『エレーヌ・ベールの日記』~ナチス占領下パリの生き地獄の渦中で(1)~
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一つ前の記事「ナチス占領下のパリで~映画『サラの鍵』」をあわせてお読みいただけると幸いです。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-a3cd.html
『エレーヌ・ベールの日記』との出会い
1つ前の記事で紹介した映画「サラの鍵」を私はまだ見ていない。また、同名の原作(タチアナ・ド・ロネ作)を読もうと市内の公共図書館の所蔵検索をしたところ、すべて貸出中だった。ちなみに、映画の題材である「ヴェルディブ事件」(1942年1942年7月16、17の両日、ナチス占領下のパリでナチスの命令に従ったフランス警察によって行われたユダヤ人1万数千人の一斉検挙事件)を扱った文献を調べようと国立国会図書館の単行本・雑誌記事索引を検索したが、ヒットはゼロだった。
そこで、<フランス>、<ユダヤ人>、<ホロコースト>などのキーワードを組み合わせて検索していくうちに、「サラの鍵」が描いたのと同じナチス占領下のパリで起こったユダヤ人迫害の生々しい現実を綴った『エレーヌ・ベールの日記』(飛幡祐規訳、2009年、岩波書店)があることを知った。市内の公共図書館に所蔵していることがわかったので、19日の深夜、インターネットで貸し出しのリクエストをし、翌日の昼ごろ、公共図書館のHPにログインしてチェックすると「受取可」となっていた。さっそくその日の午後に近くの図書館に出かけて受け取り、夜、読み始めたら、息をのむような描写に引き込まれた。
訳者あとがきを読んでわかったことだが、1942年4月7日に始まって1944年2月15日で終わるこの日記が戦後、活字になって人々の目に触れるまでには、ベール家の料理人アンドレ・バルディオに託された日記が戦後、エレーヌの遺志にしたがって婚約者のジャン・モラヴィエキに渡り(生き残った家族もタイプしたコピーを一部保管していた)、エレーヌの死後60年以上を経た1992年、エレーヌの輝くような魂を後世に伝えたいと願った姪(エレーヌの姉・ドゥ二ーズの娘)マリエット・ジョブがモラヴィエキと連絡をとり、出版計画が具体化したという。それでも、親類の一部からなかなか賛同を得られず、日記が公刊されたのはそれからさらに15年後の2008年1月だった。本書には、公刊に至る労を取ったジョブのあとがき「奪われた人生」とモラヴィエキの手記「エレーヌの日記と過ごした私の人生」も収録されている。
エレーヌ・ベールの生涯
本書は若いユダヤ系フランス人の女性がナチス占領下の1942年~44年のパリで遭遇した自らと家族、友人の体験を綴った日記である。エレーヌ・ベールは1944年3月8日、両親とともにパリの自宅で逮捕され、彼女の23歳の誕生日にアウシュビッツの強制収容所に送られた。両親が収容所で殺された後もエレーヌは生き延びて、同年の10月末、アウシュビッツから北ドイツのベルゲン・ベルゼン収容所に移送される。ジョブが集めた証言によると、1945年4月初め、この収容所がイギリス軍によって解放される5日前の朝、チフスにかかったエレーヌは点呼の時に起き上がれなかったという理由で、看守の一人に殴り殺された。
エレーヌは1921年3月27日、ユダヤ系の両親の次女としてパリで生まれた。日記を書き始める1942年の4月、21歳の彼女はソルボンヌ大学の英文学部修士課程に在籍し、図書館で司書の仕事をしながら修士論文の作成に励む大学院生だった。また、勉学の傍ら、学友とカルチェラタンを散策したり、コンサートに通うと同時に、自らも室内楽を演奏したりした裕福な家庭環境のもとで育った女性だった。
「黄色い星」の屈辱
ナチス占領下のフランスでは、6歳以上のユダヤ人は、他のナチス占領地におけると同様、公共の場に出る時は黒で縁取りされた手のひらの大きさの黄色の星を洋服の左胸に縫いつけるよう命じられ、これに従わない者は罰金を課されたり収容所へ連行されたりした。1942年6月24日、エレーヌの父・レイモン・ベールが刑事に逮捕されドランシー収容所に連行されたのも、黄色の星を服に縫い付けず、ホックで止めていたというのが理由だった(同日の日記より)。シャルル・メイエール医師は、黄色い星をつけた位置が高すぎるとう理由で逮捕された。ナチス・ドイツが作った法律は、気に食わない者を逮捕するための口実にすぎなかった(1942年9月18日、138~139ページ)。
これ見よがしにユダヤ人であることを公衆に向かって顕示させられる屈辱、それに押しつぶされまいと自分を奮い立たせる心情をエレーヌは次のように記している。
「一日じゅう、わたしはすごく勇敢だった。しゃんと背筋を伸ばして、人々の顔を真っ正面からとてもしっかり見つめたので、みんな目をそらした。でも、なんて辛いんだろう。それに、大部分の人は見ない。いちばん耐え難いのは、同じく星をつけた人たちに出会うことだ。」(1942年6月8日)
生き地獄
1942年11月、南フランスを除くフランス全土を占領したナチス・ドイツ軍はヴィジー・フランス政権にユダヤ人狩りを厳命した。『サラの鍵』で扱われた「ヴェルディブ事件」はその尖鋭な事例であり、フランス警察と憲兵によって検挙された約1万3000人のユダヤ人は国内のドランシー収容所やヴェル・ディヴ(冬期競輪場)へ送られた。競技場で拘禁されたユダヤ人は赤ん坊さえも5日間、水・食料も与えられず放置されたのち、アウシュビッツへ移送された。この時の様子をエレーヌは次のように記している。
「モンマルトルでは、あまりに大勢が逮捕されたために、街路は通行止めになった。フォブール・サン・ドゥニ街はほとんど無人になった。子どもたちは母親から引き離された。・・・・・
マドモアゼル・モンサルジョンの住む界隈では、一家全員、父親、母親、5人の子どもが逮捕から逃れるためにガス自殺した。ある女性は、窓から身を投げた。
人々に逃げるように警告した何人かの警官は、銃殺されたという。警官たちは、従わなければ収容所送りだと脅された。」(1942年7月18日、104ページ)
「ある女性は発狂してしまい、4人の子どもを窓から放り投げた。警官は6人ずつのグループを組み、トーチ型懐中電灯を使って検挙にあたった。
ブシェ氏からヴェル・ディヴのニュースを聞いた。1万2000人が閉じ込められ、地獄の様相だという。すでに大勢が死に、便所は詰まってしまった等々。」(1942年7月19日、108ページ)
「イザベルから聞いた別の詳細。ヴェル・ディヴには1万5000人の男女と子どもたちがつめ込まれ、あまりに窮屈なために、しゃがみこんだ人たちの上を歩く者さえいる。ドイツ人が水とガスを止めたので、飲料水は一滴もない。彼らはねばねば、ぬるぬるした水たまりの中を歩いている。病院から引っ張り出されて連行された病人、首に『伝染病持ち』という札をかけた結核患者がいる。その場で分娩する女性もいる。手当は何もできない。何の薬も、包帯さえない。・・・・それに救援はあした終わる。おそらく全員が強制移送になりそうだ。」(1942年7月21日、111~112ページ)
終戦までの間にフランスからアウシュビッツその他の強制収容所に送られた人々は約7万6000人(国内の収容所での死亡者や処刑された人々を加えると約8万人)と言われている。
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