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木犀~心の友 尾崎翠の作品に寄せて(2)~

2018630

私が毎夜作る紙反古はお金になりません

 『尾崎翠全集』(1979年、創樹社)の中に「木犀」と題する随筆が収録されている。1929年、33歳の時の作品で、組み上げ6ページの短編である。以下はその末尾の文章である。

             木犀(抜粋)

 「三十銭は明日の電報料に取っておかなければならない。私は残りの四十銭を卓子に並べて店を出た。
 階段に端書が来てゐた。『木犀の香りの中を抜け』――N氏が拙い詩を一ぱい書きつけた端書だった。氏も木犀の中を通って牛の処へ帰って行ったらしい。
 さて私は明日郷里の母に電報を打たなければならない。私は金をありたけN氏の詩の上にはたき出した。お君ちゃんの店で残した十銭玉三つの他に銅貨が四つあるだけだ。お母さん、私のやうな娘をお持ちになったことはあなたの生涯中の駄作です。チャップリンに恋をして二杯の苦い珈琲で耳鳴りを呼び、そしてまた金の御無心です。しかし明日電報が舞ひ込んでも病気だとは思はないで下さい。いつもの貧乏です。私が毎夜作る紙反古はお金になりません。私は枯れかかった貧乏な苔です。」

 ちなみに『尾崎翠全集』の末尾に収録された年譜(稲垣真美作成)によると、この短編は『女人芸術』19293月号に掲載されたものである。その月の28日に兄哲郎が37歳で死去している。
 『女人芸術』はその前年19287月に長谷川時雨が中心になって発刊された女性文学誌である。翌8月、林芙美子は同誌に『放浪記』を発表し始めた。翠も林に誘われて同誌編集部を訪ねていた。

尾崎翠と林芙美子~対照的な文学的基質と文学者的運命~
 当時の様子を稲垣真美は同じく全集に収められた「解題」(569ページ)の中で次のように記している。

 「『木犀』と『アップルパイの午後』の二編は十分構成されたモチーフの展開とまとまりを持つ。しかしこの二編も含めてこれらの諸篇は、尾崎翠の培養し得た独創的パン種を、そのまま千切り千切り、『女人芸術』という女性だけのやや手狭な花壇の合間合間に、断想的に植えつけられていった
感じを否み得ない。
 おなじく『女人芸術』に連載された、林芙美子の『放浪記』の場合は逆であった。その読者への印象はともかく、表現手法、モチーフなどの点を尾崎翠の諸編と比べると、とくに新しかったわけでもなく、心理的な掘り下げがあったともいえない。ただ、『放浪記』の場合には、それはもはやパン種ではなく、口ざわりよく醗酵を経てそれ以上ふくらみ得ない、手ごろな作品に次々と仕上げられていた。そこから新たな文学の可能性の種子を得るべきものではなく、出来上がった商品として、ショウウインドーにそのまま並べられて人目を惹く体のものであった。・・・・
 だが尾崎翠の作品の場合はちがう。その断想的作品のなかには、文学に新たな次元を開く可能性のパン種や、すばらしい芳香や光彩を放つための酵母を秘蔵しつつ、『女人芸術』
という女だけの園に、僅かなページを与えられて、片鱗をのぞかせていたのである。まさに林芙美子の作品とはその性格も辿った運命も逆であった。」


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悲しみを求める心~心の友 尾崎翠の作品に寄せて(1)~

2018630

もはやいかなる権威にも倚りかかりたくない

 茨木のり子は「倚りかからず」と題する詩の中でこう綴った。
 
  もはやできあいの思想には倚りかかりたくない・・・
  もはやできあいの学問には倚りかかりたくない・・・
  もはやいかなる権威にも倚りかかりたくはない 
  ながく生きて心底学んだのはそれぐらい
  (『倚りかからず』1999年、筑摩書房、所収)

 茨木のり子がこう書き留めたのと同じ年齢になって私も同じことを実感している。
 今どきの「リベラル」とやらの薄っぺらな言動、狭い同心円の中でしか通用しない、威勢のよい安倍批判をぶって喝采を浴び、得意げになっている「学者」面々、なぜ後退したかを吟味せず、減ったから増やせとハッパを掛ける組織の不条理な方針に(表向き?)忠実に従う「前衛」党員・・・・どれも私には偽善としか思えない。

 それでも、私にとって「心の友」と呼べるのは数人の故人――金子ふみ子、高見順、坂口安吾、茨木のり子など――である。もはや自分を偽る後知恵を持たないという安心感からだけではない。
 尾崎翠(1896~1971 もその一人だが、彼女のことを知ったのは、連れ合いが集めた女性文学者の書物の書棚にあった『尾崎翠全集』1979年、創樹社)を何気なく開いたのがきっかけだった。今から78年前のことだったと思う。

死の悲しみに心を打ちつけて居たい

 前置きはこれくらいにして、今でも私を惹きつける彼女の作品3編を順次、書き留めておきたい。
 以下で紹介する短編について、『全集』に付けられた「尾崎翠年譜」(稲垣真美作成)には、こう記されている。
 「1916年(大正5) 20
  4月、『文章世界』論文欄(相馬御風選)に「悲しみを求める心」
  が入賞。少女時代の父の死を振り返ったもので、肉親の死を超え
  た生死の姿への洞察がみられる。」

          悲しみを求める心(抜粋)

 「私は死の姿を正視したい。そして真に悲しみたい。その悲しみの中に偽りのない人生のすがたが包まれてゐるのではあるまいか。其処にたどりついた時、もし私の前に宗教があったら私はそれに帰依しよう。又其処に美しい思想があったら私はそれに包まれよう。」

 「私が願ふのはその心の永続である。絶えず死の悲しみに心を打ちつけて居たいのである。それは決して無意味な悲しみではない。私の路を見つけるための悲しみである。」

 「あの頃の私がたどったやうに、幼いから若いからと言ってそれに長いたのしい生を求めることは不可能なことであった。死を悲しむ後に見出す生のかがやき。それを得ようと私は一歩ごとの歩みをつづけて行かなければならない。」

苦しみの日々、悲しみの日々はひとを少しは深くするだろう

 冒頭、引用した茨木のり子の詩集の中にもこんな詩がある。

       苦しみの日々 哀しみの日々(抜粋)

  苦しみの日々 
  哀しみの日々
  
それはひとを少しは深くするだろう
  
わずか五ミリぐらいではあろうけれど

  
なんとか通り抜けたとき 初めて気付く
  
あれはみずからを養うに足る時間であったと

  
苦しみに負けて
  
哀しみにひしがれて
  
とげとげのサボテンと化してしまうのは
  
ごめんである

  
受けとめるしかない
  
折々の小さな刺や 病でさえも
  
はしゃぎや 浮かれのなかには
  
自己省察の要素は皆無なのだから



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