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白樺派文人ゆかりの地・我孫子市を訪ねて(3)

 志賀直哉邸跡を訪ねて
 
お礼を言って白樺文学館を出ると、A氏も外に出てきて前の道路の前方を指さし、「あそこが志賀直哉の邸宅跡ですよ。よかったら一緒に言って案内しましょうか?」と話しかけてもらった。さほど、忙しそうにもなかった(失礼!)ので、「ではお願いします」ということにした。
 志賀直哉邸跡は白樺文学館から100mもない場所にあった。邸宅跡が石段で形づくられ、別棟として書斎が配置されていた。ただし、住まいも元は緑雁明緑地にあったが、書斎は付近の民家に移築されていたものをこの地に再移築して整備したものである。志賀は1923(大正12)年に京都に移るまでこの地で『和解』、『城崎にて』、『暗夜行路』を次々に発表して充実した作家生活を送った。武者小路宅とは目の前の手賀沼から舟で行き来をしたという。当時、前を通る道路の向こうは手賀沼だったということは以来、ずいぶんと埋め立てをしたものだ。ここでもA氏に詳しい説明を聞いたあと、書斎の濡れ縁にたたずむ格好の写真を撮ってもらった。感謝の至りだった。

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 市民図書館で
 志賀直哉邸跡を出て、来た道を引き返し、市民図書館が入っているアビスタに着いたのは14時すぎだった。1階の軽食コーナーでランチを済ませ、図書館に入館すると、平日にしては閲覧室はほぼ満席で、しばらく歩きまわって何とか空席を見つけた。それぞれ自分の興味に従って調べ物をすることにしたが、私の目的は当館に所蔵されている『杉村楚人冠関係資料目録』(杉村松子家所蔵;我孫子市教育委員会編集、平成173月)で、例の針文字書簡ほか楚人冠関係の資料を閲覧・調査することだった。幸い、5分冊が我孫子ゆかりの資料コーナーに開架されていたので、「Ⅱ.書簡」を取り出して、ページを繰っていくと、通番0262として「書簡〔大逆事件の精査と幸徳の弁護士斡旋依頼〕という標題が付された書簡が収録されていた。差出人は菅野須賀子で受取人は杉村縦横、差出年月日は明治4369日、受取の住所は京橋区朝日新聞社内と記されていた。ただし、封筒の差出人は匿名と記されている。さらにページを繰っていくと、以下の差出人からの書簡が載っていた。
 夏目金之助(差出年月日:明治43617日、明治44515日、〔18日〕、20日、〔21日〕、  大正41117日)
 堺利彦(同上:大正774日)
 芥川龍之介(同上:大正9415日)
 平塚明〔雷鳥〕(同上:大正9416日)
 木下利玄(同上:大正9430日)
 安達謙蔵(同上:大正9616日)
楚人冠の交友の広さを伝える資料として興味深い。

 とはいえ、まずは、菅野須賀子からの書簡の原文の写しを見たいと思い、閲覧受付係へ行くと、「現物は当館ではなく、教育委員会は所管しているので問い合わせてみる」とのこと。しばらく開架で別の資料を探していると、担当者がやってきて、「閲覧にあたっては資料名を記入して申請書を所蔵者宛てに提出する必要がある。手続は教育委員会なので出かけもらう必要があるが、どうされますか」とのこと。場所を尋ねると、JR2つ目の駅まで出かけなければならないそうなので、今日は無理とあきらめた。
 ただし、楚人冠が受けとった菅野須賀子明の針文字の書面は既にいく人かの研究者が入手し、一般に公表されている。たとえば、今年の129日の『毎日新聞』夕刊に「針穴でつづった白紙の秘密書簡」と題する記事が掲載され、その中で発見された書簡と封筒、針穴でつづられた文面(全文)の複写が掲載されている。針文字の文面は以下のとおりである。

  京橋区瀧山町
   朝日新聞社
    杉浦縦横様
      菅野須賀子
  爆弾事件ニテ私外三名 
  近日死刑ノ宣告ヲ受ク
  ベシ御精探ヲ乞フ
  尚幸徳ノ為メニ弁ゴ士
  ノ御世話ヲ切ニ願フ
    六月九日
   彼ハ何ニモ知ラヌノデ

 もっともこの書簡の封筒には「典獄」の印がないことなどから、差出人を菅野須賀子と断定するに足る証拠はこれまでのところ見つかっていない。しかし、前記の「針文字書簡と大逆事件~事件が文学に与えた影響~」は、当時、監獄から秘密裏に書簡が監外に出回る伝達ルートがあったことが少なからぬ事実で裏付けられていること、手紙の内容からして関係者でないと分からない情報が記されていることなどから、この書簡の差出人は菅野須賀子であった可能性を否定できないと記している。また、長く楚人冠の研究に携わってきた我孫子市教育委員会の小林康彦調査員も「私外三名」と表記されていることなどから菅野自身がつづった可能性が高いとみなしている(小林康彦「大逆事件針文字書簡と杉村楚人冠」、『史潮』58号、200511月)。
 今後、新資料のさらなる発掘と考証を通じてこの点が解明されるならば、これまでとかく「妖婦」、「テロリスト」のレッテルを貼られがちだった菅野須賀子の実像を浮かび上がらせる資料となる可能性がある。なお、菅野須賀子の歪んだイメージの流布に警告を発した論説として、「大逆事件から100年 人間性豊かだった菅野スガ」、『毎日新聞』201022日夕刊、がある。と同時に、大逆事件とのかかわりを通して、楚人冠の社会思想と行動の全容がより広範囲に究明されることが期待される。

 夕暮間近のの手賀沼公園へ
 1540分ごろ、市民図書館を出て夕暮前の手賀沼公園へ入った。すぐ近くにある「平和の記念碑」を見た後、沼の水際へ。水面にはごみが浮遊して美しい沼と形容するには遠い状況だった。そのせいか、授業を終えた高校生の一団が大きなポリ袋を持って水面近くを歩きながら、清掃をしているのに出会った。もう少し、時間があれば公園をゆっくり散策したいところだったが、留守中、一人で過ごしている飼い犬のことが気になり、帰路を急ぐことにした。
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白樺派文人ゆかりの地・我孫子市を訪ねて(2)

 「主人持ちの文学」をめぐって~多喜二宛て志賀直哉の書簡に思うこと~
 白樺文学館の展示のなかで私が引き寄せられたのは小林多喜二宛ての志賀直哉の書簡((1931(昭和6)年87日付け))だった。書簡の全文は次のとおりである。
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/takizi_ate_naoya_no_shokan.pdf

 志賀と多喜二に親交があったこと、志賀から多喜二に宛てた書簡があり、その中で志賀がプロレタリア文学の党派性について諌める言葉を記していたことは知っていたが、書簡の全文を読むのはこれが初めてだった。多喜二を敬愛する人々は多喜二が志賀を尊敬していたこと、志賀も奈良の自宅を訪ねてきた多喜二を暖かく迎えたこと、多喜二が虐殺された折に志賀は多喜二の母に丁重な弔辞を送ったことなどに注目し、志賀が多喜二の文学と生き方に一目置いていたことを折に触れて紹介している。事実、志賀は小林が拷問死して5日後の1931225日の日記に「「小林多喜二 一二月二十日(余の誕生日)に捕へられ死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会はぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなりアンタンたる気持になる、不図彼等の意図ものになるべしといふ気する」と記している。
 しかし、そのことを以て、上の書簡の中で志賀が次のように記していたことを閑却すべきではない。

 「私の気持から云へば、プロレタリア運動の意識の出て来る所が気になりました。小説が主人持ちである点好みません。プロレタリア運動にたづさはる人として止むを得ぬことのやうに思はれますが、作品として不純になり、不純になるが為めに効果も弱くなると思ひました。」
 「作家の血となり肉となったものが自然に作品の中で主張する場合は兎も角、何かある考へを作品の中で主張する事は芸術としては困難な事で、よくない事だと思ひます。運動の意識から全く独立したプロレタリア芸術が本統のプロレタリア芸術になるものだと思ひます。」
 「それからこれは余計な事かも知れませんが、ある一つの出来事を知らせたい場合は、却って一つの記事として会話などなしに、小説の形をとらずに書かれた方が強くなると思ひました。かういふ事は削除されて或ひは駄目なのかと思ひますが、さういふ性質の材料のものは会話だけで読んでゐてまどろっこしくなります。
 それから「蟹工船」でも「三・一五」でも正視できないやうなザンギャクな事が書いてある、それが資本主義の産物だといへばいへるやうなものの、又さういっただけではかたづかない問題だと思ひました。
作品の運動意識がない方がいいと云ふのは私は純粋作品本位でいった事で君が運動を離れて純粋に小説家として生活される事を望むといふやうな老婆心からではありません。」

 私は文学理論に疎いし、志賀が好んで使う「文学の純粋性」がどういう意味なのかも十分理解できていない。しかし、文学に限らず、社会科学についても政治との関係を否応なしに考えさせられてきた私にとって、「主人持ちの小説はよくない」という志賀の言葉を読み流すことはできない。この点を今詳しく論じると横道にそれるが、私が留意すべきと思うのは志賀が多喜二に向かって政治と縁を切れと言っているのでなければ、政治を小説の題材とすることを戒めたわけでもないということである。むしろ、志賀は「作家の血となり肉となったものが自然に作品の中で主張する場合は兎も角」と記していることからもわかるように、運動のためのという意識が前のめりした生硬な小説ではなく、自分の血肉となった思想が自然に滲み出るような作品こそ、読者の心に響く作品であると言いたかったのだろうと思う。
 こう考えると、「主人持ちの小説」という意味は、一見自己主張と思想を押し立てた小説に見えながら、その実、自分の外にある「主人」の主張・思想に陶酔したり、追従したりする他律的小説という意味であり、そうした作品は、たとえ当の「主人」の主張なり思想なりが正当なものであったとしても、元々の同調者以外の読者の心を打つに如かないということを志賀は言いたかったのだと思う。末尾の「作品の運動意識がない方がいいと云ふのは私は純粋作品本位でいった事で君が運動を離れて純粋に小説家として生活される事を望むといふやうな老婆心からではありません」という言葉はプロレタリア運動それ自体を嫌悪する意思が志賀にあったわけではないことを如実に示しているが、その点だけを強調して、「主人持ちの文学」に対する志賀の苦言を等閑に付すのは偏狭な党派性である。

 志賀文学の展開~敗戦の悲惨な現実を目の当たりにして~
 しかし、話はこれで終わらない。志賀は『文化集団』193511月号に掲載された貴司山治との対談「志賀直哉氏の文学縦横談」のなかで、<主人持ちの文学>について次のように語っている。

 「しかし誤解してはいけないよ、主人持ちの文学でさへなければその作品がすぐに傑作だなんていふことを僕は決して言はないのだから・・・」。
 「主人持ちの文学でも人をうつものはあるかも知れない」「要は人をうつ力があるもの、人を一段高いところへ引き揚げる力がある作品であればいいのだ。さういう作品が現れてくるならば、反対にはっきり主人持ちの文学として現れて来たからといって一向差支へあるまい」。

 小林多喜二宛ての書簡で<主人持ちの小説はよくない>と諌めた志賀直哉がそれから4年後に<主人持ちの文学でもかまわない>と語ったのをどう理解すべきか? 志賀は持論と称してその時々に口から出まかせの論を語ったとは思えない。この点を考える上で、多喜二宛ての書簡の中で志賀が次のようなエピソードを披露しているのが注目される(この点に注意を喚起したのは、下岡友加「志賀直哉のリアリズム――「灰色の月」を中心に」、『国文学攷』(広島大学国語国文学会)172号、200112月、である)。

 「里見の「今年竹」といふ小説を見て、ある男がある女の手紙を見て感激する事が書いてあり、私は里見にその部分の不服をいった事がありますが、その女の手紙を見て読者として別に感激させられないのに主人公の男が切に感激するのは馬鹿々々しく、下手な書き方だと思ふといったのです。力を入れるのは女の手紙で、その手紙それ自身が直接読者を感動させれば、男の主人公の感動する事は書かなくていいと思ふと云ったのです。」

 このくだりについて前記・下岡友加氏は「結果(男の感激)よりも原因(女の手紙)に『力を入れる』事を説く・・・方法意識」(9ページ)とみなし、そうした方法において「重要なのは、人物の心意を導く原因としての出来事が、それとして十分に提示される事であって、その結果(人物の心意)を殊更に報告する事ではない」(同上)と述べている。 そして、下岡氏はかくいう志賀自身が、敗戦直後の東京駅から乗り合わせた電車の中で目の当たりにした餓死寸前の少年工の姿を題材にした「灰色の月」(『世界』19461月に発表)において、まさにこのような方法を踏襲したこと、それによって、「社会的な問題をストレートに振りかざすのではなく、あくまでも一個人の痛みとしてそれを提示する事で、単純な世相批判に終わらぬリアリティ-を獲得している」(10ページ)と評している。
 そして、下岡氏は志賀がこうした社会問題を題材にした作品を書き上げた原動力は敗戦直後に志賀が『改造』、『展望』、『婦人公論』などに次々と発表した平和論、天皇制論、東条英機論などにみられるリアリズムがあったと指摘している。
 こうした志賀文学の方法は私なりに言いかえれば、作中の人物に思想をむき出しに語らせるのではなく、事実なり体験なりの描写を通して思想を語らしめる方法といえる。とすれば、こうした方法は文学の世界に限られるわけではなく、社会科学の分野にも通じる叙述の方法といって差し支えないだろう。多喜二宛ての志賀直哉の書簡を読み返しながら、こんなことを考えさせられた。
 
 第2展示室で用件を済ませて白樺文学館を後にしたのは1330分ごろだったが、帰りがけに玄関ホールの壁面に雑誌『白樺』の全160号の表紙が展示されているのを眺めていると、確か副館長というネームプレートを付けたA氏が近付いてきて、「お二人一緒の写真を撮りましょうか?」と声をかけてもらった。連れ合いもこの展示が気に入った様子だったので、言葉に甘えて壁面を背景に撮ってもらった。
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白樺派文人ゆかりの地・我孫子市を訪ねて (1)

 大逆事件/針文字書簡の受取人・杉村楚人冠の足跡を訪ねて
 
1012日(水)、連れ合いといっしょに我孫子市に出かけた。標題に「白樺派文人ゆかりの地」と書いたが、きっかけは大正131924)年から亡くなる昭和201945)年まで我孫子に在住した杉村楚人冠(本名:広太郎;18721945。「縦横」という筆名も使っていた)の足跡を訪ねることだった。では、なぜ楚人冠なのかというと、最近、大逆事件の死刑囚の一人・菅野スガ(須賀子)が獄中から楚人冠に宛てて、幸徳秋水の弁護を求める書簡を送った針文字の書簡が我孫子市の杉村家から発見されたのを知り、楚人冠とはいったいどういう人物だったのか知りたいと思ったからである。
 出かける前に我孫子市の郷土資料を所蔵していると思しきところを調べたら、同市教育委員会文化・スポーツ課が昨年11月に同市にある白樺文学館で大逆事件100年を記念して「針文字書簡と大逆事件~事件が文学に与えた影響~」展を開催していたこと、その時に配布された資料をもとに「針文字書簡と大逆事件~事件が文学に与えた影響~」(我孫子市文化財報告第3集(20113月)が刊行されていることがわかった。

 そこで、ひとまず、この資料を手に入れられないかと同市教育委員会文化・スポーツ課に電話をすると、白樺文学館に在庫があるとのこと。すぐに同館に電話して用件を伝え、近くそちらへ出かける予定と告げると、「では、1冊取り置きしておきます」と応答してもらえたのは有難かった。
 というわけで、今月12日に我孫子市にある白樺文学館に出かけることにしたのだが、楚人冠の関係資料が所蔵されている、手賀沼公園のそばにある市民図書館アビスタ本館にも立ち寄ることにした。併せて、下調べのつもりで、同市のホームページを調べてみると、白樺文学館の所在地とあって、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦の邸宅跡のほか、講道館の設立者であり高等師範学校校長といった教育者としての足跡も残した嘉納治五郎の別荘跡や楚人冠記念公園もあることがわかった。
 あびこ電脳考古博物館:市内の史跡・文化財:作家・文人達の足跡
 http://kouko.bird-mus.abiko.chiba.jp/siseki/bunruifgoto/sakka.html

  天神坂を上って嘉納治五郎・柳宗悦の邸宅跡へ
 1012日は晴天に恵まれた1012日。1050分ごろ、JR我孫子駅に着く。まずは駅南口を出て左手にあるけやきプラザ1階のインフォメーションセンターに立ち寄り、周辺地図を探す。係員は懇切に当方の用件を聞き取って、たくさんのちらしや地図をもらった。連れ合いはそこに陳列されていた白樺カレーが気に言ったようだったが、帰りにもう一度立ち寄ることにして先を急いだ。駅前ロータリーを抜けて下り坂の公園坂通りを10分ほど歩くと手賀沼公園にぶつかり、そのわきに市民図書館(生涯学習センター・アビスタの1階)があるが、まずは、交差点を左折してすぐのところに点在する白樺派文人らの邸宅跡と白樺文学館に出かけることにした。といっても歩いて5分もしないうちに各邸宅跡を示す案内標識が目に止まった。
  天神坂手前の案内標識
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 天神坂と呼ばれる長い石段の坂を上リ切ると(1125分ごろ)、すぐ右手に嘉納治五郎(18601938)別荘跡があり、道路を隔てた向かい側にあるのが柳宗悦の居宅跡である。嘉納は明治441911)年に我孫子のこの地(緑1丁目)に別荘をもったが、彼が白山1丁目付近(公園坂通りの西側)に所有した後楽農園ではジャムにできる「グズベリー」などさまざまな作物を栽培したという。治五郎の死後、農園は売却され、分譲地となり東京からの移住者が増えて、今日の田園都市的な我孫子市発祥の礎にもなったという。
 ここへ来てわかったことだが、柳宗悦(18891961)は嘉納治五郎の甥で、嘉納の紹介でこの地に別荘を設けたということだった。柳は東京帝国大学在学中に白樺の同人となり、大正31914)年、声楽家・中島兼子と結婚し、兼子の姉・谷口直枝子の別荘地であったこの地に移り住んだというのがいきさつらしい。そして、直枝子がこの地に別荘を購入したのは叔父・嘉納治五郎が東隣に別荘を設けていたためというから、話はいささか込み入っている。柳の邸宅地は三樹荘と呼ばれているが、その由来は当地の人々が“智・財・寿”を表す樹木として信奉していたシイの古木がこの敷地内に3本あったことにあるといわれている。この地は今は別人の所有になっているが、3本のシイの木は今も立派におい茂っていた。

 三樹荘跡地
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 楚人冠記念公園から白樺文学館へ
 天神坂を下って、元来た細い道路を東方向へ歩くと、次の案内標識があった。左折する道路の先に「楚人冠記念公園」があるというので歩いてみたが、なかなかそれらしい場所が見当たらない。しばらく周辺をうろうろした後、庭木の手入れをしていた男性に尋ねると、少し引き返した先を右に曲がるとすぐ見えてくるという。確かに、高台の緑地があり、坂を上がると広場に出た。ここが楚人冠記念公園らしいが、辺り一帯雑草がのび、手入れもされていなくて、いささか拍子抜けの感じだった。ただ、広場の北側に、楚人冠とこの地の縁を簡潔に説明した「楚人冠と我孫子」という標題の説明板と次のような句を刻んだ碑があった。
   筑波見ゆ 冬晴れの洪になる空

  楚人冠記念公園の掲示版
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 楚人冠記念公園から元来た道に戻って更に東へ歩くと、5分としないうちに白樺文学館ののぼりが見えてきた。1210分ごろ正面玄関前に着くと思ったよりもこじんまりした建物だった。ここで改めて白樺文学館の沿革をごくかいつまんでいうと、もともとは経済人・佐野力氏が白樺派文人たちの活動を広く次代に伝えるために私財を投じて20011月に開館したものである。我孫子市在住の武田康弘氏が初代館長に就任して運営にあたったが、200711月に佐野氏が我孫子で大きく発展した白樺派文学を次代に伝えてほしいとの思いから、市へ白樺文学館の寄附の意向を示し、市との1年間の共同運営を経て200941日から我孫子市白樺文学館として管理・運営を開始したものである。詳しくは同館のHPに掲載されている「白樺文学館の沿革」を参照いただきたい。
 http://www.city.abiko.chiba.jp/index.cfm/21,58361,41,614,html

 入館して受付で名前を告げると、職員の一人がカウンターに取り置いてあった前記の「針文字書簡と大逆事件~事件が文学に与えた影響~」が入った封筒を差し出した。500円を払ったあと、館内の案内パンフを受け取ると、2階建ての館内は、4つの展示室に分かれ、地階は「柳兼子を聴く部屋」と名付けられたオーディオルームに分かれていた。1階の第一展示室では雑誌『白樺』創刊百周年記念特別企画展の一環として「武者小路実篤展」の展示になっていて(1218日まで)、実篤の生涯を学習院時代、我孫子時代、日向新しき村時代に分けてパネルで展示がされていたほか、実篤の初版本なども展示されていた。2階の第3展示室には実篤の諸作品、写真資料、ロダンの「鼻のつぶれた男」の像、夏目漱石の書簡、有島武郎の書、志賀直哉の「暗夜行路」草稿などが展示されていた。最後の第4展示室は和室で里見弴の色紙、長與善郎の色紙と軸、有島生馬の軸などが展示されている。
 順路に従って展示室を一巡した後、閲覧室を兼ねていた第2展示室に戻り、明治4344年当時の『白樺』を繰って、大逆事件に触れた作品なり論説なりがないか調べたが、それらしきものはみつからなかった。書架にはゆっくり調べてみたい図書・資料がたくさんあったが、所詮、1時間程度では間に合わないとあきらめ、またの機会とした。

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秋の学習院目白キャンパスを訪ねて

 8月末に広島を訪ね、原爆史跡めぐりをした記事が2回書いたところで中断したままになっている。続きを書くのにもう少し資料を整理しなくてはならない。そこで、その前に929日に学習院目白キャンパスを訪ねた時の見聞記を記憶が薄れないうちに書き留めておきたい。

秋の三四郎池めぐり
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日は所用があり、東大の本郷キャンパスに出かけた。経済学部の教育研究支援室で簡単な用件を済ませた後、附属図書館に回って借り出していた図書を返却。そのあと、近くの三四郎池周辺をゆっくり散策した。在職中もよく回ったコースだが、この日はさわやかな秋晴れで日差しも強く、写真を撮るのに格好の天気だった。先日来の大雨のためか、水かさ増していて、水面に映る木々の緑は5月の新緑の季節のようだった。
 池を一周りした後、池のそばにある山上会館のレストランで昼食。その後、赤門に向かって歩く途中の道端に彼岸花が数本咲いていた。さらに歩いて医学部講堂前の広場で撮った写真は後で見て素人の我ながら、アングルと陰陽が気に入った。(後方の建物が経済学研究科棟)

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血洗いの池めぐり
 
本郷三丁目から丸の内線で池袋へ回り、池袋から山手線で一駅の目白で下車。駅の近くで人と会う約束で来たのだが、早めについて駅のすぐそばにある学習院の目白キャンパスを散策することにしていた。なぜ学習院キャンパスかというと、連れ合いが大学を卒業してしばらくの間、学習院大学に勤務していたことから、よく目白キャンパスのことを聞かされていたためである。
 この日はキャンパスをくまなく回るほどの時間はなかったので、緑に恵まれ、一番閑静な場所と言われている「血洗いの池」周辺をゆっくり歩くことにした。案内板に従って、キャンパス内ランニングのAコースを5分ほど歩くと池が見えてきた。ここも、5月の新緑の季節を思わせるほど美しい緑の樹木に囲まれ、木立の間にさわやかな日差しがこぼれていた。中央には木の橋がかけられている。帰宅して連れ合いに聞くと、当時はなかったそうだ。橋の中央にさしかかると鯉が何匹も集結し、押し合うように水面に向かって口を開いていた。橋のそばには、ここでも彼岸花が数本咲いていた。その近くに「血洗いの池」と題する金属製の掲示板があり、次のように記されていた。

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 「赤穂浪士の一人 堀部安兵衛が高田馬場の決闘で叔父の仇を討った際、この池で血を洗ったことから名付けられた――。いつの頃からか、先輩から後輩へ伝えられているこのエピソードは、大正時代の高等科生たちによって作られたもの。元々は湧水でできた池で、かつては灌漑に用いられ、水門があった。 <以下、省略> 」

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 池を一回りして坂を上がり、新築まもない学生ホール前の広場まで歩くと、学生が行きかう賑わいに溢れていた。広場のそばにある学食の壁に1枚のポスターが貼られていた。中央に書かれた「5,526」という大きな文字が目にとまり、近くづくとこんな呼び掛けが。

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 「その一食で被災地を支援できるしくみ
前期は5,562食分の義えん金を被災地に送ることが出来ました。
後期も引き続き学食では被災地支援を行います。
よろしくお願いします。・・・・・・
あの出来事を私たちが忘れることのないように。被災地の人々に私たちが少しでもできることを。
 蓁々会 」


 わずか約40分ほどのキャンパス巡りだったが、正門を入る時に守衛室のカウンタ-に置かれていた『学習院大学新聞』第247号、2011926日、をかばんに入れていた。この日の用件を済ませて帰宅の電車の中で、それを取り出してみると、1面トップに「学生ら被災地へ赴く」という記事が載っていた。717日から23日にかけて、「学習院東日本大震災復興ボランティア」が実施され、本学、女子大の学生及び大学院生、教職員を含めた約70人が岩手県久慈市、宮古市、野田村に出かけ、主に瓦礫の撤去や施設の清掃、ツツジと桜の苗の植樹、ハンドセラビー、カレーの炊き出しなどの活動をした様子が詳しく記されている。

大学新聞の「記者の眼」に引き寄せられて
 
ページをめくった2ページに「記者の眼」という欄があり、政治学科2年のI君(実名が表記されていたが、ここではイニシャルに替えて表記)筆の「良識に従った行動を」という論説が掲載されていた。最初は何気なく目をやったのだが、読み進んでいくうちに引き寄せられ、最後まで読み終えていささかの感慨を覚えた。以下、私の目にとまった箇所を摘記しておく。

 「真実を知る、このことは容易に見えて困難である。その妨げとなっている要因として、まず国民の性格が挙げられる。深刻な話題になると、人々は反射的に目を背けてしまうのだ。理解するのに専門的知識が必要となる環境問題などを避け、バラエティ-番組など単純に楽しめる分野へ走ってしまうことは稀ではない。さらに、真相から遠ざけてしまう原因は、テレビを中心とするマスコミの報道にもある。事件の概要は伝えるが、取り上げるべき重要な点を意図的に触れないことにより、視聴者の関心を薄めてしまうのだ。」

 
こう述べた後、I君は真実を知るのを困難にさせている上記2つの要因が福島原発の事故に対する私たちの行動にも如実に表れていると指摘し、福島県で起きた事故を他人事のように捉える自分たちの言動は、東京でも315日に事故以前と比べて20倍以上の放射性物質が飛散していたことを伝えず、「直ちに健康に影響を与える値ではない」という言葉のみを先行させた報道機関の影響によるものであると同時に、真実を見つめようとしない人々の側にも問題があると指摘している。

 論説はさらに、政府が福島県内の15歳以上を対象に行った検査の結果、44.6%の子どもたちに甲状腺被爆が確認された事実を挙げ、放射線の影響を受けやすいとされる若者に警告を鳴らしている。そして、こうした暗澹たる実態から目をそらさず真実を追求及するためには、能動的に学ぶことが重要とし、次のように記している。

 「そこで得た知識を基に、メディアが発信する情報を取捨選択し、批判的に観察しなければならない。なぜならマスコミの報道は、単なる事実の羅列から主観性が潜む内容まで多種多様であるからである。これらを見分けるために、自ら進んで基礎知識を身につけるべきであるのだ。」

 
当たり前と言えば当たり前の論説であるが、こうした論説に引き寄せられるのは、昨今の大学生といわず、大人社会全般にメディアの報道を我が目で批判的に見る自律性が劣化している現実の裏返しなのだろう。しかし、そうであっても、今日の大学生の中に、深刻な話題になると反射的に目を背け、単純に楽しめるバラエティ-番組に走ってしまう日本人の暗愚な習性を乗り越える必要を認識した意見が存在したことが頼もしく思えた。同じ世代の若者が暗い現実から目を背けず、それにいかに向き合うべきかについて激論を交わし、互いに批判と自省を繰り返しながら見識を磨くことこそ、日本社会を成熟した民主主義へ導く、もっとも確かな途だと私は思う。
 そうした中で、「あいつは政治的だ」という言葉が、他人をさげすむ言葉としてではなく、そう語る当人の見識のみすぼらしさを逆照射する言葉と受け取られるような言論の環境が育つことを期待できるのではないかと思う。

三國玲子さんの歌を重ね合わせて
 
こうして29日には2つの大学のキャンパス巡りをしたが、翌30日は、今年度も秋学期に非常勤で出講することになった慶応大学商学研究科での「現代会計論」の開講日だった。晴天に恵まれた慶応三田キャンパスは昨年出講した時には工事中だった正門奥の建物が完成していた。その建物をくりぬく形で作られた階段を上がると、何時もと変わらない大きなケヤキの木が中央にそびえる広場に出る。そこでは大勢の学生が輪になって談笑したり、広場を行き来したりしていた。こうした大学の活気に触れるとこちらまで華やいだ気分になる。

 時代環境は違うが、歌人・三國玲子さんの短歌の中には、そんな若者の華やいだ活気を詠んだ作品がある。短歌の世界に疎い私が三国さんの歌を知ったのは、亡くなった姉・醍醐志万子が時折、三國さんの歌を好意的に話していたのを聞いていたのと、それがきっかけで姉の遺品を整理した時に書棚にあった『三國玲子全歌集』平成17年、短歌新聞社、を持ち帰り、時折開いて読んでいたからである。

  隔れる思想を抱く友と来て憩ふ芝生は日のぬくみあり
  働きて更に学ばむ鋭心にて吾は帰り来つ東京に来つ
  若き若き吾等と思ふさやかなるいちやうの下を歩みゆくとき
  ゼミナ-ルの話題にきおふ青年らをり青葉の下倒れ木の卓を囲みて
  フォ-クダンスの輪は眼下(まなした)に動きそむ若くあらば楽しきや今
  若くあらば

 
前掲、『三國玲子全歌集』の巻末記によると、三國玲子さんは昭和61年秋頃から精神科医の治療を受ける状況になり、一時期は好転の萌しもあったが、6285日、入院中の病院で自裁を遂げた。

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