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被爆者の慟哭と怨念を凝縮した『歌集広島』(下)~被爆65年目の長崎・広島を訪ねて(3)~

 この記事では、『歌集広島』に収録された短歌のなかから、原爆投下後約8年間の被爆者の生活体験と核廃絶・平和への願いを詠んだ歌を選んで紹介したい

被爆の治療ではなく人体検査に執心したABCCに憤怒した歌
 広島では原爆が人体に及ぼす長期的影響を観察するため、1946(昭和21)年に広島赤十字病院内に原爆傷害調査委員会(ABCC)が設けられた。1951年(昭和26年)に広島市は市内比治山の山頂にABCC用の敷地を提供、同年11月からABCCはそこに移転し、カマボコ型の施設を建てた。1975(昭和50)年、ABCCは日米共同で管理・運営する(財)放射線影響研究所に改組された。しかし、ABCCは当初から本国に送る被爆者の健康状況のデータを集めるための調査・検査ばかり行い、被爆の治療を行わなかったため、市民からは批判の声が上がっていた。『歌集広島』にも被爆者を人体実験の対象として扱うかのようなABCCに対する憤怒の歌が見られる。

  20.モルモットにされに行くなとABCCの被爆調書をやぶりて
    捨つる
                        今元春江(文選工)

  21ABCCへ比治山山上を提供し市長は行けりアメリカへの旅
                         竹内多一(無職)

  22.比治山の上の異形の建物が人間モルモットの試験場とか
                        森田良正(公務員)


 『中国新聞』2007226日から1010日にかけて「放影研60年」という企画物の記事を連載した。その中の68日の「迎えのジープ 強引な採決 憤りの記憶」という見出しの記事では、半ば強引にABCCに採血をされた呉市に住むAさん(16歳の時に被爆)の次のような回顧談を掲載している。
 
 「(被爆して2年後、職場に)開設して間もないABCCの職員がやって来た。『血をあげたくありません』。採血の出頭命令を断ると、日系人風の職員は片言の日本語で『そんなこと言っていいんですか』と詰問してきた。『軍法会議にかけますよ』との言葉も口にし、翌日に迎えに来ると念を押したという。
 あくる日、迎えの車に乗りたくなくて、Aさんは一人で、当時のABCCが間借りしていた広島赤十字病院に出掛けた。実際に採血されると、悔しさがこみあげたという。通訳に思いを訴えると『日本は負けたのだから仕方ない』と言われた。」

 「『あの強引な調査への怒りが、被爆者と自覚した原点。』時がたち、被爆体験を人前で話せるようになった。被爆者のグル-プで体験記の編集作業に加わるようになった。昨年には自ら書きためてきた体験記を一冊の本にした。ABCCへの怒りをつづった章は『私の血はやらない』と名付けた。」

 なお、8
6日に放送されたNHKスぺシャル「封印された原爆報告書」は被爆の影響調査報告に関わった日米の当事者にも取材をし、広島に原爆が投下された2日後から、全国の医師1300人を被災地に動員して国家的プロジェクトさながらに行われた被爆者の健康状況の調査が、被爆者の治療のためではなく、初めて使った原爆の威力を知りたがったアメリカの意向に沿って行われたこと、英文で書かれた181冊の調査報告書はアメリカに引き渡されたこと、アメリカ軍部はその報告書のなかにあった爆心地からの遠心距離と死者率をもとに将来の原爆使用のシミュレーションしていた(たとえば、モスクワなりレニングラードなりの市民を全滅させるためには原爆を何個投下する必要があるか)事実を原資料をもとに伝えた。

http://www.nhk.or.jp/special/onair/100806.html

被爆者置き去りの復興・平和の宣言の裏で進む再軍備の欺瞞を撃った歌
 被爆の後遺症と生活苦にあえぐ被爆者の辛苦を無視するかのように、広島市は1947(昭和22)年から恒例行事のように平和宣言を重ね、街の復興ぶりをアピールした。しかし、こうした平和の誓いを嘲るかのように19506月に朝鮮戦争が勃発し、同年11月にトルーマン大統領はこの戦争で原爆を使用することもありうると発言した。こうしたアメリカの強硬な軍事行動に引きずられる形で1950(昭和25)年8月に警察予備隊令が公布・即日施行され、第一次隊員7,000人が編成された。そして、朝鮮戦争が勃発して直後の195086日には占領軍の指令より平和祭をはじめ、すべての集会が禁止された。
 『歌集広島』には、このような日本の再軍備のきなくさい動き、戦争に対する安直なざんげの偽善を喝破した歌が目につく。

  23.戦争の下請けせねばこの国はたたざるごとき日日の論調
                         竹内多一(無職)

  24.再軍備するとふ人よ銃とりて新戦場へ君独りゆけ
                       中川雅雄(会社重役)

  25.ピカハゲと嘲けらるとも堪えて
来し堪えがたきものは再軍備なり
                        山本紀代子(主婦)


  26.「安らかに、過ちはくりかへしません」という墓碑銘はウオール
    街にでんと建てよ
                         増岡敏和(工員)

  27.父を返せ母を返せと壇上に叫ぶ乙女のケロイド光る
                       新田隆義(電車車掌)

      28
.ここにまた夏は来りて草しげる地に幾万のいかりはひそむ
                         白島きよ(無職)


                原民喜の詩碑
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            遠き日の石に刻み
              砂に影おち
            崩れ堕つ  天地のまなか
              一輪の花の幻

 (この詩は詩誌『歴程』昭和262月号に発表されたもの。原民喜は86日、爆心地から約1km離れた幡町(現中区)の自宅で被爆、2日間、野宿をして過ごした。生来、清純で孤独を好んだ。1951(昭和26)年313日、中央線・吉祥寺ー西荻窪間の線路に身体を横たえて自決した。水田九八二郎『ヒロシマ・ナガサキへの旅』はトルーマン米大統領が「朝鮮戦争で核兵器の使用もありうる」と発言したことに絶望してと説明している(80ページ))。

              教師と子どもの碑
Photo_5

 太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり

 (この短歌は正田篠枝が194710月に広島刑務所で秘密出版した歌集『さんげ』に収録された歌である。)

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