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「原爆」という文字を禁制したアメリカ占領軍のプレスコード~この夏も原爆の史跡めぐりに広島へ(Part1)~

福岡で講演~税と社会保障の一体改革について~
 827日、福岡市社会福祉推進協議会が主催した市民公開講演会の講師に招かれ、空路、福岡へ出かけた。会場の福岡市民福祉プラザは福岡空港から地下鉄に乗り、「唐人町」で下車。黒門橋から北へ徒歩5分ほどのところだった。講演のテーマは「税と一体改革で社会保障が守れるのか」。主催者から時間は充分あるので、と言われ、途中20分ほどの質疑を挟んで2時間余り話をした。
 前半は、消費税の逆進性は複数税率を以てしても、昨今推奨される給付付き税額控除を以てしても解消するのは困難なこと、消費税が前提する税の転嫁には建前と現実に大きな乖離があり、売上高の規模が小さくなるほど転嫁率が下がっており、消費税の逆進性は転嫁の格差にも表れていることを話した。

 後半はもともとのテーマからややはみ出るのを承知で、私が最近まとめた研究の一端を話したいと思い、まず、①医療財政を圧迫させている高い薬価が生まれるメカニズム、その結果、医薬品製造業が異常に高い利益率を記録していること、高い薬価にメスを入れることが急務になっていることを話した。その後、②去る730日に財務省が発表した2010年度特別会計決算概要をもとにして、特別会計の決算剰余金(年金特別会計のように長期にわたる給付原資として留保しておくべき剰余金を除く)のうち、翌年度に繰り越された歳出見合いの財源(支払備金を含む)として翌年度の歳入に繰り入れる必要がある分を除いた18.4兆円は一般財源として、あるいは目下の復興財源として活用できることを指摘した。その際、2010年度の特別会計の決算剰余金の約73%を占める国債整理基金特別会計の決算剰余金30.7兆円の処分可能性について触れた。このうち、翌年度の早い段階に償還を迎える国債の借り換えに備えて前倒しで発行された国債(借換債)の発行額相当分16.9兆円は他に転用できないが、減債基金として積み立てられた残りの13.7兆円は、国債償還の原資として積立てるという趣旨は分かるとしても、財務省がまとめた平成31年度までの国債整理基金の資金繰り見通しからすると、2017年度を除き、毎年度の要償還額は各年度の経常的収入(定率繰入、借換債収入、他会計からの繰戻、運用益等)で手当てできる見通しであることから、当座、他に転用しても国債の償還に支障が生まれるわけではないことを指摘した。

 途中と最後の質疑では参加者から次々と質問が出て、こちらも手ごたえを感じることができた。なかには自分の勉強不足が露呈した場面(輸出企業に消費税が還付される仕組み)もあったが、一人の方から、「いつまでもお元気であちこちへ講演に出かけてください」と励まされた。

 会場を出てまた地下鉄で博多駅へ。1637分発ののぞみに乗車するまで少し時間があったので、改札口近くの土産物店で明太子シュウマイほかセットを発送。1830分過ぎには広島着。タクシーでホテルに着き、大浴場で汗を流して一息ついた。

「さくら演劇隊原爆殉難碑」へ
 今回の原爆史跡めぐりの予定を立てるのに参考にしたのは、この8月に出版されたばかりの澤野重男・太田武男ほか著『観光コースでない広島』(高文研)である。ここで解説された史跡のうち、去年、回れなかったところで特に関心をもった場所にまず出かけることにした。その一つが「移動劇団さくら演劇隊原爆殉難碑」である。翌828日、ちょうど10時に原爆ドーム前に着き、途中、一本東の通りにある爆心地中心の島外科・内科を回った後、元安川の東岸を平和大橋に向かって歩いた。木陰の切れ目に出ると、もうこの時間に強い夏の日差しが照りつけたが、徒歩約10分で平和大橋の東詰めに出た。

 平和記念公園・周辺マップ
 http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/tour/tour_mai.html

 上の書物(7879ページ)では、さくら演劇隊原爆殉難碑は平和大橋東詰めを左折して平和大通りの北側を比治山に向かって西に進むと中区中町の緑地帯にある、と記さている。上のURLで示した周辺マップでいうと37番が平和大通りで、右側の37番が平和大橋、そこから西(地図の右手)に向かって道路の北側を歩いた。このあたりはマップから切れているが、思ったより長い距離を歩くと、「廣島第一縣女原爆犠牲者追憶之碑」があった。碑の一角には「昭和2086日遭難 職員校長共20名、生徒277名及同窓生」と記され、「今学び舎のこの跡に受難のあとを弔いてみ墓の前にぬかずけば無量の思い胸にわく おお師の君よわが友よ 鎮まり給いて安らけく」という追憶の言葉が刻まれていた。
Photo_4
 「さくら演劇隊原爆殉難碑」はそこから、100mも離れない場所にあった。上部が斜めに切られた三角柱の碑は思ったより小さかったが、それがかえって清楚な姿に思えた。石碑の一面には「1945年没す」として「丸山定夫 高山象三 園井恵子 仲みどり 森下彰子 羽原京子 島木つや子 笠絅子 小室喜代」の9名の名前が彫られている。
 石碑の右手に置かれた金属製の表示板には、「移動劇団さくら隊原爆殉難碑の由来」と題して次のような文章が記されている。

 「広島の移動演劇さくら隊原爆殉難碑は、原爆投下から7年後の1951(昭和268月)中国新聞社芸能記者の人たちによって『丸山定夫・園井恵子 追慕の碑』として、白いペンキ塗りの質素な木の碑として新川場町のどぶ川のほとりに建立された。それから4年後の1955年(昭和30年)8月に広島で開かれた第一回原水爆禁止世界大会で、碑の建設が、劇団俳優座の永田靖氏らによって、新劇人へ呼びかけられた。建設にあたっては徳川無声、八田元夫、山本安英の各氏が奔走し、1959年(昭和34年)8月、新制作座、文学座、俳優座、ぶどう会、民芸、中央芸術劇場の6劇団と『演劇人戦争犠牲者記念会』の協力によって建立された。碑の『桜隊』の『桜』が『さくら』と仮名文字で彫られているのは、占領下のもとであったため漢字の『桜』は使用できなかった。 20009月 広島市民劇場」

20110828

慰霊碑にさえ「原爆」の文字を使えなかった言論管制
 次の日(829日)、広島平和記念資料館東館地下1階にある原爆情報資料室で見つけた江津萩枝『桜隊全滅―ある劇団の原爆殉難記』(1980年、未来社)によると、9人は市内の旧堀川町99番地(現在の福屋百貨店の横を南に下ったすぐのところに置かれた移動演劇聯盟中国出張所事務所兼寮に滞在中に原爆に遭遇した。爆心地から東へ750mの地点だった。島木、森下、羽原、小室、笠(島木の母)は被爆して崩壊した建物の下で白骨で発見されたが、隊長の丸山は宮島まで逃げ延びたが存光寺で死亡。高山(舞台監督兼俳優)と園井は神戸まで逃げたのち死亡。仲みどりは下着1枚で京橋川に入っていたところを宇品の船舶部隊に救助され、臨時収容所で一夜を過ごした後、9日には汽車で東京に帰り、16日に東大病院に入院して臨床医の診察を受けたが、824日に「原子爆弾症」と診断されて死亡した。

 なお、東京都目黒区の天恩山五百羅漢寺にも「移動演劇さくら隊原爆殉難碑 徳川無声」と記された石碑がある。私はまだ出かけていないが、江津萩枝、前掲書によると、1952年暮れに行われたこの記念碑の除幕式について徳川無声は『オール読物』19533月号に掲載された随筆の中で、「のびのびになって有難かったことは、ハッキリ『原爆』という文字を碑面に彫りつけることが出来るようになったことである」と記している。裏返せば、原爆投下から数年は占領軍が敷いたプレスコードによって、慰霊碑にさえ「原爆」という文字を入れることができなかったのである。

EMC2
~広島市立高女の慰霊碑に刻まれたこの文字の意味は~

 この点をより象徴的に示しているのが、平和大通りを挟んで平和記念館の向かい側にある広島市立高女の慰霊碑である。この場所は建物疎開作業に駆り出されていたさなかに被爆した教師8名、12年生544名の終焉の地である(上記の平和公園・周辺マップの番号35)。『広島原爆戦災誌』によると、そばを流れる元安川に架けられた仮新橋は半分焼け落ちていたため、多くの生徒は腰のあたりまで水につかりながら、ほとんど丸裸の状態で歩いて渡ろうとした。しかし、何百という生徒が川の途中で倒れ、事切れ、身体はゆでタコのように赤黒くなっていたという。
 
 ところで、広島市立高女の慰霊碑の中央の少女が抱いた手箱には、「EMC2」という化学式が彫られている。この文字の由来について、慰霊碑左手前に設置された説明版に次のように記されている。

 「1945(昭和25)年86日、現在地(旧材木町付近)で建物疎開作業中の12年生(当時1213歳)541人、教員7人の全員がなくなり、他の動員先を含め676人が被爆死しました。市内学校では、最も多くの犠牲者を出しています。
 この碑は1948(昭和23)年、広島市女原爆遺族会が母校校庭に建立し、13回忌にあたる1957(昭和32)年現在地に移されました。碑中央の少女が持つ箱には、原爆の原理になった相対性理論の原子力公式エネルギー『EMC2』が刻まれています。連合軍の占領下、『原爆』という文字が使用できなかった当時の事情を表しています。

 ちなみに、この碑の制作者は山口県の近代彫刻家の河内山賢祐氏だが、「EMC2」という原子力の化学式を使って「原爆」の犠牲者という意味を伝えようというアイデアは湯川秀樹氏の発案といわれている。

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「平和をいのる人のみぞここは」(湯川秀樹氏の歌碑)
 湯川秀樹というと、同氏の歌碑を刻んだ平和の像「若葉」がある。前記平和公園・周辺マップの32番で、広島市立高女の慰霊碑とは平和大通りを隔てて100mほど西の位置にある。マップの32番をクリックすると拡大画面が現れ、この像と歌が解説されている。

  まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる人のみぞここは(湯川秀樹)

 「まがつび」とは「禍つ日の神」の略で、災害・凶事を起こす神のこと。原爆投下を「災害・凶事の神のなせるわざ」にたとえるのは同意しかねるが、下の句は、ここ爆心地に来る人は観光スポットの見物で帰るのではなく、平和を誓う人であってほしい、そういう人に少しでも変わって帰ってほしいという気持ちを込めた言葉だろう。そう解釈すると、この地に眠る原爆犠牲者の魂を代弁する言葉といえる。
 円鍔勝三作のこのブロンズ像は、そばに立つ子鹿に左手をさしのべる少女の清楚で凛とした姿が平和の像に似つかわしい。

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審議会等の委員の選任方法の改善を求める陳情を市議会に提出

2011年8月22日
審議会を通じた民意偽装

 政府や地方自治体主催のシンポジウムやタウンミーティングにおいて、主催者である政府や自治体が市民からの意見公募に介入し、国の政策に沿った発言者を選ぶ民意偽装工作をしていた実態が次々と発覚している。最近、発覚した原発再稼働の是非を問うシンポジウムや公聴会の準備段階でのやらせメールなどは、その典型例であるが、手口があまりに露骨であるために民意偽装の実態が一目了然である。
 しかし、行政機関による民意偽装工作はこれに尽きるわけではない。もっと目立ちにくい狡猾なやり方で行政機関が民意形成・集約過程に介入し、行政の意に沿う「民意」形成を演出する工作が日常茶飯に行われている。その代表例は常連の「有識者」を参画させた審議会で行政の施策にお墨付きを引き出す方法である。
 こうした方法は、選ばれた委員の「中立的な」審議の帰結という外見を呈するため、行政による遠隔操作の実態は捉えにくい。というより、審議会を通じた民意誘導は委員を選ぶ段階でほぼ完了しており、その後の審議(答案づくり)は宿題を出した行政が描いた筋書きに沿って進行する「出来レース」といってよい。
 その場合、審議会委員の選任の段階で行政による「オピニオン・ショッピング」がどのように行われているかを具体的に指摘するのは容易でなく、外見的な事実から質すほかない。

わが市では?
 では、私が住む市ではどうなのか? これまで市民からの委員公募に応募した経験のある知人や、現に委員に選ばれて審議会に参加した知人の体験談を総合すると、ここでも、かなりの審議会が民意偽装の場に化しているといっても過言でない。

 そこで、この6月以降、市民有志が集ってこうした現状を改革する行動を起こそうということになった。審議会の改革といっても課題が山積しているが、まずは外形的にも歪みが明らかな実態、つまり、審議会等の委員が固定化している現状を改め、多様な意見・知見を持つ市民に審議会等への参加の機会を開くよう、829日に招集される市議会に陳情書を提出しようということになった。
 先週末、有志が集まって活発な議論の末、陳情文書をまとめ、短期間ではあったが賛同署名の呼び掛けをした。そして、今日(822日)、101名の賛同署名を添え、私を代表者とする以下のような陳情書を市議会議長宛てに提出した。(下線はブログに転載するにあたって追加したもの。なお、これと同時に、もう一件、「議会報告会及び意見交換会の運営に関する陳情書」を111名の市民の賛同署名を添えて提出した。私も陳情賛同者に名前を連ねた。)

                    2011(平成23)年822

    佐倉市の附属機関等の委員の選任方法の改善を求める陳情

                    陳情者(代表)
                       住所  × × × ×
                       氏名 醍 醐  聰 印

佐倉市議会議長 森野 正 様

【要旨】
 佐倉市の附属機関等(以下、通称にならって「審議会等」という)に選任される委員が固定化している現状を改め、佐倉市の意思形成過程に多くの市民が積極的に参画できる機会を確保するよう、審議会等の委員の選任方法を改善することが求められています。そこで、私達は佐倉市議会が、次の点について早急に見直しに着手するよう、佐倉市長に助言下さることを要望いたします。

 1.同一人が時期をずらして多くの審議会等の委員を「渡り」するのを抑制するため、一定期間を通算して同一人を選任できる数を制限すること(たとえば、「同一人を委員に選任できる審議会等の数は5年間を通算して5以下とする」といった定めを「佐倉市附属機関等の設置及び運用に関する要綱」に追加する)。

 2.「当て職」枠を減らし、公募市民枠を広げるよう委員の選考基準・方法を見直すこと。

【理由】
 市の審議会等の委員の選任制度と選任の実態を調べますと、同一人が長期間にわたって同じ審議会等に在任したり、種々の審議会等を横滑り(時系列の「渡り」)で選任されたりする「委員の固定化」現象が見られます。これは、
 ①委員の過半がいわゆる「当て職」者で占められていること、
 ②委員の通算の在任期間は3期または8年のいずれも超えないものとする(「要綱」第4条(4))と定められているにもかかわらず、この原則を適用されない「専門的な知識又は経験を有する者」の枠で選任される委員が過半を占めていること、
 ③同一人の委員併任は3以内を限度とするとされている(「要綱」第4条(5))ものの、同一人がさまざまな肩書を使い分け、時期をずらして複数の審議会等を「渡り」する例が見られること、などのためです。また、
 ④専門的な知識又は経験を有するものの枠で選任された人物がその後に「公募市民」枠で選任された例や、逆に、「公募市民」枠で選任された人物がその後に「専門的な知識又は経験を有するものの枠」で選任された例も見られます。こうした実態は、2種の選任枠の区分があいまいなため、兼務の制限、通算在任期間の制限が十分機能していないことを意味します。

 次のような理由から、こうした現状を早急に改める必要があると考えます。
 1.上記のような委員の固定化現象は、委員の選任にあたっては「広く各界各層及び幅広い年齢層の中から適切な人材を確保すること」と定めた「要綱」(第4条(1))の精神にそぐわず、市民が公平に市の意思形成過程に参加する機会を損なうものであること。

 2.「当て職」委員や担当部課の役職者が委員の過半を占めると、市民の参画による行政のチェック機能、市の意思形成への提言機能が形骸化し、審議会等は行政組織の連絡調整の場と区別がつかなくなる。これは審議会等に期待される本来の姿から逸脱するものである。

 3.委員に高度な専門的知見と豊富な経験が求められる審議会等があることは否定できないが、昨今、自発的な研究・学習活動、地域でのNPO活動などを通じて自治体の行財政、ボランティア・コミュニティ活動等に関し、旺盛な関心と豊富な知見を培った市民が少なくない。こうした市民の経験と知見を市の政策形成に活かす機会を広げることは市民協働の精神に合致する。

 4.「佐倉市市民協働の推進に関する条例」で、市の政策形成過程への市民の参加手続の一つとして謳われた、審議会等への「公募による市民」参加を活性化させるためにも、委員の固定化現象を改める必要がある。

 もとより、審議会等の委員の選任は行政機関の権限に属しますが、地方議会には、自治体の意思を決定する役割とならんで、行政執行の状況を監視する役割が負わされています。こうした観点から私達は、佐倉市議会が、市民協働条例第3条で謳われた市の責務(市は市民がまちづくりに参加する機会を確保するための環境の整備に努める責務)が適切かつ公正に果たされているかどうかを充分に検証下さるよう要望いたします。それはまた、年間4,000万円を超える審議会等の運営に係る予算が効果的に執行されているかどうかを監視する議会の役割でもある、と私達は考えます。

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