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白樺派文人ゆかりの地・我孫子市を訪ねて(2)

 「主人持ちの文学」をめぐって~多喜二宛て志賀直哉の書簡に思うこと~
 白樺文学館の展示のなかで私が引き寄せられたのは小林多喜二宛ての志賀直哉の書簡((1931(昭和6)年87日付け))だった。書簡の全文は次のとおりである。
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/takizi_ate_naoya_no_shokan.pdf

 志賀と多喜二に親交があったこと、志賀から多喜二に宛てた書簡があり、その中で志賀がプロレタリア文学の党派性について諌める言葉を記していたことは知っていたが、書簡の全文を読むのはこれが初めてだった。多喜二を敬愛する人々は多喜二が志賀を尊敬していたこと、志賀も奈良の自宅を訪ねてきた多喜二を暖かく迎えたこと、多喜二が虐殺された折に志賀は多喜二の母に丁重な弔辞を送ったことなどに注目し、志賀が多喜二の文学と生き方に一目置いていたことを折に触れて紹介している。事実、志賀は小林が拷問死して5日後の1931225日の日記に「「小林多喜二 一二月二十日(余の誕生日)に捕へられ死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会はぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなりアンタンたる気持になる、不図彼等の意図ものになるべしといふ気する」と記している。
 しかし、そのことを以て、上の書簡の中で志賀が次のように記していたことを閑却すべきではない。

 「私の気持から云へば、プロレタリア運動の意識の出て来る所が気になりました。小説が主人持ちである点好みません。プロレタリア運動にたづさはる人として止むを得ぬことのやうに思はれますが、作品として不純になり、不純になるが為めに効果も弱くなると思ひました。」
 「作家の血となり肉となったものが自然に作品の中で主張する場合は兎も角、何かある考へを作品の中で主張する事は芸術としては困難な事で、よくない事だと思ひます。運動の意識から全く独立したプロレタリア芸術が本統のプロレタリア芸術になるものだと思ひます。」
 「それからこれは余計な事かも知れませんが、ある一つの出来事を知らせたい場合は、却って一つの記事として会話などなしに、小説の形をとらずに書かれた方が強くなると思ひました。かういふ事は削除されて或ひは駄目なのかと思ひますが、さういふ性質の材料のものは会話だけで読んでゐてまどろっこしくなります。
 それから「蟹工船」でも「三・一五」でも正視できないやうなザンギャクな事が書いてある、それが資本主義の産物だといへばいへるやうなものの、又さういっただけではかたづかない問題だと思ひました。
作品の運動意識がない方がいいと云ふのは私は純粋作品本位でいった事で君が運動を離れて純粋に小説家として生活される事を望むといふやうな老婆心からではありません。」

 私は文学理論に疎いし、志賀が好んで使う「文学の純粋性」がどういう意味なのかも十分理解できていない。しかし、文学に限らず、社会科学についても政治との関係を否応なしに考えさせられてきた私にとって、「主人持ちの小説はよくない」という志賀の言葉を読み流すことはできない。この点を今詳しく論じると横道にそれるが、私が留意すべきと思うのは志賀が多喜二に向かって政治と縁を切れと言っているのでなければ、政治を小説の題材とすることを戒めたわけでもないということである。むしろ、志賀は「作家の血となり肉となったものが自然に作品の中で主張する場合は兎も角」と記していることからもわかるように、運動のためのという意識が前のめりした生硬な小説ではなく、自分の血肉となった思想が自然に滲み出るような作品こそ、読者の心に響く作品であると言いたかったのだろうと思う。
 こう考えると、「主人持ちの小説」という意味は、一見自己主張と思想を押し立てた小説に見えながら、その実、自分の外にある「主人」の主張・思想に陶酔したり、追従したりする他律的小説という意味であり、そうした作品は、たとえ当の「主人」の主張なり思想なりが正当なものであったとしても、元々の同調者以外の読者の心を打つに如かないということを志賀は言いたかったのだと思う。末尾の「作品の運動意識がない方がいいと云ふのは私は純粋作品本位でいった事で君が運動を離れて純粋に小説家として生活される事を望むといふやうな老婆心からではありません」という言葉はプロレタリア運動それ自体を嫌悪する意思が志賀にあったわけではないことを如実に示しているが、その点だけを強調して、「主人持ちの文学」に対する志賀の苦言を等閑に付すのは偏狭な党派性である。

 志賀文学の展開~敗戦の悲惨な現実を目の当たりにして~
 しかし、話はこれで終わらない。志賀は『文化集団』193511月号に掲載された貴司山治との対談「志賀直哉氏の文学縦横談」のなかで、<主人持ちの文学>について次のように語っている。

 「しかし誤解してはいけないよ、主人持ちの文学でさへなければその作品がすぐに傑作だなんていふことを僕は決して言はないのだから・・・」。
 「主人持ちの文学でも人をうつものはあるかも知れない」「要は人をうつ力があるもの、人を一段高いところへ引き揚げる力がある作品であればいいのだ。さういう作品が現れてくるならば、反対にはっきり主人持ちの文学として現れて来たからといって一向差支へあるまい」。

 小林多喜二宛ての書簡で<主人持ちの小説はよくない>と諌めた志賀直哉がそれから4年後に<主人持ちの文学でもかまわない>と語ったのをどう理解すべきか? 志賀は持論と称してその時々に口から出まかせの論を語ったとは思えない。この点を考える上で、多喜二宛ての書簡の中で志賀が次のようなエピソードを披露しているのが注目される(この点に注意を喚起したのは、下岡友加「志賀直哉のリアリズム――「灰色の月」を中心に」、『国文学攷』(広島大学国語国文学会)172号、200112月、である)。

 「里見の「今年竹」といふ小説を見て、ある男がある女の手紙を見て感激する事が書いてあり、私は里見にその部分の不服をいった事がありますが、その女の手紙を見て読者として別に感激させられないのに主人公の男が切に感激するのは馬鹿々々しく、下手な書き方だと思ふといったのです。力を入れるのは女の手紙で、その手紙それ自身が直接読者を感動させれば、男の主人公の感動する事は書かなくていいと思ふと云ったのです。」

 このくだりについて前記・下岡友加氏は「結果(男の感激)よりも原因(女の手紙)に『力を入れる』事を説く・・・方法意識」(9ページ)とみなし、そうした方法において「重要なのは、人物の心意を導く原因としての出来事が、それとして十分に提示される事であって、その結果(人物の心意)を殊更に報告する事ではない」(同上)と述べている。 そして、下岡氏はかくいう志賀自身が、敗戦直後の東京駅から乗り合わせた電車の中で目の当たりにした餓死寸前の少年工の姿を題材にした「灰色の月」(『世界』19461月に発表)において、まさにこのような方法を踏襲したこと、それによって、「社会的な問題をストレートに振りかざすのではなく、あくまでも一個人の痛みとしてそれを提示する事で、単純な世相批判に終わらぬリアリティ-を獲得している」(10ページ)と評している。
 そして、下岡氏は志賀がこうした社会問題を題材にした作品を書き上げた原動力は敗戦直後に志賀が『改造』、『展望』、『婦人公論』などに次々と発表した平和論、天皇制論、東条英機論などにみられるリアリズムがあったと指摘している。
 こうした志賀文学の方法は私なりに言いかえれば、作中の人物に思想をむき出しに語らせるのではなく、事実なり体験なりの描写を通して思想を語らしめる方法といえる。とすれば、こうした方法は文学の世界に限られるわけではなく、社会科学の分野にも通じる叙述の方法といって差し支えないだろう。多喜二宛ての志賀直哉の書簡を読み返しながら、こんなことを考えさせられた。
 
 第2展示室で用件を済ませて白樺文学館を後にしたのは1330分ごろだったが、帰りがけに玄関ホールの壁面に雑誌『白樺』の全160号の表紙が展示されているのを眺めていると、確か副館長というネームプレートを付けたA氏が近付いてきて、「お二人一緒の写真を撮りましょうか?」と声をかけてもらった。連れ合いもこの展示が気に入った様子だったので、言葉に甘えて壁面を背景に撮ってもらった。
16050
 

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