45歳)
  *「われなお生きてあり」が完成。2年後に第9回田村俊子賞受賞
 昭和44年(47歳)
  *「長崎の証言」創刊号にエッセイを書く。以後もエッセイや記録を寄せる。

 その他、福田須磨子の展示コーナーには「原子野」の直筆原稿(下書き)、「人間として2」、「人並みのしあわせ」の直筆原稿(下書き)、「母を恋うる歌」(『原子野』に収められた詩)や、原田操宛書簡(昭和4867日消印)、自作のどんぐり人形も展示されていた。両親と長姉、そして家財を一瞬の被爆で失い、自らも被爆の後遺症を患って入退院を繰り返し、貧苦と人間不信に苦しみ抜いた彼女の生涯を知るにつけ、犬を抱いてほほ笑む彼女の写真がことのほか印象的だった。
 展示室を一通り回った後、奥の閲覧室で原爆関係の地元資料を調べ、地元でしか入手できそうにない資料(『西浦上国民学校被爆追悼記』、長崎歌人会編『原爆歌集ながさき』、高嶋ミヤ子『一動員学徒の原爆体験――長崎の原子爆弾被爆体験の記録――』)を複写して、15時40分頃、県立図書館を後にした。ホテルに戻って目を通した『原爆歌集ながさき』から4首。

   黒焦げの女が壁にへばりつき悪獣めきし血を滴らす

   総懺悔などと美辞もつ過去がありて原爆死すら言へざりき 日本
                             小山誉美(短歌長崎)
    
(注)アメリカ占領軍の指示により、被爆者慰霊碑に「原爆」という文字を入れる 
       ことが許されなかった当時の状況を詠んだ歌と思われる。

                            

   爛れたる皮膚にうごめくうじ虫をつまみて捨てる割箸もちて

   タイヤなきリヤカー曳きて暗闇に重傷(いたで)の兄を乗せて避難す
                            阿鼻叫
喚 木下隆雄


爆心地北部を歩く

 ところで長崎で回ってみたいと思っていた原爆の遺跡は爆心地公園に集っていたが、それは明日に残して、この日は県立図書館を出て市電で長崎駅前を通過して大橋まで乗り、下車後、爆心地より北方の旧山里国民学校(現・山里小学校)、永井隆の旧居・如子堂、そのそばの永井隆記念館、浦上天主堂を巡り、1715分頃に平和公園に着いた。炎天下、持参の御茶ではのどの渇きが止まらず、山里小学校近くの自販機でオレンジジュースを買って飲みながら歩いた。平和公園内では長崎の鐘、平和の泉、平和祈念像といった定番コースを回り、平和祈念堂横の被爆者の店に入ったのは1745分頃だった。土産物を買い地方発送するつもりだったが18時閉店と聞いて、店の人に明日出直すと告げると、「まだいいですよ」という返事だったので、長崎ちゃんぽんと手焼きのカステラを買い発送を頼む。店を出て斜め前にある原爆死没者追悼記念堂に寄り、慰霊の碑文に見入る。
 帰路は松山町から市電に乗車、ホテルに着いてチェック・イン。部屋で汗を流して長崎駅すぐ横のアミュ・プラザ長崎の5階の広東・台湾料理店「上皇上」へ。長崎ちゃんぽん他の夕食にした。ちゃんぽんはさすがに美味しく、猛暑で乾いたのどを潤すビールも格別だった。

福田須磨子の詩碑を訪ねる
 
92日、9時半頃、ホテルを出て市電で松山駅まで。爆心地公園に入って原爆落下中心地に建てられた標柱、その東側に移設された浦上天主堂遺壁、長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑などを回り、40分ほど長崎原爆資料館を見て回った。出口のショップで横手一彦編著『長崎・そのときの被爆少女~65年目の「雅子斃れず」』を買う。資料館を出て、向かいの道路脇にある原爆句碑、長崎原爆青年乙女の会の碑、鎮魂「あの夏の日」の像(退職女性教職員長崎県連絡協議会建立)などを巡った後、福田須磨子の詩碑に着いたのは1140分だった。
 下の写真にあるとおり、碑は屏風のように三面から成っている。碑のデザインは長崎の詩人・山田かんの作で、切れ上がった両端は核の脅威を示し、中央に置かれた円筒形の碑の中には須磨子の詩集が納められているという(長崎平和研究所編『新版ガイドブックながさき』、2009年、新日本出版社、27ページ)。
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  また、円柱には聖フランシスコ病院長・秋月辰一郎の撰文が刻まれ、碑の正面には詩集『原子野』に収められた「生命を愛しむ」が刻まれている。
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 この詩碑は福田須磨子が他界した翌年の1975年に建立され、翌76年の命日(42日)からこの詩碑の前に被爆者らが集い、故人を偲ぶ会が開かれている。
 ところで福田須磨子を語る時は、県立図書館の展示コーナーに掲示された略歴にも記された、19558月の朝日新聞「ひととき」欄に掲載された彼女の詩「ひとりごと」について触れておく必要がある。後に彼女の詩集『原子野』(1958年刊)の冒頭に同名の題で収められた詩である。
   何も彼も いやになりました
   原子野に屹立する巨大な平和像
   それはいい それはいいけれど
   そのお金で 何とかならなかったのかしら
   “石の像は食えぬし腹の足しにならぬ”
   さもしいといって下さいますな、
   原爆後十年をぎりぎりに生きる
   被災者の偽らざる心境です。

 ここでいう「巨大な平和像」とは総額3,000万円をかけて平和公園の正面に建立された「平和祈念像」のことである。別途台座の制作に要した2,000万円は長崎市の予算から捻出されたが、像が完成した1955年当時、被爆者に対する法律的援護は皆無で、被爆の治療費も1957年に「原子爆弾被害者の医療等に関する法律」が施行されるまではすべて被爆者が自己負担しなければならなかった。上の「ひとりごと」は被爆者援護を置き去りにして原爆の遺跡でもない像の建立に巨費を投じた行政に対する被爆者の疑問をありていに語ったもので、新聞に掲載されるや須磨子のもとに共感の便りが多数寄せられた。

被爆地の平和祈念像は観光長崎の名所なのか
 須磨子の投稿詩は平和祈念像の建立に対する素朴な疑問を表したものだったが、この像の建立のいきさつは実に俗っぽいものだった。『西日本新聞』は200287日から3回シリーズで掲載した「ナガサキの断層~被爆57年目の夏に~」下の中で長崎市が平和祈念像の建立を思い立ったいきさつを次のように記している。

 「しかし、犠牲者への冥福は当然としても、そのことだけで像が建立されたわけではない。観光長崎の新名所をつくりたい市当局と、像制作で永遠に自分の名を残したい〔北村〕西望の『過剰な自意識』が一体となって出来上がったものだった。
 そもそも祈念像の基本的な理念はどんなものだったのか。五〇年、長崎市の関係者を前に西望は、ぜひ自分につくらせてほしいと次のように熱弁をふるう。
 『奈良時代に朝廷の下に全国を統一して日本を仏教国家にするために奈良の大仏がつくられた。同じように平和運動を進めるためにも奈良の大仏にならってできるだけ大きな男神像をつくるべきだ。女神ではダメ、絶対男神だ。大きさは力である』。平和祈念像の下敷きは、奈良の大仏だった。そして像の内面的意味よりも外観(大きいこと)が絶対的価値だったのである。・・・・・
 完成から間もなく半世紀。像は期待通り長崎観光の名所として連日賑(にぎ)わっている。だが、その賑わいは写真撮影に格好の『背景としての賑わい』でしかない。・・・・・
 広島の原爆ドームが市民の日常風景の中に溶け込み、怒りの象徴になっているのに比して、廃墟(はいきょ)の浦上天主堂を取り壊した長崎には目に見える『語り部』が存在しない。それに代わるものとして、長崎市は平和祈念像をつくり、母子像をつくった。しかし、所詮(しょせん)は“虚像”でしかない。それでも制作者に平和への燃えるような渇望があればまだ救われる。だが・・・。」

 この記事の末尾に書かれた浦上天主堂の取り壊しについては当時の長崎市長・田川務の動静に加え、山口愛次郎司教、さらにはアメリカの思惑も絡んで平和祈念像の建立以上に深刻な問題が底流にあった。これについては帰宅後に知った、高瀬毅『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』2009年、平凡社;横手一彦『長崎旧浦上天主堂194558:失われた被爆遺産』2010年、岩波書店、などを読んだ上で自分なりの所感を書き留めたいと思う。

 話を福田須磨子の詩碑を訪ねた92日に戻そう。碑に刻まれた詩と撰文に見入り、詩碑に向かってしばし手を合わせた後、碑を囲む石垣に腰をおろし、ホテルから持参したお茶を飲んで一息ついた。前を流れる下の川から来る風と炎天を遮る木陰に恵まれ、ささやかながら穏やかなひと時を過ごした。
 (追記)帰宅して、福田須磨子の関係資料を調べてみると、長崎県立図書館に『福田須磨子氏旧蔵資料』一式が所蔵されていることがわかった。須磨子の姉が同図書館に寄贈したものである。初歩的な準備不足が発覚した感があるが、改めて同図書館に出かける必要がありそうだ。

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