「利敵行為」論を考える(1)
1月12日
「利敵行為」論を考える(1)
・「利敵行為」との指摘に対する応答
・自分の外に「主人」を持たない自立した個人こそ民主主義社会の支柱
・異なる意見との討論が思想の硬直化を防ぎ、対話力を鍛える
「利敵行為」との指摘に対する応答
私が1月4日以降、新旧宇都宮陣営の選対のあり方、宇都宮氏の資質、選挙運動費用収支をめぐる疑問点について一連の記事をこのブログに掲載し、それを関係する政党、団体、少なからぬ知人に知らせたが、数名の知人を除いて直接、私宛に感想を伝えてきた人はない。ほとんどが沈黙のままである。ゆっくり読む時間がないのか、ややこしそうな問題には関わらないという態度なのか、今は私が提起した問題より、もっと重要な問題が山積しており、そちらに関わるべきだという判断なのかもしれない。最後だとしたら、当然とも思う。
しかし、沈黙の理由の多くは、自分の経験に照らして、ややこしそうな問題には関わらないという態度によるものではないかと想像している。その限りでは予想した状況なので特段驚いていない。
ただ、ネット上で散見される異論、違和感の多くは「利敵行為論」に該当するといってよい。そこで、この点に応答しておきたい。
この議論の要旨はこうである。―――都知事選は告示日を控え、複数の候補者が立候補(の意向)を表明して、いよいよ論戦が始まろうとしている。そのような時期に不特定多数の目に留まるブログ等で宇都宮氏やその陣営に対して公然と批判をするのは、対立する陣営を利するものであり、好ましくない。意見があるなら、関係者に直接伝えるべきだ、と。
結論からいうと、この議論は今回、私が一連の記事を書く動機として述べた次のような見解と相反するものである。
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私が入手した旧宇都宮選対の体質に関わる情報、それを正すために宇都宮氏がどのように対応したかを示す情報は、私自身が近年、市民運動に係わる中で体験したいわゆる革新陣営(個人か団体かを問わない)の中に少なからず存在する言動の内外落差――対峙する陣営に対して向けるのと同じ反民主主義的体質、個の自立の欠如、身内の弱点を自浄する相互批判を回避・抑制する悪弊に染まっている弱点――を感じた。
これは宇都宮氏の再出馬にどう向き合うかを考えるうえでゆるがせにできない問題であると同時に、それを超えた日本の革新陣営と市民運動全体に再考を迫る問題と思えるので、問題が具体的に表面化した実態を題材として私の見解を明らかにすることにした。日本の市民運動に民主主義的理性を根付かせるためにこの連載記事がオープンな議論の一助となれば幸いである。
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つまり、私が一連の記事を私設のブログに掲載した動機は、告示日ぎりぎりまで最善と思える革新統一の都知事候補の選考のために政党、団体、個人が叡智を寄せ合って協議を深めてほしいという差し迫った願いと同時に、革新陣営に少なからず存在する上記のような言動の内外落差を再考するきっかけとしてほしいという、より根源的な思いからだった。
このような動機、特に後者の動機は今でも正当なものと考えており、ネット上で少なからぬ方々から同感、賛意が寄せられたことを心強く思っている。
自分の外に「主人」を持たない自立した個人こそ、民主主義社会の支柱
後者のような動機からすれば、私の見解を特定の関係者にだけ伝えるということは、動機を実行する方法として不相応である。特定の主義・信条で集まった政党、団体であっても、個人の間であっても、さまざまな問題をめぐって、初めから常に意見が一致しているということは、よほどマインドコントロールが強固で自立した個人の存在が不可能な組織でないかぎりあり得ない。むしろ、異なる意見を相めぐり合わせて、各人が知見を広げ、自分の思考力、判断力を磨き、鍛錬することが、政党なり団体なりの構成員の意欲、組織外の人々への信頼と影響力を広げる基礎になるはずである。少なくとも私は、自分の判断なり意見表明をするにあたって、耳を傾ける先達、友人はたくさんいるが、自分をコントロールする「主人」なり「宗主」は持ち合わせていない。そういう「主人」持ちの人間を私は尊敬する気になれない。
もちろん、私も、問題によっては政党なり団体なりの内部で議論をし、解決を見出するのが適切だと思う。だから、なんでもかんでもオープンにすべきといった極論をいうつもりはない。
しかし、今回、私が提起した東京都知事選の候補者選考とか、選挙母体の運営のあり方といった公的な問題に関しては、さまざまな意見を特定の団体なり、グループなり、関係者の間だけにとどめず、できる限りオープンにし、極力すべてのメンバーに、異なる意見に出会う機会、自分の意見を述べる機会を開くのが言論の自由を支柱にした民主主義の本来の姿だと考えている。
「身内のごたごたや弱点を組織外に広めるのは支持者を離反させ、対立する陣営に塩を送るようなものだ」という意見をよく聞く。確かに、問題によっては―――個人のプライバシーが絡む問題など―――団体なり組織の内で議論をし、解決するのが適切なこともある。また、異論を提起する場合もその方法に配慮が必要である。しかし、内々で議論をするのが既成のマナーかのようにみなす考えは誤りである。むしろ、組織内の意見の不一致、批判を内々にとどめ、仲間内で解決しようとする慣習や組織風土が、反民主主義的体質、個の自立の軽視、身内の弱点を自浄する相互批判を育ちにくくする体質を温存してきたのではないか。
異なる意見との出会い・討論が思想の硬直化を防ぎ、対話力を鍛える
往々、日本社会では同じ組織メンバー間の争論を「もめごと」とか「内ゲバ」とか、野次馬的に評論する向きが少なくない。しかし、「もめごと」と言われる状況の中には上記のとおり、組織(革新陣営を自認する政党や団体も例外ではない)が抱える体質的な弱点――少数意見の遇し方の稚拙さ、反民主主義的な議論の抑制や打ち切り等――が露見した場合が少なくない。その場合、組織内の少数意見を組織内ですら広めず、幹部など限られたメンバーだけにとどめて「内々に」処理しようとする場合もある。あるいは、組織外から寄せられた賛同や激励の意見は組織内外に大々的に宣伝するが、苦言や批判は敵陣営を利するとか、組織内に動揺を生む恐れがあるという理由で、組織外はもとより、組織内でさえ広めようとしない傾向が見受けられる。これは大本営発表と同質の情報操作であり、組織内外の個人に自立した判断の基礎を与えないという意味では近代民主主義の根本原理に反するものである。
この世には全能の組織も全能の個人も存在しない。自らに向けられた異論や批判にどう向き合うか、それをどう遇するかはその組織にどれだけ民主主義的理性が根付いているかを測るバロメーターである。その意味では、組織内外から寄せられた異論、批判、それに当該組織はどう対応したかを公にすることは、その組織に対する信頼を多くの国民の間に広げるのに貢献するはずであり、相手陣営を利することにはならない。また、異なる意見、少数意見も尊重し、真摯な議論に委ねる組織風土を根付かせることこそ、「自由」に高い価値を置く多くの国民の共感を呼ぶと同時に、組織構成員の対話力を鍛え、組織の影響力を高めるのに貢献するはずである。このように考えると、組織内の問題を公にする行為を「利敵行為」というマイナス・イメージの言葉で否定的にとらえるのは偏狭な思考の産物といえる。
私は、今回の問題に限らず、これからもこうした理性を支えにして、必要と考えた時に自分なりの見解を伝え、行動していきたいと考えている。
次の記事では、公益通報者保護制度と海外での「利敵行為」をめぐる司法判断や立法動向を題材にして、「利敵行為」をめぐるそもそも論を考えることにしたい。
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コメント
バッジ@ネオトロツキスト様
ご意見ありがとうございました。ごもっともなご意見と受けとめました。
投稿: 醍醐聰 | 2014年1月15日 (水) 00時06分
醍醐先生、はじめまして。澤藤、醍醐両先生のご主張に大筋で同意する(「同意」だけでなく、日本の左派・リベラル陣営の惨状をあらためて確認させられ落胆もしている)者です。
多くは書きませんが1点。
適当な時期で批判を一時中断させた方がよろしいのではないでしょうか。当方は「矛を収めよ」などと怪しげな注文をしたいのではありません。
もしこのまま連続的に批判し続けると、相手側に妙な口実を与えかねないのではないかと懸念するからです。「反論は澤藤、醍醐の論難が一区切りついてから行う」というような逃げ口上に多少の正当性を与えてしまうのではないかと。
問題解明と批判は、あと数日で一応中断し、5日程時間を置いて相手側の再回答を待ってみたらいかがでしょうか?
相手側に言い分があるのなら、多分告示日以前に「最終回答」がなされるはず(それが本当に可能ならばですが)。
いかがでしょうか?
投稿: バッジ@ネオ・トロツキスト | 2014年1月14日 (火) 09時57分
>この世には全能の組織も全能の個人も存在しない。自らに向けられた異論や批判にどう向き合うか、それをどう遇するかはその組織にどれだけ民主主義的理性が根付いているかを測るバロメーターである。
本稿で示された先生の御指摘には、胸を打つものが御座います。 一石を投じつつも、「私怨・私憤」と宇都宮氏とその新旧選対の幹部連に無視されつつある澤藤統一郎氏に依る一連の批判に真摯に向き合うことが出来ないようでは、民主主義理念が空洞化するとの思いで、敢えて、厳しい御批判を加えられる先生の篤い思いに打たれます。
私は、京都学派の佐々木惣吉門下の故桜田誉先生に憲法・行政法を御教授頂きましたが、その折に、何度も厳しく指導されたことがあります。 それは、先達の教えに無目的に従うこと無く、自己の考えを示せ、との教えでした。 従いまして、通説・判例に従った理解を述べると、徹底的に質問をされ自己の理解を試されました。
ただし、理論的に整合性がありますと、指導教授の理論を押し付けること無く、それで口頭試問は免除されるのでした。
学問の世界で学んだことですが、民主主義を考える折にも、良く思い出します。 大学解体を叫ばれる学生運動が盛んな時代に、定時性の大学でのゼミに於ける授業でした。 金銭にも時間にも余裕が無い者が、貴重な教えに耳を傾けていました。
投稿: とら猫イーチ | 2014年1月13日 (月) 02時49分