無差別虐殺の惨禍を記した証言集
9月3日に広島平和記念資料館(しばしば「原爆資料館」と呼ばれているが正式にはこう呼ばれている)の東館地下1階にある原爆情報資料室で調べものをした。そこで、原爆投下から9年後に市民が応募した作品の中から選ばれた短歌を集成した、原爆万葉集ともいうべき『歌集広島』が刊行されていることを知った。その場では作品に目を通すゆとりがなかったが、被爆の惨禍を体験した広島の市民がどのような歌を詠んだのか気になった。そこで、帰宅してこの歌集の完全復刻版が収録されている家永三郎・小田切秀雄・黒古一夫編集『日本の原爆記録』17、『原爆歌集・句集 広島編』(栗原貞子・吉波曽死/新編、1991年、日本図書センター)を近くの公共図書館から借り出して読んだ。解説によると、市民から寄せられたおよそ6,500首のうち、地元の結社誌の主宰者らからなる15名の編集委員の選考を経て220名、1,753首が収録され、1954(昭和29)年8月6日に第二書房から刊行されたとのことである。
9月3日には、平和記念資料館の同じ地下1階にある展示室で開催されていた市民が描いた原爆の絵「水ヲクダサイ」も見学した。これは原爆が投下された8月6日とそれに続く数日間の市街の模様、特に熱線に直撃された市民が水を求めて川へ防火水槽へと殺到した光景を描いた絵を展示したものだった。市民が描いた被爆直後の絵を収集している横山昭正氏(広島女学院大学名誉教授)によると、8月6日とそれに続く数日間の市街を撮影した写真の数は限られる(8月6日に限ると約35枚残存)のに対し、市民が原爆の惨禍を描いた絵は4,006点にのぼり、そのうち防火水槽をモチーフにした作品は159点にのぼるという。そして、これらの絵は写真に比べ、技術面での稚拙さは当然としても、作者の感覚や情念を写真や活字より直載に生々しく伝え、広島を標的にした原子爆弾による無差別虐殺の惨状を伝える貴重な証言となっているという(横山昭正「『市民が描いた原爆の絵』における防火水槽――画中の説明を中心にーー<その2>」『広島平和記念資料館資料調査研究会研究報告』第6号、平成22年3月、100ページ)。
『歌集広島』を読み終えて私は、この歌集に収録された被災者、および被災者と辛苦を共にした人々の短歌は、どれをとっても被爆直後の惨状と被爆者が生きたその後の生活の辛酸を短詩形の作品に生々しく凝縮し、広島に投下された原爆による無差別虐殺の惨状を伝える貴重な証言として、市民が描いた絵に比肩する価値を持つものと実感した。
そこで、後日のためにと、特に印象に残った作品をパソコンで打ち出したところ137首になった。しかし、これらすべてをこの記事で紹介することは叶わないので、以下、私なりに付けた主題別に数首を取り上げ、短い感想を記していきたい。
屍の腐臭が漂う市街地をさまよう市民の姿を詠んだ歌
『歌集広島』に収録された作品は時期によって大きくは被爆直後の市街地の光景を詠んだ歌と、原爆投下後約8年間の体験、核廃絶・平和への思いを詠んだ歌に分けられる。このうち、前者の中で目立つのは群をなす死体が放つ腐臭を堪えながら、熱線の猛威が残る市街を家族や教え子らの安否を尋ねてさまよった自らの体験を振り返って詠んだ歌である。この記事ではこれらの短歌から数首を選んで紹介することにしたい。原爆投下後約8年間の体験・核廃絶・平和への願いを詠んだ歌は次の記事で紹介したい。
1.大根を重ねる如くトラックに若き学徒の屍を積む
平野美貴子(無職)
2.焼けあとの仮救護所に蒸れてゐる臭ひはげしき火傷膿汁
井上清幹(無職)
3.死体浮くプールの水を貪り飲む女子学生のやき腫れし唇
川手亮二(学生)
4.焼け切れしシャツ持ちて恥部を覆ひたる女が水乞ひて吾に寄り来る
岡田逸樹(警察官)
5.火の街ゆ赤子抱へて居る少女炒り米噛みて含ましめ居り
加納節尋(元写真師・守衛)
6.声涼しくアリランの唄歌ひたる朝鮮乙女間もなく死にたり
神田満寿(無職)
7.生ける身のままをやかれしその苦痛が吾のからだに直につたはる
河野富江(無職)
8.生きの身を火にて焼かれし幾万の恨み広島の天にさまよふ
小森正美(商業)
『歌集広島』を読んでいくと、火傷で全身皮膚が剥がれ、爛れた姿の被爆者が泣き叫ぶ光景を詠んだ歌があまりに多い。これは上空約600mの地点で爆発した原爆のエネルギーの約35%が熱線となって地上を襲い、爆心地付近では3,000~4,000度、1km付近で1,800度、1.5km付近で600度に達したといわれている。ちなみに、4,000度というのは鉄が溶ける温度の2倍に相当する。このため、爆心地から半径500m以内では即(日)死が約90%、11月までに約98%が死亡している。この点で原爆投下は無差別虐殺そのものといって間違いない。また、爆心地から半径1km以内でも即(日)死率は60~70%に達している。
6番の短歌について少し説明をしておきたい。日本は1910年韓国併合によって朝鮮を名実ともに植民地として統治したが、1939年以降、表向きは「募集」、実態は強制・半強制により多数の朝鮮人を軍人、軍属、徴用工、動員学徒等として日本に駆り出した。また、日本の植民地統治下で田畑や山林を奪われた多くの朝鮮人が仕事を求めて日本に移住していた。正確な数はいまなお不明であるが原爆投下当時、広島で被爆した朝鮮人はおよそ5万人、うちおよそ2万人が被爆死したといわれている。広島で被爆死した人数は約16万人といわれているから、その1割以上が朝鮮人だったことになる。平和公園内で原爆の爆風で吹き飛ばされた慈仙寺の墓石を保存した場所のすぐ北側に在日韓国居留民団広島県本部の手で建立された「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」がある。元は朝鮮最後の皇太子・李埌の甥にあたる李偶公殿下(当時・陸軍第2総軍教育参謀)が被爆した(8月7日死亡)本川橋西詰のたもとに建てられていたのをこの場所に移設したものである。
原爆投下直後の市街の光景を詠んだ歌の中には水を求めてわが身にすがる被災者のそばを後ろ髪を引かれる思いで走り抜け、肉親の生死を探し回ったことに対する自責の念を詠んだ歌も散見される。
9.「許させ」と掌を合わせつつ救い呼ばふ人を見過ごし夫護りてゆく
原田君枝(主婦)
10.手を合せ救いを求めし人人よ遁れしあとも面影去らず
福原静男(農業)
原爆孤児・原爆乙女などなど~生き残った人々の辛苦を詠んだ歌~
収録された歌の中にはかろうじて生き残った人間に容赦なくふりかかった辛苦と悲哀を詠んだ歌もある。そんな歌を目の当たりにすると、いっそ爆死した方がましだったという作者の思いについ共感してしまう。
11.靴みがく児に父母はと尋ぬればピカドンで死せりとそつけなく云ふ
六十部かず緒(受刑者)
12.初め二三日親切にせし村人も臭しといひて近寄らずなりぬ
13.死に残りは早く帰れと悪しざまにののしられ身の置き所なし
森チヱ子(無職)
14. 爆心地を清掃しゐる日雇婦等戦争後家の名が多かりき
三浦春雄(工員)
15. 命のみ生きながらへて幸ならずある時は爆死を羨(いと)しみにけり
白島きよ(無職)
11番の歌について。戦争末期、広島市内の児童のうち2万数千人が家族を離れ、郡部へ疎開していた。そのため、これらの児童は被爆を免れたが、市内中心部に残った家族が全員死亡し、「原爆孤児」を多数生む結果になった。その数は2,000人から6,500人ともいわれているが正確な実態は判明していない。
生き残った人間の辛苦といえば、各種の被爆の後遺症に襲われた人々(ケロイドが残った人々、耳を焼かれた人々、髪が抜け落ちた人々等)とその家族が味わった悲哀、それに冷淡な社会に対する怨念を詠んだ歌に何度も出くわした。
16.原爆に耳を焼かれし我が妹はイヤリングなど欲しがらぬなり
新田隆義(電鉄車掌)
17.原爆のケロイド残りしこの吾を罵る子等を叱りもならず
西本昭人(公務員)
18.原爆乙女の顔面整形を援助すとスターらサインす花やかに悲し
竹内多一(無職)
19.原爆乙女と宣伝されつその深き胸のかなしみにふるることなく
古川春子(教員)
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