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秋の学習院目白キャンパスを訪ねて

 8月末に広島を訪ね、原爆史跡めぐりをした記事が2回書いたところで中断したままになっている。続きを書くのにもう少し資料を整理しなくてはならない。そこで、その前に929日に学習院目白キャンパスを訪ねた時の見聞記を記憶が薄れないうちに書き留めておきたい。

秋の三四郎池めぐり
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日は所用があり、東大の本郷キャンパスに出かけた。経済学部の教育研究支援室で簡単な用件を済ませた後、附属図書館に回って借り出していた図書を返却。そのあと、近くの三四郎池周辺をゆっくり散策した。在職中もよく回ったコースだが、この日はさわやかな秋晴れで日差しも強く、写真を撮るのに格好の天気だった。先日来の大雨のためか、水かさ増していて、水面に映る木々の緑は5月の新緑の季節のようだった。
 池を一周りした後、池のそばにある山上会館のレストランで昼食。その後、赤門に向かって歩く途中の道端に彼岸花が数本咲いていた。さらに歩いて医学部講堂前の広場で撮った写真は後で見て素人の我ながら、アングルと陰陽が気に入った。(後方の建物が経済学研究科棟)

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血洗いの池めぐり
 
本郷三丁目から丸の内線で池袋へ回り、池袋から山手線で一駅の目白で下車。駅の近くで人と会う約束で来たのだが、早めについて駅のすぐそばにある学習院の目白キャンパスを散策することにしていた。なぜ学習院キャンパスかというと、連れ合いが大学を卒業してしばらくの間、学習院大学に勤務していたことから、よく目白キャンパスのことを聞かされていたためである。
 この日はキャンパスをくまなく回るほどの時間はなかったので、緑に恵まれ、一番閑静な場所と言われている「血洗いの池」周辺をゆっくり歩くことにした。案内板に従って、キャンパス内ランニングのAコースを5分ほど歩くと池が見えてきた。ここも、5月の新緑の季節を思わせるほど美しい緑の樹木に囲まれ、木立の間にさわやかな日差しがこぼれていた。中央には木の橋がかけられている。帰宅して連れ合いに聞くと、当時はなかったそうだ。橋の中央にさしかかると鯉が何匹も集結し、押し合うように水面に向かって口を開いていた。橋のそばには、ここでも彼岸花が数本咲いていた。その近くに「血洗いの池」と題する金属製の掲示板があり、次のように記されていた。

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 「赤穂浪士の一人 堀部安兵衛が高田馬場の決闘で叔父の仇を討った際、この池で血を洗ったことから名付けられた――。いつの頃からか、先輩から後輩へ伝えられているこのエピソードは、大正時代の高等科生たちによって作られたもの。元々は湧水でできた池で、かつては灌漑に用いられ、水門があった。 <以下、省略> 」

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 池を一回りして坂を上がり、新築まもない学生ホール前の広場まで歩くと、学生が行きかう賑わいに溢れていた。広場のそばにある学食の壁に1枚のポスターが貼られていた。中央に書かれた「5,526」という大きな文字が目にとまり、近くづくとこんな呼び掛けが。

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 「その一食で被災地を支援できるしくみ
前期は5,562食分の義えん金を被災地に送ることが出来ました。
後期も引き続き学食では被災地支援を行います。
よろしくお願いします。・・・・・・
あの出来事を私たちが忘れることのないように。被災地の人々に私たちが少しでもできることを。
 蓁々会 」


 わずか約40分ほどのキャンパス巡りだったが、正門を入る時に守衛室のカウンタ-に置かれていた『学習院大学新聞』第247号、2011926日、をかばんに入れていた。この日の用件を済ませて帰宅の電車の中で、それを取り出してみると、1面トップに「学生ら被災地へ赴く」という記事が載っていた。717日から23日にかけて、「学習院東日本大震災復興ボランティア」が実施され、本学、女子大の学生及び大学院生、教職員を含めた約70人が岩手県久慈市、宮古市、野田村に出かけ、主に瓦礫の撤去や施設の清掃、ツツジと桜の苗の植樹、ハンドセラビー、カレーの炊き出しなどの活動をした様子が詳しく記されている。

大学新聞の「記者の眼」に引き寄せられて
 
ページをめくった2ページに「記者の眼」という欄があり、政治学科2年のI君(実名が表記されていたが、ここではイニシャルに替えて表記)筆の「良識に従った行動を」という論説が掲載されていた。最初は何気なく目をやったのだが、読み進んでいくうちに引き寄せられ、最後まで読み終えていささかの感慨を覚えた。以下、私の目にとまった箇所を摘記しておく。

 「真実を知る、このことは容易に見えて困難である。その妨げとなっている要因として、まず国民の性格が挙げられる。深刻な話題になると、人々は反射的に目を背けてしまうのだ。理解するのに専門的知識が必要となる環境問題などを避け、バラエティ-番組など単純に楽しめる分野へ走ってしまうことは稀ではない。さらに、真相から遠ざけてしまう原因は、テレビを中心とするマスコミの報道にもある。事件の概要は伝えるが、取り上げるべき重要な点を意図的に触れないことにより、視聴者の関心を薄めてしまうのだ。」

 
こう述べた後、I君は真実を知るのを困難にさせている上記2つの要因が福島原発の事故に対する私たちの行動にも如実に表れていると指摘し、福島県で起きた事故を他人事のように捉える自分たちの言動は、東京でも315日に事故以前と比べて20倍以上の放射性物質が飛散していたことを伝えず、「直ちに健康に影響を与える値ではない」という言葉のみを先行させた報道機関の影響によるものであると同時に、真実を見つめようとしない人々の側にも問題があると指摘している。

 論説はさらに、政府が福島県内の15歳以上を対象に行った検査の結果、44.6%の子どもたちに甲状腺被爆が確認された事実を挙げ、放射線の影響を受けやすいとされる若者に警告を鳴らしている。そして、こうした暗澹たる実態から目をそらさず真実を追求及するためには、能動的に学ぶことが重要とし、次のように記している。

 「そこで得た知識を基に、メディアが発信する情報を取捨選択し、批判的に観察しなければならない。なぜならマスコミの報道は、単なる事実の羅列から主観性が潜む内容まで多種多様であるからである。これらを見分けるために、自ら進んで基礎知識を身につけるべきであるのだ。」

 
当たり前と言えば当たり前の論説であるが、こうした論説に引き寄せられるのは、昨今の大学生といわず、大人社会全般にメディアの報道を我が目で批判的に見る自律性が劣化している現実の裏返しなのだろう。しかし、そうであっても、今日の大学生の中に、深刻な話題になると反射的に目を背け、単純に楽しめるバラエティ-番組に走ってしまう日本人の暗愚な習性を乗り越える必要を認識した意見が存在したことが頼もしく思えた。同じ世代の若者が暗い現実から目を背けず、それにいかに向き合うべきかについて激論を交わし、互いに批判と自省を繰り返しながら見識を磨くことこそ、日本社会を成熟した民主主義へ導く、もっとも確かな途だと私は思う。
 そうした中で、「あいつは政治的だ」という言葉が、他人をさげすむ言葉としてではなく、そう語る当人の見識のみすぼらしさを逆照射する言葉と受け取られるような言論の環境が育つことを期待できるのではないかと思う。

三國玲子さんの歌を重ね合わせて
 
こうして29日には2つの大学のキャンパス巡りをしたが、翌30日は、今年度も秋学期に非常勤で出講することになった慶応大学商学研究科での「現代会計論」の開講日だった。晴天に恵まれた慶応三田キャンパスは昨年出講した時には工事中だった正門奥の建物が完成していた。その建物をくりぬく形で作られた階段を上がると、何時もと変わらない大きなケヤキの木が中央にそびえる広場に出る。そこでは大勢の学生が輪になって談笑したり、広場を行き来したりしていた。こうした大学の活気に触れるとこちらまで華やいだ気分になる。

 時代環境は違うが、歌人・三國玲子さんの短歌の中には、そんな若者の華やいだ活気を詠んだ作品がある。短歌の世界に疎い私が三国さんの歌を知ったのは、亡くなった姉・醍醐志万子が時折、三國さんの歌を好意的に話していたのを聞いていたのと、それがきっかけで姉の遺品を整理した時に書棚にあった『三國玲子全歌集』平成17年、短歌新聞社、を持ち帰り、時折開いて読んでいたからである。

  隔れる思想を抱く友と来て憩ふ芝生は日のぬくみあり
  働きて更に学ばむ鋭心にて吾は帰り来つ東京に来つ
  若き若き吾等と思ふさやかなるいちやうの下を歩みゆくとき
  ゼミナ-ルの話題にきおふ青年らをり青葉の下倒れ木の卓を囲みて
  フォ-クダンスの輪は眼下(まなした)に動きそむ若くあらば楽しきや今
  若くあらば

 
前掲、『三國玲子全歌集』の巻末記によると、三國玲子さんは昭和61年秋頃から精神科医の治療を受ける状況になり、一時期は好転の萌しもあったが、6285日、入院中の病院で自裁を遂げた。

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