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羽田澄子演出「遥かなるふるさと 旅順・大連」を観る

大連生まれ、旅順育ち~映画のおいたち~
 昨日、神田神保町の岩波ホールで上映中の羽田澄子演出「遥かなるふるさと 旅順・大連」(配給:自由工房作品)を見に出かけた。「大連生まれ、旅順育ち」の羽田さんが昨年6月、「日中児童の友好交流後援会」が企画した旅順へのツアーに参加して異国のふるさとを訪ねた機会に、撮影、ロケーションを準備し、工藤充氏の製作により完成した映画である。羽田さんは演出兼ナレーター役を務めている。ということで、この映画は「シネエッセイ」と称されている。

 羽田澄子さんは1926年、大連で生まれ、高校教師を務めた父の転任に伴い、1931年に三重県の津市に移って幼稚園時代を過ごしたが、2.26事件が起こった1936年、旅順に移住し、日中戦争・第二次大戦中、当地で小学校、高等女学校に通った。女学校卒業後、東京の自由学園を経て、大連に戻り、満鉄中央試験所に勤務。日本の敗戦後は大連日本労働組合本部に勤務したが、1948年、日本に引き揚げてきた。その2年後に岩波映画製作所に入社し、以後、日本の女性監督の草分けとして、「痴呆性老人の世界」(1986年)、「歌舞伎役者 片岡仁左衛門」六部作(199194年)、「住民が選択した町の福祉」(1997年)、「元始、女性は太陽であった――平塚らいてうの生涯」(2001年)、「嗚呼 満蒙開拓団」(2008年)など90本を超すドキュメンタリーを手掛けてきた。
 このように書くと、羽田さんの作品をいくつも観賞してきたように聞こえるが、実は羽田さんの映画を見るのはこれが初めてだった。

旅順~今は昔~
 ツアーの一行は成田空港から3時間ほどで大連に着き、バスで旅順へと向かう。日本語が上手な3人のガイドが要領よく日清・日露戦争時の旅順の模様(旅順口閉塞作戦など)を説明する。バスを降りた一行はまず、山頂に表忠塔がある白玉山へ向かう。羽田さんが小学生の頃は歩いて上った岩山も今は道路が整備され、車で山頂に辿りつける。「表忠塔」とは日露戦争のあと、日本の戦没者を慰霊するために日本が建設した高さ65.4mの塔である。一行は山頂から旅順港を見下ろし、ロシア軍が建設した東鶏冠山の北保塁を訪ねる。乃木将軍率いた日本軍は3度にわたる総攻撃をしかけたが、想像を超える強固な保塁に陣取ったロシア軍の守りは堅く、日本軍は1万人余の死傷者を出した。しかし、ロシア軍を率いたコンドラチェンコ将軍が軍事会議に居合わせる場所を突き止めた日本軍の軍砲で将軍が戦死して以降、戦意を喪失したロシア軍は次々と保塁を明け渡し、日本軍は二〇三高地を制圧した。一行は旅順港を囲む山々にロシア軍が築いた保塁を見て回る。

 その後、スクリーンは、二〇三高地を制圧した日本軍の総攻撃に降伏したロシアのステッセル将軍と乃木将軍が会見して終戦の条約を交した水師営の会見所に移る。会見所は東鶏冠山から10kmほど離れた場所にあり、当時は民家だったが日本軍が野戦病院として使っていたという。今は観光スポットになっている。会見は旅順陥落後の1905(明治38)年1月5日に行われた。映画では、佐々木信綱作詞、岡野貞一作曲の「水師営会見の歌」をバックに、

 「旅順は日露戦争で最も烈しい戦いのあったところです。150日あまりにわたる戦いで、日本軍は59000人、ロシア軍は23000人もの死傷者を出したといわれています。」

 「ステッセル将軍は帰国したロシアで死刑の宣告を受けました。しかし後に減刑され、静かな余生を送ったそうです。乃木将軍が明治天皇の崩御に殉じて自決したとき、ステッセルから香典が送られてきたといいます。」

というナレーションが流された。

 続いて、一行は日本国内からも学生を受け入れたという旅順工科大学、旧旅順中学校を経て、羽田さんが通った旅順高等女学校に着く。しかし、校内は驚くばかりの変わりようで、道沿いの校舎は商店が並ぶビルになっていた。校舎跡は軍関係者のマンションとのこと。

 その後、一行は車で二〇三高地へ向かう。高地の裾にある桜花園が作られた折、日中児童の友好交流後援会の会長川畑文憲氏から支援の基金が寄せられたという。ここで一行は交流後援会の設立20周年の記念碑の除幕式を行なった。碑には一行に参加した旅順女子師範学校卒業生の遠藤節子さんの詩が刻まれており、除幕に合わせて朗読された。
 その夜、一行が宿泊したホテルでは、日中児童の友好交流後援会の設立20周年を祝う会が行われた。スクリーンには後援会現会長、旅順政府代表のあいさつの模様、地元の小学生の歓迎の歌と踊りが映し出された。

思い出の小学校、そして旧宅を訪ねて
 
2日目、一行が最初に訪れたのは旧旅順第二小学校。羽田さんが津の小学校から転校してきた学校である。その日は休校日だったが校長が出迎えた。昔の講堂の壇上に上がった一行は、そこで演じた学芸会の模様を語り合い、感慨にふける。

 その後、一行は商店が並ぶ旧市街を巡り、羽田さんら2人と一行に参加したKさんはいっしょにKさんの旧宅を確かめようと歩く。ガイドの依頼が通じて現住人の了解を得、二人は2階に上がる。1階は別人が住んでいるとのこと。2階に上がったKさんは部屋が綺麗に使われているのを見て感謝する。別の部屋には老夫婦が住んでいたが、そこでガイドはKさんを「62年前にここに住んでいた人」と紹介する。老夫婦はこの45年間、ここに住んでいるという。Kさんはいきなり訪ねてきた自分を部屋に通してくれた住人に何度も感謝して旧宅を出る。
 続いて、Aさんの旧宅に向かう。ここでも住人はAさんらを快く部屋に通す。Aさんは感慨ひとしおの面持ちで、「6つのときに、母が死んだんです。それで、ここに棺を置いたのです」と家人に話しかける。

 新市街の中心にある列寧街広場の料亭で昼食を終えたところで羽田さんは一行と別れ、旅順に残る。さっそく羽田さんが向かったのは羽田さんが両親、妹と4人で小学校~高等女学校時代を過ごした旧宅。赤レンガの同じスタイルの家が3軒並んだ、その一番手前が羽田さんの旧宅。通訳の青年の交渉で若い住人は羽田さんを2階の部屋へ通す。父の書斎だった部屋はベッドの置かれた洋間に変わり、物置場にしていた6畳の間は台所になっていた。子供部屋兼寝室兼遊び場だった別室は別人が住んでいるとかで留守とのこと。ここでも住人に謝辞を述べて1階へ。そこには老夫婦が住んでいた。16年間住んでいるとのこと。昔の台所や風呂場はすっかり改造され、全く違うインテリアになっていた。
 映像が旧宅を離れる際、「私が感銘を受けたのは、どの家も突然の訪問なのに快く受け入れてくれたことです。いくら昔住んでいた人といっても、とても考えられない好意でした」という羽田さんのナレーションが流れた。旧宅を出た羽田さんはかつて両脇にロシア様式の建物が並んだアカシアの並木道を思い起こす。しかし、今はアカシアがとても大木になり、記憶のかなたにある並木の姿と一変していたのに驚く。

一家4人ののどかな生活の傍らで
 
続いて出向いたのは旅順博物館。羽田さんが通った付属小学校の近くにあったので、よく覗きにきたという。そこには中国の古代から近代までの多くの美術品が納められており、大谷光瑞の西域探検隊が収集したコレクションの多くもそこに納められている。
 博物館の前の広場には1955年、ソ連軍が旅順を友誼的に引き渡して撤退したことを記念して建てられた「中ソ友誼塔」がある。そして、その塔のすぐ後ろには旧関東軍司令部の記念館が立っており、「この広場は中国とソ連軍と関東軍が重なって存在する不思議な空間でした」というナレーションが流れた。

 「思い返すと、戦争の時代だったのに、我が家にとっては一家4人が揃って、楽しく暮らした」時代だったと羽田さんは振り返る。しかし、今回の旅は羽田さんにとって単なる「思い出探し」のツアーではなかった。

 「思えば、私が暮らしていた頃の旅順・大連は、日本人の支配する社会であって、下働きの労働をするのは、すべて中国人でした」「このことに初めて気が付いたのは、三重県の津から戻って、大連港に入ったときです。下働きをしているのは、すべて『苦力(クーリー)』といわれる中国人でした」「旅順で、日常接する中国人も、お店の注文取り、洗濯おばさん、石炭運び、馬車の御者、人力車夫といった人達で、対等のお付き合いをした中国人は本当に僅かでした」

と羽田さんは振り返る。それだけに、羽田さんたち一行が旅順滞在中に、地元の人々が日本による旅順統治時代を今、どのように回顧しているのか、生の声を確かめあえたら、一層、有意義な旅になり、記録映画としても深みが出たのではないかと思われた。しかし、途中までツアーへの参加、滞在に数わずか4日という条件を考えれば、これはないものねだりといえるだろう。

 しかし、そのような条件の中でも、この映画は随所に何層にも歴史の重さが重なる旅順の姿をコンパクトに描いている。

 旅順博物館前の広場を経てカメラは鳩湾へ、そして万忠墓へと向かう。ここは日清戦争末期、旅順を攻略した日本軍によって虐殺された兵隊、市民合わせて約2万人の遺体をまとめて埋葬した地である。中国政府は万忠墓を「愛国主義教育基地」の一つに指定した。「旅順で暮らしながら、殆どの日本人は、そんなことがあったとは全く知らずに暮らしていました。私もそうでした」と羽田さんは振り返る。

 この後、映像は旧旅順監獄に進む。1902年にロシアが造りはじめ、1907年に日本が旅順を統治した時期に完成したものである。今は陳列館としてすべて開放されているが、当時は犯罪者ばかりでなく、中国人、韓国人、そして日本の多くの政治犯も収容されていたという。内部は水桶と便器だけがそっけなくおかれた独房、拷問部屋などからなるが、カメラが大きく写したのは伊藤博文を射殺した安重根が収容された部屋だった。展示室には安を移送したという馬車や彼の胸像が収容されていた。
 この後、映像はソ連軍烈士の墓、旅順の山々にロシア軍が気付いた保塁などを映したがここでは省略する。

敗戦の詔勅を聞いた大連を訪ねて
 
羽田さんらスタッフ一行はふたたび大連へ向かう。旅順・大連間は約40kmというが、小学6年生の時、羽田さんたちは「旅大踏破」といって旅順から大連まで歩いて出かけたという。朝5時ごろ出発して大連に着いたのは夕方近く。
 旧大広場(現在の中山広場)周辺はヨーロッパ風の建築物が並び、大連の発展ぶりを象徴するスポットだ。一行は旧満鉄大連病院、旧弥生ケ池(現市植物中心湖)へと進む。自由学園を卒業して大連に戻った羽田さんは動員で旧満鉄試験所で勤務した。ここで天皇の終戦の詔勅を聞いたが、意味はのみ込めなったという。羽田さんの印象に残っているのは周りの日本人が沈み込んでいるのに、一人主任だけが腰かけを揺すりながら嬉しそうに笑っていたことだった。後でその主任は韓国人だとわかった。日本人にとって815日は敗戦の日であるが、韓国人にとっては祖国が日本の支配から解放された日なのである。まもなくして退職する時、羽田さんは研究室から青酸カリを渡されたという。

 その後、羽田さんは1年ちょっとだったが大連に在住の時の旧宅を訪ねた。しかし、なんとそこはマージャン店になっていて、中に入らせてもらったが客がいるということで撮影は許可されなかった。

 敗戦の翌年5月にソ連軍が大連にも進駐してきた。羽田さん宅もソ連軍に接収され、家財道具もそのままに東京で自宅を世話してくれた知人宅に身を寄せた。それ以降、日本に引き揚げるまでの2年間、羽田さん一家は9回も引っ越しをしたという。

 大連に在住の間、羽田さんは大連日本人労働組合に勤務した。奥地からの避難民に寝食を保障し、日本に引き揚げる事業を担ったところだった。そこで1年間働いた後、羽田さんと母、妹の3人は先に帰国した父に続いて日本に向かった。その時の心境を羽田さんはナレーションでこう語った。

 「懐かしい大連を離れたくなかった私ですが、日本人が引揚げて殆どいなくなった街では、日本語も聞こえず、今まで見たこともなかった元気な中国人の姿があふれ、恥ずかしいことに私は『ここは中国なのだ』と改めて気づいたのでした。」

 その後、カメラは大連港を俯瞰し、星が浦の海岸線、旧中央公園(現労働公園)へと進む。労働公園では「北国の春」を胡弓で奏でる人々、それを囲む人々の姿を大写しに。また、賑やかな露天の店の活気ある風情も映し出された。

 終幕に近付いたところで、旅の終わりを告げる羽田さんのナレーションが流された。

 「植民地時代にヨーロッパの国々と日本から、大きな被害と差別を受けた中国。しかし現在、旅順・大連にあふれている中国人の、国と人のエネルギーからは、過去の姿は全く消え去っていました。」「旅順・大連の見事に繁栄する姿を嬉しく思うのとともに、『ふるさとは遠くなった』と思うのでした。」

ただ懐かしいでは済まない旅順・大連
~歴史の重さを伝えた羽田映画の真髄~
 私は中国はもちろん、アジアに出かけたことがない。いまどき、珍しい人間だろうと思う。しかし、この映画は日本が中国を戦地として、あるいは植民地として統治した時代に旅順・大連に在住した人々にとって、思い出を手繰り寄せる貴重な記録映画であることは私にも想像できる。上映開始30分前に入場し、受付で買ったこの映画の小冊子を読んでいるとすぐ後ろの列で、「大連まで行ったのだけれど、その時は旅順には入れず、ワイン5本を買って発送して済ませたのよ。」「お父さんがいなかったら満州をさまよっていただろうに」と語り合う2組の年配の人たちの会話が耳に入った。そういう体験の持ち主が入場者の相当数を占めていたのではないかと思えた。

 しかし、上記の小冊子に収録された文章の中で羽田さんは次のように記している。

 「しかし悲しいことに旅順を簡単に『懐かしい故郷』ということができません。何故なら旅順も大連も本来は中国の土地なのに、日本人が支配し、中国人は下積みの労働をさせられる社会が構築されていたのです。日本人は中国人に下働きをさせて、いい暮らしをしていたのです。単純に懐かしいとは言えないのです。」「この作品に向き合って、何層にも重なる歴史の重さを、改めて考えさせられ、表現の難しさを痛感することになったのでした。」

 短いながらも羽田映画の真髄が凝縮された言葉と思われた。

岩波ホール上映期間:7月上旬まで
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