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米国海兵隊を沖縄に引き留めたのは日本だった :米国公電から判明 ~辺野古移設をめぐるこの国の果てしない欺瞞と情報隠蔽(1)~

2014年9月15日 

「辺野古の埋め立てが唯一の選択肢」は誰の判断か?
 910日のNHKニュースは菅官房長官が、「わが国を取り巻く安全保障環境が極めて厳しいなかにあって、アメリカ軍の抑止力を考えたときに、『唯一の選択肢というのは辺野古の埋め立てである』という政府の考え方は、全く変わっていない」と述べ、選挙結果にかかわらず、移設計画を着実に進めていく考えを強調し」たと伝えた。(下線は醍醐の追加)
 こうした官房長官の発言は、公約を反故にして辺野古移設を容認した仲井真弘多氏の苦戦が伝えられる沖縄県知事選の結果に対する予防線と言ってしまえばそれまでだが、沖縄基地負担「軽減」担当相に就任した菅氏が口にすべき言葉ではない。これについては、次の記事で触れることにして、以下では、下線を付けた部分の菅官房長官の発言の信憑性を問題にしたい。


米軍の沖縄駐留継続は日本政府の要請だった~元駐日大使が重大証言~
 
沖縄の地元紙2紙は昨日(914日)の紙面に、「米軍の沖縄駐留、日本政府の意向 モンデール氏証言」((『琉球新報』)、「海兵隊の沖縄駐留『日本が要望』 元駐日米大使の口述記録」(『沖縄タイムス』)という見出しの記事を米国滞在記者発として掲載した。
 
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-231579-storytopic-53.html
 
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=83067

 
発言の主はカーター政権時代(1977-1981年)に副大統領に就任し、その後、クリントン政権時代(1993~1996年)に駐日米大使を務めたウォルター・モンデール氏。退任後の2004427日に外交史記録を目的とした米国国務省の付属機関のインタビューに応じて同氏が語った口述記録から判明したもの。
 記事によると、1995年、米軍普天間飛行場の返還の交渉のさなかに米兵が起こした日本人少女暴行事件について、モンデール氏は「 県民の怒りは当然で私も共有していた」と語った上で、事件に対する県民の強い怒りに直面して、当時、米国政府内では事件の数日のうちに、米軍は沖縄から撤退すべきかどうか、少なくともプレゼンス(存在)を大幅に削減すべきかどうか、さらには事件を起こした米兵の起訴に関して日本に多くの権限を与えるようにすべきかどうかといった議論に発展した、と述べていた。
 ところが、日本政府の対応はどうだったかというと、当時、日本側の指導者たちとの非公式な会話では日本側は米軍を沖縄から追い出すことを望まず、沖縄での米軍駐留の継続を求めていた、モンデール氏は述懐したという。
 結局、事件から7か月後の19964月、日米両国政府は沖縄県内での代替基地建設を条件として普天間飛行場の全面返還で合意した。
 なお、『沖縄タイムス』の記事は、当時、ペリー国務長官が米議会で「日本の全ての提案を検討する」と発言したこと、ナイ国防次官補(当時)も「兵力の本土移転も含むと述べたことも紹介している。


日本政府・防衛当局は「普天間基地移設で妥協するな」と米に伝えていた
 
これだけではない。ウイキリークスが暴露した米国公電の中に、20091012日、国務、国防総省双方の当局者を率いて訪日したキャンベル次官補らに対し、非公式な昼食の席ではあったが、高見沢将林・防衛政策局長が「米政府は、民主党政権に受け入れられるように再編パッケージに調整を加えていく過程で、あまり早期に柔軟さを見せるべきではない」と助言した、と記している。
 

 さらに、当時の外務省中堅幹部はもっとあからさまに米国が民主党政権に譲歩することがないようけん制していたことも公電から明らかになっている。

 20091210日に、日本政府の国連代表部で政務担当を務める参事官ら3人の外務官僚が在日大使館の政務担当者と会った際の会話を記した同月16日付の公電によると、外務官僚らは「鳩山政権の普天間移設問題での対応と政治利用」への不満を述べ、「米政府は普天間移設問題では民主党政権に対して過度に妥協的であるべきではなく、合意済みのロードマップについて譲歩する意思があると誤解される危険を冒すべきでもない」と強調したと記されている。 
 以上、

 
「不信の官僚、『米は過度に妥協するな』〈米公電分析〉」asahi.com 2011541918
  http://www.asahi.com/special/wikileaks/TKY201105030296.html


日本の防衛当局はすでに2009年に辺野古沖の軍港機能化を米国と協議していた
 
そればかりではない。『琉球新報』は912日の紙面で「ウィキリークスが公開した米大使館発公電。高見沢防政局長が代替基地建設の妥当性を示す説明を米側に求め、赤線の部分に高速輸送船やオスプレイ配備の記述がある」として、次のように記している。
 「辺野古に軍港機能付与 日本政府、09年把握」
 
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-231489-storytopic-3.html

 
「日米両政府が名護市辺野古に建設を計画する米軍普天間飛行場の代替基地に軍港機能が付与されると指摘されている件で、日本政府が遅くとも2009年には、新たな基地に米軍の高速輸送船が配備される計画を把握していたことが分かった。日本政府は垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの県内配備についても、米政府からの正式な通告である『接受国通報』を126月に受けるまで「未定」と説明してきたが、同じく09年段階で把握していた。」


 「ウィキリークスが公開した091015日付の在日米大使館発の公電によると、同月12日にキャンベル米国務次官補(当時)らと日本の外務、防衛両省幹部が普天間問題をめぐり会談した。公電は防衛省の高見沢将林防衛政策局長(同)が米側に対し、辺野古の新基地建設の「妥当性」を米政府が説明する際は「(在日米軍再編を合意した)06年以降の米軍の能力や戦争計画に関する変更を反映すべきだ」と勧めたと記録しており、例として『高速輸送船やMV22の配備』を挙げたとしている。
  この会談に出席していた当時防衛政務官の長島昭久衆院議員は本紙の取材に『高見沢氏の発言は記憶にない。あったとも、なかったとも言えない』と述べた上で『当時オスプレイの導入は基本路線となっていた。政府内で『早く公表すべきだ』と進言していた』と明かし、『高見沢氏の発言は当時の状況からすると特に違和感はない』と指摘した。」


国の果てしない情報隠蔽
 
これが事実とすれば、辺野古沖での代替基地建設は普天間移設に伴う沖縄の負担軽減が目的だとしてきた日本政府の説明とは裏腹に、基地の負担軽減どころか、辺野古沖での基地建設は現在の普天間にはない米海兵隊の機能の拡大強化を想定していたことになる。
 また、ウィキリークスが公開した駐日米大使館発の公電によると、前出の高見沢防衛政策局長は1996年にはすでに、オスプレイが2003年ごろに沖縄に配備予定とする文書を提出していたと記されている。
 防衛省は辺野古新基地には軍港機能はないと繰り返すが、これでは「この国の主権者は一体誰なのか。『主権在官』。沖縄の基地問題をめぐる国の果てしなき隠蔽体質にそんな言葉さえ浮かぶ」という『琉球新報』の告発に深く共鳴するほかない。


2014822_3   
鎮魂
   額づけば 戦友葬りし 日のごとく 夜明けの丘に 土の香匂ふ
   両の足 失なひし兵 病院を 探して泥道 這ひずり来る

   南原(はえばる)町の黄金森に掘られた壕の中に移設された沖縄陸軍    病院の第三外科で軍医見習士官として勤務していた長田紀春氏が詠み、遺族の宮里宏氏の揮耄で黄金森の鎮魂広場の一角に建設された犠牲者鎮魂の碑 (2014年8月22日、醍醐聰撮影)


2014820    ひめゆりの塔の前で(2014年8月20日。醍醐聰撮影)

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元NHK職員・多菊和郎さんの受信料支払い停止行動(2)~制度の深い洞察と気骨ある行動に敬服して~

201499

受信料制度の破たんではなく設計どおりの機能
 
―――受信料支払い停止の広がりが意味すること――― 
 こうして日本の放送受信料制度は一見安定したかに見えた。しかし、20047月に明るみに出たNHK職員による巨額の番組制作費使い込み事件をきっかけに、多くの視聴者が受信料の支払い拒否や保留に転じたため、危機に直面した。受信料収入は2003年度には6,478億円であったのが2004年度は6,410億円、2005年度は6,024億円まで落ち込んだ。
 政府の規制改革・民間開放推進会議の議長(宮内義彦)はこうした事態を評して、「すでに受信料制度は破綻している」と述べたが(『産経新聞』20051218日)、多菊さんはこう切り返している。

 「受信料支払い拒否や留保の挙に出た視聴者の心理と論理は、かつて存在した『放送を受信するには受信料を納めることを要するものという社会常識、社会慣習』とは遠く隔たったものとなり、『民族がつくり上げた貴重な歴史的所産』は『過去の遺物』となりつつあることが今さらながら明確に示されたということである。」(206ページ)

 「少なからぬ受信者が、かつて臨放調答申が『密着』という言葉で期待したように、NHKを″自分たちの放送局“に近いものと感じており、公共放送の理念をそれぞれに理解し受け入れていたであろうと推測できる。しかしNHK側が十分に″視聴者に顔を向けた”放送局でなかったために、視聴者の″権利”のうちの『最後の手段』を行使した。その意味では、受信料制度は破綻したのではなく、設計どおりに機能したと言えよう。」(同上ページ。下線は醍醐の追加)
 
(注)「臨放調」とは「臨時放送関係法制調査会」のこと。19649
   に受信料を「NHKの維持運営のための「特殊な負担金」と解する答
   申を提出した。

「受信料の支払い停止」は視聴者に残された最後の抗弁の手段
  この一節にある「視聴者の権利のうちの『最後の手段』の行使」という指摘は、NHK問題に取り組んできた私の体験に照らしても至言である。目下、私が共同代表の1人になっている「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」は他の市民団体と連携して籾井会長、百田尚樹・長谷川三千子の両経営委員の罷免または辞任を求める署名運動を進めるとともに、独自に籾井会長の罷免または辞任を求める受信料支払い凍結運動を呼びかけている。
 その過程で、NHK執行部や会長の任免権を持つ経営委員会に署名簿、質問書を提出してきた。しかし、これらを提出する際に面会したNHK視聴者部や経営委員会事務局によると、5万を超えた署名を提出しても提出先の経営委員会で協議はおろか、提出の事実さえ報告されていない。また、経営委員会に質問書を提出するにあたっては、「委員長の会見や委員会の議事録あるいは国会での答弁で把握できないことを質問するので、誠意ある回答を要望する」と書面でわざわざ断っているにもかかわらず、「一連の動きに関する経営委員会としての考え方につきましては、国会審議における〔経営委員長の〕答弁、ならびに経営委員会終了後の委員長ブリーフィングや議事録などにより公表させていただいております」という木で鼻をくくったような回答の「使い回し」が続いている。
   また、籾井会長も、1月の会長就任会見で妄言を連発したことを国会で質されると「あれは個人としての見解」とかわす一方、個人的見解と会長としての資質を質した経営委員に対しては「私は何か間違ったことをしたでしょうか」と開き直り、6月の期末手当を返上した理由を尋ねた報道関係者には「籾井、よくやったと書いてもらっていいんじゃないか」と悦に入る有様である。
 ここまで視聴者の声を無視されたら、視聴者にはいったい、どのような意見表明や抗弁の手段が残されているだろうか? ここまで来たら、NHKの運営財源のほぼすべてを拠出している視聴者としては、双務契約としての受信規約の法理(民法第533条で定められた「同時履行の抗弁権」)を準用した受信料支払いの一時的凍結を「最後の抗弁の手段」として行使する以外にないのである。 

受信料制度を維持していくうえで必要な「補強材」

 
受信料支払い拒否や保留の広がりを「受信料制度の崩壊」とみるのではなく、「受信料制度が設計どおりに機能したもの」と捉えるところに多菊さんの深い洞察を見て取れる。それは多菊さんの論説を貫く条理の帰結であると同時に、私が多菊さんの論説に敬服するゆえんでもある。
 しかし、受信料制度はこうした成り行きに委ねて安泰というわけでは決してない。多菊さんは次のような指摘で稿を結んでいる。

 「日本の放送受信料制度は、『特殊の便法』という出自に由来する脆弱性を内包しているが、その出発点から数えれば80年余り、臨放調の答申から数えても40年余りの間、基本的な仕組みは命脈を保ってきたのであるから、逆説的な言い方をすれば″強靭な″制度であるのかも知れない。ただしその強靭さは、いくつかの補強材との組み合わせによって維持されてきたのであり、今日における不可欠の補強材は、事業体に寄せられる受信者の信頼であり、右顧左眄せず公共放送の王道を歩む真摯で勇敢な経営姿勢であろう。」(207ページ。下線は醍醐の追加)

 まことに明快かつ的確な指摘である。多くの視聴者に一読を願うと同時に、それ以上に、籾井会長以下、今のNHKの全役職員に一読してほしいと願わずにはいられない指摘である。

 ただ、私には、多くの国民がNHKに対して様々な不満を持ちながらも、受信料の支払いに応じてきた背景には、社会慣習の力だけでなく、「公平な負担のお願い」を前面に押し出すNHKの受信料徴収方針が少なからず効いているように思える。

「公平なご負担のお願い」
 
―――NHKの受信料徴収の論理の両刃性―――
 NHKは、このブログの一つ前の記事で書いたように、「受信料をお支払いいただいている方との公平を図るため」という口上で支払いを督促するのが通例になっている。こういう言い方をされると、「粛々と」受信料を支払っている人たちは、理由はどうであれ、「不払いは不払い、許せない」という心情をかき立てられる。訳ありで受信料の支払いを停止している人たちも、そういう世間の「空気」に押されて、同じようにテレビを見ながら受信料を払わないことに何かしら「負い目」を感じ、支払い停止に踏み切るのを逡巡したり、支払いを停止している事実を公言するのを憚ったりしているのではないかと思われる。
 しかし、私はこうした「公平負担論」には重大な論理のすり替えと帰結の両刃性があると考えている。このうち、論理のすり替えについては一つ前の記事で書いた。ここでは、「公平負担論」の「帰結の両刃性」について考えたい。

 「公平負担論」は、上記のとおり、視聴者の間に広がる受信料支払いのモチべーションの低下が不払いへと発展するのを食い止める「抑止力」として機能していると考えられる。多菊さんの言葉を借用していえば、戦後長く日本の受信料制度の維持装置として機能してきた「テレビを見る以上、受信料を負担するのは当たり前」という社会常識を下支えする補強材としての役割といってもよい。この補強材は「社会慣習」としての義務意識と比べ、受信料支払い拒否を思いとどまらせる「内なる抑止力」としては弱い機能しか果たさないかに見える。
 けれども、NHKから見ると、「公平負担論」は、受信料義務制とか民事督促とかいった「強硬手段」に訴えることなく(視聴者と直接、法的に向き合うことなく)、「不合理を憂えるよりも等しからざるを憂える」国民感情に働きかけ、視聴者相互の牽制に委ねて受信料の収納実績を高める効果を持つ点では使い勝手のよい受信料徴収の論理ではある。
 しかし、徴収の論理が先立つ「公平負担論」は視聴者のNHKばなれを加速させ、公共放送の「理性あるサポーター」を失うという負の側面をはらむことを直視しなければならない。なぜなら、受信料の不払いも訳ありの「停止(凍結)」も一括りにした「公平負担論」は、「お隣が払っていないのになぜ自分だけ」という国民感情をかき立て、NHKの放送番組や経営のあり方への関心(批判や不満)からではなく、損得の次元で受信料の支払いの是非を考える視聴者を増やすことにならざるを得ないからである。

無関心を喜ぶ者は無関心のつけを負わされる
 
 番組に対してうるさくものを言う視聴者よりも「粛々と」受信料を払ってくれる視聴者、あるいは少々、クレームをつけても受信料となれば「国民の義務」と自分に言い聞かせて「真面目に」支払いをしてくれる視聴者の方がNHKにはありがたいのかもしれない。しかし、<無関心を喜ぶ者は無関心のつけを負わされることも確かである。
 戦後、NHKは幾度か、政治の介入や第三者を標榜した審議機関の市場競争万能論的な規制「改革」論によって、公共放送としての存立が危ぶまれる危機に直面してきた。前者の例としては「従軍慰安婦」問題を扱ったETV特集番組に対する政権幹部の介入などが挙げられる。後者の例としては、放送事業の民間開放をうたい文句にNHKの民営化を唱えた上記の「規制改革・民間開放推進会議」の答申などが挙げられる。
 しかし、こうした公共放送の存亡の危機を食い止めたのはNHK内部の良識ある人々の抵抗とともに、文化人、研究者、ジャーナリストらと連携した視聴者・国民の理性的なサポートにも依るものだった。「公平負担論」を錦の御旗にしたNHKの受信料拒否者対策は、こうしたNHKの国民的支持基盤を掘り崩し、多くの国民を公共放送の価値に対する無関心層に追いやる結果になる。
 多菊さんが指摘した、「事業体に寄せられる受信者の信頼」と「右顧左眄せず公共放送の王道を歩む真摯で勇敢な経営姿勢」こそ、今日における受信料制度の不可欠の補強材であるという指摘は、それこそが公共放送としてのNHKの存立の条件であると同時に、受信料拒否者解消策の王道でもあることを意味している。この
ことをNHKのすべての役職員は銘記する必要がある。(完)

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元NHK職員・多菊和郎さんの受信料支払い停止行動(1)~制度の深い洞察と気骨ある行動に敬服して~

201499
 
 ある機縁で、元NHK職員の多菊和郎さんのことを知った。多菊さんはNHKに在職中、国際放送局国際企画部、NHK放送文化研究所のメディア経営研究部長などを歴任され、2005年に江戸川大学のマス・コミュニケーション学科に教授として着任された。ネットで調べると、今年の319日に多菊さんが開設されたHPが見つかった。そこには4つの文書が掲載されていた。

 「多菊和郎のホームページ」トップページ)
 
http://home.a01.itscom.net/tagiku/
1.
 籾井勝人NHK会長あて「会長職の辞任を求める書簡」(20143
  3日) 
2.
 浜田健一郎NHK経営委員長あて「NHK会長の罷免を求める書簡」
  (201433日) 
3.
 受信料支払い停止の経緯に関する報告資料(2014428日) 
4.
 参考資料(論文)「放送受信料制度の始まり―ー『特殊の便法』をめ
  ぐって」(『情報と社会』江戸川大学紀要、20093月)


 どれを読んでも深く共鳴した。多菊さんご本人から、このブログで紹介することについて了承を得たので、4つの文書を適宜、原文引用しながら、記事を書くことにした。

玄関のすぐそこに裏口があるような人物はNHK会長に不適
 
 籾井勝人NHK会長および浜田健一郎NHK経営委員長に宛てた多菊さんの「会長職の辞任・罷免を求める書簡」を読んで私が注目したのは次の一節である。
 「籾井氏が会長就任時の記者会見で『私見』を述べたことが悪かったとは私は思いません。この場(会長就任会見の場)で籾井氏が述べた『私見』によって、籾井氏がNHKの会長にふさわしい人ではないことが露呈し、経営委員会の人選の失敗が明らかになったからです。
 建物の玄関を開けるとすぐそこに裏口があるような奥行きの狭い思考をする人は報道機関・ジャーナリズムの仕事に向いていません。その玄関と裏口の間に『政治権力』という1枚のフィルターが立ててあるような考えかたの人はなおさらです。」

気骨ある受信料支払い停止行動、それを支えた受信料制度の深い洞察
 
 3つ目の「受信料支払い停止の経緯に関する報告資料」を読むと、銀行口座引き落とし解約届の「お客様控え」を添え、昨年10月に1年分、先払いした受信料のうち、未経過分の返還請求までするという、気骨のみなぎった受信料支払い停止行動であることが窺える。
 NHKに批判的な人々の間には、受信料の支払いを停止(凍結)している人が少なくないが、それを公言する人は少ない。そのような人たちと会話をしていると、受信料の支払いを停止していることに「後ろめたさ」を感じている様子が窺える。こうした人々と多菊さんの言動の違いはどこからくるのだろうか? 
 4つ目に<参考資料>として転載された多菊さんの論文「放送受信料制度の始まり」(『情報と社会』江戸川大学紀要、20093月)には、この違いの由来を知る手がかりがちりばめられているように思えた。

 本稿は、日本でラジオ放送が開始された1925(大正14)年以前まで遡り、日本放送協会が歴史的に民間放送という形態をとらず、あるいは、財源の面で、国庫を経由せず、視聴者が受信料を直接、日本放送協会に納付するという仕組みが出来上がった歴史的沿革を、『日本無線史』(1951年、電波監理委員会編)や『日本放送史』(1951年、日本放送協会編)、『日本放送史』(1965年、日本放送協会放送史編集室編)などを紐解きながら、克明に検証したものである。
 ここでその中身を詳しく紹介するゆとりはないが、私が注目したのは多菊さんが受信料制度の要素として、①法規、②解釈(論理)、③負担者心理、の3つを挙げ、「受信料を負担すべき人々が、公共放送としてのNHKの必要性とその費用負担の合理性を観念的に認めることと、実際に受信料を支払うこととの間には懸隔がある。そこには『法規』や『論理』が求めるものを現実の行動に結びつける『心理』の要素が大きく介在する」と記し、受信料を徴収する側の「建前」だけでなく、受信料を支払う側の「心理」を重視している点である(205ページ)。
 これを敷衍して、多菊さんは、受信料の性格を、NHKを維持運営するための「特殊の負担金」と表現しても、視聴者に受信料支払いの必要性を説得する力は乏しく、「見もしないチャンネルにお金を払いたくない」、「お隣が支払っていないのになぜ」という気持ちを切り替えさせるのは容易でない、という。この点を評して多菊さんは、日本放送協会の受信料制度は「それ自身では受信料徴収の正統性の主張を完結できないという『脆弱性』をはらんでいる」(205ページ)と記している。

受信料の支払いを内面から促す社会慣習の力
 
 にもかかわらず、元NHK副会長・永井多恵子さんをして、「現況の受信料支払率は7割で、この数字を向上させることに全力をあげなければならないが、『罰則なしで、この数字はすごい』というのが率直な感想だ」(「朝日新聞」2006918)と言わしめるほど、NHKが堅調な受信料徴収実績を挙げてきたのはなぜだろうか?
 これについて、多菊さんは戦中から戦後にかけて逓信行政の現場に在り、戦後は日本放送協会の幹部に転じて放送法の制定に関わった荘宏氏の著書『放送制度論のために』(1953年)の中の次の一節を紹介している。
 
 「このようにして協会は国の保護と協力の下に発展してきた。両者の関係が極めて緊密であったので、世の中には放送局(中略)を一つの役所と思う人もあったくらいである。さらに当時は協会以外には放送事業体がなかった。このような状態で四分の一世紀が経過した。その間に日本人の間には、放送を受信するには受信料を納めることを要するものという社会常識、社会慣習が成立した。民族がつくり上げた貴重な歴史的所産の一つといえる。」(原書、253ページ。下線は多菊氏の付加。)

 確かに、私の体験に照らしても、こうした「社会常識」、「社会慣習」が国民の間に広く浸透していることが受信料の支払いを内面から促す心理として視聴者に大きな作用を及ぼしていると思える。これまで、NHK問題をテーマにした各地の集会に参加し、それぞれの地で参加者や主催者の人々と話をした折、ごく一部とはいえ、そうした人々の中でも、凍結運動に強硬に反対する人と出会った。それらの人たちとやりとりをして感じたのは、受信料凍結(保留)と不払いがいわば先入観として同列視されていること、テレビを見ている以上、受信料を払うのは国民の義務だという観念が根強いということだった。まさに荘宏氏がいう、受信料の支払いを社会慣習として受け入れる国民意識そのものである。

 しかも問題は、そうした意識が受信料支払い停止(凍結)に強硬に反対する人たちだけにあるのではなく、現在のNHKの報道番組の国策放送化に抗議するため、あるいは「政府が右と言えばNHKは左とは言わない」と公言して憚らないような人物が会長に居座るかぎり、受信料を支払わない、支払う気になれない、支払うのを止めたという人の中でさえ、自分のそうした思いを公言したり行動に移すのをためらったりする人が少なくない。その根底には、自分の行動が日本社会に行き渡った上記のような「社会常識」になじまないことを気にし、「粛々と」受信料を支払っている周りの人たちから冷ややかな目でみられないかという「後ろめたさ」にとりつかれた心理が働いているように見える。それだけに、受信料の支払い義務をNHKと視聴者の契約関係でとらえるのではなく、「社会常識」として多くの国民に受容させる「社会慣習」の「事実上の規範力」を実感させられる。
(次の記事に続く)

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