京都・岡山での初動の実態の検証~自衛隊の初動には重大な不作為があった(その2)~
2018年7月30日
3. 7月7日、SOSが殺到した岡山県への救助ヘリの出動ゼロ
3-1 過少な規模
3-2 岡山県への救助ヘリの出動ゼロ
(以上、一つ前の記事)
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/1-9806.html
3-3 遅すぎた出動
規模とともに問われるのは初動のスピード(派遣要請から被災地で活動を開始するまでに要した時間)である。
もっとも現地で救助活動を開始するまでの時間といっても、どこの部隊から派遣されるかによって所要の時間は違ってくる。『防衛白書』では、陸上自衛隊の場合、全国に配置された157カ所の駐(分)屯地を基盤として初動対処部隊(FAST-Force。人員3,900名、車両1,100両、航空機40機)が1時間を基準に出動できる態勢を整えているとしている(平成29年版『防衛白書』図表Ⅲ-1-2-16)。
では、今回はどうであったかを確かめるため表4を見ると、府県知事名で派遣が要請されてから活動部隊が各駐屯地を出発するまでに要した時間にはばらつきがあった。最短の愛媛県の場合は派遣要請と同時刻に出動しており、福岡県、広島県では派遣要請があった時刻から30分後に出動している。しかし、山口県では1時間25分後、京都府では第1陣(福知山駐屯地の20名)が出発したのは1時間30分後、岡山県では1時間49分後となっている。
また、京都府の場合、第2陣の自衛隊(125名)が福知山駐屯地を出発したのは2時間35分後(7月6日2時40分)以降、岡山県の場合、第2陣が豊川駐屯地(愛知県)を出発したのは派遣要請があってから8時間49分後だった(以上、表4を参照いただきたい)。
しかし、どの府県でも派遣要請がされるに先立って、自衛隊の最寄りの部隊から数名のLO(連絡幹部。LO=Liaison Officer)が派遣要請元の自治体に出向き、情報の収集と共有、派遣に関する協議を行っていた。にもかかわらず、一刻を争う派遣要請から出動までにかかった時間にこれだけ開きが生じたのはなぜなのか? 特に、山口県、京都府、岡山県で1時間半かそれ以上も後になったのはなぜだったのか、検証が必要である。
さらに、災害時の人命救助という点で重要なのは派遣要請を受けて災害現場に到着し、救助活動を始めるまでにどれだけの時間を要したかである。
防衛省・自衛隊が発表した資料では、派遣された部隊が災害現場で救助活動を開始した時刻は記載されない場合が多いが、派遣された部隊が専用のツイッタ―に書き込んだ記録などから把握できる場合がある。
それも不可能な場合は、インターネット上の道路情報をもとに、派遣元の駐屯地から派遣先(被災現場)まで、有料道路優先で出動した場合に要する標準的時間を計算した。
京都府の場合
この方法で推定すると、京都府の場合、第1陣の派遣部隊(福知山駐屯地)が、派遣先の桂川・久我橋(伏見区)に到着するまでに要する標準的時間は1時間39分である。これを基準にすると、第1陣が久我橋に到着し、土嚢の積み上げ作業を始めたのは7月6日の4時過ぎ、第2陣が到着したのは7月6日の5時半以降だったと考えられる。もちろん、現実には道路の混雑状況などにより、実際に到着した時刻がこれよりも前後したことは当然ありうる。
ところが、京都府河川防災情報で、久我橋の南方6.8km地点にある伏見区納所観測所での7月6日明け方の桂川の水位を確かめると、ピークは1時00分(4.42ⅿ)で、以後4時までは氾濫危険水位とされる4mを超えていた。しかし、自衛隊の第1陣が久我橋に到着して土嚢の積み上げを始めたと推定される4時過ぎには水位は4m以下まで下がっていた。また、第2陣が到着したと推定される5時半頃には納所観測所での水位は3.7mで、氾濫危険水位をかなり下回っていた。
さらに、嵐山の北方約15kmの地点にある亀岡市保津橋観測所での桂川の水位を見ると、7月5日、15時の時点ですでに氾濫危険水位の4mを超え、5日22時~6日0時の間は4.8mを超えていた。しかし、その後、水位は下がり続け、自衛隊の第1陣が久我橋付近で土嚢の積み上げ作業を始めたと推定される6日の4時過ぎには4mを下回り、第2陣が久我橋に到着したと推定される6日の5時半頃には水位は3.8mまで下がっていた。
桂川の水位の変化
納所観測所(伏見区) 保津橋観測所(亀岡市)
7月5日 20時 2.88m 4.34m
21時 3,16m 4.60m
22時 3.52m
4.85m
23時 4.11m 4.98m
24時 4.37m 4.99m
6日 01時 4.42m 4.84m
02時 4.40m
4.60m
03時 4.27m 4.33m
04時 4.08m 4.09m
05時 3.85m 3.90m
06時 3.61m 3.76m
07時 3.41m 3.79m
(注)4m:氾濫危険水位
京都府防災情報(水位)」より検索・作成
こうして、結果的に桂川の氾濫は免れたが、自衛隊の出動が氾濫の危険が過ぎた時点だったことは否めない。むしろ、桂川の水位の状況から言えば、自衛隊の出動の遅れというより、京都府から自衛隊への防災派遣の要請が控えめに見ても5時間ほど遅かったと思われる。もっとも、自衛隊への派遣要請がもっと早かったとしても土嚢の積み上げなどの対応で桂川の氾濫を防げたと言える根拠はない。しかし、空振りを厭わない「先手の対応」というなら、万一の氾濫に備えた、より早い対処が必要だったと思える。
実際、防衛省が逐次発表した「平成30年7月5日からの大雨に係る災害派遣について」によると、京都府では7月5日の16時40分に第7普通科連隊のLO2名が京都府庁に向け福知山駐屯地を出発していたから、7月5日の18時30分頃(京都府知事から自衛隊に派遣要請がされる5時間30分ほど前)に京都府庁に到着し、自衛隊の派遣について情報の収集と協議を始めていたと考えられる。
であれば、府知事から派遣要請があってから1時間半後(第1陣)、2時間35分後(第2陣)ではなく、派遣要請を受けて可及的速やかに救助部隊が出発できるよう、人員、装備の手配を整えておけたはずではないか?
岡山県の場合
岡山県の場合、上記のように、派遣隊の第1陣(約20名)が被災地に向かって三軒屋駐屯地(岡山市)を出発したのは派遣要請があってから1時間49分後、第2陣(約50名)が出発したのは派遣要請があってから8時間49分後の7月7日、8時00分だった。第2陣の出発がなぜこれほど遅れたのか、不可解である。
しかも、岡山県でも、派遣要請があった時刻の14時間36分前(7月6日の8時35分)に第13特科隊(岡山県勝田郡奈義町の日本原駐屯地に所属)のLO2名が岡山県庁に向かって駐屯地を出発していたから、6日の10時20分頃には岡山県庁に到着し、災害情報の共有、自衛隊派遣をめぐる協議を始めていたと考えられる。であれば、第1陣はもとより、第2陣をなぜもっと早く被災現場に出動させられなかったのかという疑問を拭えない。
ここで、さらに不可解に思えるのは、①第1陣、第2陣の派遣先が、被害が集中した真備町など倉敷市ではなく、高梁市役所だったこと、②第2陣の派遣元が愛知県豊川市に所在する第49普通科連隊だったこと、である。
ちなみに、豊川駐屯地から具体的な行き先とされた海田駐屯地までに要する時間は道路情報(有料道路有線)に基づくと7時間10分となる。防衛省の発表資料とおりだとすると、第49普通科連隊は岡山県を通り越して広島県の海田駐屯地へ向かい、そこで部隊を編成して(?)高梁市役所へUターンしたと考えられるが、実際はどうだったのか? 防衛省の発表通りだとすると、道路情報にもとづけば、高梁市役所へ直行した場合と比べ、約3時間多く時間がかかったことになる。そもそも、救助現場に到着するまでに6時間近くかかる愛知県の豊川駐屯地の自衛隊を派遣させた判断は一刻を争う災害救助の目的に照らして適切だったのか大いに疑問である。
かりに、豊川駐屯地から派遣された第2陣が7月7日の8時に駐屯地を出発して倉敷市真備町に直行したとしても、現地に到着するまでに道路情報による机上の計算では有料道路優先でも約5時間30分かかるから(ちなみに7月6日の23時10分頃、名古屋を出発した名古屋消防局緊急援助隊が真備町に到着して救助活動を始めたのは13時間半ほど経った7月7日の13時半だった。一般道路を利用したからだろうか?)被災現地で救助作業を始めたのは早くても、7月7日の13時半ごろとなる。
しかし、この日、真備町では1時30分に高梁川が堤防を越水したとして倉敷市は避難指示を発令、明け方から、水が押し寄せてきたなどと救助を求める通報が相次ぎ、一刻を争う状況だった(真備町の詳しい状況は、あとの記事で触れる)。であれば、救助のための派遣の要請先をなぜ愛知県の豊川駐屯地にしたのか、出発がなぜ派遣要請から8時間49分も経ってからになったのか? こうした初動の遅れを徹底して検証する必要がある。その際には遅れの原因を防衛省・自衛隊だけに帰すのではなく、政府全体、とりわけその中枢である官邸の初動態勢を徹底して検証する必要がある。
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