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京都・岡山での初動の実態の検証~自衛隊の初動には重大な不作為があった(その2)~

2018730日 

3. 
77日、SOSが殺到した岡山県への救助ヘリの出動ゼロ 
 
 
31 過少な規模 
  32 岡山県への救助ヘリの出動ゼロ

  (以上、一つ前の記事)
  
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/1-9806.html
 
 33 遅すぎた出動
 規模とともに問われるのは初動のスピード(派遣要請から被災地で活動を開始するまでに要した時間)である。
 もっとも現地で救助活動を開始するまでの時間といっても、どこの部隊から派遣されるかによって所要の時間は違ってくる。『防衛白書』では、陸上自衛隊の場合、全国に配置された157カ所の駐(分)屯地を基盤として初動対処部隊(FAST-Force。人員3,900名、車両1,100両、航空機40機)が1時間を基準に出動できる態勢を整えているとしている(平成29年版『防衛白書』図表Ⅲ-1216)。

 では、今回はどうであったかを確かめるため表4を見ると、府県知事名で派遣が要請されてから活動部隊が各駐屯地を出発するまでに要した時間にはばらつきがあった。最短の愛媛県の場合は派遣要請と同時刻に出動しており、福岡県、広島県では派遣要請があった時刻から30分後に出動している。しかし、山口県では1時間25分後、京都府では第1陣(福知山駐屯地の20名)が出発したのは1時間30分後、岡山県では1時間49分後となっている。
 また、京都府の場合、第2陣の自衛隊(125名)が福知山駐屯地を出発したのは2時間35分後(76240分)以降、岡山県の場合、第2陣が豊川駐屯地(愛知県)を出発したのは派遣要請があってから8時間49分後だった(以上、表4を参照いただきたい)。

 しかし、どの府県でも派遣要請がされるに先立って、自衛隊の最寄りの部隊から数名のLO(連絡幹部。LOLiaison Officer)が派遣要請元の自治体に出向き、情報の収集と共有、派遣に関する協議を行っていた。にもかかわらず、一刻を争う派遣要請から出動までにかかった時間にこれだけ開きが生じたのはなぜなのか? 特に、山口県、京都府、岡山県で1時間半かそれ以上も後になったのはなぜだったのか、検証が必要である。

 さらに、災害時の人命救助という点で重要なのは派遣要請を受けて災害現場に到着し、救助活動を始めるまでにどれだけの時間を要したかである。
 防衛省・自衛隊が発表した資料では、派遣された部隊が災害現場で救助活動を開始した時刻は記載されない場合が多いが、派遣された部隊が専用のツイッタ―に書き込んだ記録などから把握できる場合がある。
 それも不可能な場合は、インターネット上の道路情報をもとに、派遣元の駐屯地から派遣先(被災現場)まで、有料道路優先で出動した場合に要する標準的時間を計算した。

 京都府の場合 
 この方法で推定すると、京都府の場合、第1陣の派遣部隊(福知山駐屯地)が、派遣先の桂川・久我橋(伏見区)に到着するまでに要する標準的時間は1時間39分である。これを基準にすると、第1陣が久我橋に到着し、土嚢の積み上げ作業を始めたのは76日の4時過ぎ、第2陣が到着したのは76日の5時半以降だったと考えられる。もちろん、現実には道路の混雑状況などにより、実際に到着した時刻がこれよりも前後したことは当然ありうる。
 ところが、京都府河川防災情報で、久我橋の南方6.8km地点にある伏見区納所観測所での76日明け方の桂川の水位を確かめると、ピークは100分(4.42ⅿ)で、以後4時までは氾濫危険水位とされる4mを超えていた。しかし、自衛隊の第1陣が久我橋に到着して土嚢の積み上げを始めたと推定される4時過ぎには水位は4m以下まで下がっていた。また、第2陣が到着したと推定される5時半頃には納所観測所での水位は3.7mで、氾濫危険水位をかなり下回っていた。 
 さらに、嵐山の北方約15kmの地点にある亀岡市保津橋観測所での桂川の水位を見ると、75日、15時の時点ですでに氾濫危険水位の4mを超え、522時~60時の間は4.8mを超えていた。しかし、その後、水位は下がり続け、自衛隊の第1陣が久我橋付近で土嚢の積み上げ作業を始めたと推定される6日の4時過ぎには4mを下回り、第2陣が久我橋に到着したと推定される6日の5時半頃には水位は3.8mまで下がっていた。 

                桂川の水位の変化
        納所観測所(伏見区)  保津橋観測所(亀岡市)
 7520時      2.88m                4.34m  
 
     21時      3,16m          4.60m  
     22時         3.52m             4.85m 
   
     23時      4.11m             4.98m 
      24
時      4.37m          4.99m  
     601時      4.42m          4.84m  
      02時      4.40m          4.60m   
      03時      4.27m                                 4.33m
      04時      4.08m          4.09m 
      
05時      3.85m                        3.90m  
     
06時      3.61m                3.76m   
   
     07時         3.41m         3.79m  
   (注)4m:氾濫危険水位 
    京都府防災情報(水位)」より検索・作成    
 

 こうして、結果的に桂川の氾濫は免れたが、自衛隊の出動が氾濫の危険が過ぎた時点だったことは否めない。むしろ、桂川の水位の状況から言えば、自衛隊の出動の遅れというより、京都府から自衛隊への防災派遣の要請が控えめに見ても5時間ほど遅かったと思われる。もっとも、自衛隊への派遣要請がもっと早かったとしても土嚢の積み上げなどの対応で桂川の氾濫を防げたと言える根拠はない。しかし、空振りを厭わない「先手の対応」というなら、万一の氾濫に備えた、より早い対処が必要だったと思える。
 実際、防衛省が逐次発表した「平成3075日からの大雨に係る災害派遣について」によると、京都府では75日の1640分に第7普通科連隊のLO2名が京都府庁に向け福知山駐屯地を出発していたから、75日の1830分頃(京都府知事から自衛隊に派遣要請がされる5時間30分ほど前)に京都府庁に到着し、自衛隊の派遣について情報の収集と協議を始めていたと考えられる。
 であれば、府知事から派遣要請があってから1時間半後(第1陣)、2時間35分後(第2陣)ではなく、派遣要請を受けて可及的速やかに救助部隊が出発できるよう、人員、装備の手配を整えておけたはずではないか?

 岡山県の場合
 岡山県の場合、上記のように、派遣隊の第1陣(約20名)が被災地に向かって三軒屋駐屯地(岡山市)を出発したのは派遣要請があってから1時間49分後、第2陣(約50名)が出発したのは派遣要請があってから8時間49分後の77日、800分だった。第2陣の出発がなぜこれほど遅れたのか、不可解である。
 しかも、岡山県でも、派遣要請があった時刻の14時間36分前(76日の835分)に第13特科隊(岡山県勝田郡奈義町の日本原駐屯地に所属)のLO2名が岡山県庁に向かって駐屯地を出発していたから、6日の1020分頃には岡山県庁に到着し、災害情報の共有、自衛隊派遣をめぐる協議を始めていたと考えられる。であれば、第1陣はもとより、第2陣をなぜもっと早く被災現場に出動させられなかったのかという疑問を拭えない。
 
 ここで、さらに不可解に思えるのは、①第1陣、第2陣の派遣先が、被害が集中した真備町など倉敷市ではなく、高梁市役所だったこと、②第2陣の派遣元が愛知県豊川市に所在する第49普通科連隊だったこと、である。
 ちなみに、豊川駐屯地から具体的な行き先とされた海田駐屯地までに要する時間は道路情報(有料道路有線)に基づくと7時間10分となる。防衛省の発表資料とおりだとすると、第49普通科連隊は岡山県を通り越して広島県の海田駐屯地へ向かい、そこで部隊を編成して(?)高梁市役所へUターンしたと考えられるが、実際はどうだったのか? 防衛省の発表通りだとすると、道路情報にもとづけば、高梁市役所へ直行した場合と比べ、約3時間多く時間がかかったことになる。そもそも、救助現場に到着するまでに6時間近くかかる愛知県の豊川駐屯地の自衛隊を派遣させた判断は一刻を争う災害救助の目的に照らして適切だったのか大いに疑問である。

 かりに、豊川駐屯地から派遣された第2陣が77日の8時に駐屯地を出発して倉敷市真備町に直行したとしても、現地に到着するまでに道路情報による机上の計算では有料道路優先でも約5時間30分かかるから(ちなみに76日の2310分頃、名古屋を出発した名古屋消防局緊急援助隊が真備町に到着して救助活動を始めたのは13時間半ほど経った77日の13時半だった。一般道路を利用したからだろうか?)被災現地で救助作業を始めたのは早くても、77日の13時半ごろとなる。
 しかし、この日、真備町では130分に高梁川が堤防を越水したとして倉敷市は避難指示を発令、明け方から、水が押し寄せてきたなどと救助を求める通報が相次ぎ、一刻を争う状況だった(真備町の詳しい状況は、あとの記事で触れる)。であれば、救助のための派遣の要請先をなぜ愛知県の豊川駐屯地にしたのか、出発がなぜ派遣要請から8時間49分も経ってからになったのか? こうした初動の遅れを徹底して検証する必要がある。その際には遅れの原因を防衛省・自衛隊だけに帰すのではなく、政府全体、とりわけその中枢である官邸の初動態勢を徹底して検証する必要がある。

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自衛隊の初動には重大な不作為があった(その1)

2018729日 

1. 検証のための4つの基礎資料
 今回の西日本豪雨災害に関する政府対応が「災害対策基本法」第2条で定められた基本理念、第3条に定められた国の責務を忠実に履行したものだったかどうかを検証するため、ひとまず、自衛隊の初動に焦点を充てて次のような一覧資料を作成した。典拠資料はそれぞれの表の欄外に注記した。

 表1 災害の状況と政府の対応
  
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/t1_nisinippongouu_seifutaio.pdf
 表2 岡山県倉敷市真備町における被害の状況と政府・地元自治体
     の対応
  
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/t2_mabicho.pdf
 表3 近年の主な災害の規模と自衛隊の活動規模の比較表
  
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/t3_zieitainosaigaitaiohikaku.pdf
 表4 主な被災地での自衛隊の初動の状況
  
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/t_4_shodonozyokyo.pdf 

 今回の西日本豪雨災害における人命優先の初動について、政府は「先手先手」で「万全の体制」を講じたと力説するが、「空白の66時間」と対応の遅れを批判する論調も見られる。また、気象庁が14時に大雨洪水警報を発表した75日夜、安倍首相ほか閣僚数名も出席して赤坂の国会議員宿舎で酒宴が開かれたことにも各方面から批判が相次いでいる。

そこで、政府の初動対応の実態はどうだったのかを事実にもとづいて検証したい。ただ、政府の対応と言っても広範囲な省庁が関わっているが、ここでは人命救助、早期救援を任務とする初動対応に大きな役割が期待される自衛隊の活動を中心に検証する。

2. 活動人員は途中から待機要員も含めて水増しされた 
 菅官房長官は
77日、午前1108分から行われた官房長官会見の冒頭発言の中で「現在、警察・消防・自衛隊が約4万8千人の体制で人命を第一に、捜索、救助活動を行っております」と発言した。
 しかし、防衛省・自衛隊が広報した資料によると(上の表4を参照されたい)、その日の14時現在で災害救助に派遣された自衛隊の規模は「延べ人員900名」となっている。
 4万8千人の体制の詳細は示されてないが、この数字が実働人員だとすると、残りの約47,100名は警察・消防隊から派遣された人員ということなのか? だとしたら自衛隊からの派遣は全体の0.2%に過ぎないことになる。
 また、7月8日、9時03分から始まった「7月豪雨非常災害対策本部会議(第1回)」の冒頭あいさつの中で、安倍首相は、「救命救助、避難は時間との戦いです。54,000人の救助部隊の諸君が、懸命に救助に当たっています」と発言した。また、会合の後、926分から開かれた官房長官会見のなかで菅官房長官は「本日も警察、消防、自衛隊、海上保安庁の救助部隊が人命第一の方針の下、約5万4千人、ヘリ41機の体制で捜索・救助活動に全力で取り組んでおります」と発言した。

 しかし、防衛省・自衛隊が発表した資料によると、前日7日2030分現在で、災害救助に派遣された自衛隊の規模は「延べ人員2,340名、艦艇延べ19隻、航空機延べ7機」となっている。また、総務省消防庁が発表した資料によると、7日、23時現在で各地から広島県、岡山県に派遣された緊急消防援助隊の活動規模(地元消防、県ヘリは含まない)は合計で850名、ヘリ10機となっている。さらに、警察庁の情報公開室に問い合わせると、警察庁が所管する広域緊急援助隊として被災地へ救助に派遣された人員は78日、6時現在で550名(同日16時現在でも同数)とのことだった。
 政府は54,000人体制の詳細(機関別・派遣先別・装備別の内訳)を示していないが、上の数字をもとにすると、54,000名のうちの残りの52,600名(全体の94.1%)は、地元自治体の消防や警察から派遣された人員を別にすると、各地の自衛隊から派遣された人員となるが、実態はどうだったのか?

 防衛省・自衛隊の報道発表を調べていて気が付いたのは、772030分現在の発表された派遣先別の活動人員を足し合わせると上記のとおり2,340名となるが、翌8日の23時現在と断って発表された活動規模を見ると、官邸の発表形式と同様、派遣元/派遣先別の内訳は消え、総計規模として人員約27,300名、艦艇3隻、航空機10機と発表されただけだった。だとすると、一日で約25,000名が増員され、活動人員は10倍強に跳ね上がったことになるが、実際はそうだったのか?
 この点を確かめるため、726日、防衛省内の報道発表の担当部署と教えられた参事官室に問い合わせた。3度目の電話でようやくつながった担当官の説明によると、78日から、活動規模の発表の仕方を見直し、人員の中に、指令部、待機中の人員も含めることにした」ということだった。
 しかし、「人命救助第一」の初動というなら、被災現場で救命救助の活動に当たった人員、装備(防災ヘリ、ボート)の規模を示すのが常識であり、活動規模の中に司令部や待機中の人員を含むのは不合理である。

.   7月7日、SOSが殺到した岡山県への救助ヘリの出動ゼロ 
 31 過少な規模
 今回の西日本豪雨で気象庁は台風7号が接近した75日の14時以降、数次にわたって西日本など広域に向けて大雨特別警報を発表し、土砂災害、河川の氾濫に厳重な警戒を呼びかけた。それを受けて、77日、530分の時点で広島、福岡、岡山、大阪、佐賀などの府県で、など19の府県で計697,585世帯、1,614,251名に対して避難指示が発令された(消防庁、第8報)。
 そして、豪雨による土砂崩れ、河川の氾濫の災害のピークとなった77日には電話やツイッタ―で救助を求める声が各地で殺到した(表158ページ、表227ページ参照)。また、76日夜から7日明け方にかけて、福岡県、広島県、京都府、岡山県、愛媛県、山口県から自衛隊に対し、人命救助のための派遣要請が相次いだ。(以下、ツイッターからの発信)

「大人二人、こども3人、住宅二階に取り残されています。助けて下さい!」(77日、929分、真備町岡田より)

「救助ヘリを飛ばして下さい。2階も浸水している人が沢山います。早く助けて、お願いします。」(77日、1058分、倉敷市内より)

「おじおば宅602人です。冠水のため避難できず2階に取り残されています。救助をお願いします」(77日、1141分、真備町川辺より)

「高齢の両親と身障者の妹と従兄弟の4人二階に閉じ込められています。ベランダにタオルをかけています。救助お願いします」(77日、1238分、真備町岡田より)

「大至急助けてください!子供2人、大人(女性)1人で家の二階に避難していましたが足首まで水が来ており体温がどんどん奪われています!子供が小さく屋根に登っての救助要請ができません!!一刻も早く救助をお願いします!」(77日、1552分、真備町川辺より)

「(岡田より)「助けて下さい バッテリ-が残り少ないとの事で代わりにツイートしています。大人4名(60代2名、402名)子供2名(中学生2名)猫1匹 2階建ての自宅の2階にいます。1階はまもなく天井まで水位が上ってきそうな状況です 救助を待っています よろしくお願いします」(77日、1726分、真備町岡田より)


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 3-2 岡山県への救助ヘリの出動ゼロ
 ところが、表4からわかるように、77日、14時の時点で自衛隊から派遣された人員は全国合計で900名、倉敷市真備町など大きな被害を蒙った岡山県へ派遣された人員は70名に過ぎず、ヘリコプターはゼロ、ボートも8隻に過ぎなかった。さらに、同じ77日の2030分現在でも活動要員は延べの全国合計で2,340名にとどまり、岡山県へ派遣された人員は80名、ヘリはなおゼロだった。同様に、7月7日、20時30分になっても愛媛県、福岡県、山口県へのヘリの出動はゼロ、広島県へわずかに2機、出動しただけだった。

Photo_2
 しかし、被害の規模はどうだったかというと、公表されたのは719日であるが、住宅全壊2,847棟、床上浸水15,008棟(いずれも全国合計)のほとんどは77日の時点で発生したものと考えられる。

 広域に及んだこれだけの規模の被害に照らすと、初動の段階で自衛隊から派遣された上記の規模は極めて少ないと考えられる。特に77日明け方から8日にかけて各地で住宅が水没し、2階や屋根、屋上で救助を求めた人々が続出した今回の豪雨災害の特徴からいうと、この時点で自衛隊が派遣した艦艇(救助用ボート)が全国合計で919隻、飛行機(救助用ヘリ)が同じく47機というのはあまりに少ない。

 ちなみに、防衛省に問い合わせると、災難救助のために使われるヘリは輸送用、多用途などの機種という回答だった。そこで、『防衛白書』(2017年版)に掲載された自衛隊が保有するヘリコプター(回転翼航空機)を調べると、保有台数は陸海空あわせて555機、そのうち狭義の戦闘用以外(ここでは輸送、多用途、観測など)は333機となっている。このうち、陸上自衛隊が57機保有する輸送用ヘリCH-47J/JA1機あたり55名を輸送できる機種である。これらの機種のへリ数十機をなぜ77日の少しでも早い時刻に岡山などへ派遣しなかったのか?

 なお、消防庁が発表した772300分現在の「緊急消防援助隊の活動実績」によると、陸上では愛知、奈良、滋賀の各県から派遣された隊員が、上空では奈良、東京、熊本、大分の各県から派遣された隊員が、総計約310人、ヘリ4機で救助活動に当たっている。ちなみに消防庁がまとめた2017101日現在の消防防災用のヘリコプターの配備機数は全国計で75機となっている。

    第5表 自衛隊と緊急消防援助隊の救助ヘリの活用規模の比較

    救助に利用可能なヘリの保有機数   77日時点の利用機数 
自衛隊       333機             47機 
消防隊        75機             4機  

 このように災害時の救助用に利用可能なヘリの保有状況の比較から見ても、消防庁の緊急援助隊の初動と比べ、自衛隊の初動が規模の面で過少ではなかったかという疑問はいっそう強まる。

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不平等への怨念を刻んだ短歌~心の友、金子文子の生涯に寄せて(1)~

20187月10日

金子文子の生涯
 金子文子(19031926年)は1903年、横浜に生まれた
が出生届は出されず、父は家を出、母も男との同棲を繰り返した。1912年~1916年、朝鮮忠清北道に住んでいた父方の祖母のもとで養女として暮らしたが、無籍者として虐待を受ける一方、当地の朝鮮人の温情に触れ、生涯、変わらぬ朝鮮人への親愛の気持ちを育んだ。


 帰国後、豊多摩郡代々木藤ヶ谷富士ヶ谷に住んだ文子は夫・朴烈と共に不逞社を設立、さまざまな思想家を招いて例会を開いていた。
 
関東大震災発生の2日後の192393日に朴烈とともに世田谷警察署により、行政執行法第1条「救護を要すると認むる者」という名目で検束され、同年1020日、文子ら2名を含む不逞社員16名が治安警察法違反容疑で起訴された。以後、大審院で文子と朴列は天皇暗殺計画の嫌疑で訊問を受け、1926年3月25日、2人に死刑の判決が言い渡された。それから4カ月後の723日、文子は移送先の宇都宮刑務所栃木支所で獄死した。享年23歳。遺骨は夫の郷里、朝鮮慶尚北道聞慶郡に埋葬された。


人力車、人がまた等しき人の足になる~文子が遺した獄中短歌~
 
 文子は獄中から知人に送った書簡にかなりの数の短歌を書き留めている。その中から、文子の生涯を貫いた「不平等への怨念」を刻んだ短歌数編を紹介しておきたい。文子の短歌は「獄中短歌」という表題で彼女のいくつかの伝記物の書物に収録されているが、ここでは鈴木裕子編著『金子文子 わたしはわたし自身を生きる――手記・調書・歌・年譜』(2006年、梨の木舎)に依った。

 ①歌詠みに何時なりにけん誰からも学びし事は別になければ
 ②派は知らず流儀は無けれ我が歌は圧しつけられし胸の焔よ
 ③燃え出づる心をこそは愛で給へ歌的価値を探し給ふな 
 ④人がまた等しき人の足になる日本の名物人力車かな
 ⑤ふらふらと床を抜け出し金網に頬押しつくれば涙こぼるる
 ⑥人力車梶棒握る老車夫の喘ぎも険し夏の坂道
 ⑦人力車幌の中には若者がふんぞり返って新聞を読む
 ⑧資本主義甘く血を吸ふかうもりに首つかまれし労働者かな
 ⑨塩からきめざしあぶるよ女看守のくらしもさして楽にはあらまじ
 ⑩囚の飯は地べたに置かせつつ御自身マスクをかける獄の医者さん

 以上10首、なかでも人力車を題材にした④⑥⑦は、私が特に魅せられる文子の短歌である。その根底にある心情は「不平等」への怨念である。
 ①~③の短歌で文子が拒んだ歌的価値は、昨今、歌壇のどこかの派に属し、主宰者の名声にすり寄って、既成の歌壇にデビューしようと「歌的価値」を競い合う歌人たちの光景を想い起こさせる。そうした通俗と一線を画し、素人を自認して自由奔放な歌詠みになった自分を誇らしげに詠った短歌からも、技巧の巧拙で「素人」と「玄人」を区分けする歌壇への文子の痛烈な反逆を読み取れる。

無籍者の烙印
 文子は自分の中に「不平等」への呪いを芽生えさせた原点ともいえる出来事を自伝書『何が私をこうさせたか――獄中手記――』(2017年、『岩波文庫』3134ページ)にこう綴っている。

 「私はその時もう七つになった。そして七つも一月生まれなのでちょうど学齢に達していた。けれど無籍者の私は学校に行くことができなかった。」
 「なぜ私は、無籍者であったのか。表面的の理由は母の籍がまだ父の戸籍面に入っていなかったからである。・・・・叔母の話したところによると、父は初めから母と生涯連れ添う気はなく、いい相手が見つかり次第母を捨てるつもりで、そのためわざと籍を入れなかったのだとのことである。」
 「母は父とつれ添うて八年もすぎた今日まで、入籍させられないでも黙っていた。けれど黙っていられないのは私だった。なぜだったか、それは私が学校にあがれなかったことからであった。
 私は小さい時から学問が好きであった。で、学校に行きたいと頻りにせがんだ。余りに責められるので母は差し当たり私を私生児として届け出ようとした。が、見栄坊の父はそれを許さなかった。『ばかな、私生児なんかの届けが出せるものかい。私生児なんかじゃ一生頭が上らん』父はこう言った。」
 「明治の初年、教育令が発布されてから・・・・男女を問わず満七歳の四月から、国家が強制的に義務教育を受けさせた。そして人民は挙って文明の恩恵に浴した、と。だが無籍者の私はただその恩恵を文字の上で見せられただけだった。」
 「小学校は出来た。中学校も女学校も専門学校も大学も学習院も出来た。ブルジョアのお嬢さんや坊ちゃんが洋服を着、靴を履いてその上自動車に乗ってさえその門を潜った。だがそれが何だ。それが私を少しでも幸福にしたか。」

 「私の家から半町ばかり上に私の遊び友達が二人いた。二人とも私と同い年の女の子で、二人は学校へ上った。海老茶の袴を穿いて、大きな赤いリボンを頭の横っちょに結びつけて、そうして小さい手をしっかりと握り合って、振りながら、歌いながら、毎朝前の坂道を降りて行った。それを私は、家の前の桜の木の根元にしゃがんで、どんなに羨ましい、そしてどんなに悲しい
気持ちで眺めたことか。
 ああ、地上に学校というものさえなかったら、私はあんなにも泣かなくて済んだだろう。だが、そうすると、あの子供達の上にああした悦びは見られなかったろう。
 無論、その頃の私はまだ、あらゆる人の悦びは、他人の悲しみによってのみ支えられているということを知らなかったのだった。」

 金子文子が獄中で自叙伝を書き始めたのは1925年夏から秋、22歳の時だった。
 「あらゆる人の悦びは、他人の悲しみによってのみ支えられている」・・・この一文ほど、不平等に対する彼女の怨念を鋭く凝縮した言葉はないと思える。

私は不平等を呪う~金子文子の訊問調書より~

 文子は1924410日に市谷刑務所でなされた訊問に次のように応答している。


 「私はかねて人間の平等ということを深く考えております。人間は人間として平等であらねばなりませぬ。そこには馬鹿もなければ、利口もない。強者も無ければ、弱者もない。地上における自然的存在たる人間の価値からいえば、すべての人間は完全に平等であり、したがってすべての人間は人間であるという、ただ一つの資格によって人間としての生活の権利を完全に、かつ平等に享受すべきはずのものであると信じております。」

不平等の根源・天皇制への反逆に突き進んだ金子文子 
 しかし、幼年期に味わった自らの差別と虐待の辛酸を原点にした金子文子の不平等への怨念は身近な世間に向けられて収まるものではなかった。それどころか、文子は不平等の怨念を次第に、日本社会におけるその究極の源泉=天皇制に向けていった。この点こそ、思想家としての金子文子の金字塔である。次の稿ではこの点を取り上げたい。




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素木しづ評~心の友 尾崎翠の作品に寄せて(3・完)~

201873

 『尾崎翠全集』(1979年、創樹社)に「素木しづ氏に就いて」と題する組み上げ3ページの短文が収録されている。『新潮』191610月号が組んだ特集「余が最も期待する新進作家の一人」に寄稿した一文である。かくいう翠自身、当時二十歳で「悲しみを求める心」を発表してから半年後の寄稿だった。

人生の暗さを思ふ

         「素木しづ氏に就いて」(抜粋)

 「私の素木しづ氏に捧げる敬慕は、小川未明氏に対するものと大変よく似た点を持ってゐます。」
 「私の持ってゐる未明氏としづ氏の類似点は、作品の取材や、筆致、技巧などの点からといふよりは、作家の態度から起つた物であります。・・・・
 此の頃の未明氏の作品を読んで私の受けるものは、氏の神経衰弱的な、懐疑的な気分と、北国の暗い自然とに胚胎した痛ましい、重苦しい感じであり更に人生の暗さを思ふ心であります。つまり作者の人生に対する懐疑をそのまゝ読者の胸にきざみつけずには置かない、それを見せつけられるのは読者に取っては苦痛なことではありますけれど、また其処には悲しい共鳴も起こって来ずには居ません。
 未明氏は決して安定の世界に居てその世界を私共に示して呉れようとする作家ではありません。読み終わって『うまい』とうなずかせる作品を作り得る人ではありません。けれど所謂『うまい』と思はせる人人の態度の不明な、お上手な作品が多いなかに、氏の如何な一篇も無駄ではないことを思はせます。」

 「私の両氏の類似を認めたのは始め言った通り、作者の態度にあります。未明氏の人生に対する懐疑心から来る真剣な態度は、しづ氏の肉体の不良から来る、健全者には見ることの出来ない真剣さであります。草平氏は気を負った女と言はれましたけれどそれは反つてしづ氏の真剣な態度を示す物でした。戯作的な分子は微塵も持たないすべてが悲痛な心に滲透されて私共の前に示される、それのみでも氏の作は意義ある物でなければなりません。」

私は小説により世の中に復讐し、真実な生を送らうと考へた
   ~素木しづ~

 
 尾崎翠が敬慕した素木(しらき)しづは1895329日札幌生まれ。札幌高等女学校4年のとき、登山中に転倒したのがもとで結核性関節炎にかかる。1912年一家で上京したが病状は悪化。10月に赤十字中央病院で右脚切断の手術を受けた。不自由な生活を送るうちに詩や短歌に時間を費やすことが多くなり、森田草平に師事して文学に傾倒していった。
 15歳の時、札幌高女の『会誌』5号(1910年)に次のような短歌を投稿している。
  われとわが腕を吸ひてかすかにもにじむ血を見るあはれなるかも

 後年、しづは文学を志した自身を次のように振り返っている。

 「自分は小説家たるべき天分と運命とを生まれながらにそなへてゐると信じました。私は小説によって世の中の復讐すべきものを復讐し、愛すべきものを愛し、人々の上に真面目な真実な生を送らふと考へたのでした。」
 (「私一人のこと」『新潮』19161月)

 加藤武雄はしづの作品を「宵暗にさく月見草に似たはかなさ」と評すると同時に、彼女のことを「かなり勝気な才走った人」と評した。外界に向けた気負いが自己顕示に流れず、尾崎翠をして、読者に向かって悲痛な心を滲透させずにはおかないと語らせた魅力は、生の暗さを内省し、作品に昇華させた彼女の強烈な個性と営為のたまものと思える。
 (以上、内野光子『短歌に出会った女たち』1996年、三一書房、
  127142ページに依った。)

一心にいいものを書いて原稿料でお返ししますので
   ~寸借を懇願した素木しづの手紙~


 この記事を書く途中で、日本近代文学館編集の『文学者の手紙』第5巻『近代の女性文学者たち』2007年、博文館新社)に、上司小剣に宛てた素木しづの手紙が収録されているのを知った。日付は1916(大性5)年115日となっている。400字詰原稿用紙4枚の分量である。当時のしづの生活状況を伝える貴重な資料と思えるので紹介しておきたい。

      上司小剣宛て 素木しづの手紙(抜粋)

「私は茅ケ崎にお互の病気や疲れの為めに仕事も出来ませず七十円あまりの店に月の借りがたまつたので御坐います。初めての私は不安と、もはや逃れられなくなりやしまぬかという恐れとの為め茅ケ崎の一日一日の生活が苦しくてならなくなつたので御座います。それに私の身体も心よくなりましたのと上の山さんの茅ヶ崎ではお金をとる仕事が出来ない
2のとで、今のうちにぜひ出なくてはならないと思ひまして先日も金策の為めにみんなで出て来ましたが、私がすぐ眼を悪くしまして手術をしそのまゝ仕方なく茅ケ崎に帰りました。・・・・まだ世の中を知らない、そしてあまり外に出たことのない私があらゆる考へと方法とをつくしたので御座いますが、出来ませんでした。」

「坊やのおしめを洗ふタラヒも御座いません。そして私は近所の人になんと云つたら
いゝかわかりません。どうしてもあの茅ケ崎においてあるなつかしい私たちのわずかばかりの道具をとりよせなければならないので御座います。それで私が今度読売に書きます小説の原稿料をどうぞどうぞあなた様が御立替下さいますことが出来ませんでせうか。私はその時少しもお金をいただきません

私は、そして今年中にきつといゝものを書きましてあなた様までお届けいたしませう。本当にいゝものを。私はお金を先にいただいたからといつてはり合いがないから書けないなんていふことが御座いません。私はどんなに一心になつて書くかわかりません。どうぞそれだけのことを本当にお聞きとどけ下さいませんか。」

「私の身体はあまりにこはれすぎて居ります。私はなが生しないでせう
。いま二十二ですから二十五まで位、きつといゝ作をしやうと思つて居ります。
どうぞおきゝとどけ下さいますやうに。
すべての事をおゆるし下さいまして。
                           早々
 上司小剣様へ
                        しづ  」

 (注2)夫の上野山清貴は放浪画家のため一所滞在では画を描くこと
    が出来ない。

 しづは、二十五歳位まで生きて、と書いたが、この手紙を書いた1年後の19181月に死去した。満22歳だった。
 尾崎翠といい、素木しづといい、文学者である前に、極度の貧困と悪戦苦闘する生活者でなければならなかった。彼女らの小説は、結果として、そうした苦悶を酵母として一世紀後に知る人ぞ知るの評価を得る作品を残したと思える。 

悧口振るのは止めるがいい ~高見 順~

 尾崎翠の素木しづ評の中に、読み終わって「うまい」とうなずかせる作品、所謂『うまい』と思わせる「お上手な」作品が多いなかで、という文章があった。昨今、この手の「お上手な」人間は、文学の世界に限らず、増殖している。尾崎翠のこの言葉を聞いて思い起こす高見順の詩がある。

          樹 木 五
          ――ある作家の感想録を讀んでの自戒――

     窓の中の人間よ
     悧口振るのは止めるがいい
     意味ありげな言葉は止めるがいい

     俺はただ枝を張るだけだ
     この俺に
     意味ありげな枝振りがあるか
     悧口ぶった枝があるか

     窓の中の人間よ
     わが枝を學ぶがいい
     樹木の成長を學ぶがいい

     (『高見順全集』第20巻、1974年、勁草書房、392393
       
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