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被災地へ一刻も早い救援の手を~初めての帰宅難民体験記~

一刻も早い救助と救援を
 突然、東日本を襲った大地震。病院の屋上に逃れ、上空から近づいたヘリコプターに向かって、傘を広げて大きく振ったり、SOSの文字を書いたりして救助を求める人々の切迫した姿がテレビの画面に映ると、いたたまれない。一刻も早い救出の手が届くよう願ってやまない。
 また、街の建物すべてをなぎ倒していく津波の様子を高台から茫然自失の表情で見つめる釜石市住民の姿が映し出されると自分が当事者だったらと思わずにはいられない。津波と火災に街全体がのみこまれてしまった東北地方の太平洋沿岸の市町村の方々には衷心よりお見舞いを申し上げるととともに、冷え込みが厳しい避難所で不安を抱えながら、不自由な夜を過ごしておられる被災者の方々のもとへ迅速に救援の手が届くことを願ってやまない。

東京大空襲資料展を見に浅草公会堂へ
 私事にわたるが、11日、午前9時半頃家を出て、連れ合いと一緒に浅草公会堂1階のギャラリーで開かれている「被災66周年 東京大空襲資料展」に出掛けた。このところ、連れ合いは体調が思わしくなかったが、幼心の記憶に刻みこまれた東京大空襲を思い起こす機会にしたい、そして11日が最終日とあって、この資料展に出掛けることにしたのである。
 また、この資料展を見た後、新宿ニコンサロンで開催中の広瀬美紀写真展「わたしはここにいる――requiem 東京大空襲」も観ることにした。2008313日に銀座のニコンサロンで開催された広瀬さんの写真展に出掛けたが、この時の感想をこのブログに書き留めている。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/requiem_1b63.html

 その折、受付で記名したご縁からか、3日前に広瀬さんから案内状をもらったこともあって、こちらも是非出掛けようと思い立ったのだ。

 さて、昨日、東京大空襲資料展を見終え(大変、勉強になったので落ち着いたら、このブログに写真も添えて感想を書きたいと思っている)、近くの浅草寺の境内にある焼けイチョウや旧仁王門の礎石、母子地蔵尊など空襲の爪痕を見て回った。その後、吾妻橋そばのレストランで食事をとり、銀座線で渋谷へ出て、山手線に乗り換えて新宿へ向かうことにした。

移動途中の山手線内で
 そして、14時46分ごろ、運転中の山手線の車両が大きく左右に揺れたかと思うと電車は急停車、直後に車内放送が「地震のため、急停車」と告げた。外を見ると、となりの線路上方の架線が大きく波打っていた。車内では断続的に同じ放送が繰り返された。また外を見るとカラスなど鳥が大声で鳴きながら上空を旋回するのが見えた。やがて、線路沿いの建物の屋上を通る電柱の周辺にたくさんの鳥が鳴きながら集結してきた。その間、何度か余震があった。しばらくして、状況が呑み込めたのか、周りの乗客は携帯を取り出してニュースを検索し出した。私も慣れない手つきで同じ動作を始めたが、さすがに若い人の方が早い。やがて車内の電気はすべて切られた。携帯で家族や友人と連絡を取ろうとする人が増えたが、だんだんつながりにくくなったようだ。私は急停車してまもなく、娘にEメールで状況を伝えた。

 周りは見知らぬ間柄だったが、時間が経つにつれ、「九段会館の天井が落ちて怪我人が出たらしい」などと声を出し合って携帯で確かめた情報を交換しあうようになった。時間が経つにつれ、母親に連れられ、立ったままの幼子が不安に駆られたのか泣きだしたのを見て、近くのシートに座っていた人が席を譲った。
 結局、運転再開のめどは立たないと判断したようで、16時過ぎに「最前方の車両から順番に降りて、代々木駅まで歩いていただきます」という放送が流れた。一人ずつ可動式の階段で線路に降りて20分ほど歩いて代々木駅に着いた


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 しかし、今、情報不足のまま、改札を出ても行き先が定まらないので、車内で知り合った人といっしょに駅構内にあった電光掲示板で地下鉄やJRの運転状況をしばらく見入った。そのうちに今日中の運転再開の見込みはないことがわかり、思案のすえ、連れ合いの実家にお世話になることも考え、池袋へ向かって明治通りを歩くことにした。といっても日頃、都内は地下鉄で移動する私には行き方が不慣れで、何度か道順を尋ねる歩行になった。しかし、道路は同じような帰宅困難者であふれ、前へ進むのもままならなかった。そのうち、車道に出て歩く人の列ができ始めた。

帰宅難民の体験をして
 
帰宅できないとなると、気になるのは飼い犬(ウメ)のこと。近所の知人宅になんども携帯で連絡を取ってみたが制限がかかっていて、すぐ遮断される。携帯電話やEメールをあきらめて、歩行途中で見つけた公衆電話でと思うが、どこも長い列。比較的待つ人が少なかった3カ所目でなんとか知人につながる。こちらの様子を伝え、「夕方の散歩と食事を」と告げると、「お出かけと聞いていたので、心配になってウメちゃんの様子を見にいったところです」とのことで、散歩と食事を快諾してもらい、心配ごとが一つ解決した。しかし、連れ合いの実家とは連絡が取れないまま。
 
 すると今度は空腹をおぼえ、こんな時は早めに腹ごしらえをと思い、副都心線の西早稲田駅手前の明治通り沿いの店に入って一息。ふたたび外へ出てひたすら歩いたが、なかなか池袋にたどり着かない。途中、道路脇のコンビニに入って予備食を用意しようとしたが、すべて売り切れ。
 歩き始めて約3時間、ようやく池袋駅にたどりついたが、突然、親戚に押し掛けるのは避けたいと思い、3箇所ホテルに立ち寄ったがすべて満室とのこと。連れ合いの説得もあって、今夜は実家で泊めてもらうことにした。

 ニュースでは何千、何万の人が駅構内や行政があっせんした仮の休憩所で一夜を過ごしたそうだが、それと比べると、私たちは恵まれていた。冷えた身体にと出された暖かいコーヒーを飲みながらテレビを見入り、次第に津波などによる被災の全貌がわかってきた。

 翌12日は義姉の心づくしの朝食を済ませ、テレビのニュースで自宅まで交通機関の運転が再開されたのを確かめて、帰宅の途に着いた。大手町経由の経路だったが、土曜日ということもあって、どの駅も思ったより乗客は少なく、スムーズに帰宅できた。

 玄関では飼い犬が何事もなかったかのように陽を浴びて寝そべっていたが、居間はたてながの書棚が倒れ、開き戸の食器棚からグラスなどが飛び出して粉々に飛び散っていた。夕方まで片づけに追われたが、近くのコミュニティセンターで天井が崩れ落ちたというにしては、わが家の状況は被害といえるほどのものではなかった。

 以上、甚大な被害を蒙られた東北の方々からいえば、語るほどのこともない災難であるが、後から考えると、地震の影響で脱線してもおかしくなかったと思えるほど激しい揺れだった。そして、何よりも「帰宅難民」という言葉を初めて実感した体験だった。
 肝心の携帯電話がいざという時、通話制限や電池切れで役に立たないこと、それを見越して公衆電話をもっと確保しておくべきではないか、避難所や乗り物内に閉じ込められ、外と情報が遮断されがちな被災者にどのようにして被災の全体的情報と緊急に要する対応策を伝えるのか、帰宅困難者用の宿泊所などをいかにして迅速に確保し、それを周知するのかなど、ささやかな体験ながら、いざとなると否応なしに直面する問題に対する日頃から備えを整えておくことの重要性を知る体験になった。

 最後に、不幸にして今回の大地震で亡くなられた多数の方々にお悔やみを申し上げるとともに、今、この時刻にも建物の屋上や避難施設にとどまっている人々のもとに迅速な援助と救援の手が届くことを祈念する次第である。
 

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