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『エレーヌ・ベールの日記』~ナチス占領下パリの生き地獄の渦中で(2)~

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 2つ前の記事「ナチス占領下のパリで~映画『サラの鍵』」をあわせてお読みいただけると幸いです。
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人間の良心へのひとすじの信頼
 
 そんな生き地獄を目の当たりにしながらもエレーヌは人間の良心を彷彿とさせる光景も見逃さなかった。

 「庶民は素晴らしい。ユダヤ人と同棲していた労働者の女性がたくさんいるという。彼女たちは全員、夫が強制移送されないように結婚を申し出た。」(1942718日、105ページ)

 「レー夫人から情報を得た。自殺したのはメッツゲ―ルという名のフランス人。ラ・ボール(注:ロワール地方の大西洋に面した保養地)を去らなかったために、妻と娘といっしょに捕まった。妻と娘は強制移送となった。ドランシーに残った彼(63歳)は後悔してひどく自分を責め、頸動脈を切った。
 今朝、とても若い女性と面会した。父親は六カ月前、母親は一ヶ月前に強制移送された上に、つい最近、七ヶ月の赤ちゃんが死んでしまった。彼女は、ドイツ人のために働くのを拒否した。承諾すれば、母親が釈放されたかもしれないにもかかわらず。わたしは感心した。それでもときおり、道徳的信条の絶対的価値をほとんど疑ってしまう。みんな、それを歪曲するか、あるいは死をもって答えるから。」(194296日、132133ページ。下線は引用に当たって追加)

義務を盾に残虐行為への加担を釈明する愚鈍への怒り
 しかし、良心への信頼とはいって、上の日記の下線部分にあるように、エレーヌの日記は、特に10ヶ月ぶりに再開した1943825日以降の日記には、内なる良心に対する自律的義務を没却し、強制された義務には従うほかないという口上でナチスの残虐行為に加担する(密告も含め)フランス人の愚鈍に対する怒り、周りの人間の辛い体験に無関心を装うフランス人に対する失望と怒りで埋め尽くされている。
 たとえば、彼女は1943119日の日記にこう書き留めている。

 
 「乳母にあずけられた2歳の赤ちゃんを、収容所に入れるために逮捕しに行けという命令にしたがった憲兵たち。これこそ愚鈍に陥り、道徳意識を完全に失ったわたしたちの状況を示す、もっとも嘆かわしい証拠ではないか。それが絶望的なのだ。
 そんな行為のできる人たちは異常な人間であるはずなのに、こうして憤慨するわたしのほうが例外なのだと気づくのは、なんと絶望的なことだろうか。
 これもまた、コーエン夫人の抗議に対して答えた刑事の話と同じだ。210日の夜、刑事は孤児院に13人の子どもを逮捕しに来た。いちばん年長の子は13歳、いちばん幼い子は5歳だった(彼らの両親は強制収容所送りになったか、行方不明。でも、翌日1000人を強制移送するために『いくらか』補充しなくてはならなかったのだ)。『仕方ありませんよ、マダム。義務なんですから!』
 良心とは無関係に、正義、善意、慈悲とは無関係に義務というものを考えるようになったなんて、それはわたしたちのいわゆる『文明』が空虚である証拠だ。」(1943119日、215216ページ)

 しかし、彼女は周りの人間への不信を募らせただけではない。道徳的信条の絶対的価値に対する懐疑に揺れる心情を直截に記し、かつ、そこで逡巡しない鋭利な理性を必死に研ぎ澄まそうと自分に言い聞かせる言葉を綴っている。たとえば、1943825日の日記には、「無駄」という感覚に陥りかける自分に次のように問い返している。

 「無駄? そしてまた、ときおり、これらすべては無駄だという感覚は、無気力と怠惰のひとつのかたちにすぎないのではないか? なぜかというと、これらすべての理屈の前に、ひとつの大きな理由がそびえ立つからだ。その有効性をわたしが確信すれば、決め手になる理由。つまり、わたしは書くことによって義務を果たさなくてはならないということ。なぜなら、他の人たちも知るべきだから。他の人たちは知らないーー彼ら以外の人々の苦しみ、ある者たちが別の者たちに加えている害悪のことなど思いもよらないのだという気がつく、なんとも辛い体験が一日じゅう、毎時間、繰返される。そしてわたしはいつも、語るという、この苦しい努力をしようとする。なぜなら、それは義務だから。わたしが果たせる、おそらく唯一の義務だから。世の中には、知っていて目をつぶる人々がいる。そういう人たちを説得することはできないだろう。彼らは無情で利己主義だから。そしてわたしには権威がないから。でも他の人たち、今は知らないけれども、理解できる思いやりをもちあわせている人たちに対して、わたしは働きかけなくてはならない。
 というのも、人間の腐った部分をまず、すべて明らかにすることから始めずに、どうやって人類を救えるのだろうか?行われている悪の大きさを社会に自覚させないことには、世界は浄化できないのではないか。」
1943825日、166167ページ)
 

教条主義的な群れへの安住ではなく、不安から生まれる苦悶の中で生きる
 また、日記には、苦難から逃げる教条主義的なスローガンを拒み、不安から生まれる苦悩と向き合って生き抜くことを誓った『チボー家の人々』の一節を書き留めた記述がある。

 「自分の個性という気むずかしい重荷は、捨ててしまいたくなるものだ! 集団の熱狂という広大な動きの中に、つい自分も組み入れられたくなるものなのだ! 信じたくなる、そうするほうが便利で、この上なく居心地がいいから! (・・・・)進むべき道が混乱していればいるほど、人はその混乱からなんとしても抜け出そうとして、自分を安心させてくれ、導いてくれるおしきせの教義を受け入れやすい。自分ひとりでは解決できないさまざまな問いかけに対して、ほぼもっともらしい答えがあれば、それらはみな、逃げ場のように思える。(・・・・)抵抗せよ、命令的なスローガンを拒むのだ! うっかり彼らの群れに組み入れられてはならない! 教条主義者たちがあらゆる『仲間たち』に提供してくれる怠惰な精神的安重より、不安から生まれる苦悶のほうがずっとましなのだ!」(19431030日、205206ページ)

 さらに、ナチス占領下で友愛と人間の共感を黙殺し、偽善的な慈悲の世界に逃げ込むキリスト教徒にも鋭い抗議の矢を放っている。
 
 「自分の中にあるドアが閉ざされているために、知っているのに認識できず、理解できない――そのドアが開かれれば、ただ知っていたことの一部がようやく実感できるようになる。これが今の時代の巨大な悲劇なのだ。苦しんでいる人々のことを知る者は、誰もいない。
 そして、わたしは思った。友愛と人間の共感というものをまさに黙殺するこの人々に、キリスト教の慈愛について語ることができるのだろうか、と。彼らに、自分はキリスト教の教えを正式に受け継いだ人間だと主張する権利があるのだろうか? 人間の平等と友愛に基づいた教義を説いたキリストは、世界で最も偉大な社会主義者だったのに。彼らには友愛とは何かさえ、わかっていない。そう、慈悲は知っていても、偽善的に与える。慈悲とはほとんどいつでも、その人の優位と尊大な見方を意味するから。彼らが与えるべきなのは慈悲ではなくて、理解なのだ。理解できたら、他者の動かせない苦悩の奥深さ、これらの仕打ちの恐るべき不公平を感じることができて、それに対して憤慨するだろう。」(19431112日、218219ページ)

レジスタンスの栄光に隠されたフランス政権のナチスへの恭順

 ナチス占領下のフランスというと、対独戦争に勝利したという事実の前で、対独レジスタンス運動の栄光が語り継がれるのが通例である。しかし、『エレーヌ・ベールの日記』を読むと、あるいは映画『サラの鍵』の予告を読むと、フランス市民に与えられるそうした栄光の陰で、当時のフランス政権がナチス・ドイツに自国のユダヤ人を売り渡すという恥辱の現実があったことが忘れられてきた。本書の訳者あとがきによると、フランスから各地の強制収容所に送られたユダヤ系の人々のうち、生還できたのは2,566人で移送者のわずか約3%だった。
 フランス政府が自らの手によってユダヤ人を迫害し虐殺したことに対する国家の罪を認めたのは1995年のシラク大統領の演説だった。ドゴール、ポンピドー、ミッテランら歴代大統領はポンピドーの言葉を借りると、「すべてのフランス人が互いに愛し合っていたわけではない」時代についての論議を終わりにすることを望み、国民に幻想を抱かせるやり方で国民的和解を図ろうとしたのである。
 しかし、「犠牲者の記憶は死刑執行人の記憶より長く保持されるもの」であり、「故意の欠落や嘘が歴史において勝ち誇ることはない」(以上、ジャン・F・フォルジュ/高橋武智訳『21世紀の子どもたちに、アウシュビッツをいかに教えるか?』(2000年、作品社、36ページ)のである。

 生と死の狭間に置かれた一人の女性が「生き延びる行為として」綴ったこの日記には言葉を無に帰されたすべての人々の無念と一縷の希望が託されている。私は、周りの人々の政治問題や社会問題に対する「無関心の壁」に苦闘する人々にも、周りからの政治問題・社会問題への働きかけを疎ましく思う人々にも、作者エレーヌ・ベールからこの日記を託された彼女の婚約者パトリック・モディアノが記した序文の末尾の言葉を知らせたいと思う。

 「彼女は日記を綴った。彼女は遠い未来、それが人々に読まれるという予感を抱いただろうか? それとも、何の軌跡も残さずに虐殺された何百万もの人々と同じように、自分の声がかき消されることを恐れていたのだろうか? この本の入り口に来た今、黙ってエレーヌの声を聞き、彼女の傍らを歩かなくてはいけない。その声と存在はこれからずっと、私たちの人生に付き添っていくだろう。」

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『エレーヌ・ベールの日記』~ナチス占領下パリの生き地獄の渦中で(1)~

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 一つ前の記事「ナチス占領下のパリで~映画『サラの鍵』」をあわせてお読みいただけると幸いです。
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『エレーヌ・ベールの日記』との出会い
 
 1つ前の記事で紹介した映画「サラの鍵」を私はまだ見ていない。また、同名の原作(タチアナ・ド・ロネ作)を読もうと市内の公共図書館の所蔵検索をしたところ、すべて貸出中だった。ちなみに、映画の題材である「ヴェルディブ事件」(1942194271617の両日、ナチス占領下のパリでナチスの命令に従ったフランス警察によって行われたユダヤ人1万数千人の一斉検挙事件)を扱った文献を調べようと国立国会図書館の単行本・雑誌記事索引を検索したが、ヒットはゼロだった。
 そこで、<フランス>、<ユダヤ人>、<ホロコースト>などのキーワードを組み合わせて検索していくうちに、「サラの鍵」が描いたのと同じナチス占領下のパリで起こったユダヤ人迫害の生々しい現実を綴った『エレーヌ・ベールの日記』(飛幡祐規訳、2009年、岩波書店)があることを知った。市内の公共図書館に所蔵していることがわかったので、19日の深夜、インターネットで貸し出しのリクエストをし、翌日の昼ごろ、公共図書館のHPにログインしてチェックすると「受取可」となっていた。さっそくその日の午後に近くの図書館に出かけて受け取り、夜、読み始めたら、息をのむような描写に引き込まれた。

 訳者あとがきを読んでわかったことだが、194247日に始まって1944215日で終わるこの日記が戦後、活字になって人々の目に触れるまでには、ベール家の料理人アンドレ・バルディオに託された日記が戦後、エレーヌの遺志にしたがって婚約者のジャン・モラヴィエキに渡り(生き残った家族もタイプしたコピーを一部保管していた)、エレーヌの死後60年以上を経た1992年、エレーヌの輝くような魂を後世に伝えたいと願った姪(エレーヌの姉・ドゥ二ーズの娘)マリエット・ジョブがモラヴィエキと連絡をとり、出版計画が具体化したという。それでも、親類の一部からなかなか賛同を得られず、日記が公刊されたのはそれからさらに15年後の20081月だった。本書には、公刊に至る労を取ったジョブのあとがき「奪われた人生」とモラヴィエキの手記「エレーヌの日記と過ごした私の人生」も収録されている。

エレーヌ・ベールの生涯
 
 本書は若いユダヤ系フランス人の女性がナチス占領下の1942年~44年のパリで遭遇した自らと家族、友人の体験を綴った日記である。エレーヌ・ベールは194438日、両親とともにパリの自宅で逮捕され、彼女の23歳の誕生日にアウシュビッツの強制収容所に送られた。両親が収容所で殺された後もエレーヌは生き延びて、同年の10月末、アウシュビッツから北ドイツのベルゲン・ベルゼン収容所に移送される。ジョブが集めた証言によると、19454月初め、この収容所がイギリス軍によって解放される5日前の朝、チフスにかかったエレーヌは点呼の時に起き上がれなかったという理由で、看守の一人に殴り殺された。

 エレーヌは1921327日、ユダヤ系の両親の次女としてパリで生まれた。日記を書き始める1942年の4月、21歳の彼女はソルボンヌ大学の英文学部修士課程に在籍し、図書館で司書の仕事をしながら修士論文の作成に励む大学院生だった。また、勉学の傍ら、学友とカルチェラタンを散策したり、コンサートに通うと同時に、自らも室内楽を演奏したりした裕福な家庭環境のもとで育った女性だった。

「黄色い星」の屈辱
 
 ナチス占領下のフランスでは、6歳以上のユダヤ人は、他のナチス占領地におけると同様、公共の場に出る時は黒で縁取りされた手のひらの大きさの黄色の星を洋服の左胸に縫いつけるよう命じられ、これに従わない者は罰金を課されたり収容所へ連行されたりした。1942624日、エレーヌの父・レイモン・ベールが刑事に逮捕されドランシー収容所に連行されたのも、黄色の星を服に縫い付けず、ホックで止めていたというのが理由だった(同日の日記より)。シャルル・メイエール医師は、黄色い星をつけた位置が高すぎるとう理由で逮捕された。ナチス・ドイツが作った法律は、気に食わない者を逮捕するための口実にすぎなかった(1942年9月18日、138139ページ)。

 これ見よがしにユダヤ人であることを公衆に向かって顕示させられる屈辱、それに押しつぶされまいと自分を奮い立たせる心情をエレーヌは次のように記している。

 「一日じゅう、わたしはすごく勇敢だった。しゃんと背筋を伸ばして、人々の顔を真っ正面からとてもしっかり見つめたので、みんな目をそらした。でも、なんて辛いんだろう。それに、大部分の人は見ない。いちばん耐え難いのは、同じく星をつけた人たちに出会うことだ。」(194268日)

生き地獄
 
 194211月、南フランスを除くフランス全土を占領したナチス・ドイツ軍はヴィジー・フランス政権にユダヤ人狩りを厳命した。『サラの鍵』で扱われた「ヴェルディブ事件」はその尖鋭な事例であり、フランス警察と憲兵によって検挙された約13000人のユダヤ人は国内のドランシー収容所やヴェル・ディヴ(冬期競輪場)へ送られた。競技場で拘禁されたユダヤ人は赤ん坊さえも5日間、水・食料も与えられず放置されたのち、アウシュビッツへ移送された。この時の様子をエレーヌは次のように記している。

 「モンマルトルでは、あまりに大勢が逮捕されたために、街路は通行止めになった。フォブール・サン・ドゥニ街はほとんど無人になった。子どもたちは母親から引き離された。・・・・・
 マドモアゼル・モンサルジョンの住む界隈では、一家全員、父親、母親、5人の子どもが逮捕から逃れるためにガス自殺した。ある女性は、窓から身を投げた。
 人々に逃げるように警告した何人かの警官は、銃殺されたという。警官たちは、従わなければ収容所送りだと脅された。」(1942718日、104ページ)

 「ある女性は発狂してしまい、4人の子どもを窓から放り投げた。警官は6人ずつのグループを組み、トーチ型懐中電灯を使って検挙にあたった。
 ブシェ氏からヴェル・ディヴのニュースを聞いた。12000人が閉じ込められ、地獄の様相だという。すでに大勢が死に、便所は詰まってしまった等々。」(1942719日、108ページ)

 「イザベルから聞いた別の詳細。ヴェル・ディヴには1万5000人の男女と子どもたちがつめ込まれ、あまりに窮屈なために、しゃがみこんだ人たちの上を歩く者さえいる。ドイツ人が水とガスを止めたので、飲料水は一滴もない。彼らはねばねば、ぬるぬるした水たまりの中を歩いている。病院から引っ張り出されて連行された病人、首に『伝染病持ち』という札をかけた結核患者がいる。その場で分娩する女性もいる。手当は何もできない。何の薬も、包帯さえない。・・・・それに救援はあした終わる。おそらく全員が強制移送になりそうだ。」(1942721日、111112ページ)

 終戦までの間にフランスからアウシュビッツその他の強制収容所に送られた人々は約7万6000人(国内の収容所での死亡者や処刑された人々を加えると約8万人)と言われている。 

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ナチス占領下のパリで~映画「サラの鍵」~

 2011714日付けの記事で、連れ合いが近所の知人と発行しているミニコミ誌「すてきなあなたに」No.63に掲載された菅沼正子さんの映画招待席35「一枚のハガキ」を菅沼さんの了解を得て紹介した。
 今回は同じミニコミ誌の最新号に掲載された菅沼正子さんの映画招待席36「サラの鍵~フランスよ、お前もか~、を転載させてもらうことにした。
 私の感想は次の記事に回すことにする。映画はナチス占領下のパリで194271617の両日、ナチスの命令に従ったフランス警察によって行われたユダヤ人1万数千人の一斉検挙と連行されたユダヤ人を待ち受けたその後の過酷な体験を1人の少女の運命を通じて描いたものである。
 1217日から銀座テアトルシネマで上映が開始され、全国各地で順次ロードショウが行われるが、そういう私はまだ見ていない。見た後でまた記事を書かねばと思っているが、前回同様、菅沼さんのきびきびした批評につい引き寄せられてしまう。

 
菅沼正子の映画招待席 36 
 
~サラの鍵~フランスよ、お前もか~
 
 ベルリンの壁が崩壊しソ連邦が解体してから、タブーとされていた戦時中の蛮行・非道が次々に明らかになってくる。最近でも「白バラの祈り」(
05年)「カティンの森」(07年)「縞模様のパジャマの少年」(08年)「黄色い星の子供たち」(10年)等をあげることができるが、今回の「サラの鍵」はフランスの<ヴェルディヴ事件>を題材にしたタチアナ・ド・ロネの同名のベストセラー小説の映画化。ノーベル平和賞受賞の劉暁波(リュウギョウハ)氏の獄中での愛読書だったという。<ヴェルディヴ事件>とは、ユダヤ人をアウシュヴィッツに送ったのは、ナチスドイツだけではなかった、という実話である。その事実は1995年にシラク大統領が公式に認め、世界に衝撃を与えたのだが、しかし、非公式には知られていて、映画では「パリの灯は遠く」(76年)がそれを扱っている。アラン・ドロン主演のサスペンス映画だが、監督が、アメリカのレッドパージでイギリスに亡命しヨーロッパで活躍したジョゼフ・ロージーだけに、サスペンスの裏に潜む政治の不当な弾圧や人権無視の恐怖が描かれている。フランス人の美術商(A・ドロン)が同姓同名のユダヤ人と間違えられ、アウシュヴィッツ行きの収容列車に乗せられるという物語。
 
 ナチス占領下のフランスに、ユダヤ人排斥運動の嵐が次第に厳しさを増していた
1940年代。ユダヤ人のサラ一家にフランス警察のユダヤ人一斉検挙が入ったのは19427月のことだった。10歳のサラ(メリュジーヌ・マヤンス)は怖がる弟をとっさに納戸に隠し鍵をかけた。「すぐ帰るわ」と約束をして。摘発された数万のユダヤ人は屋内競輪場<ヴェルディヴ>に閉じ込められる。水もトイレも食糧もない劣悪な環境下におかれ、やがて家族はバラバラにされ、それぞれ臨時収容所に分散される。最終的にはアウシュヴィッツ行きの列車に乗せられるのだ。弟が気になる一人ぽっちのサラは脱走に成功するが……。
 
 現代。
2009年。パリに住むアメリカ人ジャーナリスト、ジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)はヴェルディヴ事件を取材している。奇しくも、自分たちが改造して住もうとしているマンションの部屋は、サラ一家の住居だったことが判明。この家は、フランス人である夫の両親がユダヤ人から取り上げた部屋だったということも分かる。
 
 自分の身内がヴェルディヴ事件に無関係ではなかったことに衝撃を受けたジュリアは、さらに取材を進める。ホロコースト記念館で膨大な資料をチェック。サラの両親はアウシュヴィッツでの死亡が確認されたが、サラと弟の記録はない。
 
 脱走後のサラはどうなったのか。映画は、ジュリアの取材の現代と、サラが逃亡する
60年前の戦時下を交錯させて描いていく。さらに、成人してからのサラを追って、ニューヨーク、フィレンツェへと舞台は移るが、この映画のすばらしさは、単なるホロコースト映画で終っていないことだ。過去の過ちを認め、反省し、人種の融和と人権の尊さをうたいあげている。パンドラの箱を開けたら希望がでてきた、という感動のラストシーンが用意されている。
 
 (
1217日より、銀座テアトルシネマほか全国順次ロードショー)
 
映画「サラの鍵」公式サイト
http://www.sara.gaga.ne.jp/

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12.17シンポジウム「オープンスカイ時代の航空産業の公共性を考える」のお知らせ

 今、日本の航空産業は、羽田空港の国際化、低コストキャリア(LCC)の参入という新しい競争環境の下で、自社に需要を取り込もうとする内外エアライン間の価格競争と自港に路線を誘致しようとする空港間の競争が激化している。そして、各エアラインはこうした競争圧力に押されて、路線別の採算性の管理を徹底させ、不採算を理由に地方路線を次々と切り捨てているのが現状である。また企業内では乗務員の訓練や機材整備といった安全に直結する人員とコストまで削減している。
 こうしたオープンスカイ時代の競争環境の下で、航空の公共性・安全性をいかに守り、向上させるかを考えるシンポジウムを開くことになった。

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    12.17シンポジウム
   「オープンスカイ時代の航空産業の公共性を考える」

  20111217日(土)1330分~1630
  スター会議室 新橋 4401号室(ポスター参照)
  基調講演 柳田 邦男氏
 
   演題:「安全の層』と経営の責任~組織事故の視点から~」
  パネル・ディスカッション
 
   安部誠治氏(関西大学教授)
   米倉 勉氏(弁護士)
   奥平 隆氏(元全日空機長)
   進行:醍醐 聰(東京大学名誉教授)

  主催:「航空産業の公共性を考えるシンポジウム」実行委員会

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 シンポジウムでは、

 *航空事業の公共性を担うネットワークと運航の安全性をどのように維持し発展させるのか?
 *低価格を売り物にするLCCのビジネス・モデルに危うさはないのか?
 *世界に例をみない高い水準の空港使用料を既存事業者(レガシー)向けには放置したまま、LCC向けには個別に割安な空港使用料を設けて路線を誘致しようとする空港間競争の中で、日本の航空産業の公共性と国際競争力を維持・向上できるのか? 
 *路線や便ごとの採算性の追求は航空事業の公共性と運航の安全性を確保する上での脅威となっていないか? 
 *規模の縮小とコスト削減に偏向した経営構造改革が従業員のモチベーションを劣化させていないか? 
 *JR福知山線の脱線事故で再認識された公共交通の安全文化は航空産業では根付いているのか?

といった問題を正面から取り上げ、参加者の発言も交えながら、問題の核心に迫る理論的実践的な議論を行うことになっている。

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12.17シンポジウム チラシ

参加申し込み方法
 1. 下記申し込み用紙をダウンロードし、必要事項をご記入のうえ、
   0334320297 へFAX
   
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/1217simpo_sanka_mosikomi.pdf

 2. simpo1217@nifty.com へE・メールで

問い合わせ:電話:08058806756

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 3.11東日本大震災、福島原発事故を機にわが国では「安全」に対する関心がかつてなく高まっているが、航空となると、今でもスカイマークが成田-札幌、成田-福岡を最安値980円で運航するといった「華やかな」話題の陰で「空の安全」が危うい現実はほとんど知られていない。
 この意味で、日本航空「安全アドバイザリーグループ」の座長を務める柳田邦男氏の基調講演、公共交通の安全文化に理論・実践の両面で関わってきた安部誠治氏、航空産業の労働環境に精通した米倉勉氏、奥平隆氏によるパネル討論は大変、時宜にかなった企画だと思う。
 パネル討論ではこうした方々の持ち味を存分に発揮していただけるような進行役を務めたいと思っている。多数の方々のご来場を願っている。

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