白樺派文人ゆかりの地・我孫子市を訪ねて(3)
志賀直哉邸跡を訪ねて
お礼を言って白樺文学館を出ると、A氏も外に出てきて前の道路の前方を指さし、「あそこが志賀直哉の邸宅跡ですよ。よかったら一緒に言って案内しましょうか?」と話しかけてもらった。さほど、忙しそうにもなかった(失礼!)ので、「ではお願いします」ということにした。
志賀直哉邸跡は白樺文学館から100mもない場所にあった。邸宅跡が石段で形づくられ、別棟として書斎が配置されていた。ただし、住まいも元は緑雁明緑地にあったが、書斎は付近の民家に移築されていたものをこの地に再移築して整備したものである。志賀は1923(大正12)年に京都に移るまでこの地で『和解』、『城崎にて』、『暗夜行路』を次々に発表して充実した作家生活を送った。武者小路宅とは目の前の手賀沼から舟で行き来をしたという。当時、前を通る道路の向こうは手賀沼だったということは以来、ずいぶんと埋め立てをしたものだ。ここでもA氏に詳しい説明を聞いたあと、書斎の濡れ縁にたたずむ格好の写真を撮ってもらった。感謝の至りだった。
市民図書館で
志賀直哉邸跡を出て、来た道を引き返し、市民図書館が入っているアビスタに着いたのは14時すぎだった。1階の軽食コーナーでランチを済ませ、図書館に入館すると、平日にしては閲覧室はほぼ満席で、しばらく歩きまわって何とか空席を見つけた。それぞれ自分の興味に従って調べ物をすることにしたが、私の目的は当館に所蔵されている『杉村楚人冠関係資料目録』(杉村松子家所蔵;我孫子市教育委員会編集、平成17年3月)で、例の針文字書簡ほか楚人冠関係の資料を閲覧・調査することだった。幸い、5分冊が我孫子ゆかりの資料コーナーに開架されていたので、「Ⅱ.書簡」を取り出して、ページを繰っていくと、通番0262として「書簡〔大逆事件の精査と幸徳の弁護士斡旋依頼〕という標題が付された書簡が収録されていた。差出人は菅野須賀子で受取人は杉村縦横、差出年月日は明治43年6月9日、受取の住所は京橋区朝日新聞社内と記されていた。ただし、封筒の差出人は匿名と記されている。さらにページを繰っていくと、以下の差出人からの書簡が載っていた。
夏目金之助(差出年月日:明治43年6月17日、明治44年5月15日、〔18日〕、20日、〔21日〕、 大正4年11月17日)
堺利彦(同上:大正7年7月4日)
芥川龍之介(同上:大正9年4月15日)
平塚明〔雷鳥〕(同上:大正9年4月16日)
木下利玄(同上:大正9年4月30日)
安達謙蔵(同上:大正9年6月16日)
楚人冠の交友の広さを伝える資料として興味深い。
とはいえ、まずは、菅野須賀子からの書簡の原文の写しを見たいと思い、閲覧受付係へ行くと、「現物は当館ではなく、教育委員会は所管しているので問い合わせてみる」とのこと。しばらく開架で別の資料を探していると、担当者がやってきて、「閲覧にあたっては資料名を記入して申請書を所蔵者宛てに提出する必要がある。手続は教育委員会なので出かけもらう必要があるが、どうされますか」とのこと。場所を尋ねると、JRで2つ目の駅まで出かけなければならないそうなので、今日は無理とあきらめた。
ただし、楚人冠が受けとった菅野須賀子明の針文字の書面は既にいく人かの研究者が入手し、一般に公表されている。たとえば、今年の1月29日の『毎日新聞』夕刊に「針穴でつづった白紙の秘密書簡」と題する記事が掲載され、その中で発見された書簡と封筒、針穴でつづられた文面(全文)の複写が掲載されている。針文字の文面は以下のとおりである。
京橋区瀧山町
朝日新聞社
杉浦縦横様
菅野須賀子
爆弾事件ニテ私外三名
近日死刑ノ宣告ヲ受ク
ベシ御精探ヲ乞フ
尚幸徳ノ為メニ弁ゴ士
ノ御世話ヲ切ニ願フ
六月九日
彼ハ何ニモ知ラヌノデ
もっともこの書簡の封筒には「典獄」の印がないことなどから、差出人を菅野須賀子と断定するに足る証拠はこれまでのところ見つかっていない。しかし、前記の「針文字書簡と大逆事件~事件が文学に与えた影響~」は、当時、監獄から秘密裏に書簡が監外に出回る伝達ルートがあったことが少なからぬ事実で裏付けられていること、手紙の内容からして関係者でないと分からない情報が記されていることなどから、この書簡の差出人は菅野須賀子であった可能性を否定できないと記している。また、長く楚人冠の研究に携わってきた我孫子市教育委員会の小林康彦調査員も「私外三名」と表記されていることなどから菅野自身がつづった可能性が高いとみなしている(小林康彦「大逆事件針文字書簡と杉村楚人冠」、『史潮』58号、2005年11月)。
今後、新資料のさらなる発掘と考証を通じてこの点が解明されるならば、これまでとかく「妖婦」、「テロリスト」のレッテルを貼られがちだった菅野須賀子の実像を浮かび上がらせる資料となる可能性がある。なお、菅野須賀子の歪んだイメージの流布に警告を発した論説として、「大逆事件から100年 人間性豊かだった菅野スガ」、『毎日新聞』2010年2月2日夕刊、がある。と同時に、大逆事件とのかかわりを通して、楚人冠の社会思想と行動の全容がより広範囲に究明されることが期待される。
夕暮間近のの手賀沼公園へ
15時40分ごろ、市民図書館を出て夕暮前の手賀沼公園へ入った。すぐ近くにある「平和の記念碑」を見た後、沼の水際へ。水面にはごみが浮遊して美しい沼と形容するには遠い状況だった。そのせいか、授業を終えた高校生の一団が大きなポリ袋を持って水面近くを歩きながら、清掃をしているのに出会った。もう少し、時間があれば公園をゆっくり散策したいところだったが、留守中、一人で過ごしている飼い犬のことが気になり、帰路を急ぐことにした。
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