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今日の言葉「花道は自分で作るものではない。」(原口一博)

「花道は自分で作るものではない。」(原口一博)
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20100806-849918/news/20110628-OYT1T00909.htm

 今日の夕方、民主党の両院議員総会が開かれた。その場で菅直人首相が改めて自身の退陣時期(実際は退陣の条件)について述べた後、出席した議員との間で質疑が交わされた。上記の言葉はその中で原口一博前総務相が発言した、「退任する総理がなぜ(原子力行政の)方向性を出すのか理解に苦しむ。退陣表明を聞いた時は、条件が付いているとは思わなかった。花道は人が作るもので、自分で作るものではない。総理の言葉は重い。責任を取ってこそ、政治に信頼が取り戻せる」という言葉の一節である。(「読売新聞」20116281756

 先の菅内閣不信任案をめぐって原口氏は、反対→賛成→反対、と目まぐるしく変わり、腰の据わらない政治家という批評を浴びた。原口氏に限らず、不信任案が否決されて以降の多くの政治家の言葉の軽さ、玉虫色の文書(「一定のめど」、「新体制」などなど)をもて遊ぶ様に私は嘔吐感を覚えているが、「花道は人が作るもの、自分で作るものではない」という言葉は今の菅首相に献上するのに妙を得ている。

 そもそも国会の審議に委ねるべき法案の帰趨を、法案がまだ審議入りしていない段階で時の首相が、「これを通してくれたら辞める」などと言い募るのは、その法案の中身がどうであれ、駄々をこねる子供の類であり、国会を冒涜するものである。菅首相が再生可能エネルギー買い取り法案の成立に政治家として最後の使命感を持ってあたるというなら、自分の退陣に絡めるのではなく、残された在任期間中、自信を持って与野党に信を問えるよう、関係者と協働して、法案の中身を練り上げ、与野党議員を説得するのが務めである。結果として、在任中に法案の成立に至らないなら、審議の経過を次の内閣に引き継ぐのが菅氏の役目である。

 このように考えると、「法案は国民のために国会の審議に委ねるもの、政治家に身を引かせるための花道としてささげるものではない」と言い換えるのが正解である。

 もっとも、今、日本の政党・政治家に求められているのは、誰が首相であれ、大震災からの復旧・復興のために処理しなければならないし、その気になればすぐにも処理できる次のような問題を解決する立法なり、行政措置を講じ、人・物・財源の手立てをすることである。

 (1)居住と職の復旧のために最優先で取り組むべきがれきの撤去などに要する財源を国の責任で確保し、作業に要する人員を全国の自治体に呼びかけて確保すること。また、ボランティアを志願する若者らが被災地に出向き、滞在するための費用を支給する財源を措置すること。


 (2)赤十字や中央募金会に集まった義捐金を速やかに被災地・被災者に配分するよう措置すること。個々の被災者に配分するための居住証明・被災証明に時間がかかることから配分が遅延しているのであれば、義捐金の何割かを至急、仮払いの形ででも被災地自治体に配分し、そこで(1)で指摘した、がれきの撤去費用やボランティア経費に充てることにしてはどうか? 個々の世帯の次元では処理しきれない道路や公共施設周辺の復旧作業の経費に義捐金を充てることは結局は個々の世帯の生活復旧のためのインフラ整備にもつながるはずだからである。

 (3)被災補償として一時金を受領したら生活保護からはずれてしまうといった不条理、あるいは仮設住宅に入居したら支援物資の配給を打ち切られるといった不条理を個々の自治体で解消できないなら、国が財源措置を講じて解消すること。

 (4)福島原発から漏れた放射能汚染の分布を「同心円」で計るといった非科学的なやり方を改め、放射線汚染図を定期的に公表するとともに、関東圏、甲信越圏などを含む広い範囲の多くの地点で頻度を増やして放射能線量の測定を行い、公表すること。

 こうした国の政治に求められる措置は、誰が首相か、どの党とどの党が連立するかしないか、○○対策本部を設置したかしないか、誰を政務官に抜擢したかしないか・・・・に関係なく、きびきびと行うべき課題であり、その気になれば速やかに行える課題であって、政局と絡める話しではない。

  姉宅のサンルーム風の部屋に居ついた2匹の野良ネコ
  20110609

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羽田澄子演出「遥かなるふるさと 旅順・大連」を観る

大連生まれ、旅順育ち~映画のおいたち~
 昨日、神田神保町の岩波ホールで上映中の羽田澄子演出「遥かなるふるさと 旅順・大連」(配給:自由工房作品)を見に出かけた。「大連生まれ、旅順育ち」の羽田さんが昨年6月、「日中児童の友好交流後援会」が企画した旅順へのツアーに参加して異国のふるさとを訪ねた機会に、撮影、ロケーションを準備し、工藤充氏の製作により完成した映画である。羽田さんは演出兼ナレーター役を務めている。ということで、この映画は「シネエッセイ」と称されている。

 羽田澄子さんは1926年、大連で生まれ、高校教師を務めた父の転任に伴い、1931年に三重県の津市に移って幼稚園時代を過ごしたが、2.26事件が起こった1936年、旅順に移住し、日中戦争・第二次大戦中、当地で小学校、高等女学校に通った。女学校卒業後、東京の自由学園を経て、大連に戻り、満鉄中央試験所に勤務。日本の敗戦後は大連日本労働組合本部に勤務したが、1948年、日本に引き揚げてきた。その2年後に岩波映画製作所に入社し、以後、日本の女性監督の草分けとして、「痴呆性老人の世界」(1986年)、「歌舞伎役者 片岡仁左衛門」六部作(199194年)、「住民が選択した町の福祉」(1997年)、「元始、女性は太陽であった――平塚らいてうの生涯」(2001年)、「嗚呼 満蒙開拓団」(2008年)など90本を超すドキュメンタリーを手掛けてきた。
 このように書くと、羽田さんの作品をいくつも観賞してきたように聞こえるが、実は羽田さんの映画を見るのはこれが初めてだった。

旅順~今は昔~
 ツアーの一行は成田空港から3時間ほどで大連に着き、バスで旅順へと向かう。日本語が上手な3人のガイドが要領よく日清・日露戦争時の旅順の模様(旅順口閉塞作戦など)を説明する。バスを降りた一行はまず、山頂に表忠塔がある白玉山へ向かう。羽田さんが小学生の頃は歩いて上った岩山も今は道路が整備され、車で山頂に辿りつける。「表忠塔」とは日露戦争のあと、日本の戦没者を慰霊するために日本が建設した高さ65.4mの塔である。一行は山頂から旅順港を見下ろし、ロシア軍が建設した東鶏冠山の北保塁を訪ねる。乃木将軍率いた日本軍は3度にわたる総攻撃をしかけたが、想像を超える強固な保塁に陣取ったロシア軍の守りは堅く、日本軍は1万人余の死傷者を出した。しかし、ロシア軍を率いたコンドラチェンコ将軍が軍事会議に居合わせる場所を突き止めた日本軍の軍砲で将軍が戦死して以降、戦意を喪失したロシア軍は次々と保塁を明け渡し、日本軍は二〇三高地を制圧した。一行は旅順港を囲む山々にロシア軍が築いた保塁を見て回る。

 その後、スクリーンは、二〇三高地を制圧した日本軍の総攻撃に降伏したロシアのステッセル将軍と乃木将軍が会見して終戦の条約を交した水師営の会見所に移る。会見所は東鶏冠山から10kmほど離れた場所にあり、当時は民家だったが日本軍が野戦病院として使っていたという。今は観光スポットになっている。会見は旅順陥落後の1905(明治38)年1月5日に行われた。映画では、佐々木信綱作詞、岡野貞一作曲の「水師営会見の歌」をバックに、

 「旅順は日露戦争で最も烈しい戦いのあったところです。150日あまりにわたる戦いで、日本軍は59000人、ロシア軍は23000人もの死傷者を出したといわれています。」

 「ステッセル将軍は帰国したロシアで死刑の宣告を受けました。しかし後に減刑され、静かな余生を送ったそうです。乃木将軍が明治天皇の崩御に殉じて自決したとき、ステッセルから香典が送られてきたといいます。」

というナレーションが流された。

 続いて、一行は日本国内からも学生を受け入れたという旅順工科大学、旧旅順中学校を経て、羽田さんが通った旅順高等女学校に着く。しかし、校内は驚くばかりの変わりようで、道沿いの校舎は商店が並ぶビルになっていた。校舎跡は軍関係者のマンションとのこと。

 その後、一行は車で二〇三高地へ向かう。高地の裾にある桜花園が作られた折、日中児童の友好交流後援会の会長川畑文憲氏から支援の基金が寄せられたという。ここで一行は交流後援会の設立20周年の記念碑の除幕式を行なった。碑には一行に参加した旅順女子師範学校卒業生の遠藤節子さんの詩が刻まれており、除幕に合わせて朗読された。
 その夜、一行が宿泊したホテルでは、日中児童の友好交流後援会の設立20周年を祝う会が行われた。スクリーンには後援会現会長、旅順政府代表のあいさつの模様、地元の小学生の歓迎の歌と踊りが映し出された。

思い出の小学校、そして旧宅を訪ねて
 
2日目、一行が最初に訪れたのは旧旅順第二小学校。羽田さんが津の小学校から転校してきた学校である。その日は休校日だったが校長が出迎えた。昔の講堂の壇上に上がった一行は、そこで演じた学芸会の模様を語り合い、感慨にふける。

 その後、一行は商店が並ぶ旧市街を巡り、羽田さんら2人と一行に参加したKさんはいっしょにKさんの旧宅を確かめようと歩く。ガイドの依頼が通じて現住人の了解を得、二人は2階に上がる。1階は別人が住んでいるとのこと。2階に上がったKさんは部屋が綺麗に使われているのを見て感謝する。別の部屋には老夫婦が住んでいたが、そこでガイドはKさんを「62年前にここに住んでいた人」と紹介する。老夫婦はこの45年間、ここに住んでいるという。Kさんはいきなり訪ねてきた自分を部屋に通してくれた住人に何度も感謝して旧宅を出る。
 続いて、Aさんの旧宅に向かう。ここでも住人はAさんらを快く部屋に通す。Aさんは感慨ひとしおの面持ちで、「6つのときに、母が死んだんです。それで、ここに棺を置いたのです」と家人に話しかける。

 新市街の中心にある列寧街広場の料亭で昼食を終えたところで羽田さんは一行と別れ、旅順に残る。さっそく羽田さんが向かったのは羽田さんが両親、妹と4人で小学校~高等女学校時代を過ごした旧宅。赤レンガの同じスタイルの家が3軒並んだ、その一番手前が羽田さんの旧宅。通訳の青年の交渉で若い住人は羽田さんを2階の部屋へ通す。父の書斎だった部屋はベッドの置かれた洋間に変わり、物置場にしていた6畳の間は台所になっていた。子供部屋兼寝室兼遊び場だった別室は別人が住んでいるとかで留守とのこと。ここでも住人に謝辞を述べて1階へ。そこには老夫婦が住んでいた。16年間住んでいるとのこと。昔の台所や風呂場はすっかり改造され、全く違うインテリアになっていた。
 映像が旧宅を離れる際、「私が感銘を受けたのは、どの家も突然の訪問なのに快く受け入れてくれたことです。いくら昔住んでいた人といっても、とても考えられない好意でした」という羽田さんのナレーションが流れた。旧宅を出た羽田さんはかつて両脇にロシア様式の建物が並んだアカシアの並木道を思い起こす。しかし、今はアカシアがとても大木になり、記憶のかなたにある並木の姿と一変していたのに驚く。

一家4人ののどかな生活の傍らで
 
続いて出向いたのは旅順博物館。羽田さんが通った付属小学校の近くにあったので、よく覗きにきたという。そこには中国の古代から近代までの多くの美術品が納められており、大谷光瑞の西域探検隊が収集したコレクションの多くもそこに納められている。
 博物館の前の広場には1955年、ソ連軍が旅順を友誼的に引き渡して撤退したことを記念して建てられた「中ソ友誼塔」がある。そして、その塔のすぐ後ろには旧関東軍司令部の記念館が立っており、「この広場は中国とソ連軍と関東軍が重なって存在する不思議な空間でした」というナレーションが流れた。

 「思い返すと、戦争の時代だったのに、我が家にとっては一家4人が揃って、楽しく暮らした」時代だったと羽田さんは振り返る。しかし、今回の旅は羽田さんにとって単なる「思い出探し」のツアーではなかった。

 「思えば、私が暮らしていた頃の旅順・大連は、日本人の支配する社会であって、下働きの労働をするのは、すべて中国人でした」「このことに初めて気が付いたのは、三重県の津から戻って、大連港に入ったときです。下働きをしているのは、すべて『苦力(クーリー)』といわれる中国人でした」「旅順で、日常接する中国人も、お店の注文取り、洗濯おばさん、石炭運び、馬車の御者、人力車夫といった人達で、対等のお付き合いをした中国人は本当に僅かでした」

と羽田さんは振り返る。それだけに、羽田さんたち一行が旅順滞在中に、地元の人々が日本による旅順統治時代を今、どのように回顧しているのか、生の声を確かめあえたら、一層、有意義な旅になり、記録映画としても深みが出たのではないかと思われた。しかし、途中までツアーへの参加、滞在に数わずか4日という条件を考えれば、これはないものねだりといえるだろう。

 しかし、そのような条件の中でも、この映画は随所に何層にも歴史の重さが重なる旅順の姿をコンパクトに描いている。

 旅順博物館前の広場を経てカメラは鳩湾へ、そして万忠墓へと向かう。ここは日清戦争末期、旅順を攻略した日本軍によって虐殺された兵隊、市民合わせて約2万人の遺体をまとめて埋葬した地である。中国政府は万忠墓を「愛国主義教育基地」の一つに指定した。「旅順で暮らしながら、殆どの日本人は、そんなことがあったとは全く知らずに暮らしていました。私もそうでした」と羽田さんは振り返る。

 この後、映像は旧旅順監獄に進む。1902年にロシアが造りはじめ、1907年に日本が旅順を統治した時期に完成したものである。今は陳列館としてすべて開放されているが、当時は犯罪者ばかりでなく、中国人、韓国人、そして日本の多くの政治犯も収容されていたという。内部は水桶と便器だけがそっけなくおかれた独房、拷問部屋などからなるが、カメラが大きく写したのは伊藤博文を射殺した安重根が収容された部屋だった。展示室には安を移送したという馬車や彼の胸像が収容されていた。
 この後、映像はソ連軍烈士の墓、旅順の山々にロシア軍が気付いた保塁などを映したがここでは省略する。

敗戦の詔勅を聞いた大連を訪ねて
 
羽田さんらスタッフ一行はふたたび大連へ向かう。旅順・大連間は約40kmというが、小学6年生の時、羽田さんたちは「旅大踏破」といって旅順から大連まで歩いて出かけたという。朝5時ごろ出発して大連に着いたのは夕方近く。
 旧大広場(現在の中山広場)周辺はヨーロッパ風の建築物が並び、大連の発展ぶりを象徴するスポットだ。一行は旧満鉄大連病院、旧弥生ケ池(現市植物中心湖)へと進む。自由学園を卒業して大連に戻った羽田さんは動員で旧満鉄試験所で勤務した。ここで天皇の終戦の詔勅を聞いたが、意味はのみ込めなったという。羽田さんの印象に残っているのは周りの日本人が沈み込んでいるのに、一人主任だけが腰かけを揺すりながら嬉しそうに笑っていたことだった。後でその主任は韓国人だとわかった。日本人にとって815日は敗戦の日であるが、韓国人にとっては祖国が日本の支配から解放された日なのである。まもなくして退職する時、羽田さんは研究室から青酸カリを渡されたという。

 その後、羽田さんは1年ちょっとだったが大連に在住の時の旧宅を訪ねた。しかし、なんとそこはマージャン店になっていて、中に入らせてもらったが客がいるということで撮影は許可されなかった。

 敗戦の翌年5月にソ連軍が大連にも進駐してきた。羽田さん宅もソ連軍に接収され、家財道具もそのままに東京で自宅を世話してくれた知人宅に身を寄せた。それ以降、日本に引き揚げるまでの2年間、羽田さん一家は9回も引っ越しをしたという。

 大連に在住の間、羽田さんは大連日本人労働組合に勤務した。奥地からの避難民に寝食を保障し、日本に引き揚げる事業を担ったところだった。そこで1年間働いた後、羽田さんと母、妹の3人は先に帰国した父に続いて日本に向かった。その時の心境を羽田さんはナレーションでこう語った。

 「懐かしい大連を離れたくなかった私ですが、日本人が引揚げて殆どいなくなった街では、日本語も聞こえず、今まで見たこともなかった元気な中国人の姿があふれ、恥ずかしいことに私は『ここは中国なのだ』と改めて気づいたのでした。」

 その後、カメラは大連港を俯瞰し、星が浦の海岸線、旧中央公園(現労働公園)へと進む。労働公園では「北国の春」を胡弓で奏でる人々、それを囲む人々の姿を大写しに。また、賑やかな露天の店の活気ある風情も映し出された。

 終幕に近付いたところで、旅の終わりを告げる羽田さんのナレーションが流された。

 「植民地時代にヨーロッパの国々と日本から、大きな被害と差別を受けた中国。しかし現在、旅順・大連にあふれている中国人の、国と人のエネルギーからは、過去の姿は全く消え去っていました。」「旅順・大連の見事に繁栄する姿を嬉しく思うのとともに、『ふるさとは遠くなった』と思うのでした。」

ただ懐かしいでは済まない旅順・大連
~歴史の重さを伝えた羽田映画の真髄~
 私は中国はもちろん、アジアに出かけたことがない。いまどき、珍しい人間だろうと思う。しかし、この映画は日本が中国を戦地として、あるいは植民地として統治した時代に旅順・大連に在住した人々にとって、思い出を手繰り寄せる貴重な記録映画であることは私にも想像できる。上映開始30分前に入場し、受付で買ったこの映画の小冊子を読んでいるとすぐ後ろの列で、「大連まで行ったのだけれど、その時は旅順には入れず、ワイン5本を買って発送して済ませたのよ。」「お父さんがいなかったら満州をさまよっていただろうに」と語り合う2組の年配の人たちの会話が耳に入った。そういう体験の持ち主が入場者の相当数を占めていたのではないかと思えた。

 しかし、上記の小冊子に収録された文章の中で羽田さんは次のように記している。

 「しかし悲しいことに旅順を簡単に『懐かしい故郷』ということができません。何故なら旅順も大連も本来は中国の土地なのに、日本人が支配し、中国人は下積みの労働をさせられる社会が構築されていたのです。日本人は中国人に下働きをさせて、いい暮らしをしていたのです。単純に懐かしいとは言えないのです。」「この作品に向き合って、何層にも重なる歴史の重さを、改めて考えさせられ、表現の難しさを痛感することになったのでした。」

 短いながらも羽田映画の真髄が凝縮された言葉と思われた。

岩波ホール上映期間:7月上旬まで
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今、有馬朗人氏に問うべきこと

一徹に帰依した人?
 2011610日、「朝日新聞」夕刊の「人脈記」欄に「俳句 師を選ぶ」として、有馬朗人氏が紹介された。記事の冒頭に、有馬氏が俳句の師と慕った山口青邨の、<こほろぎのこの一徹の貌を見よ>という句が掲げられ、有馬氏の作句歴と人となりが紹介されている。山口は高浜虚子の高弟の一人であるとともに、東大の工学部教授として鉱山学に関わった。東大入学前に古本屋で山口の句集を読んでいた有馬は入学してすぐに山口の研究室を訪ね、弟子になり、以来、38年間、山口が96歳で亡くなるまで師として仰いだという。
 そして、記事の後段では、上記の山口の俳句に関する有馬氏の「この一句には、誰が何と言おうが、我が道を歩もうとする深い信念、一歩も譲らぬ頑固さが感じられ」るという批評が記されている。そして、記者はそれに続けて、「こと『一徹』ぶりに関する限り、〔有馬氏は山口青邨の〕不肖の弟子と言えまいか」と結び、この記事に「この一徹に帰依した」という標題を付けている。

 私はここで俳人としての有馬氏のことを論評するつもりはない。私が言いたいのは、今この時期に有馬氏にスポットを当てるなら、国旗・国歌法制定当時、文部大臣の職にあった有馬氏に、この法律の運用に関する同氏の国会での答弁に照らして、さらには、言論・思想の自由の府ともいうべき大学の総長を歴任した有馬氏に、日の丸・君が代をめぐって今、日本で起こっている事態について、所感を尋ねる質問なり、別途の記事なりがあってしかるべきではなかったかということである。

国旗・国歌法制定時の文部大臣として
 「朝日新聞」も報道したように、この530日と66日に、最高裁は、国旗掲揚時に起立して国歌を斉唱するよう義務付ける東京都立校の校長の職務命令は個人の思想・良心の自由を「間接的に」制約する面があることを認めながら、職務命令は学校の式典の場で儀礼的な所作を求めるものであり、そうした場面では生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序を確保する必要があるため、個々の職員が自らの歴史観・世界観を外形的に表す行動に制限を課すことは許容され、思想・良心の自由を保障した憲法19条に違反するとはいえないとする判決を言い渡した。また、大阪府ではこの5月議会で国旗掲揚時に起立して斉唱することを教職員に義務付ける条例を制定したが、これに続き、9月議会では、君が代強制条例に従わない教職員を懲戒免職も含め、処分することを定める条例を上程することを検討中と伝えられている。まさに憲法19条が危機に瀕する状況といっても過言ではない。

 ところで、有馬氏は国旗・国歌法を審議した国会の場で文部大臣(当時)として次のように答弁している(下線は私の追加)。

○国務大臣(野中広務君) 広島県立世羅高校の石川校長がみずからの命を絶たれましたことは、今、亀井委員から御指摘がございましたように、県下それぞれの学校における国旗の掲揚、国歌の斉唱に端を発して、そして教職員組合や解放同盟等の激しい糾弾の中でついにみずからの命を絶たれたということを私どもも承知をしたわけでございまして、まことに痛ましい事件でございました。心から改めて深い哀悼の意を表したいと思うわけでございます。
 今、それから数カ月を経た経過を亀井委員からお伺いをしながら、私は、一人の校長先生を死に追いやるに至って、その後一人も線香を上げることがないということは、その先生を死に追いやるところまで追い込んだ先生方がどうして一人も石川校長の心情をわかってやろうとしなかったんだろうと思うと、まことに教育の現場を思う者として非常に悲しく思うものでございます。その背景となるものにまた問題を感じるわけでございます。
 その後、先日も触れましたけれども、民放の報道を通じまして小森委員長が言っておる宮澤大蔵大臣に対する言葉を聞きながら、私はこういう先生方が石川校長の霊前に行きたくとも行けない背景を知らざるを得ない。そう考えるときに、やはり国旗・国歌を法文化して明確にして、そしてこれが強制じゃなく、強圧じゃなく、学校の場で自然に、そして過去の歴史のゆがめられたところは率直にゆがめられたところとして教育の中にこれが生かされて、そしてそれがこれから我が国の国旗・国歌として定着をしていくように、そして学校現場では、先ほど申し上げましたように、強制的にこれが行われるんじゃなく、それが自然に哲学的にはぐくまれていく、そういう努力が私は必要ではなかろうかと思うわけでございます。再びこういうことによって先生が死を選ばれたり、あるいはそのことが新たなる差別につながるようなことのないように、我々は文部省を含め万般の努力を重ねてまいらなくてはならないと思うわけでございます。

○国務大臣(有馬朗人君) ただいま御答弁になられました官房長官と私は考え方を全く同じくしている人間でございます・・・・・・・

○国務大臣(有馬朗人君) 内心の自由については今まで御答弁申し上げたとおりでございますが、学習指導要領に基づくことについて一つ確認をさせていただきたいと思います。教員は、関係の法令や上司の職務上の命令に従いまして教育指導を行わなければならないものでございまして、各学校においては、法規としての性質を有する学習指導要領を基準といたしまして、校長が教育課程を編成し、これに基づいて教員は国旗・国歌に関する指導を含め教育指導を実施するという職務上の責務を負うものでございます。本法案は、国歌・国旗の根拠について、慣習であるものを成文法として明確に位置づけるものでございます。これによって国旗・国歌の指導にかかわる教員の職務上の責務について変更を加えるものではございません
 (以上、いずれも(平成1182日、参議院国旗及び国歌に関する特別委員会記録)

 このように、当時、有馬氏は野中官房長官(当時)が「ある意味において押しつけたり、あるいは強制をするようなものであってはならない、自然にはぐくまれていくような国家づくりをしていかなくてはならない」(平成11730日、国旗及び国歌に関する特別委員会儀録)と明快に答弁したのと比べ、相当、あいまいで腰が引けた答弁ではあったが、国旗・国歌法の制定によって教員の職務上の地位に変更が加えられるものではないと繰り返し、答弁した。

国旗・国歌法の行きついた先は
 しかし、その後、上記のように、東京都をはじめ、いくつかの自治体では、国旗・国歌法を援用して学校行事の場において日の丸を掲揚する際に起立して君が代を斉唱することを職務命令として発出し、これに従わない教職員を次々に処分するという事態が起こった。有馬氏は国旗・国歌に対する指導を実施することを教員の職務上の責務と語っている(この点に私は同意しないが)が、ここでいう責務に従わない者を処分することまで有馬氏は是認していたのかどうか、そうした処分は思想・良心の自由を定めた憲法19条に反しないと考えるのかどうかは極めて重要な論点である。なぜなら、身分上の不利益処分を盾に起立・斉唱を迫るのは強制以外の何物でもなく、野中氏の国会答弁と全く同感と答えた有馬氏の言動と相容れないことになるからである。

 有馬氏が東京大学総長、文部大臣の職を離れて、長い年月が経過したが、国旗・国歌法制定に関わる国会審議の場で自らが述べた答弁と相容れない事態が起こったことについて、しかるべき所見を述べる道義的責任があることに変わりはない。さらに、大学教員としての職を経た私としては、言論・思想・良心の自由がここまで蹂躙されている事態に関し、さまざまな場面で発言の機会を得ている有馬氏が、沈黙を続けているのが不可解でならない。

 と同時に、「朝日新聞」がこの時期に有馬氏にスポットを当てながら、同氏が深く関わった国旗・国歌法の制定から派生した君が代強制問題について、有馬氏に何らの見解も質さないことに疑問を感じざるを得ない。「人脈記」欄が有馬氏のことを「一徹の人」と評するのであれば、同氏が過去の国会の場で語った見解に対する「一徹さ」、「こだわり」のほどを質してしかるべきではなかったか? こうしたリアルな現実を直視せず、紙面に取り挙げる人物に賛辞を送るのでは、読者に登場人物の実像を正確に、多面的に伝えることにならない。

元原子力委員会委員長として
 なお、有馬氏は第58代科学技術庁長官に就任していた当時、総理府原子力委員会委員長も兼務したが、 2011327日、新潟県民会館で開かれた日本物理学会 市民科学講演会において「エネルギーと地球環境の未来を考える」と題する講演を行った。私はこの講演を聴いたわけではないが、主催者が作成したチラシによれば、同氏の講演について、次のような紹介文が記されている。「日本の家庭電力を十分供給し、日本の産業を保っていくために、現時点では原子力エネルギーは必要不可欠です。科学と技術を発展させて、安全性と効率をさらに向上させていかなければなりません。」 

 http://w3phys.sc.niigata-u.ac.jp/~jps2011/poster110215.pdf 

 私は原子力の有用性・安全性について様々な見解を述べる学問上の自由は徹底して擁護されなければならないと考えているが、今回の福島原発事故を経験して、原子力の安全性に関する従来の日本のこの分野の科学者の専門家責任が厳しく問われている。そのような中、有馬氏がなおも、「原子力エネルギーは必要不可欠」と説くのであれば、それを正当化する説明責任が従来にも増して加重されている。また、「朝日新聞」に限らず、マスコミが有馬氏の近況を伝えるのであれば、同氏のこうした言動についても質す必要があったと思える。ただし、上の講演の紹介文が有馬氏の実際の講演内容を正確に伝えていないのであれば、有馬氏はしかるべき方法で、その訂正を周知し、原子力の利用、安全性に関する自らの所見を明示されるよう要望したい。

「有識者バブル」を打破するためにも
 昨今、マスコミには「専門家」、「有識者」が頻繁に登場している。しかし、マスコミはそのような肩書きで大学人、文化人、評論家を登場させるのであれば、各人の「専門家」たるゆえん、「有識者」たるゆえんを読者が納得できるような人選をし、言動の一貫性、時の政権与党からの自立性を質すのがメディアに求められる報道責任である。それなしには、報道機関は自らが「有識者バブル」の発生・普及に加担することを免れないのである。

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教育の本旨に背理する最高裁の君が代命令合憲判決

 66日、最高裁第一小法廷は学校行事で教職員に日の丸起立・君が代斉唱を指示した東京都の校長の職務命令が、憲法19条の保障する思想、良心の自由に反し、違憲かどうかが争われた訴訟の上告審判決で、5月30日の第2小法廷判決に続き合憲と判断した。
 今回の判決の骨子は、国旗掲揚時に起立して国歌を斉唱するよう義務付ける職務命令が個人の思想・良心の自由を「間接的に」制約する面があることを認めながら、本件職務命令は学校の式典の場で儀礼的な所作を求めるものであり、そうした場面では生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序を確保する必要があるため、個々の職員が自らの歴史観・世界観を外形的に表す行動に制限を課すことは許容され、思想・良心の自由を保障した憲法19条に違反するとはいえないと判断した点にある。しかし、私は以下の理由により、この判決には根本的な誤りがあると考えている。

自主自律の精神の涵養に背理する判決
 第1は、「生徒への配慮も含めた教育上の行事にふさわしい秩序」とは何かを一切、説明せず、「式典の場での儀礼的な所作」といった、合憲性を争う裁判にはおよそ疎遠で不確定な文言を引いて、かかる「秩序を確保する必要」を、憲法19条が保障した思想・良心の自由に優越させてしまった点である。
 宮川光治裁判官の少数意見でも指摘されているように、東京都立高校では国旗・国歌法施行後も少なくない学校の校長は式典において内心の自由告知を行い、一部教職員に不起立不斉唱行為があったものの式典は支障なく進行していた。このような経過からして、式典の秩序を乱す原因を一部教職員の不起立不斉唱行為に帰すのは現場の実態を無視した虚偽の認識である。式典の秩序を乱した原因を挙げるとすれば、職員を派遣してまで式の進行を監視し、命令に従わない教職員を不利益処分に課してきた都教委の理不尽な「踏み絵」指導にこそあったといえる。

 第2は、本判決は学校教育が目標とする「自主自律の精神の涵養」に背理するという点である。
 文科省が20083月に行った「君が代」に対する意識調査では、君が代の歌詞の意味を正しく解説できたのは小学生では1割以下、中高生・保護者でも3~4割程度だったという。そして誤答の中では、「君が代は」を「君が弱っ」(お前、弱いなーの意)と解釈する例、「千代に八千代に」を「千代・八千代という姉妹」と受け取る例、「さざれ石の」を「下がれ石野」(石野さんを退席させる)と解釈する例などが多かったといわれている。これほどに意味を理解できていない歌詞を斉唱するよう強制するのは教育ではなく「調教」であり、個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養う」ことを謳った教育基本法第2条2に真っ向から反する行為にほかならない。

 このことからすれば、断罪されるべきは、自らの歴史観、良心に反する行為を強制されない自由を行動で示した教職員ではなく、「形から入り形に心を入れればよい」、「形式的であっても立てば一歩前進だ」などといった方針で国旗・国歌に敬意を払うよう強制した都教委の反教育的行為である。なぜなら、「形から入り形に心を入れればよい」などと呼号するのは、行政権限を振りかざして個人の内心に手を突っ込む野卑な行為であり、これこそ、思想・良心の自由を保障した憲法19条を蹂躙するものだからである。
 また、私は自分の歴史観からして国歌・国旗に敬意を払う意思を持っていないが、「形式的であっても立てば一歩前進だ」などと言って、起立を強要すること自体に意味を置く行為は国旗・国歌への敬意を冒涜するものであり、自己欺瞞でもある。

社会的儀礼、多数の意思でも侵せない個人の良心の自由
 3
第3は、本判決は学校教育が目標とする「個人の価値の尊重」に背理するという点である。
 先に挙げたように、本判決は国旗掲揚時に起立して国歌を斉唱するよう義務付けた都教委の10.23通達と、それに従った校長の職務命令は個人の思想・良心の自由を「間接的に」制約する面があることを認めながら、個々の教職員が自らの歴史観・世界観を外形的に表す行動をするのは「社会一般の規範等と抵触する」とみなして、憲法19条に抵触しないと判示した。
 しかし、行政上の不利益処分(これには「再発防止のため」と称して行われる研修を受忍することに伴う精神的身体的苦痛も含まれる)を予告して起立・斉唱を強要する行為は露骨な「直接的」指導であり、これを「間接的制約」などと表現して、軽微な制約であるかのように印象づけるのは反近代的な「踏み絵」を突き付けられた教職員の苦悩に対する想像力の欠如を物語るものである。そもそも自分の内心に反する外形的行為を強制されない自由も含めた個人の内心の自由は、社会の多数の意思を以てしても制約されない絶対的自由である。こうした精神的自由権に対する制約(実態は不利益処分を予告した脅迫)を「社会一般の規範等」などという茫漠とした価値で正当化した最高裁は憲法の番人たる職責を放棄したのも同然である。

今に生きる内村鑑三の静かなる無意識の「愛国心論」
 かつて私はこのブログに「今に生きる内村鑑三の『愛国心』論」と題する記事を掲載した。
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_65ff.html
 その中で紹介した内村鑑三の愛国心論を引いておきたい。

 「愛国心が純粋にして真実なる為には、其は無言にして無意識ならざるべ可からず。真実なる人にして 己が国に対し熱裂なる愛を有せざる者は有り得ざるなり。・・・・・・我等に真の人を示せ、然らば彼の愛国心を保証せん。然れ共、人の真心は其愛国心に依て保証すること能はざるなり、そは愛国心は餘りに屢々『悪漢の最後の拠り所』なればなり。」

 「しかして愛国心とは、我等が己れの国に負う明白なる義務を果すこと以外の何物なりや!隣人に親切 なること、貧しき者乏しき者に同情すること、謙遜にして鄭重なること、等々は、我等の見る所に依れば、 国家の拡大を策し我国民の美徳を誇ることと同じだけ愛国的なり、多くの場合は其以上に愛国的なり。芝居がかりの愛国心は、実に十分以上を有せり。日本が大いに必要とするものは、深き、無言の無意識なる愛国心にして、今日の騒々しき愛国心にあらざるなり。」
 (「病的愛国心」『万朝報』1898311日掲載)

 私は隣人への愛情と国家への熱愛を同一視することはできないと考え、無意識的にも愛国心を自分の内面に取り込む必要を感じていないので、この点では内村鑑三の愛国心論とは不一致がある。しかし、国旗・国歌への「敬意」を強制する権力、そしてそれを免罪する司法によって学校現場での思想・良心の自由が窒息させられる現実は、広く社会全般の思想・表現の自由まで窒息させられる危険が切迫していることを告げる「カナリア」といえる。恐ろしいのはこうした思想・良心の自由の侵害を追認する司法の判断を式典の「マナー論」、「社会の常識論」で受容してしまう市民の感性である。このような感性が社会に浸透している状況だからこそ、「深き、無言の愛国心」を本旨とし、「騒々しき愛国心」を拒んだ内村鑑三の思想が放つ理性の輝きを再評価したいのである。

 庭に咲いたアマリリス(6月5日撮影)
  20110605
 夕方、巣に戻ってきた子ツバメ(6月4日撮影)
  20110604

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